星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第49話 戻ってきたのに

 

 

朝、凛は自分の手を見ていた。

 

指先に、まだ少し痺れが残っている。

 

目に見える傷はない。

 

火傷もない。

 

血も出ていない。

 

額に触れても、角はなかった。

 

いつもの自分の身体。

 

いつもの手。

 

けれど、昨日の感覚は消えていなかった。

 

冷たい視界。

 

遠くなる音。

 

青年を、人ではなく、排除すべきものとして見た感覚。

 

雷に黒い影が混ざり、自分の中の何かが奥へ沈んでいく感覚。

 

凛は小さく呟いた。

 

「……戻ってる」

 

自分で言って、少し怖くなった。

 

戻っている。

 

なら、昨日の自分はどこへ行っていたのか。

 

あの時、アイの声が届かなかったら。

 

自分は戻れたのか。

 

凛は手を握った。

 

戻ってきた。

 

でも、戻れなかったかもしれない。

 

その事実だけが、指先の痺れよりもずっと重く残っていた。

 

扉が小さく開く。

 

「起きてる?」

 

アイの声だった。

 

凛は顔を上げる。

 

「うん」

 

アイは部屋に入る前に、一度凛の顔を見た。

 

それから、手元を見る。

 

「手、痺れてない?」

 

「少し」

 

「頭は?」

 

「大丈夫」

 

「本当?」

 

凛は少しだけ間を置いた。

 

「……たぶん」

 

アイの眉が動く。

 

「たぶんは、大丈夫じゃない寄り」

 

凛は小さく息を吐いた。

 

「移った」

 

「移した覚えはないんだけど」

 

アイはそう言いながらも、凛の隣に座った。

 

近い。

 

いつもより、少し近い。

 

肩が触れそうな距離で、アイは凛の手をそっと見た。

 

「痛かったら言って」

 

「うん」

 

「変だったら言って」

 

「うん」

 

「冷たくなったら言って」

 

凛はアイを見る。

 

アイは笑っていた。

 

けれど、目は笑っていなかった。

 

心配している。

 

いや、心配というより、怯えている。

 

凛はそれに気づいてしまった。

 

「アイ」

 

「何?」

 

「怖い?」

 

アイはすぐには答えなかった。

 

それから、ゆっくり頷く。

 

「怖い」

 

短い言葉だった。

 

でも、凛の胸に深く刺さった。

 

朝食の席でも、アイは何度も凛を見た。

 

箸を持つ手。

 

湯呑みに伸ばす指。

 

顔色。

 

呼吸。

 

凛が少しでも動きを止めると、アイの視線がすぐに飛んでくる。

 

父も母も、それに気づいていた。

 

母が静かに聞く。

 

「アイちゃん、今日は仕事?」

 

「午後からです」

 

「少し休んでもいいのよ」

 

アイは首を横に振った。

 

「大丈夫です」

 

その声は、きれいだった。

 

大丈夫に聞こえるように整えられていた。

 

凛は箸を置く。

 

「アイ、笑いすぎ」

 

アイの手が止まった。

 

「……凛ちゃんに言われると腹立つね」

 

「うん」

 

「否定して」

 

「でも、事実」

 

アイは少しだけ頬を膨らませる。

 

いつものやり取りに見える。

 

けれど、その奥にはまだ震えが残っていた。

 

凛はそれを見ながら、自分の胸の奥が重くなるのを感じた。

 

朝食のあと、凛はアイを呼び止めた。

 

「昨日、ごめん」

 

アイはすぐに言った。

 

「謝ってほしいんじゃないって言った」

 

「でも、言う」

 

アイは少し黙った。

 

凛は続ける。

 

「怖がらせた」

 

「怖かった」

 

アイは正直に答えた。

 

「でも、怖いって言ったら、凛ちゃんが自分を責めるから、言いたくない」

 

凛は返せなかった。

 

アイは凛を見る。

 

