星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第4話 見るだけの約束

 

 

アイは、ブルースターを見ていた。

 

淡い青色の花びら。

星みたいな形。

小さくて、壊れそうで、それなのにちゃんとそこにある花。

 

幸福な愛。

 

変な名前だと思った。

 

花にそんな言葉をつけるなんて、変だ。

幸福も、愛も、アイにはよく分からない。

 

分からないものを、まるで当たり前みたいに花の名前の横に置いておくなんて。

 

「ほんとに、何も聞かないんだね」

 

気づけば、アイはそう言っていた。

 

隣に立っていた凛が、少しだけ顔を向ける。

 

「聞かれたいの?」

 

「……聞かれたくない」

 

「じゃあ聞かない」

 

あまりにも簡単に返されたので、アイは少しだけ言葉に詰まった。

 

普通は、もっと聞く。

 

どうしてここに来たの、とか。

昨日、どうして逃げたの、とか。

あの建物は何、とか。

ご飯が怖いの、とか。

 

聞きたいことは、たくさんあるはずだった。

 

だって凛は、気づいている。

 

気づいているくせに、聞かない。

 

「変なの」

 

「よく言われる」

 

「自分で言うんだ」

 

「言われるから」

 

凛はそう言って、店先の鉢を少しだけ直した。

 

それだけだった。

 

アイは凛の横顔を見る。

 

何も聞かれないことが、怖い。

でも、何も聞かれないことに、少しだけ息ができる。

 

どちらが本当なのか、アイには分からなかった。

 

「それ、ブルースター」

 

凛が言った。

 

「知ってる。昨日聞いた」

 

「覚えてたんだ」

 

「覚えてないよ。今、見たら思い出しただけ」

 

「それは覚えてるって言うと思う」

 

「凛ちゃん、細かい」

 

「三回目」

 

「え?」

 

「細かいって言われたの」

 

アイは一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。

 

「数えてたの?」

 

「覚えてただけ」

 

「やっぱり細かい」

 

「四回目」

 

「もう」

 

アイは困ったように笑った。

 

その笑いは、学校で見せるものより少しだけ軽かった。

 

凛はそれを見て、何も言わずに別の鉢を指さす。

 

「これはガーベラ」

 

「それは知ってるかも」

 

「こっちはカスミソウ」

 

「白いやつ?」

 

「うん。小さい花がたくさん咲く」

 

「へえ」

 

「これはアスター」

 

「また星っぽい」

 

「名前も星から来てる」

 

「花って、星好きなの?」

 

「花が好きかは知らない」

 

「そりゃそうか」

 

アイは店先に並んだ花を順番に見た。

 

ピンク。

白。

黄色。

紫。

 

いろんな色があった。

 

同じ花でも、少しずつ形が違う。

同じ鉢に植えられていても、向いている方向が違う。

 

凛はその名前を、ぽつぽつ教えてくれた。

 

アイは全部覚えるつもりなんてなかった。

そもそも、花の名前なんて覚えたところで何になるのか分からない。

 

でも、凛が淡々と教えてくれるのは、嫌ではなかった。

 

学校の子たちみたいに、アイのことを聞いてこない。

先生みたいに、いい子かどうかを見てこない。

施設の大人みたいに、忙しそうにしながら声をかけてくるわけでもない。

 

ただ、花の名前を教えてくる。

 

それだけ。

 

だからアイは、何かを答えなくてもよかった。

 

「花って、名前多すぎない?」

 

アイが言うと、凛は少しだけ首を傾げた。

 

「人の名前も多いでしょ」

 

「それはそうだけど」

 

「アイも名前あるし」

 

「星野アイ」

 

「うん」

 

「短いでしょ」

 

「覚えやすい」

 

「でしょ?」

 

アイは少し得意げに言った。

 

凛は頷く。

 

「星みたいだし」

 

その言葉に、アイは一瞬だけ止まった。

 

星みたい。

 

よく言われる。

目が星みたい。

名前が星みたい。

アイドルみたい。

 

褒め言葉として受け取ればいい。

いつもなら、そうしていた。

 

「えへへ、そうかな」

 

そう笑えばいい。

 

