星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
朝、アイは胸の奥に冷たさを感じて目を覚ました。
寒いわけではない。
布団の中は温かい。
窓の外から差し込む光も柔らかくて、部屋の空気もいつも通りだった。
けれど、胸の奥だけが少し冷えている。
薄い氷を一枚、心臓の近くに置かれたような感覚。
アイはゆっくり身体を起こした。
「……凛ちゃん?」
声に出してから、自分でも驚いた。
凛は隣にいない。
同じ家の中にはいる。
でも、今この部屋にはいない。
それなのに、なぜか凛のことだと分かった。
アイは胸に手を当てる。
冷たい。
怖いほどではない。
でも、明らかに自分のものだけではない感覚だった。
廊下に出ると、ちょうど凛も部屋から出てきたところだった。
いつも通りの顔。
寝癖もほとんどない。
表情も変わらない。
けれど、アイは一歩近づいた瞬間、胸の奥の冷たさが少し濃くなるのを感じた。
「あ」
凛がこちらを見る。
「何?」
「凛ちゃん、今日少し冷たい」
凛は自分の手を見た。
「手?」
アイは首を横に振る。
「違う。中」
「中?」
凛は眉をわずかに寄せた。
アイ自身も説明できなかった。
凛の身体が冷えているわけではない。
顔色が悪いわけでもない。
ただ、胸の奥で感じる凛の気配が、少しだけ冷たい。
前に暴走しかけた時のような鋭い冷たさではない。
けれど、力の奥に触れたあとの残り香のようなものがある。
「分かるの?」
凛が聞く。
アイは自分の胸に手を当てたまま、少し困ったように笑った。
「分かる、気がする」
笑ったつもりだった。
でも、凛はその笑顔を見て、少しだけ目を細めた。
「無理に笑わない」
「……はい」
アイは素直に頷いた。
最近、それを言われる回数が増えている。
笑う前に気づく。
隠す前に言う。
それが自分の訓練になるのだと、プロデューサーは言っていた。
まだ、全然うまくできない。
それでも、以前より少しだけ、自分が笑おうとする瞬間に気づけるようになっていた。
凛はアイの顔を見てから、自分の胸元に手を当てた。
「昨日、少し訓練したからかも」
「冷たさに触った?」
「少し」
「言って」
「大したことなかった」
アイはじっと凛を見る。
凛は一瞬だけ視線を逸らした。
「……次から言う」
「今、言えた」
「遅い」
「でも言えた」
凛は小さく息を吐いた。
怒っているようで、どこか安心しているようにも見えた。
アイは胸の奥に残る冷たさをもう一度感じる。
怖い。
でも、分からないままではない。
凛の状態が、少しだけ届いている。
それが良いことなのか、危ないことなのかはまだ分からない。
ただ、確かに繋がってしまっている。
その事実は、アイの中に静かに沈んでいた。
その日を境に、アイの身体は少しずつ、前とは違う反応を返すようになった。
凛が近くにいると、胸の奥が温かい。
凛が疲れていると、指先が少し痺れる。
人混みの中で、視線の温度が以前より濃く分かる。
好意。
興味。
悪意。
ただの好奇心。
全部がはっきり分かるわけではない。
でも、前よりも、見られている感覚が鋭くなった。
アイドルとして視線を浴びることには慣れている。
けれど、今のそれは少し違う。
見られている。
だけではない。
見返せる。
そんな感覚があった。
B小町の現場でも、その違和感は現れた。
その日は、小さなライブイベントのリハーサルだった。
ステージは広くない。
客席との距離も近い。
まだ本番ではないが、スタッフや関係者が何人も見ている。
アイはいつも通り、立ち位置を確認し、振りを合わせ、笑った。
けれど、休憩中にスタッフの一人が何気なく言った。
「星野さんって、渋谷凛さんと仲いいんですよね」
アイは振り返る。
「はい」
「最近、渋谷さんって346プロにも出入りしてるって聞いたんですけど、星野さんとはちょっと距離空いちゃった感じですか?」
悪意はなかった。
たぶん、ただの世間話。
芸能関係者らしい軽い探り。
それだけ。
でも。
アイの胸の奥で、冷たいものが弾けた。
アイは笑った。
いつものように、角度も声も整えた。
「そんなことないですよ」
声は穏やかだった。
「凛ちゃんは、ちゃんと帰ってきますから」
その瞬間、ニノが黙った。
高峯が台本から顔を上げる。
