星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第51話 禁じられた処方

 

 

帰還点。

 

その言葉は、アイの中に残り続けていた。

 

凛ちゃんが帰ってくる場所。

 

そう言われた時、少しだけ安心した。

 

自分は凛にとって、ただ隣にいるだけの人間ではない。

 

呼べば届く。

 

戻ってきて、と言えば、凛は戻ってきてくれる。

 

それは、嬉しかった。

 

嬉しかった、はずだった。

 

けれど夜になると、どうしても思い出してしまう。

 

あの青白い雷。

 

黒い影が混ざった光。

 

凛の額に浮かんだ角。

 

そして、凛であって凛ではない、冷たい瞳。

 

戻ってきた。

 

確かに戻ってきた。

 

でも、もし次に声が届かなかったら。

 

もし自分が間に合わなかったら。

 

もし、凛がもっと遠くへ行ってしまったら。

 

その問いが、胸の奥から消えてくれなかった。

 

予定表の端に書いた文字を、アイは何度も見返す。

 

帰還点。

 

もっと、繋がっていたい。

 

鉛筆の跡が、少し濃く残っている。

 

まるで、そこだけ紙が沈んでいるみたいだった。

 

「アイ」

 

声をかけられて、アイははっと顔を上げた。

 

部屋の入口に凛が立っている。

 

いつの間に来ていたのか分からなかった。

 

「また見てる」

 

「見てないよ」

 

「予定表」

 

アイは視線を落とす。

 

開いたままのページ。

 

隠すには遅すぎた。

 

「……見てるね」

 

凛は部屋に入ってきて、少し距離を置いて座った。

 

最近の凛は、アイが近づきすぎると止める。

 

でも、離れすぎることもしない。

 

その距離が優しいから、余計に苦しい。

 

「何を考えてるの」

 

凛が聞く。

 

アイは少し笑った。

 

笑わない方がいいと分かっているのに、癖で口元が動く。

 

「大丈夫。ちょっと考え事」

 

凛の目が細くなる。

 

「笑い方」

 

「最近それ禁止にしない?」

 

「しない」

 

「厳しいなぁ」

 

アイは軽く返した。

 

けれど、凛は笑わなかった。

 

「危ないこと?」

 

その声は低かった。

 

アイの指が、予定表の端を押さえる。

 

言えば止められる。

 

言わなければ、凛を裏切る。

 

その二つが、胸の中でぶつかった。

 

「……まだ、分からない」

 

「分からない?」

 

「うん。私にも」

 

凛はしばらくアイを見ていた。

 

それ以上、踏み込んでこなかった。

 

「分かった」

 

「聞かないの?」

 

「今は」

 

凛は立ち上がる。

 

「でも、危ないと思ったら止める」

 

アイは小さく頷いた。

 

「うん」

 

扉が閉まる。

 

アイは予定表へ視線を戻した。

 

聞かれなかった。

 

止められなかった。

 

そのことに、少しだけ安心してしまう自分がいた。

 

最低だと思った。

 

それでも、ページの端にある文字は消せなかった。

 

346プロに出入りするようになってから、アイは少しずつその場所の空気に慣れてきた。

 

大きな廊下。

 

レッスン室の音。

 

スタッフの足音。

 

見慣れないアイドル候補生たち。

 

苺プロとは違う、大きな組織の中で、たくさんの人が動いている。

 

その日、アイは凛の基礎データについて、プロデューサーから説明を受けていた。

 

凛は別室で簡単な検査を受けている。

 

アイは、帰還点として協力するために、凛の状態や訓練方針を知る必要があると言われていた。

 

プロデューサーは資料を閉じながら言った。

 

「渋谷さんは、訓練協力前に一通りの検査を受けています」

 

「検査……」

 

「反応値、発現時の体温変化、神経反応。それから、血の反応。もちろん、本人と保護者の同意を得た範囲です」

 

アイは頷いた。

 

「血の反応も、ですか」

 

「はい」

 

プロデューサーの声は変わらない。

 

「血は、もっとも強い媒介の一つです」

 

アイの指が、膝の上でわずかに動いた。

 