「言ってって顔してる」

 

「言って」

 

「言ったら、凛ちゃん遠く行かない?」

 

その言葉に、凛は息を止めた。

 

すぐに「行かない」と言いたかった。

 

でも、昨日の自分を思い出す。

 

行きかけた。

 

アイの声がなければ。

 

戻ってきて、という声がなければ。

 

自分は遠くへ行っていた。

 

その事実があるから、簡単に言えなかった。

 

アイはそれを見て、少しだけ笑った。

 

「ほら。言えない」

 

「……言いたい」

 

「うん」

 

「でも、嘘は言えない」

 

アイは目を伏せた。

 

「それは、分かってる」

 

分かっているから、つらかった。

 

午後、アイはB小町の仕事へ向かった。

 

凛は休養のため、今日は同行しない。

 

玄関で、アイは何度も振り返った。

 

「本当に寝ててね」

 

「うん」

 

「何かあったら連絡」

 

「うん」

 

「無理に力を触らない」

 

「うん」

 

凛が頷くたび、アイの顔は少しだけ不安になる。

 

凛は言った。

 

「行って」

 

アイが止まる。

 

「アイの場所もある」

 

その言葉に、アイは唇を結んだ。

 

B小町。

 

まだ完全に居場所と呼べるか分からない場所。

 

でも、逃げずに立つと決めた場所。

 

「……うん」

 

アイは頷いた。

 

「行ってくる」

 

「行ってらっしゃい」

 

扉が閉まる。

 

その音が、いつもより大きく聞こえた。

 

撮影現場では、B小町のメンバーがすでに集まっていた。

 

雑誌の小さな企画。

 

前回と同じような衣装。

 

同じような照明。

 

同じようなスタッフ。

 

でも、アイの中だけが違っていた。

 

カメラの前に立つ。

 

笑う。

 

いつも通りに。

 

そう思うのに、口元の形が少し薄い。

 

ニノがすぐに言った。

 

「今日も顔違う」

 

アイは苦笑する。

 

「そんな毎回分かる?」

 

「分かるよ。嫌でも見える」

 

高峯が鏡越しにアイを見る。

 

「昨日、途中で抜けた件?」

 

アイは少しだけ肩を揺らした。

 

「……うん」

 

渡辺が静かに聞く。

 

「凛ちゃん、大丈夫だった?」

 

アイは答えようとして、言葉に詰まった。

 

大丈夫。

 

そう言えばいい。

 

怪我はない。

 

戻ってきた。

 

命に別状はない。

 

でも、それを大丈夫と呼んでいいのか分からなかった。

 

「戻ってきた」

 

ようやく出た言葉は、それだった。

 

ニノが眉を寄せる。

 

「戻ってきた?」

 

「……うん。戻ってきた」

 

意味までは分からない。

 

けれど、普通の事故ではなかったことは伝わったらしい。

 

その場の空気が少しだけ変わる。

 

ニノが言った。

 

「戻ってきたなら、よかったじゃん」

 

アイは一瞬、固まった。

 

ニノもすぐに気づいた。

 

「……そうじゃない顔してる」

 

アイは何も言えない。

 

ニノは視線を逸らした。

 

「戻ってきたからって、怖かったのが消えるわけじゃないってこと?」

 

アイは驚いてニノを見た。

 

ニノは少し気まずそうに言う。

 

「知らないけど。そういう顔」

 

その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。

 

分かってもらえた、とは違う。

 

でも、見てくれた。

 

それだけで、少し息ができた。

 

アイは小さく頷く。

 

「凛ちゃんが、遠くに行った気がした」

 

高峯が聞く。

 

「346プロのこと?」

 

「それもあるけど……もっと」

 

渡辺が首を傾げる。

 

「もっと?」

 

アイは笑いかけて、やめた。

 

うまく説明できない。

 

凛の角。

 

雷。

 

黒い影。

 

冷たい瞳。

 

