星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
あの日から、凛の世界は少しだけ変わっていた。
目に見えるものは同じだった。
朝の渋谷家。
店先に並ぶ花。
母の声。
父の新聞。
アイが予定表を開く音。
撮影の資料。
B小町のレッスン予定。
何も変わっていないように見える。
けれど、凛の中だけが変わっていた。
人混みに立つと、視線の流れが前より分かる。
誰がアイを見ているのか。
誰がただ通り過ぎているのか。
誰が好意で見ているのか。
誰が少し違う温度で見ているのか。
完全に分かるわけではない。
でも、以前より輪郭が濃い。
音も増えた。
遠くの足音。
振り返る前の衣擦れ。
誰かが息を飲む気配。
胸の奥に隠された不安が、匂いのように漂ってくることもある。
それが本当に感覚なのか。
それとも、前の出来事で神経が尖っているだけなのか。
凛には、まだ分からなかった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
自分の中に、もう普通ではないものがある。
それを、なかったことにはできない。
朝、アイが凛の顔を覗き込んだ。
「凛ちゃん、最近よく周り見てるよね」
凛は靴紐を結びながら答えた。
「見えるから」
「何が?」
凛は少しだけ考える。
「分からないもの」
アイは眉を寄せた。
「それ、怖い言い方」
「怖い」
凛が素直に言うと、アイは少し黙った。
笑ってごまかさなかった。
その代わり、凛の隣にしゃがむ。
「怖いなら、言ってね」
凛は靴紐を結び終えた。
「うん」
「本当に?」
「アイにも言わせてるから」
アイは少しだけ笑った。
「最近、それ便利に使ってない?」
「使ってる」
「認めるんだ」
凛も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それでも、胸の奥には小さな重さが残っている。
母から、金剛の家の話を聞いた。
母方に残っていた古い話。
人ではないものと血が混じったという話。
鬼に近いもの。
雷。
刃。
怒りや恐怖、守りたいという強い感情で、血が表に出ることがあるかもしれないという話。
母も詳しくは知らなかった。
昔話だと思っていたから。
制御の仕方も、扱い方も、何も分からない。
ただ、母は言った。
「危ないと思ったら、無理に近づかないで」
凛はその時、すぐには頷けなかった。
「でも、感じたら気になる」
母は寂しそうに笑った。
「それが、一番怖いところね」
その言葉の意味を、凛は少しずつ理解し始めていた。
ある日。
アイと凛は、仕事帰りに街を歩いていた。
アイはB小町の打ち合わせ。
凛は雑誌の撮影。
それぞれ別の現場を終えて、途中で合流した。
アイは少し疲れていたが、表情は明るい。
「今日ね、ニノちゃんが少しだけ笑ってくれたんだよ」
「少し?」
「ほんの少し」
「よかった」
「うん。すごくよかった」
アイは嬉しそうに笑った。
それはステージの笑顔ではなかった。
B小町の中で少しずつ生まれている、難しくて、もどかしい距離。
その中で拾った小さな変化を、大事にしている顔だった。
凛はそれを見て、少しだけ安心した。
その時だった。
足が止まった。
胸の奥に、引っかかるものがあった。
前に感じた自分の雷とは違う。
神木ヒカルのような、温度のない笑顔とも違う。
もっと柔らかい。
明るい。
けれど、どこか奥に閉じ込められている。
閉じた扉の隙間から、光が漏れているような気配。
アイが隣で立ち止まる。
「凛ちゃん?」
「いる」
「何が?」
「同じようなもの」
アイの表情が少しだけ緊張する。
「先祖返り……?」
凛は小さく頷いた。
「たぶん」
でも、不思議と前回のような冷たさはなかった。
危険というより、呼ばれているような感覚。
凛はその気配を辿った。
