星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第48話 開いてはいけない扉

 

 

朝から、アイは少し落ち着かなかった。

 

いつもなら、凛の鞄の中身を横目で見ながら、忘れ物がないかを軽くからかうくらいの余裕はある。

 

けれど今日は、そういう言葉がうまく出てこなかった。

 

凛は、346プロへ行く。

 

所属するわけではない。

 

苺プロを離れるわけでもない。

 

ただ、訓練協力という形で、自分の力について知るために行くだけ。

 

そう分かっている。

 

分かっているのに、胸の奥が落ち着かなかった。

 

「本当に大丈夫?」

 

アイが聞くと、凛は鞄を閉じながら顔を上げた。

 

「大丈夫、とは言わない」

 

「そこは言ってほしいんだけど」

 

「まだ分からないから」

 

凛らしい答えだった。

 

嘘をつかない。

 

安心させるためだけの言葉を選ばない。

 

それはアイが望んだことでもある。

 

けれど、こういう時だけは、少しだけ嘘でもいいから大丈夫と言ってほしくなる。

 

アイは自分でもわがままだと思いながら、少し唇を尖らせた。

 

「じゃあ、無理なら言う?」

 

「言う」

 

「本当に?」

 

「言う。約束」

 

その言葉で、少しだけ呼吸が楽になる。

 

でも、不安が消えたわけではなかった。

 

アイは凛の手を見た。

 

あの日、雷をまとった手。

 

冷たくなった手。

 

アイが握って、ようやく戻ってきた手。

 

「凛ちゃん」

 

「何?」

 

「戻ってきてね」

 

凛は一瞬だけ目を瞬かせた。

 

それから、短く頷く。

 

「うん」

 

「絶対」

 

「うん」

 

凛はそれだけ言って、玄関へ向かった。

 

アイも今日はB小町の撮影がある。

 

付き添うことはできない。

 

その事実が、いつもより重かった。

 

346プロダクションの訓練室は、一見すると普通のダンスレッスン場に見えた。

 

大きな鏡。

 

白い床。

 

音響機材。

 

ストレッチ用のマット。

 

ただ、凛には分かった。

 

床の下に、何かが通っている。

 

壁の奥にも。

 

目に見えないけれど、空気が少しだけ整えられている。

 

力が外に漏れないように。

 

暴れたものを、部屋の中へ留めるように。

 

そういう意図が、部屋全体に張られていた。

 

卯月は隣で、少し緊張した顔をしている。

 

「すごいですね……普通のレッスン室みたいなのに、何か、違う感じがします」

 

凛は小さく頷いた。

 

「うん」

 

そこへ、346プロのプロデューサーが入ってきた。

 

大柄で、表情は硬い。

 

けれど、動きは丁寧だった。

 

「お待たせしました」

 

低い声が、静かに響く。

 

「今日は、力を出す訓練ではありません」

 

卯月が瞬きをする。

 

「出す訓練じゃないんですか?」

 

「はい」

 

プロデューサーは凛へ視線を向けた。

 

「特に渋谷さんの場合、今は出すことより、出る直前に気づくことが重要です」

 

凛は眉をわずかに動かした。

 

「出る直前」

 

「冷たくなる前。視野が狭くなる前。誰かを障害物として認識する前」

 

その言葉に、凛の指が少しだけ動いた。

 

障害物。

 

あの時、自分はそう見ていた。

 

アイに近づくもの。

 

アイを傷つけるもの。

 

それ以外の情報が、全部落ちた。

 

人間として見る前に、排除するべきものとして見ていた。

 

プロデューサーは続ける。

 

「渋谷さんの力は強い。ですが、強さより危険なのは、迷いが消えることです」

 

凛は静かに答えた。

 

「迷わない方が、守れることもあると思います」

 

プロデューサーは否定しなかった。

 

「あります」

 

卯月が少し驚いたようにプロデューサーを見る。

 

プロデューサーは表情を変えず、凛を見続けた。

 

「ですが、戻れなくなれば、守った意味がなくなります」

 

その言葉は、凛の胸に重く落ちた。

 

戻れなくなれば。

 

アイの声が届かなかったら。

 

自分はどうなっていたのか。

 