媒介。

 

その言葉だけが、深く刺さった。

 

プロデューサーは続ける。

 

「だからこそ、扱いは厳重です。検査サンプルは管理区域で保管し、研究目的で勝手に使用することはできません」

 

「……魂や血の接続にも、関係しますか」

 

プロデューサーの視線が、アイへ向く。

 

「関係します」

 

アイは息を止めた。

 

「ですが、星野さん」

 

プロデューサーはいつもより少しだけ強い声で言った。

 

「その領域は、原則として触れません」

 

「どうしてですか」

 

「人の境界に関わるからです」

 

人の境界。

 

その言葉は、アイに重く響いた。

 

「繋がることは、救いになる場合もあります。ですが同時に、侵食にもなります。支えるつもりで、相手の内側を壊すこともある」

 

アイは黙った。

 

凛の内側に届きたい。

 

でも、壊したくはない。

 

そんなことは分かっている。

 

分かっているのに、知りたい気持ちは消えなかった。

 

説明が終わり、廊下へ出た時だった。

 

ふわりと、甘い匂いがした。

 

薬品のような。

 

花のような。

 

お菓子のような。

 

でも、そのどれでもない匂い。

 

アイが振り返ると、白衣を羽織った少女が廊下の向こうから歩いてきた。

 

紫がかった髪。

 

猫のような目。

 

不思議な軽さで、ふらふらと近づいてくる。

 

「んー?」

 

少女はアイの前で足を止めた。

 

「君、いい匂いするね」

 

アイは一瞬、返事に困った。

 

「……ありがとうございます?」

 

「嘘と本音が混ざってる匂い」

 

少女は楽しそうに笑う。

 

「きれいなのに、ちょっと焦げてる。にゃは、面白い」

 

アイは警戒しながら聞いた。

 

「あなたは?」

 

「一ノ瀬志希。アイドル。元研究者。たまに失踪者」

 

「情報量が多いですね」

 

「褒めてる?」

 

「たぶん」

 

志希はアイの周りを一歩だけ回るように見た。

 

「星野アイちゃんでしょ。B小町の」

 

「はい」

 

「渋谷凛ちゃんの帰還点」

 

アイの心臓が、強く鳴った。

 

「知ってるんですか」

 

「うん。最近その辺の資料、空気が騒がしいから」

 

志希は軽く言った。

 

でも、目は軽くなかった。

 

観察している。

 

匂いを嗅ぐみたいに。

 

反応を見るみたいに。

 

アイは少しだけ息を吸った。

 

逃げてもよかった。

 

けれど、足は動かなかった。

 

「魂とか、血とか」

 

アイは自分でも驚くほど静かな声で聞いた。

 

「そういう接続って、本当にあるんですか」

 

志希の笑顔が、少しだけ止まった。

 

「あるよ」

 

「できるんですか」

 

「できるかどうかと、やっていいかは別」

 

その答えは、思っていたより真面目だった。

 

志希は白衣の袖に手を入れたまま、アイを見る。

 

「それ、誰のために聞いてるの?」

 

アイは答えなかった。

 

答えなくても、志希には分かったらしい。

 

「凛ちゃん?」

 

アイはゆっくり頷いた。

 

「凛ちゃんが、遠くへ行くんです」

 

志希は黙って聞いていた。

 

「暴走した時、私の声で戻ってきました」

 

「へえ」

 

「でも、声が届かなかったら戻せない」

 

アイの声が少し震える。

 

「だから、もっと深く届くものが欲しい」

 

志希の目が細くなる。

 

「共鳴補助剤?」

 

アイは黙った。

 

少しして、答える。

 

「それで届くなら」

 

志希は笑わなかった。

 

「それ、かなり危ない依頼だよ」

 

「知ってます」

 

「知らないから言えるんだよ」

 

「知ってても、言います」

 

廊下の空気が静かになる。

 

遠くでレッスン室の音がしている。

 

誰かの歌声。

 

足音。

 

笑い声。

 

でも、二人の間だけが、薄く切り離されたようだった。

 

志希は小さく息を吐いた。

 