駅前から少し離れた、レッスンスタジオの多い通り。
ダンススクールや音楽教室の看板が並んでいる。
その一角で、一人の少女が立っていた。
制服姿。
肩に鞄をかけて、レッスン帰りなのか少し疲れた顔をしている。
けれど、凛たちに気づくと、ぱっと表情を明るくした。
「あ、すみません。道、ふさいでました?」
その笑顔を見た瞬間、周囲の空気が少し柔らかくなった気がした。
強い光ではない。
ステージの照明でもない。
朝にカーテンを開けた時のような、穏やかな明るさ。
アイも、その少女を見る。
「大丈夫だよ」
少女は少しほっとした顔をして、頭を下げた。
「よかったです。私、島村卯月です。アイドルを目指してます!」
突然の自己紹介だった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
凛は短く答える。
「渋谷凛」
「凛ちゃん、ですか?」
卯月は自然にそう言ってから、慌てて手を振った。
「あ、ごめんなさい! つい……」
凛は少しだけ首を傾げる。
「別にいい」
「本当ですか?」
「うん」
卯月は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、アイのものとも、凛のものとも違う。
何かを隠すためではなく。
何かを奪うためでもなく。
ただ、前を向くための笑顔だった。
卯月は、自分が通っているレッスンのことを話してくれた。
「まだ全然なんです。ダンスも歌も、周りの子がすごくて」
それでも、声は明るい。
「でも、頑張ったら、少しずつ夢に近づけるかもしれないって思って」
凛は黙って聞いていた。
卯月の言葉はまっすぐすぎる。
普通なら、少し眩しく感じるのかもしれない。
けれど、凛には不思議と嫌ではなかった。
「特別な才能があるわけじゃないんです」
卯月は笑う。
「でも、頑張ったら、誰かを笑顔にできるかもしれなくて。それって、すごく素敵だなって」
凛は少しだけ目を伏せた。
「頑張るの、怖くない?」
卯月は一瞬だけ考えた。
「怖いです」
その答えは、思っていたより早かった。
「でも、頑張らなかったら、何も変わらない気がして」
凛は卯月を見る。
卯月は笑っていた。
でも、その笑顔の奥には、ちゃんと怖さがあった。
怖い。
それでも頑張りたい。
それは、凛にも分かる感覚だった。
「……分かる」
凛がそう言うと、卯月はぱっと顔を明るくした。
「分かってくれますか?」
「少し」
「嬉しいです!」
卯月は本当に嬉しそうに笑った。
その横で、アイは二人を見ていた。
凛が、初対面の相手と自然に話している。
卯月が「凛ちゃん」と呼ぶ。
凛がそれを拒まない。
しかも、いつもより少し柔らかい。
胸の奥が、少しだけもやっとした。
「凛ちゃん、初対面の子と意外と話すんだね」
アイが言うと、凛は振り向いた。
「話した」
「うん。見れば分かる」
「怒ってる?」
「怒ってないよ?」
凛はアイの顔を見る。
「笑い方、違う」
アイは少しだけ固まった。
「……凛ちゃん、ずるい」
卯月が慌てる。
「え、えっと、私、何か……?」
アイはすぐに卯月へ笑いかけた。
「大丈夫。卯月ちゃんは悪くないよ」
凛が淡々と言う。
「アイが拗ねてるだけ」
「言い方」
「事実」
アイは少し頬を膨らませる。
卯月は困った顔をして、それから小さく笑った。
その笑い方が素直で、アイは余計に何も言えなくなった。
卯月とは、また会うかもしれない。
そんな予感だけを残して、その日は別れた。
その夜。
渋谷家で、アイは予定表を書いていた。
凛は自室で、自分の手を見ていた。
前回のような雷は出ていない。
角の気配もない。
けれど、感覚だけは残っている。
昼間に感じた卯月の気配。
柔らかくて、明るくて、閉じた扉の奥から漏れる光。
それが、急に変わった。
凛は顔を上げた。
胸の奥がざわつく。
昼間の気配が、膨らんでいる。