渡辺の手が、紙コップを持ったまま止まった。
きゅんぱんが小さく瞬きをする。
ありぴゃんが、何か言いかけて口を閉じた。
笑っているのに、誰もすぐには笑い返さなかった。
スタッフは「あ、そうなんですね」と曖昧に笑って離れていく。
アイはその背中を見送った。
自分では、普通に返したつもりだった。
けれど、隣にいたニノが眉を寄せている。
「アイちゃん」
「何?」
「今の、笑顔こわい」
アイは目を瞬かせた。
「え?」
高峯もこちらを見る。
「怒ってた?」
「怒ってないよ」
渡辺が小さく首を傾げる。
「でも、少し冷たかった」
「冷たい?」
きゅんぱんが腕をさする。
「なんか、ちょっとひやっとした」
ありぴゃんも頷く。
「笑ってたのに、近づいたら怒られそうな感じ」
アイは自分の口元に触れた。
笑っていた。
確かに笑っていた。
けれど、その笑顔の中に、別のものが混ざっていた。
凛が冷たくなる時の気配を、アイは知っている。
危険を遠ざけるために、感情を削ぎ落とすような静けさ。
その感覚が、今は自分の口元と指先に残っていた。
アイは胸の奥を押さえた。
「……ごめん」
ニノは少しだけ目を細める。
「謝るところなのかは分かんないけど」
高峯が淡々と言う。
「気づいたならいいんじゃない」
渡辺も柔らかく続ける。
「無理に平気な顔しないでね」
アイは頷いた。
「うん」
そう答えた声が、自分でも少しだけ頼りなかった。
その帰り道。
B小町のメンバー数人と駅へ向かっている途中、人混みが少し乱れた。
イベント帰りの人たち。
通行人。
スタッフ。
関係者。
その中で、誰かの手がアイの腕へ伸びた。
ファンかもしれない。
ただぶつかりかけただけかもしれない。
悪意があったのかも分からない。
普段なら、アイは少し身体を引いて、笑顔で距離を取っただろう。
「ごめんなさい」とか。
「危ないですよ」とか。
そういう言葉で、場を丸く収めたはずだった。
でも、今回は違った。
身体が先に動いた。
一歩ずれる。
相手の手が空を切る。
指先に、微かな痺れ。
視界が一瞬だけ狭くなる。
相手の顔。
手。
距離。
周囲の隙間。
全部が、やけにはっきり見えた。
アイは相手を見た。
笑顔はなかった。
「触らないでください」
声は静かだった。
けれど、自分のものではないくらい冷たかった。
相手は息を飲み、慌てて手を引いた。
「す、すみません」
アイはそこで我に返った。
指先が少し痺れている。
胸の奥に、かすかな雷のようなものが残っている。
ニノが隣で固まっていた。
「今の」
アイはニノを見る。
「何?」
「誰かさんに似てた」
アイは息を止めた。
「……凛ちゃん?」
ニノは短く返した。
「他にいる?」
自分でもそう思った。
守るために、冷たくなる。
距離を取るために、感情を削る。
それは、凛のものだった。
でも今、その感覚が自分の指先に残っていた。
家に帰るまで、アイはずっとそのことを考えていた。
言うべきだ。
凛に。
でも、言ったら凛はきっと傷つく。
自分の力がアイに移っている。
自分の危うさまで、アイに与えてしまった。
そう思うに決まっている。
アイは玄関の前で足を止めた。
凛と手を握って交わした言葉が、胸の奥で痛んだ。
一人で決めない。
一人で抱えない。
一人で壊れない。
扉を開けると、凛が居間から顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
アイは靴を脱ぎながら、少しだけ黙った。
凛がすぐに気づく。
「何かあった?」
「凛ちゃん」
「うん」
「言いたくないことがある」
凛は少しだけ目を細めた。
「言って」
「言いたくないって言ったのに」
「言わないと、また一人で決める」
その言葉に、アイは逃げられなくなった。
逃げたかったわけではない。
でも、怖かった。
アイは居間に入り、凛の前に座った。
そして、今日あったことを話した。
朝、凛の冷たさが分かったこと。
現場で笑顔が冷たくなったこと。
誰かに触られそうになった時、身体が先に動いたこと。
指先が痺れたこと。
ニノに、凛に似ていたと言われたこと。
凛は黙って聞いていた。
最後まで、口を挟まなかった。
アイが話し終えると、凛は自分の手を見た。
「私のせい」
やっぱり。
アイはすぐに首を横に振った。
「違う」
「私の力が、アイに移ってる」