「ダメ」

 

アイは顔を上げる。

 

志希ははっきり言った。

 

「そういうのは、本人の同意がないとやっちゃいけない」

 

「本人の同意……」

 

「当たり前。血は本人そのものに近い。勝手に使ったら、研究じゃなくて侵害」

 

その言葉は正しかった。

 

痛いほど正しかった。

 

アイは唇を結ぶ。

 

それでも、引けなかった。

 

「もし、凛ちゃんがまた戻れなくなったら?」

 

「それでも、勝手にやる理由にはならない」

 

「私は、戻したいんです」

 

「うん」

 

志希の声は、少しだけ柔らかくなった。

 

「だから危ない」

 

アイは何も言えなかった。

 

志希は軽く肩をすくめる。

 

「方法があるかどうかだけなら、ある。でも、やっていい方法じゃない」

 

アイは志希を見る。

 

「知りたいです」

 

「知ってどうするの?」

 

「考えます」

 

「嘘」

 

志希は即答した。

 

アイは少しだけ笑った。

 

「ばれますか」

 

「匂いでね」

 

志希はいつもの軽さを戻そうとした。

 

でも、戻りきらなかった。

 

アイは最後に言った。

 

「方法があるなら、知りたいです」

 

そして、その場を離れた。

 

志希は廊下に一人残った。

 

「……いい匂いだったなぁ」

 

軽く呟いたつもりだった。

 

でも、声は思ったより重かった。

 

星野アイ。

 

嘘と本音。

 

恐怖と執着。

 

帰還点。

 

渋谷凛の鬼の血。

 

雷。

 

魂と血の反応。

 

全部が、志希の中の研究者の部分を刺激していた。

 

ダメだと分かっている。

 

本人の同意なく、人の境界に触れるなど論外だ。

 

未完成の共鳴反応を人に使うなど、研究と呼べるものではない。

 

それでも、頭のどこかが囁く。

 

見たい。

 

知りたい。

 

どんな反応が起きるのか。

 

帰還点と鬼の血が、媒介を通してどこまで繋がるのか。

 

志希は白衣のポケットに手を入れた。

 

「やっちゃダメなやつほど、反応が綺麗なんだよね」

 

自分で言って、笑えなかった。

 

数日後。

 

志希は、アイを人目の少ない廊下で呼び止めた。

 

手には、小さなケースがある。

 

透明ではない。

 

中は見えない。

 

「薬ってほどじゃないよ」

 

志希は先にそう言った。

 

アイはケースを見た。

 

「これは?」

 

「共鳴を起こしやすくするもの」

 

志希の声は軽くない。

 

「君の中にある帰還点としての反応を、少しだけ増幅する。そういうもの」

 

アイの喉が動く。

 

「凛ちゃんと繋がれる?」

 

「繋がれるかもしれない」

 

志希は少し間を置いた。

 

「壊れるかもしれない」

 

アイの手が止まる。

 

志希はケースを引っ込めなかった。

 

「使うなら、君の責任」

 

「でも、本当は使っちゃダメ」

 

「じゃあ、どうして」

 

志希は笑った。

 

でも、その笑顔は少し苦かった。

 

「研究者として、見たいと思っちゃったから」

 

アイは志希を見る。

 

志希は視線を逸らさない。

 

「最低でしょ?」

 

アイは静かに答えた。

 

「私も最低です」

 

志希は小さく笑う。

 

「知ってる」

 

ケースが、アイの手に渡った。

 

その重さは、思っていたよりずっと軽かった。

 

軽いのに。

 

持った瞬間、戻れないところへ一歩踏み出した気がした。

 

アイはすぐには使わなかった。

 

小さなケースは、鞄の奥にしまった。

 

見えない場所。

 

でも、そこにあることだけで少し安心してしまう。

 

その安心が、また怖かった。

 

凛は気づいていた。

 

「アイ」

 

ある夜、凛が声をかけた。

 

「何か隠してる」

 

アイは予定表を閉じる。

 

「うん」

 

凛は少し目を開いた。

 

「認めるんだ」

 

