星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
朝になっても、眠った気がしなかった。
アイは布団の上で膝を抱え、閉じた予定表を両手で握っていた。
昨日、そこに書いた文字。
もう、一人で決めない。
何度も見返したはずなのに、朝になると、その言葉はひどく頼りなく見えた。
一人で決めない。
なら、これから話さなければならない。
渋谷家の父と母に。
苺プロに。
346プロに。
そして、凛に何度でも。
隠したこと。
越えたこと。
その結果として、アイの中に生まれてしまった、小さな魂核のこと。
隣で凛が座っている。
凛も眠れていない顔をしていた。
けれど、アイが見ると、すぐに目が合う。
逃げない目だった。
怒っている。
怖がっている。
それでも、逃げない目。
アイは小さく息を吸った。
「怒られるよね」
凛は少しも迷わなかった。
「怒られる」
「当然だよね」
「当然」
「そこは少し慰めて」
「でも、嘘になる」
「知ってた」
アイは笑おうとして、失敗した。
凛は自分の手を握ったり開いたりしている。
落ち着かない時の癖。
「私も言う」
凛が言った。
アイは首を横に振る。
「凛ちゃんは悪くない」
「悪くないとは言えない」
「でも、決めたのは私」
「止められなかったのは私」
アイは言葉に詰まった。
凛は、気づいていた。
アイが何かを隠していることも。
それが、凛を戻すための何かだということも。
それでも踏み込まなかった。
踏み込まない優しさが、結果的にこの事態を許してしまった。
凛はそう思っている。
アイは、そう思ってほしくなかった。
けれど、凛の中の責任感を、簡単に否定することもできなかった。
「二人とも、違うところで間違えた」
凛は静かに言った。
「だから、二人で話す」
アイは予定表を胸元に抱えた。
「うん」
居間には、父と母がいた。
母はすでに何かを察していたのか、いつもの柔らかい表情ではなかった。
父は新聞を畳んだまま、黙って二人を見ている。
アイは凛の隣に座った。
足が震えそうだった。
手も震えていた。
けれど、逃げられない。
逃げてはいけない。
「話があります」
そう言ったのは、凛だった。
アイは凛を見る。
凛は一度だけアイを見て、それから父と母へ向き直った。
「アイの身体に、普通じゃない反応が出ました」
母の顔色が変わる。
父の眉が動いた。
アイは唇を噛んで、続けた。
「私が、原因です」
そこから、アイはすべて話した。
346プロで帰還点という話を聞いたこと。
凛をもっと確実に戻したいと思ったこと。
一ノ瀬志希に、魂や血の接続について聞いたこと。
共鳴の試薬を受け取ったこと。
凛に隠して使ったこと。
その結果、アイの中に、魂核のような生命反応が生まれていると分かったこと。
一つ話すたびに、母の表情が硬くなる。
父は最後まで口を挟まなかった。
ただ、黙って聞いていた。
それが一番怖かった。
話し終えると、居間に長い沈黙が落ちた。
時計の針の音だけが聞こえる。
母が口を開いた。
「アイちゃん」
「はい」
声が震えた。
母の声は、荒くはなかった。
けれど、いつもの優しさだけではなかった。
「それは、絶対に一人で決めていいことじゃなかった」
アイは深く頭を下げる。
「……はい」
「怖かったのは分かる。でも、怖いからって、凛ちゃんの身体や血に関わることを、凛ちゃんに黙って使っていい理由にはならない」
「はい」
母の言葉が胸に刺さる。
痛い。
でも、反論できるところなど一つもなかった。
父が低い声で言った。
「凛の身体に関わるものを、凛に黙って使ったんだな」
アイは唇を噛んだ。
「はい」
「それは、信頼を傷つけることだ」
アイの目に涙が浮かぶ。
その通りだった。
凛が自分を信じてくれていたから。
聞かないで、と言った時に踏み込まなかったから。