「移ってるかもしれない」
凛が顔を上げる。
アイは逃げなかった。
「でも、それを一人で決めないって話でしょ」
凛は言葉に詰まった。
アイは続ける。
「凛ちゃんの悪いところだけじゃない」
「悪いところ?」
「冷たくなりすぎるところ」
凛は目を伏せる。
アイは少しだけ凛の手に触れた。
「でも、私を守ろうとする力も、少し来てる気がする」
「それが危ない」
「うん」
アイは頷いた。
「だから、一緒に見る」
凛はアイを見た。
しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頷く。
「明日、346プロに行く」
「うん」
「検査する」
「うん」
「私も行く」
「もちろん」
アイがそう答えると、凛はほんの少しだけ眉を下げた。
「隠さなかった」
「約束したから」
「うん」
凛はアイの手を握った。
「ありがとう」
アイはその言葉に、少しだけ泣きそうになった。
翌日。
346プロの検査室には、プロデューサー、志希、凛、アイがいた。
志希には監督役のスタッフがついている。
志希は白衣姿で、いつものように軽い笑みを浮かべていた。
ただ、その笑みは以前より少しだけ抑えられている。
「結論から言うと」
志希は資料を見ながら言った。
「アイちゃんはもう、単なる帰還点じゃないね」
凛の顔が一瞬で険しくなる。
志希は両手を軽く上げた。
「怖い顔しないで。監視付きだから変なことしないよ」
プロデューサーが低く言う。
「一ノ瀬さん」
「はいはい。真面目にやる」
志希は資料をプロデューサーに渡した。
プロデューサーが説明を引き継ぐ。
「星野さんの反応に、渋谷さんの雷性が微量に混ざっています」
アイは息を止める。
凛も黙った。
「魂核を介して、渋谷さんの血の情報が星野さん側にも反映されている可能性が高い」
「私に」
アイは自分の手を見る。
「凛ちゃんの雷が?」
「非常に微弱です」
プロデューサーは慎重に言った。
「ただし、危機時には渋谷さんの防衛反応を反射する可能性があります」
凛が聞く。
「反射」
「はい。昨日の行動は、それに近いものかもしれません」
志希が横から言う。
「繋がるって、いいところだけ貰えるわけじゃないんだよね」
アイは志希を見る。
志希は白衣の袖に手を入れたまま、少しだけ真面目な声で続けた。
「凛ちゃんの雷。強さ。守る衝動」
それから、ほんの少し間を置く。
「それから、冷たくなりすぎる危うさ」
凛の指が動いた。
アイも何も言えなかった。
志希は今度は凛を見る。
「でも、逆もあるよ」
「逆?」
「アイちゃんの帰還性。嘘を本当に近づける力。誰かを惹きつける性質」
志希は少しだけ目を細めた。
「それも、凛ちゃん側に流れるかもしれない」
凛は眉を寄せる。
「私にも?」
「うん」
志希は頷く。
「だから、二人とも変わる」
その言葉は重かった。
繋がった。
それは、ただ安心を得ることではない。
相手の光も、影も、危うさも、強さも。
少しずつ自分の中に混ざっていくことだった。
プロデューサーが静かに言う。
「星野さんにも制御訓練が必要です」
アイは目を上げる。
「私も?」
「はい」
「何をするんですか」
「笑顔で隠す前に、反応の入口に気づく訓練です」
その言葉に、アイは何も言えなくなった。
凛が冷たくなる前に気づくように。
卯月が笑顔で自分を追い詰める前に気づくように。
アイも。
笑顔で覆う前に、自分の中の冷たさや怖さに気づかなければならない。
「私、笑う前に気づくの苦手です」
アイが言うと、凛はすぐに頷いた。
「知ってる」
「そこは否定して」
「無理」
志希が小さく笑う。
「仲良しだねー」
凛が志希を見る。
「今、笑うところじゃない」
「ごめんごめん。でも少し笑えるくらいの方が、呼吸しやすいでしょ」
それは、少しだけ本当だった。
重すぎる話の中で、息をする隙間ができる。
その後、卯月も検査室へやって来た。
レッスン帰りなのか、少し汗をかいている。
アイを見るなり、卯月は小さく首を傾げた。
「アイさん、少し変わりました?」
アイは少し緊張する。
「分かる?」
「はい」
卯月は言葉を探す。
「少し眩しいのに、冷たい感じがします」
アイは苦笑した。
「それ、怖くない?」
卯月は正直に頷く。
「少し怖いです」
アイの胸がちくりと痛む。
でも、卯月はすぐに続けた。