「隠してるのを隠すのが、下手になったから」

 

凛はアイを見る。

 

「言える?」

 

アイは首を横に振った。

 

「今は無理」

 

凛は黙った。

 

それから、もう一度聞く。

 

「危ないこと?」

 

アイは答えるまでに少し時間がかかった。

 

「……凛ちゃんを戻すためのこと」

 

凛の表情が変わる。

 

「アイ」

 

「今は、聞かないで」

 

凛は迷っていた。

 

踏み込むべきだと、たぶん分かっている。

 

それでも、アイが震えながら「今は無理」と言ったことを、踏みにじることができなかった。

 

「分かった」

 

その答えに、アイは安心した。

 

そして、少しだけ後悔した。

 

季節が少し進んだ。

 

数か月。

 

その間に、色々なことが変わった。

 

凛は346プロで基礎訓練を続けた。

 

雷を出すより、止める練習。

 

冷たさへ落ちる前に、自分で気づく練習。

 

卯月は346プロのレッスンに正式に参加し始めた。

 

「怖いです」と言いながら、それでも毎回前に進んだ。

 

B小町の仕事も増えた。

 

アイは十六歳になった。

 

少しずつ、ステージでの見られ方も変わっていく。

 

可愛いだけではない。

 

何かを抱えた目。

 

嘘を本当にしようとする笑顔。

 

その危うさも含めて、アイは人を惹きつけていた。

 

そして、ある雨の夜。

 

凛が訓練で少しだけ冷たさに触れた日があった。

 

大きな暴走ではない。

 

すぐに戻った。

 

凛自身も、プロデューサーも、訓練の範囲だと言った。

 

でも、アイには怖かった。

 

ほんの少しでも、凛が遠くなった気がした。

 

その夜、アイは鞄の奥からケースを取り出した。

 

小さな瓶。

 

志希の言葉が蘇る。

 

繋がれるかもしれない。

 

壊れるかもしれない。

 

本当は使っちゃダメ。

 

アイは瓶を握った。

 

「もっと近くに」

 

小さく呟いた。

 

それ以上のことは、言葉にならなかった。

 

何かが変わったと、はっきり分かったわけではない。

 

ただ、それ以降、アイは時々、凛の気配を近くに感じるようになった。

 

隣にいないのに、胸の奥で薄く雷が鳴る。

 

凛が疲れている時、なんとなく分かる。

 

凛が少し冷たさへ触れた時、胸が痛む。

 

繋がっている。

 

そう思ってしまった。

 

それが正しいのか、危ないのか、分からないまま。

 

さらに少し時間が過ぎた。

 

アイの体調に変化が出始めたのは、その頃だった。

 

最初は、忙しさのせいだと思った。

 

朝、少し気分が悪い。

 

匂いに敏感になる。

 

レッスン後の疲れ方が違う。

 

予定表を書きながら、眠ってしまう。

 

母が心配した。

 

父も眉を寄せた。

 

凛はもっと早く気づいていた。

 

「アイ、顔色悪い」

 

「忙しいだけ」

 

「違う」

 

「凛ちゃん、最近鋭すぎる」

 

「検査」

 

「大丈夫」

 

「だめ」

 

凛の声は、珍しく強かった。

 

アイは少し笑おうとして、できなかった。

 

身体が重い。

 

胸の奥が、いつもと違う。

 

どこかで分かっていたのかもしれない。

 

でも、認めるのが怖かった。

 

346プロで解析を受けたあと、アイはしばらく言葉を失っていた。

 

医師の言葉ではない。

 

プロデューサーと、専門のスタッフが慎重に説明した。

 

通常の体調不良ではない。

 

アイの中に、説明のつかない生命反応がある。

 

それは医学的な言葉だけでは片づけられない。

 

魂の反応と、凛の血の反応が深く絡み合っている。

 

胎児と呼ぶにはまだ曖昧で。

 

魔術的な魂核と、生命反応の中間にあるもの。

 

けれど、確かにそこにある。

 

アイは椅子に座ったまま動けなかった。

 

隣にいる凛の気配だけが、やけにはっきりしていた。

 