アイは、その信頼を使ってしまった。
「ごめんなさい」
震える声で言う。
凛が口を開きかけた。
けれど、その前に父が凛を見た。
「凛も」
凛の肩がわずかに動く。
「はい」
「気づいていたなら、踏み込むべきだった」
アイが顔を上げる。
「でも、凛ちゃんは――」
「アイ」
凛が静かに止めた。
父は続ける。
「相手を尊重することと、危険から目を逸らすことは違う」
凛は目を伏せた。
「……はい」
「お前は強い。だから、相手が危ない時に、自分だけで判断して引いてしまうことがある」
その言葉に、凛の指が動いた。
父は凛を責めている。
でも、責めるためだけではなかった。
見ている。
凛の危うさも。
アイの危うさも。
母は立ち上がった。
アイは叱られると思った。
けれど、母はアイの前まで来ると、ゆっくり膝をついた。
そして、アイを抱きしめた。
アイは目を見開いた。
「怒ってる」
母が言った。
「……はい」
「本当に怒ってる」
「はい」
「でも、怖かったんでしょう」
その瞬間、アイの涙がこぼれた。
止まらなかった。
「怖かったです」
母の腕に力がこもる。
「怖い時ほど、一人で決めちゃだめなの」
その言葉に、アイは声を殺して泣いた。
母は凛も見た。
「凛ちゃんも」
凛が顔を上げる。
「強いからって、一人で背負わないで」
「はい」
「あなたたち二人とも、守りたいものがある時ほど、一人になる」
凛は何も言えなかった。
アイも言えなかった。
あまりにも、その通りだった。
しばらくして、父が現実的な声で言った。
「その魂核というものは、安全なのか」
凛が答える。
「現時点では安定していると聞いています」
母がすぐに言った。
「現時点では、ね」
「はい」
父は腕を組んだ。
「なら、まずは継続して検査を受ける。346プロだけじゃない。信頼できる医療機関とも連携する」
アイは小さく頷く。
「はい」
母がアイの肩に手を置いた。
「まず、アイちゃんの身体を守ること」
父も頷いた。
「そのうえで、魂核をどう扱うか考える」
アイの胸が、ぎゅっと縮んだ。
「扱うって……消すとか、そういう話ですか」
場が止まった。
母の手が、アイの肩で止まる。
凛がすぐにアイの手を握った。
父はすぐには答えなかった。
簡単に答えられる話ではない。
生まれてしまったもの。
まだ形の定まらないもの。
間違いから始まったもの。
それをどう呼ぶのか。
どう守るのか。
誰にも、すぐには分からなかった。
母が静かに言った。
「今ここで決める話じゃない」
アイは凛の手を握り返した。
「……はい」
その日の午後、346プロで改めて話し合いが行われた。
プロデューサー。
志希。
凛。
アイ。
そして渋谷家の父と母。
志希は白衣を着ていたが、いつもの軽い空気はほとんどなかった。
プロデューサーの表情は硬い。
いつも硬い顔が、さらに深く沈んでいる。
「今回の件について、サンプル管理の不備と、一ノ瀬さんの行為は分けて処理します」
志希は小さく頷いた。
「はい」
「渋谷さんの検査サンプルが、本人の同意なく研究目的で使用された。これは重大な問題です」
志希は目を伏せる。
「はい」
「一ノ瀬さんには、研究区画への単独アクセス停止。関連資料へのアクセス制限。今後の全ての検査・解析活動に監督をつけます」
「妥当だね」
プロデューサーの声が低くなる。
「軽く受け取らないでください」
志希は少しだけ顔を上げた。
「軽くは、ないよ」
その声は、いつもの志希よりずっと静かだった。
「軽くしたかっただけ」
アイは志希を見た。
志希は視線を合わせない。
悪びれていないわけではない。
むしろ、どう悪びればいいのか分からないように見えた。
会議の後、志希がアイのところへ来た。
二人きりではない。
少し離れた場所にプロデューサーがいる。
凛もいる。