「でも、綺麗です」
「綺麗?」
「はい。明るいのに、少しだけ近づくのが怖い感じです。でも、嫌な感じじゃなくて……」
卯月は困ったように笑った。
「すみません。うまく言えなくて」
志希がにやりと笑う。
「いい感性してるねー、しまむー」
卯月は少し照れる。
「えへへ……そうでしょうか」
それから、卯月はアイへ向き直った。
「私も、笑顔で無理をしすぎたことがあります」
アイは黙って聞いた。
「だから、アイさんが笑う前に苦しいなら、言ってください」
卯月の声は柔らかかった。
でも、芯があった。
「私も、聞きます」
アイは卯月の声を聞きながら、胸の奥で固まっていたものが、ほんの少しだけほどけるのを感じた。
全部を言えるわけではない。
けれど、今の「怖い」は、飲み込まなくてもいい気がした。
その日の最後に、小さな訓練が行われた。
アイと凛は向かい合って座る。
プロデューサーと志希、卯月が少し離れて見守っている。
「渋谷さんは、ほんの少しだけ雷の入口に触れてください」
プロデューサーが言う。
「星野さんは、それを感じたら言葉にしてください。笑顔で隠さないこと」
アイは頷く。
「はい」
凛は目を閉じた。
胸の奥に触れる。
ほんの少しだけ。
青白い雷の入口。
その瞬間、アイの胸の奥が冷えた。
指先がぴりっと痺れる。
怖い。
でも、隠さない。
アイは息を吸った。
「今、冷たい」
凛が目を開ける。
「うん」
「指先が痺れる」
「戻る」
凛はすぐに力を引いた。
アイの胸の冷たさも、すっと消えていく。
完全にではない。
でも、遠ざかる。
アイは息を吐いた。
「消えた」
凛も小さく頷く。
「よかった」
二回目。
三回目。
凛が雷の入口に触れるたび、アイの胸は冷えた。
けれど、そのたびに口に出した。
「冷たい」
「怖い」
「でも、まだ大丈夫」
言葉にすると、凛の気配が少しだけ近く戻ってくる。
アイはそれを、胸の奥で何度も確かめた。
訓練が終わったあと、アイは洗面台の前で顔を洗った。
冷たい水が頬を流れる。
顔を上げる。
鏡の中の自分と目が合う。
その瞬間。
額の片側が、ほんの少し熱くなった。
「……え?」
アイは思わず触れた。
何もない。
角などない。
腫れてもいない。
でも、鏡の中の自分の額に、一瞬だけ淡い影が見えた気がした。
片側だけ。
小さく。
まだ形にもならない何か。
アイは息を止めた。
背後から凛の声がする。
「どうしたの?」
アイは振り返る。
いつもなら、何でもないと言っていた。
でも、もうそれはしない。
「何でもない……とは言わない方がいいよね」
凛の表情が変わる。
「うん」
アイは額に触れたまま言った。
「額が、少し熱かった」
凛の目がわずかに揺れる。
プロデューサーもすぐに記録を取った。
志希は黙ってアイを見ていた。
いつものように、面白いものを見つけた顔に近い。
けれど、足は一歩も近づかなかった。
白衣の袖を握る指だけが、わずかに動いていた。
「片側?」
志希が静かに聞く。
アイは頷いた。
「たぶん」
凛は何も言わなかった。
ただ、アイのそばへ来て、手を取った。
アイはその手を握り返す。
指先に、ほんの少しだけ痺れが残っていた。
でも、今は怖さだけではなかった。
その夜。
アイは予定表を開いた。
凛ちゃんの雷が、少し私にも混ざっているらしい。
怖い。
でも、凛ちゃんの全部が怖いわけじゃない。
守りたい気持ちも、少し分かった気がする。
そこで一度、鉛筆を止める。
額の奥に、まだ少し熱が残っている。
痛みではない。
でも、確かにある。
アイは続きを書いた。
凛ちゃんの冷たいところも、少しだけ私の中に来ている。
でも、それだけじゃないと思いたい。
守りたいと思う気持ちも、きっと一緒に来ている。
凛ちゃんの冷たさは怖い。
でも、その奥にはいつも、守りたい気持ちがあった。
私の笑顔も、きっと同じ。
誰かを照らすこともできる。
でも、自分を隠すこともできる。
だから、気づかなきゃいけない。
笑う前に。
冷たくなる前に。
一人で決める前に。
アイは鉛筆を置いた。
額の奥に残った熱は、まだ消えなかった。
それが何になるのか、アイには分からない。
でも、もう黙って抱え込まない。
怖いなら怖いと言う。
冷たいなら冷たいと言う。
それが、凛ちゃんと繋がったまま、私が私でいるための最初の練習だった。