けれど凛の言い方は、少し違った。

 

褒めるためというより、ただ見たものをそのまま言ったみたいだった。

 

だから、どう笑えばいいか分からなかった。

 

「……変なこと言うね」

 

「そう?」

 

「うん」

 

アイはブルースターへ視線を戻した。

 

凛は少し黙ってから言った。

 

「触ってもいいよ」

 

「え?」

 

アイは思わず顔を上げる。

 

「だめでしょ。売り物だし」

 

「強く触らなければ平気」

 

「壊したら困るじゃん」

 

「壊れたら、怒られるのは私」

 

「それ、もっとだめじゃん」

 

凛は真面目な顔で考えた。

 

「じゃあ、一緒に触る?」

 

「一緒に?」

 

「うん」

 

凛はアイの手を取らなかった。

 

ただ、自分の指でブルースターの葉の端をそっと示す。

 

「花びらじゃなくて、葉っぱなら」

 

アイはその指先を見る。

 

触ってもいい。

 

そう言われても、すぐには動けなかった。

 

花は綺麗だ。

綺麗なものは、遠くから見るものだ。

 

近づいて、触って、壊したら困る。

汚したら困る。

自分のせいで駄目になったら、きっと嫌な顔をされる。

 

そんなことを考えてしまう。

 

「触らないなら、それでもいいよ」

 

凛が言った。

 

急かさない声だった。

 

アイは少しだけ唇を結ぶ。

 

それから、そっと指を伸ばした。

 

葉の先に、ほんの少しだけ触れる。

 

「……やわらかい」

 

思ったより、ずっとやわらかかった。

 

少し冷たくて、でも生きている感じがした。

 

「うん」

 

凛が頷く。

 

「花びらは?」

 

「もっとやわらかい」

 

「触っていい?」

 

「いいよ」

 

凛はそう言った。

 

でもアイは、結局触らなかった。

 

葉に触れただけで、十分だった。

 

壊さずに触れた。

 

それだけで、少しだけ胸の奥が変な感じになった。

 

店の奥から、足音がした。

 

「凛、お友達?」

 

凛の母が顔を出す。

 

アイは反射的に背筋を伸ばした。

 

笑顔を作る。

 

「こんにちは。昨日はありがとうございました」

 

きれいに頭を下げる。

 

自分でも分かるくらい、いい子の声だった。

 

凛の母は一瞬だけ目を細めた。

 

その目が何を見たのか、アイには分からない。

 

けれど、すぐに優しく笑った。

 

「いらっしゃい。お花、好き?」

 

「はい。きれいなので」

 

用意されたみたいな答えだった。

 

でも、それ以外にどう言えばいいのか分からない。

 

凛の母は、少しだけ微笑んだ。

 

「きれいだから好き、でいいのよ」

 

アイは言葉に詰まった。

 

きれいだから好き。

 

それだけでいい。

 

理由をちゃんと作らなくてもいい。

相手が喜びそうな言葉を選ばなくてもいい。

いい子らしく答えなくてもいい。

 

そう言われた気がした。

 

「……はい」

 

アイは小さく返した。

 

凛の母は、ブルースターの鉢に視線を落とす。

 

「見るだけでも歓迎だからね」

 

アイは思わず凛を見た。

 

凛は何も言わない。

 

同じだ、と思った。

 

凛も、凛の母も。

 

何かを聞く代わりに、ただ場所を空けるみたいな言い方をする。

 

それがアイには、少し怖かった。

 

怖いのに、変に温かかった。

 

「そろそろ帰らないと」

 

アイは言った。

 

まだ来たばかりだった。

 

でも、長くいたらいけない気がした。

 

居心地がよくなりすぎる前に離れた方がいい。

 

そうしないと、あとで困る。

 

「うん」

 

凛は引き止めなかった。

 

ただ、アイの方を見る。

 

「また見に来れば」

 

アイは笑う。

 

「毎日来たら迷惑でしょ」

 

「花は毎日あるよ」

 

「答えになってない」

 

「来たいなら来ればいいって意味」

 

まっすぐな声だった。

 

アイは返事に困った。

 

来たいなら。

 

そんな風に言われると、来たいみたいではないか。

 