凛はまだ知らない。

 

知りたくもなかった。

 

「まずは呼吸から始めます」

 

プロデューサーが言った。

 

「力の入口に触れて、すぐ離す。形にする必要はありません」

 

凛は目を閉じた。

 

胸の奥へ触れる。

 

雷の匂い。

 

冷たい沈み。

 

角の感覚。

 

ほんの少しだけ、そこへ意識を伸ばす。

 

指先に、細い痺れが走った。

 

同時に、視界の奥がすっと狭くなりかける。

 

音が遠くなる。

 

床の白さがやけに目立つ。

 

「そこで止めてください」

 

プロデューサーの声が聞こえた。

 

凛は息を吸い、意識を引いた。

 

指先の痺れが消える。

 

けれど、全身に重い疲れが残った。

 

卯月が心配そうに覗き込む。

 

「凛ちゃん、大丈夫ですか?」

 

凛は少しだけ考えた。

 

「大丈夫……じゃない寄り」

 

卯月が目を丸くした。

 

「それ、アイさんみたいです」

 

「移った」

 

卯月は少しだけ笑った。

 

その笑いで、部屋の空気が少し柔らかくなる。

 

卯月の訓練は、凛とは違っていた。

 

笑顔の力を小さく出す。

 

周囲を明るくする。

 

けれど、自分を置き去りにしない。

 

卯月は何度も深呼吸をして、小さく笑った。

 

空気がふわりと温まる。

 

けれど、少し力を入れすぎると、卯月の笑顔は固くなった。

 

プロデューサーが止める。

 

「島村さん、今は少し強すぎます」

 

「す、すみません!」

 

「謝らなくて大丈夫です。頑張ることを止める訓練ではありません。頑張り方を選ぶ訓練です」

 

卯月はその言葉を繰り返した。

 

「頑張り方を、選ぶ……」

 

凛は横で聞いていた。

 

出すより止める。

 

頑張るより選ぶ。

 

どちらも、簡単ではなかった。

 

その時、プロデューサーの携帯が震えた。

 

彼は画面を確認し、表情を変えた。

 

硬い顔が、さらに硬くなる。

 

「訓練を中断します」

 

凛はすぐに気づいた。

 

「何かありましたか」

 

「発現事故の可能性があります」

 

卯月の顔が強張る。

 

「発現事故……?」

 

プロデューサーは短く答えた。

 

「別のレッスンスタジオで、若い男性が暴れているとの通報がありました。照明の異常、鏡の破損、複数人の気分不良」

 

凛は息を止めた。

 

「先祖返りですか」

 

プロデューサーは首を横に振る。

 

「血統記録がありません」

 

「じゃあ」

 

「先祖返りではない可能性が高いです」

 

卯月が小さく呟く。

 

「先祖返りじゃないのに、力が……?」

 

プロデューサーの声が低くなる。

 

「外部干渉の疑いがあります」

 

凛の胸の奥がざわついた。

 

外から、こじ開ける。

 

凛はその言葉を、胸の奥で繰り返した。

 

自分や卯月の力とは違う。

 

血の奥に眠っていたものが目覚めるのではなく、外側から無理やり穴を開けられる。

 

そんなものがあるのだとしたら。

 

それは、きっと危険だ。

 

プロデューサーはすぐに言った。

 

「お二人は待機してください。実戦は早すぎます」

 

凛は首を横に振った。

 

「行きます」

 

「渋谷さん」

 

「分かるかもしれない」

 

プロデューサーの視線が鋭くなる。

 

「分かることと、対応できることは別です」

 

その言葉は正しかった。

 

凛にも分かっていた。

 

でも、胸の奥で何かが反応している。

 

自分たちとは違う力。

 

外からこじ開けられたもの。

 

それが、このすぐ近くで暴れている。

 

ただ待つことはできなかった。

 

卯月も一歩前に出た。

 

「私も行きます」

 

プロデューサーが卯月を見る。

 

「島村さんも危険です」

 

卯月は手を胸の前で握った。

 

「怖いです。でも……誰かが苦しいなら、私にも分かるかもしれません」

 

声は震えていた。

 

けれど、逃げていなかった。

 

プロデューサーはしばらく二人を見た。

 