そんなものを、ここで言えるはずもない。

 

「うまく言えない」

 

ニノは少しだけ肩をすくめた。

 

「じゃあ、無理に言わなくていいんじゃない」

 

アイは顔を上げる。

 

「え?」

 

「言える時でいいじゃん」

 

ニノは目を合わせないまま言った。

 

「完璧な説明されても、こっちも困るし」

 

高峯が小さく息を吐く。

 

「ニノ、言い方」

 

「でも間違ってないでしょ」

 

渡辺が苦笑する。

 

「まあ、少しだけね」

 

アイは三人を見る。

 

仲良しではない。

 

何でも受け止めてくれる優しい場所ではない。

 

でも、完璧な笑顔で埋めなくても、少しだけ置いておける隙間がある。

 

それが、今のアイには少し救いだった。

 

「ありがとう」

 

アイが言うと、ニノは少しだけ目を逸らした。

 

「だから、それも後で聞く」

 

「うん」

 

アイは今度こそ、少しだけ自然に笑えた。

 

その頃、凛は346プロの資料室にいた。

 

休養を優先するため、現場検証には同行していない。

 

ただ、回収された黒いチャームについて、プロデューサーから説明を受けることになっていた。

 

部屋には、凛とプロデューサー。

 

机の上には、密閉されたケースが置かれている。

 

中にあるのは、小さな黒いチャーム。

 

昨日、青年が握っていたもの。

 

凛はそれを見ただけで、指先が少し痺れる気がした。

 

プロデューサーが低い声で言う。

 

「材質は、通常のアクセサリーに近いものでした」

 

「普通の?」

 

「はい。金属、樹脂、微量の鉱物成分。少なくとも、外側だけ見れば特殊なものではありません」

 

凛はケースを見つめる。

 

「外側だけ」

 

「内側に、異常な反応が残っています」

 

プロデューサーは資料を開く。

 

「先祖返りの力に似ていますが、根がありません」

 

「根」

 

「本来の発現は、その人の血や魂の奥に由来します。島村さんも、渋谷さんもそうです」

 

凛は黙って聞いた。

 

「ですが、今回のものは違う。外側から、一時的に形だけを押し込んでいる」

 

凛は昨日の違和感を思い出す。

 

根がない。

 

本人から生えていない。

 

なのに、枝だけが伸びている。

 

「だから、本人から生えてない」

 

「はい」

 

プロデューサーは頷いた。

 

「あの青年に、古い血の記録はありません。本来なら発現しない人間です」

 

凛はケースの中のチャームを見る。

 

「なら、誰かが開けた」

 

「可能性は高いです」

 

「目的は?」

 

プロデューサーはすぐには答えなかった。

 

「分かりません」

 

凛は少しだけ眉を動かす。

 

「分からないんですか」

 

「はい」

 

その答えは、凛にとって意外でもあり、少しだけ信用できるものでもあった。

 

この人は、分からないことを分からないと言う。

 

壱護とは違う。

 

でも、そこは少し似ている。

 

プロデューサーは続けた。

 

「分かっているのは、これが本人の劣等感や欲望を燃料にして暴走したということです」

 

凛の目が少しだけ細くなる。

 

「見てほしい」

 

「はい」

 

「選ばれたい」

 

「おそらく」

 

プロデューサーは資料を閉じた。

 

「長時間使用すれば、精神に深刻な影響が出る可能性があります」

 

「作った人は?」

 

「先祖返りの構造と、芸能界の心理に詳しい人物。少なくとも、偶然作れるものではありません」

 

凛は黙った。

 

その瞬間、脳裏に一人の少年の顔が浮かんだ。

 

綺麗に笑う少年。

 

温度のない笑顔。

 

ララライの廊下で、アイに声をかけた神木ヒカル。

 

凛は言った。

 

「ララライの、神木ヒカル」

 

プロデューサーの表情が少しだけ動いた。

 

「知っているんですか」

 