本当に来たいのか。

ただ通りかかっただけなのか。

ブルースターが気になっただけなのか。

凛がいたから立ち止まったのか。

 

自分でも分からない。

 

だから、アイは逃げ道を作った。

 

「じゃあ、見るだけなら」

 

「うん」

 

凛は頷いた。

 

「見るだけ」

 

それが、約束みたいになった。

 

施設に戻る頃には、空が少し暗くなっていた。

 

門の前で、アイは足を止める。

 

深呼吸を一つ。

 

顔を上げる。

 

笑顔を作る。

 

「戻りました」

 

職員が顔を上げた。

 

「あら、アイちゃん。おかえり」

 

「はい」

 

アイは笑った。

 

ただいま、とは言わなかった。

 

言えなかったのか。

言わなかったのか。

自分でもよく分からない。

 

靴を揃えて、中へ入る。

 

廊下には子どもたちの声が響いていた。

 

小さい子が泣いている。

誰かが玩具を取り合っている。

職員が名前を呼んでいる。

 

ここは静かではない。

 

でも、みんながいるから寂しくない、というわけでもなかった。

 

アイは小さい子に声をかけた。

 

「どうしたの?」

 

「これ、取られた」

 

「そっか。じゃあ、一緒に聞きに行こ」

 

にこっと笑う。

 

小さい子は泣きながら頷いた。

 

職員がそれを見て言う。

 

「アイちゃん、助かるわ」

 

「全然大丈夫です」

 

いつもの言葉。

 

大丈夫。

 

そう言えば、相手は安心する。

 

夕飯の時間になった。

 

食卓に白いご飯が並ぶ。

 

アイは箸を持つ。

 

ほんの一瞬だけ、手が止まった。

 

でも、誰も見ていない。

 

職員は忙しい。

隣の子は味噌汁の具をこぼしている。

向かいの子は別の話をしている。

 

誰も、アイの箸が止まったことに気づかない。

 

それは楽だった。

 

楽なはずだった。

 

アイはご飯を口に運ぶ。

 

ちゃんと飲み込む。

 

笑顔も作れる。

 

何も問題ない。

 

なのに、胸の奥にほんの少しだけ、変な空白ができた。

 

ここでは、誰も見ない。

 

それは楽だった。

 

それなのに、少しだけ物足りなかった。

 

夜。

 

布団の中で、アイは天井を見ていた。

 

部屋は真っ暗ではない。

廊下から薄い光が入っている。

 

誰かの寝息。

遠くで職員が歩く音。

布団の擦れる音。

 

アイは目を閉じる。

 

浮かんできたのは、淡い青色の花だった。

 

ブルースター。

 

幸福な愛。

 

変な名前。

 

凛の声も思い出す。

 

聞かれたいの?

 

聞かれたくない。

 

じゃあ聞かない。

 

本当に、変な子だ。

 

聞かないなら、放っておけばいい。

気づいているなら、聞けばいい。

優しくしたいなら、もっと分かりやすく優しくすればいい。

 

凛は、そのどれでもない。

 

ただ隣にいる。

 

それが一番困る。

 

困るのに、また見たいと思ってしまう。

 

花を。

 

凛を。

 

あの、何も聞かれない場所を。

 

アイは布団を少しだけ引き上げた。

 

「……見るだけ」

 

小さく呟く。

 

その声は、誰にも届かなかった。

 

翌日。

 

アイは、まだ凛と少し距離を取っていた。

 

朝の挨拶はする。

目が合えば笑う。

けれど、近づきすぎない。

 

それは昨日と同じ。

 

でも、完全に避けることはできなかった。

 

いや。

 

しなかった。

 

朝の休み時間。

 

凛が机の中から教科書を出していると、アイが近くに来た。

 

「凛ちゃん」

 

「なに?」

 

「昨日の花、名前なんだっけ」

 

凛は顔を上げる。

 

「ブルースター」

 

「そう、それ」

 

「覚えた?」

 

「覚えてないから聞いてるんだけど」

 

「そっか」

 

凛は頷いた。

 

アイは少しだけ唇を尖らせる。

 

「凛ちゃんって、たまに変な納得するよね」

 