そして、重く頷いた。

 

「現場確認のみ。私の指示に従ってください。危険だと判断したら、すぐ下がること」

 

「はい」

 

卯月が答える。

 

凛も頷いた。

 

小さなレッスンスタジオは、駅から少し離れた雑居ビルの中にあった。

 

到着した時点で、廊下には数人のスタッフが倒れ込むように座っていた。

 

大きな怪我はない。

 

けれど、全員の顔色が悪い。

 

視線が、何かに吸われたまま戻らないような、ぼんやりした目をしている。

 

スタジオの中から、笑い声が聞こえた。

 

青年の声。

 

震えている。

 

怒っている。

 

嬉しそうでもある。

 

「見ろよ」

 

その声を聞いた瞬間、卯月が胸を押さえた。

 

「痛い……」

 

凛は卯月を見る。

 

「卯月?」

 

「この人、見てほしいんです」

 

卯月の声は苦しそうだった。

 

「でも、見てほしいっていう気持ちが、痛い」

 

プロデューサーが扉を開ける。

 

スタジオの中は、暗かった。

 

いや、照明は点いている。

 

けれど、光の向きがおかしい。

 

中央に立つ青年だけを照らすように、照明が不自然に集まっている。

 

周囲の鏡には、青年の姿がいくつも映っていた。

 

そのどれもが、少しずつ歪んでいる。

 

床には黒い影が広がっていた。

 

舞台のような形。

 

けれど、卯月の力のような明るさはない。

 

沈んだ、重い舞台。

 

青年は、手の中に小さな黒いチャームを握りしめていた。

 

「俺だってできるんだよ」

 

彼は笑っていた。

 

その笑顔は、誰かに貼りつけられたように不自然だった。

 

「なんで今まで誰も見なかった?」

 

スタジオの隅にいたスタッフが、目を逸らそうとして呻いた。

 

逸らせない。

 

視線が、無理やり青年へ引き戻される。

 

見たくないのに、見せられる。

 

認めたくないのに、認めろと迫られる。

 

それがこの力だった。

 

凛は胸の奥で違和感を覚えた。

 

先祖返りとは違う。

 

卯月の光とも違う。

 

自分の雷とも違う。

 

血の奥から生えてくる力ではない。

 

根がない。

 

なのに、枝だけが無理やり伸びている。

 

「力が、本人から生えてない」

 

凛が呟くと、プロデューサーがわずかに反応した。

 

「外から開かれた可能性が高いです」

 

凛の視線が、青年の手元へ向かう。

 

黒いチャーム。

 

そこから、青年の胸へ細い影が伸びているように見えた。

 

糸。

 

いや、蔦。

 

それが青年の中に食い込んでいる。

 

凛は手を握った。

 

前に卯月の力を切った。

 

無理に開いた扉を、切って閉じた。

 

なら、今回も。

 

「切る」

 

凛が言った瞬間、プロデューサーの声が飛んだ。

 

「待ってください。まだ解析が――」

 

しかし、その一瞬の迷いを、青年は見逃さなかった。

 

青年の目が凛へ向く。

 

「お前も」

 

影が床を這った。

 

「見つけられた側だろ」

 

凛の足元に、黒い影が伸びる。

 

「なんでそっちにいるんだよ」

 

その言葉が、凛の中に刺さった。

 

見つけられた側。

 

モデルとして見つけられた。

 

346プロに見つけられた。

 

力を見つけられた。

 

そのたびに、アイから少し遠くなるような気がした。

 

ほんの一瞬。

 

本当に一瞬だけ、凛の意識に隙ができた。

 

その隙に、黒い影が雷へ絡んだ。

 

凛の指先に走りかけた青白い光が、黒く濁る。

 

「……っ」

 

冷たいものが、胸の奥へ落ちた。

 

視界が狭くなる。

 

音が遠い。

 

卯月の声も、プロデューサーの声も、厚い硝子の向こうのように聞こえる。

 

青年。

 

危険。

 

排除。

 

それだけが、はっきり残った。

 

額が熱い。

 

角の輪郭が、前よりはっきり浮かぶ。

 

床を青白い雷が走る。

 

その雷に、黒い影が混ざっていた。

 