施設を出てから、アイはようやく声を出した。

 

「……私の中に、命の反応があるって」

 

凛は止まった。

 

本当に止まった。

 

表情も、呼吸も、全部。

 

「…………」

 

アイは不安になって、凛を見る。

 

「凛ちゃん?」

 

凛はゆっくり瞬きをした。

 

「え」

 

「凛ちゃん」

 

「え、待って」

 

「うん」

 

「待って。何を?」

 

「私が聞きたい」

 

凛の視線が、アイの顔と身体の間を何度も行き来する。

 

普段の凛からは考えられないくらい、完全に混乱していた。

 

「命の反応って」

 

凛はそこで言葉に詰まった。

 

「いや、待って。どういうこと?」

 

「分からない」

 

「分からないって、でも、え?」

 

「凛ちゃん」

 

「落ち着けない」

 

凛は片手で額を押さえた。

 

「私、何かした?」

 

「凛ちゃんが直接何かしたわけじゃない」

 

「じゃあ、もっと分からない」

 

「うん」

 

「うんじゃない」

 

その反応は、少しだけおかしくて。

 

でも、それ以上に怖かった。

 

現実が二人に追いついていない。

 

ありえないことが、アイの中で起きている。

 

アイは、鞄の中に入れたままだった小さなケースを思い出した。

 

もう逃げられなかった。

 

その日の夜。

 

アイは凛にすべて話した。

 

志希に会ったこと。

 

魂や血の接続について聞いたこと。

 

凛の検査サンプルを媒介にした共鳴の試薬を受け取ったこと。

 

雨の夜に使ってしまったこと。

 

凛に隠していたこと。

 

そして、その結果として、自分の中に魂核のような生命反応が生まれたらしいこと。

 

凛は最初、黙って聞いていた。

 

混乱が少しずつ消えていく。

 

その代わりに、表情が戻ってくる。

 

静かで。

 

冷静で。

 

でも、奥に怒りがある顔だった。

 

「アイ」

 

その声は低かった。

 

アイは視線を落とす。

 

「ごめんなさい」

 

「危ないって、分かってた?」

 

「分かってた」

 

「それでも?」

 

アイは唇を噛んだ。

 

「それでも、繋がりたかった」

 

凛は何も言わなかった。

 

怒っている。

 

それは分かる。

 

当然だった。

 

アイは、凛に隠れて危ないことをした。

 

凛の血に関わるものを、本人の知らないところで使った。

 

繋がりたいという願いで、越えてはいけない線を越えた。

 

凛はしばらく黙ってから言った。

 

「……怒ってる」

 

「うん」

 

「すごく怒ってる」

 

「うん」

 

「でも」

 

凛の声が少しだけ揺れた。

 

「怖かったのも、分かる」

 

その言葉で、アイの目に涙が浮かんだ。

 

怒られるだけなら、耐えられた。

 

でも、分かると言われる方が苦しかった。

 

凛は目を伏せる。

 

「ずるい」

 

「うん」

 

「本当にずるい」

 

それでも、凛はアイの手を取った。

 

離さなかった。

 

次の日、凛は一ノ瀬志希に会いに行った。

 

346プロの研究区画に近い小さな部屋。

 

志希は白衣を着ていたが、いつもの軽さは薄かった。

 

凛を見るなり、少しだけ笑った。

 

「来ると思ってた」

 

凛は近づく。

 

「何をしたの」

 

志希は軽口を返そうとした。

 

でも、凛の目を見てやめた。

 

「最低なこと」

 

「説明して」

 

志希は机に手を置いた。

 

「君の血に残っていた反応と、アイちゃんの帰還点としての反応を、共鳴させた」

 

凛の目が冷える。

 

「命の反応が生まれるなんて聞いてない」

 

「私も想定外」

 

その言葉に、凛の指が動いた。

 

志希は目を逸らさなかった。

 

「ごめん。これは、好奇心で越えちゃいけない線だった」

 

「ごめんで済む話じゃない」

 

「うん」

 

志希は頷いた。

 

「済まない」

 

凛は怒っていた。

 