「そう?」

 

「そう」

 

アイはそう言って、少し笑った。

 

昨日より、ほんの少しだけ近い笑顔だった。

 

昼休みも、授業も、給食も、いつも通り過ぎていった。

 

アイは人気者で、明るくて、よく笑った。

 

でも凛は、昨日までとは少し違うものを見た。

 

アイが一度だけ、窓の外を見たこと。

 

その視線の先に、花屋があるわけではない。

でも、何かを思い出しているようだった。

 

放課後。

 

アイはまた遠回りをした。

 

施設へ向かう道から、少しだけ外れる。

 

自分でも、何をしているのだろうと思った。

 

別に、凛に会いたいわけではない。

 

ブルースターを見たいだけ。

 

そう思うことにした。

 

花屋の前まで来ると、凛は店先で水やりをしていた。

 

凛はアイに気づく。

 

「見るだけ?」

 

アイは少しだけ立ち止まった。

 

それから、頷く。

 

「見るだけ」

 

「うん」

 

凛はそれ以上何も言わなかった。

 

アイは店先に近づく。

 

ブルースターは昨日と同じ場所にあった。

 

淡い青色の花が、小さく揺れている。

 

アイはそれを見つめた。

 

「花っていいね」

 

ぽつりと、言葉が出た。

 

凛が水を止める。

 

「なんで?」

 

アイは少し考えた。

 

どう答えればいいのか、一瞬迷った。

 

でも、なぜか今は、綺麗な答えを作らなくてもいい気がした。

 

「何も言わなくても、きれいって思ってもらえるから」

 

言ってから、しまったと思った。

 

少し本音に近すぎた。

 

凛はすぐには返事をしなかった。

 

怒るわけでも、笑うわけでもない。

 

ただ少し考えている。

 

「アイもそうじゃない?」

 

アイは笑おうとした。

 

いつものように。

 

そんなことないよ、と。

私なんて、と。

かわいいって言われるのは嬉しいけど、と。

 

いくらでも言えたはずだった。

 

でも、なぜか笑えなかった。

 

「私は、黙ってたら困らせるよ」

 

声が、少し小さくなった。

 

凛が聞く。

 

「誰を?」

 

「いろいろ」

 

「私は困らない」

 

アイは凛を見た。

 

凛は、アイではなく花を見ていた。

 

ブルースターの葉に残った水滴を、指先でそっと払っている。

 

その横顔は、いつも通りだった。

 

静かで。

淡々としていて。

でも、嘘ではない。

 

私は困らない。

 

それは、何かを慰めるための言葉には聞こえなかった。

 

本当にそう思っているから、そう言っただけ。

 

そんな言葉だった。

 

アイは少しだけ視線を落とす。

 

「……ほんと、変なの」

 

今度の声は、前より少し柔らかかった。

 

凛は小さく頷く。

 

「五回目」

 

「まだ数えてるの?」

 

「覚えてるだけ」

 

「やっぱり変」

 

アイは今度こそ、少しだけ笑った。

 

帰る時間になった。

 

空はまだ明るい。

でも、施設に戻る時間は決まっている。

 

長くいすぎると、聞かれる。

 

どこに行っていたのか。

誰といたのか。

 

説明を考えるのは面倒だった。

 

「そろそろ帰る」

 

「うん」

 

凛は何も聞かなかった。

 

送る、とも言わない。

どこへ帰るの、とも聞かない。

 

ただ、店先に立ったまま言った。

 

「また明日」

 

アイはいつものように笑おうとした。

 

明るく。

軽く。

相手が安心するように。

 

けれど、少しだけ迷った。

 

その迷いの分だけ、笑顔が遅れた。

 

「……また明日」

 

声だけが先に出た。

 

笑顔は、作りきれなかった。

 

凛はそれに気づいた。

 

でも、何も言わなかった。

 

アイはランドセルの肩紐を握り直し、歩き出す。

 

店先の花の匂いが、少しずつ遠ざかっていく。

 

凛はその背中を見送った。

 

その日の「また明日」は、いつもの笑顔より少しだけ下手だった。

 

けれど凛には、それが今までで一番、星野アイの声に近い気がした。

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