右手の中で、刀が形を取る。

 

細く、冷たく、明確に。

 

凛の瞳から感情が落ちた。

 

卯月が叫ぶ。

 

「凛ちゃん!」

 

聞こえない。

 

いや、届いていない。

 

プロデューサーが声を張る。

 

「渋谷さん、下がってください!」

 

凛は動かなかった。

 

刀を構え、青年を見る。

 

黒い糸を切るのではない。

 

青年ごと、危険を消す。

 

その方が早い。

 

その方が確実だ。

 

そう判断していた。

 

人間ではなく、障害物として。

 

プロデューサーが結界用の装置を起動する。

 

床と壁に淡い光が走った。

 

しかし、凛の雷と青年の黒い影が干渉して、部屋全体が軋む。

 

鏡の一枚に亀裂が入った。

 

卯月が苦しそうに膝をつく。

 

「凛ちゃん、だめ……」

 

声は震えている。

 

でも、凛には届かない。

 

プロデューサーは一瞬だけ歯を食いしばった。

 

そして、スタッフへ短く指示する。

 

「苺プロダクションへ連絡を」

 

スタッフが驚く。

 

「星野さんを呼ぶんですか?」

 

「はい」

 

「未成年のアイドルを危険現場に?」

 

プロデューサーの声は硬かった。

 

「危険は承知しています」

 

それでも、彼は言った。

 

「ですが、渋谷さんを戻せる声が必要です」

 

その頃、アイはB小町の撮影現場にいた。

 

雑誌の小さな企画。

 

メンバー全員で並び、何パターンか写真を撮る。

 

衣装は淡い色で揃えられていた。

 

いつもなら、アイは自然に笑える。

 

けれど今日は、少しだけ集中が浅かった。

 

ニノが隣で小さく言う。

 

「今日、凛ちゃんいないんだ」

 

アイは一瞬だけ反応が遅れた。

 

「うん。別の用事」

 

「分かりやすい」

 

「え?」

 

ニノはカメラマンに気づかれない程度に、アイを見る。

 

「アイちゃん、ちょっと顔違う」

 

高峯も淡々と言った。

 

「落ち着かないの、出てる」

 

アイは苦笑した。

 

「そんなに?」

 

渡辺が柔らかく笑う。

 

「少しだけね」

 

少しだけ。

 

でも、見られている。

 

メンバーたちは、以前よりアイのことを見るようになっていた。

 

仲良しではない。

 

何でも話せるわけでもない。

 

けれど、アイが無理に笑っているかどうかくらいは、分かるようになってきていた。

 

その時、現場マネージャーの携帯が鳴った。

 

彼は電話に出て、表情を変えた。

 

すぐにアイを見る。

 

「アイさん」

 

その声で、アイの胸が嫌な音を立てた。

 

「何ですか」

 

「凛さんが……」

 

そこまで聞いた瞬間、アイの表情が消えた。

 

「凛ちゃんが?」

 

「346プロの訓練中に、事故が起きたそうです。壱護さんから、すぐに――」

 

最後まで聞く前に、アイは立ち上がっていた。

 

スタッフが慌てる。

 

「星野さん、撮影が」

 

アイは一瞬だけ止まった。

 

仕事。

 

B小町。

 

メンバー。

 

約束。

 

全部分かっている。

 

でも、足が止まらない。

 

「行きなよ」

 

声を出したのは、ニノだった。

 

アイが振り返る。

 

ニノは目を逸らしながら言った。

 

「そんな顔で撮っても、使えないし」

 

高峯も続ける。

 

「こっちは何とかする」

 

渡辺が頷く。

 

「行って。後で事情を聞かせて」

 

きゅんぱんが小さく手を振る。

 

「凛ちゃんのこと、見てきな」

 

ありぴゃんも言う。

 

「戻ってきたら、ちゃんと謝ってよ」

 

アイの喉が詰まった。

 

「ごめん」

 

ニノはすぐに返す。

 

「それ、あとで聞く」

 

その言い方が、少しだけ優しかった。

 

アイは深く頭を下げ、現場を飛び出した。

 

車の中で、アイはずっと手を握っていた。

 

壱護は隣で何も言わない。

 