柔らかい光が、無理やり大きくなっている。
扉を開けるのではなく、こじ開けようとしているような圧。
凛は立ち上がった。
アイが隣の部屋から顔を出す。
「凛ちゃん?」
「卯月」
「え?」
「たぶん、危ない」
アイの顔が変わった。
「行く」
凛は頷いた。
母に短く伝える。
母は心配そうな顔をしたが、凛の目を見て、止めなかった。
「無理はしないで」
凛は頷く。
「戻ってくる」
アイも言った。
「私も、連れて帰る」
夜の街は、昼間より静かだった。
レッスンスタジオのある通りまで来ると、凛にはもうはっきり分かった。
卯月の気配。
明るすぎる。
笑顔の形をしているのに、苦しい。
二人はスタジオ裏の小さな公園へ向かった。
ベンチの近くに、卯月がいた。
一人で立っている。
レッスンバッグを足元に置き、拳を握っている。
顔は笑っていた。
けれど、目には涙が溜まっている。
「もっと頑張らなきゃ」
卯月は一人で呟いていた。
「笑顔でいなきゃ」
足元に、薄い光の輪が浮かんでいる。
まるで小さな舞台のような円。
そこから、花が開くような幻が揺れていた。
明るい。
あまりにも明るい。
周囲の空気が不自然に軽くなっていく。
泣きたいのに、笑わなければならない。
苦しいのに、明るくしなければならない。
そんな圧が、公園全体に広がっていた。
アイは息を飲む。
「これ……笑顔なのに、苦しい」
凛は一歩前に出た。
「昼と違う」
卯月の周囲の光が、さらに広がる。
「私には、頑張ることしかないのに」
その言葉と同時に、光が弾けた。
卯月の笑顔が固定される。
涙が落ちているのに、顔だけが笑っている。
周囲の街灯が、まるで舞台照明のように明るく見える。
凛の頭の奥に、何かの名前が浮かびかけた。
舞。
笑い。
閉じた扉を開くもの。
けれど今、それは卯月自身を閉じ込めようとしている。
凛は息を吸った。
前回とは違う。
今回は、アイが危険に晒されているわけではない。
目の前にいるのは、助けを求めている少女だ。
凛は自分の手を見た。
怖い。
でも、使わなければならない。
アイが隣で言った。
「戻ってきてね」
凛はアイを見る。
その声が、足元を結んでくれる。
「うん」
凛は意識して、胸の奥に触れた。
冷たいもの。
雷の匂い。
角の輪郭。
自分の中に沈んでいる、鬼の血。
それを、引きずり出す。
けれど、前回のように落ちない。
冷たさへ沈みきらない。
アイの声が届く場所に、自分を置いたまま。
額の奥が熱くなる。
薄い角の輪郭が浮かぶ。
指先に青白い雷が絡む。
右手に、細い刀の形が生まれる。
今度は、前回よりはっきりしていた。
でも、凛の目には感情があった。
怖さも。
迷いも。
それでも進む意思も。
アイが小さく聞く。
「何をするの?」
凛は卯月の周囲に広がる光を見る。
「切る」
「何を?」
「無理に開いてる扉」
凛は一歩踏み出した。
卯月の光が、凛へ向かって押し寄せる。
笑え。
明るくあれ。
頑張れ。
閉じてはいけない。
泣いてはいけない。
そんな声にならない圧が、雷に触れて弾ける。
凛は刀を振った。
青白い線が、夜を裂いた。
卯月の周囲に浮かんでいた舞台の円が、細く割れる。
花の幻が散る。
光が揺らぐ。
卯月の笑顔が崩れた。
「私、頑張らなきゃ……」
卯月の声が震える。
「もっと、もっと頑張らないと、私、何もなくて……」
アイが前に出た。
凛の雷がまだ残っている中で、アイは卯月へ近づく。
「頑張らなくてもいいとは言わないよ」
卯月が顔を上げる。
涙で濡れた目。
まだ無理に笑おうとしている口元。
アイはそれを見て、静かに言った。
「だって、卯月ちゃんは頑張りたいんだよね」
卯月の唇が震えた。
「……はい」
「じゃあ、その気持ちは大事にしていいと思う」
アイは少しだけ笑った。
作りすぎない笑顔だった。
「でも、壊れるまで笑わなくていい」
凛も言った。
「笑顔は、扉を開けるためのもの」
卯月が凛を見る。