雷が出そうになるほどではない。

 

でも、胸の奥に冷たいものが立ち上がる。

 

それを凛は必死に押さえた。

 

ここで怒りに任せたら、何も変わらない。

 

「アイは?」

 

志希が聞く。

 

凛は短く答えた。

 

「泣いてる」

 

志希は目を伏せた。

 

「そっか」

 

「魂核は?」

 

「詳しい検査が必要。普通の生命反応とは違う可能性がある」

 

凛の声が低くなる。

 

「危ないの?」

 

志希はすぐには答えなかった。

 

「現時点では、安定してる」

 

その言葉で、凛は初めて息を吐いた。

 

同じ日、346プロのプロデューサーも事態を知った。

 

表情は硬かった。

 

普段から硬い顔が、さらに深く沈んでいる。

 

「渋谷さんのサンプルが使われた」

 

その声には、怒りがあった。

 

静かな怒り。

 

「管理責任はこちらにもあります」

 

凛は何も言わない。

 

プロデューサーは続けた。

 

「一ノ瀬さんには処分と監視が必要です。ただし、今は星野さんと魂核の安全確認を優先します」

 

アイは隣で小さく座っている。

 

顔色は悪い。

 

けれど、目は逃げていない。

 

プロデューサーは資料を見る。

 

「これは、通常の生命反応とは違います」

 

凛が聞く。

 

「どういう意味ですか」

 

「血と魂の接続による、特殊な発生です」

 

部屋の空気が重くなる。

 

「その子は?」

 

凛の声が、かすかに震えた。

 

プロデューサーは答える。

 

「現時点では、安定しています」

 

凛は目を閉じた。

 

その場で初めて、深く息を吐いた。

 

怒りも、恐怖も、混乱も消えない。

 

けれど、その一言だけは救いだった。

 

夜。

 

渋谷家の部屋で、アイと凛は並んで座っていた。

 

しばらく、何も話せなかった。

 

やがて、アイが小さく言う。

 

「ごめんなさい」

 

凛はすぐに返さなかった。

 

「何回目」

 

「数えてない」

 

「私も」

 

沈黙。

 

凛は自分の手を見た。

 

「怖い」

 

アイが顔を上げる。

 

凛は続けた。

 

「アイが危ないことをしたのも怖い」

 

「うん」

 

「中に命みたいな反応があるのも怖い」

 

アイの手が震える。

 

「うん」

 

「でも」

 

凛はアイを見る。

 

「消えてほしいとは思えない」

 

その瞬間、アイの涙がこぼれた。

 

凛は目を伏せる。

 

「ずるい」

 

「うん」

 

「本当にずるい」

 

「うん」

 

「怒ってる」

 

「うん」

 

「怖い」

 

「うん」

 

「でも、手は離したくない」

 

アイは泣きながら頷いた。

 

凛はアイの手を握る。

 

強く。

 

「もう、一人で決めないで」

 

アイは震える声で答えた。

 

「うん」

 

「本当に」

 

「うん」

 

「嘘にしたら、怒る」

 

「もう怒ってるよ」

 

「もっと怒る」

 

アイは泣きながら、少しだけ笑った。

 

「それは怖いな」

 

凛は笑わなかった。

 

でも、手は離さなかった。

 

その夜。

 

アイは予定表を開いた。

 

手が震えて、文字が少し歪む。

 

それでも書いた。

 

私は凛ちゃんに隠し事をした。

危ないことをした。

志希さんから共鳴の試薬を受け取った。

その結果、私の中に魂核のような生命反応が生まれた。

たぶん、凛ちゃんと私の繋がりから生まれたもの。

 

そこで、涙が落ちた。

 

紙が少し滲む。

 

アイはそれでも、最後に書いた。

 

繋がりたかった。

でも、繋がり方を間違えた。

 

凛ちゃんは怒っていた。

 

当然だと思う。

 

でも、手は離さなかった。

 

その温かさが、いちばん苦しかった。

 

アイは予定表の端に、小さく書いた。

 

もう、一人で決めない。

 

その言葉が、今度こそ嘘にならないように。

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