「アイが会った。私も見た」

 

「そうですか」

 

「怪しい?」

 

プロデューサーは少し間を置いた。

 

「断定はできません」

 

凛は小さく息を吐く。

 

「そう言うと思った」

 

「ただ」

 

プロデューサーは静かに続けた。

 

「注意は必要です」

 

証拠はない。

 

でも、違和感はある。

 

その程度のものを、凛はもう無視できなかった。

 

夜。

 

凛はアイに黒いチャームの話をした。

 

渋谷家の居間。

 

父と母も近くにいたが、二人の会話には口を挟まなかった。

 

凛は言葉を選びながら説明する。

 

人工的に、力を開けるもの。

 

先祖返りではない人間に、外から形だけを押し込むもの。

 

本人の欲望や痛みを燃料にするもの。

 

アイは黙って聞いていた。

 

「外から……?」

 

「うん」

 

その言葉で、アイの中にも一つの顔が浮かんだ。

 

神木ヒカル。

 

ララライの廊下。

 

優しい声。

 

綺麗な笑顔。

 

君の嘘は綺麗だと思う。

 

練習で愛せるようになるなら、すごいね。

 

あの言葉の感触が、今になって薄く冷たく蘇る。

 

「神木さん……」

 

凛は頷いた。

 

「証拠はない」

 

「うん」

 

アイは自分の手を見た。

 

「でも、怖いね」

 

「近づきすぎないで」

 

「凛ちゃんもね」

 

「うん」

 

凛は短く答えた。

 

その夜、アイは予定表を開いた。

 

黒いチャーム。

外から力を開くもの。

凛ちゃんは戻ってきた。

でも、また遠くへ行くかもしれない。

神木さんの笑顔を思い出した。

 

昨日書いた文字が、すぐ下にある。

 

もっと、繋がっていたい。

 

アイはその文字を見つめた。

 

消せない。

 

むしろ、今日の方が強くなっている。

 

声だけじゃ足りない。

 

手を握るだけでも足りない。

 

もっと深く。

 

凛ちゃんの奥に届くものがほしい。

 

どこかへ行きかけても、必ず引き戻せるもの。

 

どんな影が絡んでも、見失わないもの。

 

そんなものがあるのかは分からない。

 

でも、欲しいと思ってしまった。

 

アイは鉛筆を握る。

 

自分の中に生まれた願いが、少し怖かった。

 

守りたいのか。

 

縛りたいのか。

 

離れたくないのか。

 

全部なのか。

 

まだ、分からない。

 

それでも、文字にしてしまった願いは、もうなかったことにはできなかった。

 

その頃。

 

劇団ララライの稽古場の一室で、神木ヒカルは小さなニュース記事を見ていた。

 

レッスンスタジオで起きた騒動。

 

照明設備の故障。

 

若い男性が体調を崩し、救急搬送。

 

詳細は伏せられている。

 

けれど、神木は静かに画面を見つめていた。

 

「壊れたか」

 

声に、怒りはなかった。

 

落胆もない。

 

ただ、結果を確認しただけのような声だった。

 

机の上には、小さな黒いチャームがもう一つ置かれている。

 

光を受けても、その黒だけは沈んだままだった。

 

神木は指先でそれを軽く撫でる。

 

「血のない器には、長くはもたない」

 

その視線が、机の端へ移る。

 

そこには、小さな雑誌記事が置かれていた。

 

B小町。

 

中央で笑う、星野アイの写真。

 

神木はその写真を見た。

 

アイの笑顔。

 

嘘を本当にしようとする目。

 

見られることを怖がりながら、それでも光を受け止める少女。

 

神木は静かに呟く。

 

「じゃあ、血がある器なら?」

 

窓の外では、夜の街が光っている。

 

その光を映さない目で、神木ヒカルは笑った。

 

その笑顔は、成功を喜ぶものではなかった。

 

失敗から、次の試し方を見つけた者の顔だった。

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