それでも志希は、アイの前で立ち止まった。
「ごめん」
アイは首を横に振りかけて、止めた。
「私が頼みました」
「頼まれても、渡しちゃダメだった」
「……はい」
志希は白衣の袖を握る。
「君の匂い、あの時すごく綺麗で、危なかった」
「匂い?」
「壊れそうな願いって、きれいに反応するんだよ」
志希は薄く笑おうとして、失敗した。
「でも、綺麗だからって触っていいわけじゃなかった」
アイは何も言えなかった。
志希は、研究者として越えてはいけない線を越えた。
アイは、凛を繋ぎ止めたいという願いで、その線を越えさせた。
どちらか一人だけが悪い、という話ではない。
だからこそ、重かった。
少し離れた場所で、凛が志希を見ていた。
志希はその視線に気づき、軽く肩をすくめる。
「凛ちゃん、こわい顔」
凛は表情を変えない。
「許してない」
「うん」
「でも、今は魂核のことを知ってる人が必要」
志希が少しだけ眉を上げる。
「利用する?」
凛は即答した。
「監視する」
志希は一瞬だけ目を丸くして、それから少し笑った。
「うわ、こわ」
「怖くていい」
凛の声は冷静だった。
けれど、そこにははっきりとした怒りがあった。
志希は頷いた。
「うん。怖いくらいでちょうどいい」
苺プロにも報告が入った。
壱護は話を聞き終えると、しばらく頭を抱えていた。
「お前らな……」
声に疲れが滲んでいる。
怒りもある。
呆れもある。
でも、それ以上に心配があった。
アイと凛は並んで頭を下げた。
「すみません」
「すみません」
壱護は深く息を吐いた。
「謝れば済む話じゃないのは分かってるな」
「はい」
二人の声が重なった。
「まず、アイの仕事は調整する」
アイが顔を上げる。
「でも」
「でもじゃない」
壱護は即座に切った。
「体調が不安定なんだろうが。普通じゃない反応だろうが何だろうが、お前が倒れたら全部終わりだ」
アイは言葉を失う。
壱護は続けた。
「公表はしない。できるわけがない。346プロと情報共有して、必要な範囲で現場だけ調整する」
凛が頷く。
「はい」
「B小町のメンバーには、必要最低限だ。体調面の配慮が必要、くらいに留める」
アイは小さく頷いた。
「はい」
壱護はアイを見る。
「アイ」
「はい」
「お前が倒れたら、守りたいもの全部守れなくなる」
その言葉で、アイは何も言えなくなった。
凛を守りたい。
魂核を守りたい。
ステージも守りたい。
でも、自分が倒れれば、全部が崩れる。
それを、アイはようやく現実として受け取った。
B小町の現場では、アイの仕事量が少し調整された。
メンバーたちは詳しい事情を知らない。
けれど、アイの体調が普段と違うことは分かっていた。
休憩中、ニノがじっとアイを見る。
「また何か隠してる」
アイは苦笑した。
「うん」
「認めるの早」
「隠しきれないから」
高峯が静かに聞く。
「言えないこと?」
アイは少し迷ってから頷いた。
「まだ」
渡辺が飲み物を差し出しながら言う。
「じゃあ、言えるところだけでいいよ」
アイは紙コップを受け取る。
「ありがとう」
ニノが言った。
「無理なら無理って言えば」
アイは少しだけ考えた。
そして、小さく言った。
「……無理」
ニノはすぐに頷いた。
「はい、言えた」
アイは目を丸くする。
「それでいいの?」
「知らない。でも言えたじゃん」
高峯がほんの少しだけ笑う。
「前よりは分かりやすい」
渡辺も頷いた。
「無理って言えるの、大事だよ」
アイは紙コップを両手で包んだ。
全部は言えない。
言えるわけがない。
でも、無理と言える場所がある。
それは、ほんの少しだけ、救いだった。
数日後。
346プロで安全検査が行われた。
魂核は、まだ小さい。
曖昧で、形が定まらない。
けれど、確かに反応はある。
プロデューサーは検査結果を見ながら言った。
「星野さん単独の状態では、反応に波があります」