ただ、いつもより荒くハンドルを切る運転手へ短く指示を出している。

 

凛ちゃんが遠くなる。

 

少し前から、そんな予感があった。

 

346プロ。

 

卯月。

 

知らない場所。

 

知らない力。

 

でも、これは違う。

 

遠くなるのではない。

 

消えてしまうかもしれない。

 

凛が、凛でなくなってしまうかもしれない。

 

アイは唇を噛んだ。

 

戻ってきて。

 

まだ会ってもいないのに、その言葉だけが胸の中で繰り返されていた。

 

スタジオに着いた時、廊下の空気は異様だった。

 

スタッフたちが慌ただしく動いている。

 

奥の扉から、青白い光が漏れている。

 

アイは走った。

 

誰かが止めようとしたが、壱護が低い声で制した。

 

「通せ」

 

アイは扉の前に立つ。

 

息が上がっていた。

 

それでも、迷わず扉を開けた。

 

中を見た瞬間。

 

言葉が消えた。

 

そこにいたのは凛だった。

 

でも、凛ではなかった。

 

額に浮かぶ角。

 

青白い雷。

 

右手に握られた刀。

 

その雷には、黒い影が混ざっている。

 

床には亀裂。

 

鏡には歪んだ光。

 

青年は床に倒れかけている。

 

その前で、凛が刀を振り上げていた。

 

瞳に、感情がない。

 

アイの知っている凛の目ではなかった。

 

静かで。

 

冷たくて。

 

遠い。

 

凛ちゃんが、遠い。

 

アイの胸が凍った。

 

「凛ちゃん!」

 

叫んだ。

 

雷が揺れた。

 

けれど、凛は止まらない。

 

刀が下りかける。

 

プロデューサーがアイの前に出ようとした。

 

「危険です」

 

アイはその手を振り払うように前へ出た。

 

「止めないでください」

 

その声は、ステージのアイのものではなかった。

 

ファンへ向ける声でもない。

 

家族を呼ぶ声だった。

 

泣きそうで。

 

でも、折れない声。

 

「凛ちゃん、戻ってきて」

 

雷がまた揺れる。

 

黒い影が凛の腕に絡みつく。

 

アイはさらに一歩踏み出す。

 

「私、ここにいる」

 

凛の指が、わずかに震えた。

 

アイは続けた。

 

「帰る場所、置いていかないんでしょ」

 

その言葉に、刀の動きが止まる。

 

凛が言った言葉。

 

帰る場所を、置いていくつもりはありません。

 

アイはその言葉を信じたかった。

 

だから、今ここで返す。

 

「凛ちゃん」

 

声が震える。

 

それでも、アイは叫んだ。

 

「私を守るために、凛ちゃんがいなくなるのは嫌」

 

雷が大きく弾けた。

 

黒い影が、凛の身体から剥がれ始める。

 

凛の瞳が揺れる。

 

冷たい硝子の奥に、わずかに感情が戻る。

 

刀の輪郭が崩れる。

 

角が薄くなる。

 

凛の唇が動いた。

 

「……アイ」

 

アイは頷いた。

 

「うん。いる」

 

その瞬間、凛の身体から力が抜けた。

 

雷が消える。

 

黒い影も霧のようにほどける。

 

凛はその場に崩れ落ちた。

 

アイが駆け寄って、凛の身体を支える。

 

「凛ちゃん!」

 

凛の手は冷たかった。

 

でも、握り返してきた。

 

弱く。

 

確かに。

 

「戻った?」

 

凛の声はかすれていた。

 

アイは震える声で答える。

 

「戻った」

 

「よかった」

 

凛はそう言って、目を閉じた。

 

安心したように。

 

けれど、アイは安心できなかった。

 

戻った。

 

確かに戻った。

 

でも、見てしまった。

 

凛であって、凛ではないもの。

 

感情のない目。

 

迷いのない刃。

 

アイの知らないところで、凛があそこまで遠くへ行っていたこと。

 

声が届かなかったら。

 

間に合わなかったら。

 

凛ちゃんが、私のところに帰ってこなくなったら。

 

その考えが、胸の奥で止まらなかった。

 

青年は気を失っていた。

 