凛は雷の刀を下げた。
「自分を閉じ込めるためじゃない」
その言葉で、卯月の目から涙がこぼれた。
今度は、笑顔では隠せなかった。
声が漏れる。
卯月はその場にしゃがみ込んだ。
「私、普通だから……」
震える声だった。
「普通だから、頑張らないと、何もなくて」
アイは卯月の前にしゃがむ。
「普通って、結構すごいよ」
卯月は涙の中で首を振る。
「そんなこと……」
凛が言った。
「普通に頑張り続けるのは、普通じゃない」
卯月がぽかんと凛を見る。
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、小さく笑った。
「それ、褒めてます?」
凛は短く答える。
「かなり」
アイが少し驚いた顔をする。
「凛ちゃんがかなりって言うの、珍しいよ」
「事実」
卯月は泣きながら、少しだけ笑った。
今度の笑顔は、明るすぎなかった。
涙と一緒にある、普通の笑顔だった。
周囲の光が少しずつ消えていく。
花の幻も、舞台の円も薄れていく。
夜の公園に戻る。
街灯の明かり。
ベンチ。
落ちたレッスンバッグ。
虫の声。
卯月はしばらく泣いていた。
アイは隣にいた。
凛は少し離れて、雷を収める。
角の輪郭が消える。
刀も消える。
指先に、かすかな痺れだけが残った。
卯月が落ち着いた頃、ぽつりと聞いた。
「凛ちゃんって、何なんですか?」
凛は少し考えた。
「私もまだ分からない」
「分からないんですか?」
「うん」
アイが横から言う。
「最近、分からないことばっかりだよね」
「うん」
卯月は涙を拭きながら、凛を見る。
「でも、助けてくれました」
凛は少しだけ目を伏せる。
「たぶん」
アイがすぐに言う。
「そこは断言していいよ」
卯月は小さく笑って、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
凛は少し困ったように視線を逸らした。
「また、危なかったら分かると思う」
卯月が顔を上げる。
「じゃあ、また会えますか?」
凛は卯月を見る。
昼間より、気配は落ち着いている。
柔らかい光が、ちゃんと扉の内側に収まっている。
「うん」
卯月の顔に、少しだけ明るさが戻った。
帰り道。
アイはしばらく黙っていた。
凛は隣を歩いている。
夜風が少し冷たい。
アイがぽつりと言った。
「凛ちゃん、卯月ちゃんと仲良くなるの早いね」
凛は横を見る。
「そう?」
「そう」
「拗ねてる?」
「ちょっと」
凛は少し意外そうに瞬きをした。
「珍しい」
「珍しくないよ」
「そう?」
「凛ちゃんが知らないだけ」
アイは少しだけ唇を尖らせた。
それから、小さく言う。
「凛ちゃんは私の凛ちゃんだから」
言った瞬間、アイ自身が固まった。
凛も一瞬止まる。
「重い」
アイは両手で顔を覆いかけた。
「今のなし」
「聞いた」
「忘れて」
「無理」
「凛ちゃん、そういうところあるよね」
凛は少しだけ口元を緩めた。
「ある」
アイは恥ずかしそうにしながらも、少し笑った。
笑えた。
卯月のことは心配だった。
凛の力のことも怖かった。
それでも、二人で帰っている。
それが、少しだけ安心だった。
夜。
凛は自分の部屋で、手を見ていた。
指先に、まだかすかな痺れが残っている気がする。
前回は、冷たく落ちた。
感情が消えて、アイ以外がどうでもよくなった。
あの力は怖かった。
今日も怖かった。
けれど、今日は違った。
自分で呼んだ。
自分で握った。
自分で止めた。
そして、誰かを傷つけるためだけではなかった。
雷は、まだ怖い。
けれど、今日の雷は誰かを遠ざけるためだけのものではなかった。
無理に開いた笑顔を、そっと閉じるために。
もう一度、自分の足で立てるように。
凛は指先に残るかすかな痺れを握り込んだ。
次にこの気配を感じた時、自分はきっとまた動く。
その時は、アイの声が届く場所にいるまま。
そう決めた。