アイは少し緊張した。
「危ないんですか」
「現時点では危険域ではありません。ただ、安定とは言い切れません」
凛が聞く。
「私が近くにいる時は?」
「安定しています」
部屋の空気が少し変わった。
プロデューサーは資料を見せる。
「渋谷さんの反応に同調している。特に、雷性の微弱な反応が近くにある時、魂核の波形が落ち着く傾向があります」
凛は自分の手を見る。
「私が近くにいた方がいい?」
「少なくとも、現時点では」
アイは凛を見た。
嬉しい。
そう思ってしまった。
近くにいていい理由ができた。
凛がそばにいることが、魂核の安定に繋がる。
その事実が、胸の奥を少しだけ温かくした。
凛が横を見る。
「嬉しそうな顔しない」
アイは慌てて視線を逸らす。
「してない」
「してる」
「少し」
「危ない繋がりでもある」
「分かってる」
「本当に?」
アイは少しだけ考えた。
「前よりは」
凛は小さく息を吐いた。
「そこは正直」
「嘘つかない練習」
「うん」
プロデューサーは二人のやり取りを見てから、静かに言った。
「渋谷さん」
凛が顔を上げる。
「この魂核は、あなたの力を受け継ぐ可能性があります」
凛はすぐに聞いた。
「鬼の力ですか」
「はい」
アイの手が震える。
プロデューサーは続けた。
「雷性の反応も確認されています」
凛は黙る。
「アイの性質も?」
「高い確率で影響しています。帰還点としての干渉性、星野さん特有の強い感情反応。その両方が混ざっている可能性があります」
凛は目を伏せた。
鬼の力。
雷。
アイの帰還点としての異常な干渉力。
その両方を持つもの。
「危ないですね」
「はい」
プロデューサーは否定しなかった。
凛はゆっくり息を吐いた。
「でも、守る対象が増えた」
アイが凛を見る。
凛はまっすぐ前を向いていた。
「だから、勝手に決めない。逃げない。壊さない」
その声は静かだった。
けれど、強かった。
その夜。
アイと凛は、部屋で向き合っていた。
外は静かだった。
渋谷家の中も、もう寝る準備に入っている。
けれど、二人はまだ眠れなかった。
アイが言う。
「私、また間違えるかもしれない」
凛はすぐに答えた。
「私も」
アイは驚いて顔を上げる。
「凛ちゃんも?」
「私は、守るためなら冷たくなれる」
アイは黙った。
凛は自分の手を見る。
「あの日みたいに」
青白い雷。
黒い影。
感情のない目。
アイの脳裏にも、同じ光景が浮かぶ。
凛は続けた。
「だから、お互い止める」
アイは小さく頷いた。
「うん」
「一人で決めない」
「一人で抱えない」
「一人で壊れない」
アイの喉が震えた。
「……うん」
凛はアイの手を握った。
「約束」
「約束」
言葉は短かった。
でも、今までのどの約束より重かった。
夜更け。
アイは眠っていた。
疲れが溜まっていたのか、いつもより深く眠っている。
凛はその隣で、アイの手を握っていた。
眠るつもりだった。
けれど、なかなか目を閉じられない。
アイの呼吸。
手の温度。
そして、その奥にある小さな反応。
まだ形の定まらないもの。
凛はそっと息を吸った。
指先に、微かな痺れが走る。
いつもの冷たさではない。
暴走の前触れでもない。
青白い雷の欠片のような、ほんの小さな感覚。
その瞬間、アイの内側で、何かがかすかに応えた気がした。
温かい。
弱い。
でも、確かにそこにある。
凛は息を止めた。
守らなければならないものが増えた。
でもそれは、重荷だけではなかった。
間違いから生まれたものだった。
それでも。
消えていいものだとは、もう思えなかった。
凛は眠るアイの手を握ったまま、小さく呟いた。
「いるんだね」
アイは眠ったまま、少しだけ手を握り返した。
凛は静かに目を閉じる。
もう一人で決めない。
その約束を、今度は二人だけでなく、まだ形の定まらない小さな反応にも向けて。