346プロのスタッフが黒いチャームを回収する。

 

プロデューサーが低い声で指示を飛ばす。

 

「汚染部分を隔離。現場記録を残してください。救急と外部対応も」

 

卯月は床に座り込んだまま、涙を浮かべて凛を見ていた。

 

「凛ちゃん……」

 

凛はまだ意識が朦朧としている。

 

アイは凛の手を離さなかった。

 

プロデューサーが近づき、深く頭を下げる。

 

「判断が遅れました」

 

アイは顔を上げる。

 

その目は、普段のアイドルのものではなかった。

 

「凛ちゃんを連れて行ったのは、私も認めました」

 

声は硬い。

 

「でも、次はありません」

 

プロデューサーは黙って受け止めた。

 

「今後、訓練段階を見直します」

 

「お願いします」

 

アイはそう言ってから、また凛へ視線を戻した。

 

凛は346プロの処置室に運ばれた。

 

大きな怪我はなかった。

 

ただ、力の消耗が激しい。

 

熱はない。

 

呼吸も落ち着いている。

 

それでも、アイはベッドの横から離れなかった。

 

凛が目を開ける。

 

「アイ」

 

「何?」

 

「怖かった?」

 

アイはすぐには答えなかった。

 

そして、正直に言った。

 

「怖かった」

 

凛は目を伏せる。

 

「ごめん」

 

「謝ってほしいんじゃない」

 

凛は黙る。

 

アイは凛の手を握った。

 

「戻ってきてくれて、嬉しい」

 

「うん」

 

「でも、戻ってきたから大丈夫って言えない」

 

凛はアイを見る。

 

アイの顔は、泣きそうだった。

 

でも泣いていない。

 

無理に笑ってもいない。

 

「私、凛ちゃんが遠くに行くのが怖い」

 

凛はすぐに言った。

 

「行かない」

 

アイは首を横に振る。

 

「今日、行きかけた」

 

凛は何も言えなかった。

 

それは、否定できない事実だった。

 

自分は行きかけた。

 

アイの声がなければ、戻れなかった。

 

凛は唇を結ぶ。

 

「次は」

 

「次は?」

 

アイの声が少し鋭くなる。

 

凛は言葉を止めた。

 

次は大丈夫。

 

そう言えない。

 

言ってはいけない。

 

凛は目を伏せた。

 

「分からない」

 

アイはその言葉に、少しだけ息を吐いた。

 

「うん」

 

安心ではない。

 

でも、嘘よりはよかった。

 

「分からないなら、私も分からないまま怖がる」

 

凛はアイを見る。

 

アイは凛の手を握ったまま言った。

 

「だから、勝手に遠くに行かないで」

 

凛は小さく頷いた。

 

「うん」

 

その夜。

 

アイは渋谷家に戻ってからも、しばらく予定表を開けなかった。

 

鉛筆を持つ手が震える。

 

凛は戻ってきた。

 

怪我もない。

 

命に関わることではなかった。

 

そう言い聞かせても、胸の奥の震えは止まらない。

 

ようやく開いた予定表に、アイはゆっくり書いた。

 

凛ちゃんが暴走した。

私が呼んだら戻ってきた。

戻ってきた。

でも、怖かった。

 

書いてから、もう一度同じ言葉を書く。

 

戻ってきた。

 

それなのに、安心できない。

 

アイは鉛筆を握りしめた。

 

声が届いた。

 

だから凛ちゃんは戻ってきた。

 

でも、もし声が届かなかったら。

 

もし間に合わなかったら。

 

もし、次に凛ちゃんがもっと遠くへ行ってしまったら。

 

アイは予定表の端に、小さく書いた。

 

もっと、繋がっていたい。

 

書いた瞬間、自分でも少し怖くなった。

 

何を望んでいるのか、まだ分からない。

 

ただ、離れたくなかった。

 

呼べば届く距離では足りない。

 

手を伸ばせば掴める距離でも、まだ怖い。

 

もっと近くに。

 

もっと深く。

 

どこへ行っても、互いを見失わないくらいに。

 

そんな繋がりが欲しいと、初めて思ってしまった。

 

アイは予定表を閉じた。

 

胸の奥の震えは、まだ止まらなかった。

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