星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
夜明けの光は、思っていたより静かだった。
白いカーテンの隙間から、薄い朝日が差し込んでいる。
病室には、消毒液の匂いと、まだ落ち着かない空気が残っていた。
アイはベッドの上で、二つの小さな命を見つめていた。
疲れ切っている。
指先を動かすだけでも、身体の奥が重い。
それでも、目を離せなかった。
あまりにも小さくて。
あまりにも温かくて。
本当に、ここにいるのか何度も確かめたくなる。
「本当に、いるんだね」
アイが呟くと、隣に座っていた凛が、小さく頷いた。
「うん」
「二人も」
「二人も」
凛の返事は短かった。
声が、少しだけ掠れている。
いつもの落ち着いた声ではなかった。
何かを飲み込んで、やっと出したような声。
アイは凛を見る。
「凛ちゃん、大丈夫?」
凛は双子を見つめたまま、ゆっくり首を横に振った。
「大丈夫じゃない」
「正直」
「でも、ここにいる」
その言葉だけで、アイは少し息ができた。
大丈夫ではない。
怖い。
混乱している。
それでも、ここにいる。
凛はそう言ってくれた。
それが今のアイには、何よりも必要だった。
片方の小さな手が、凛の指に触れている。
握るというほどの力はない。
それなのに、凛は動けなくなっていた。
「……小さい」
「うん」
「本当に、小さい」
「うん」
「これを、守るの?」
アイは二つの寝息を見つめたまま答えた。
「守るんだよ」
凛は唇を結んだ。
その顔は、泣きそうには見えなかった。
けれど、泣くよりもずっと苦しそうだった。
「怖い」
「私も」
「アイも?」
「うん。すごく」
アイは小さく笑おうとして、すぐにやめた。
笑っていいのか分からなかった。
二人は生まれた。
それは、確かに嬉しいことだった。
腕の中にある温度は、間違いなく希望だった。
けれど、胸の奥には別の冷たさが沈んでいる。
廊下の向こう。
雨の音。
戻らなかった足音。
その全てが、病室の外側から静かにこちらを見ているようだった。
廊下がざわつき始めたのは、朝日が少しずつ白くなってきた頃だった。
最初は小さな足音だった。
それから、抑えた声。
「雨宮先生が……」
「まだ戻ってないって」
「連絡、つかないの?」
「裏手を……」
言葉の断片が、病室の空気を変えた。
凛は顔を上げた。
アイも、腕の中の子どもたちを抱いたまま、廊下の方を見る。
「雨宮先生……?」
アイの声に、凛の胸が嫌な音を立てた。
前夜の記憶が蘇る。
雨の音。
看護師の目が泳いだ瞬間。
「雨宮先生は、少し席を外していて……」
その言葉。
そして、自分は立ち上がりかけた。
探しに行こうとした。
けれど、アイに呼ばれて残った。
ここにいると決めた。
それは間違いではなかったはずだ。
そのはずなのに、胸の奥で何かが冷たく沈んでいく。
凛はゆっくり立ち上がった。
「確認してくる」
アイは止めなかった。
止めたいように見えた。
けれど、止めなかった。
「戻ってきて」
「うん」
「すぐ」
「すぐ戻る」
凛は病室を出た。
廊下の空気は、さっきまでと違っていた。
夜勤明けの疲れた空気ではない。
誰も大きな声を出していないのに、何かが壊れた後のような緊張がある。
看護師たちが凛に気づき、口を閉じる。
その反応だけで、凛は悟りかけた。
けれど、聞かなければならなかった。
「先生は?」
看護師の一人が、言葉を選ぶように視線を伏せた。
「今、確認しています」
「どこへ行ったんですか」
「病院の裏手の方へ向かった可能性があると……」
凛の指先が冷たくなる。
雷ではない。
ただの恐怖だった。
「私も行きます」
「渋谷さん、今は――」
「行きます」
声が硬くなった。
自分でも分かった。
冷たくなりかけている。
感情を落とし、必要なことだけを選ぼうとしている。
その時、病室の中から小さな泣き声が聞こえた。
片方。
続けて、もう片方。
二つの細い声が、凛の背中を掴んだ。
凛の身体が止まる。
看護師が静かに言った。
「星野さんのそばにいてあげてください」
凛は唇を噛んだ。
行きたい。
確認したい。
雨宮先生が戻らない理由を知りたい。
昨夜、感じた嫌な予感の正体を知りたい。
けれど病室にはアイがいる。
生まれたばかりの二人がいる。
凛が近くにいることで、反応が安定すると言われている。
今ここを離れることが、本当に正しいのか。
凛は目を閉じた。
胸の奥で、あの夜に交わした約束が痛んだ。
一人で決めない。
一人で抱えない。
一人で壊れない。
凛は病室へ戻った。
アイは、凛の顔を見ただけで分かったようだった。
「まだ、分からない?」
凛は首を横に振った。
「戻ってない」
アイは目を伏せた。
腕の中で、小さな子どもがまた少し泣いた。
アイはそっと揺らす。
「私たちのせいかな」
凛はすぐに言った。
「違う」
でも、その声には迷いが混じっていた。
アイはそれを聞き逃さなかった。
「凛ちゃんも、そう思ってる」
凛は答えられなかった。
アイは二人を見つめる。
「先生、ずっと診てくれてたのに」
「うん」
「会わせてくれるって、言ってた」
「うん」
「ありがとうって、言えてない」
凛は拳を握った。
「私も」
しばらく、二人は何も言えなかった。
病室の中には、命の温度がある。
でも、廊下の向こうには、冷たい不穏が広がっている。
喜びと恐怖が、同じ朝の中にあった。
報告が入ったのは、少し後だった。
別の医師と看護師が病室へ来た。
その顔を見て、アイはすべてを悟ったように息を止めた。
医師は深く頭を下げる。
「雨宮先生が、病院の裏手で見つかりました」
凛は動かなかった。
アイも動けなかった。
医師は言葉を詰まらせる。
「すでに……」
その先は、言葉にしなくても伝わった。
アイの目から、音もなく涙が落ちた。
泣こうと思ったわけではなかった。
声も出なかった。
ただ、涙だけが落ちた。
凛は顔色を変えなかった。
変えられなかった。
ただ、手だけが震えている。
「誰が」
凛の声は低かった。
医師は首を横に振る。
「警察が調べています。詳しいことは、まだ」
凛の胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。
怒り。
後悔。
恐怖。
全部が混ざって、形にならない。
アイが、小さく言った。
「私たちが来なければ」
凛はアイの手を握った。
「違う」
「でも」
「違う」
今度は、迷いを消して言った。
「それを決めるのは、私たちじゃない」
アイは凛を見る。
凛は続けた。
「でも、忘れない」
その言葉に、アイは泣きながら頷いた。
忘れない。
それが今、二人にできる唯一のことだった。
病室には、誰もすぐに入ってこなかった。
医師も看護師も、最低限の確認だけをして、静かに下がった。
騒ぎ立てる者はいない。
それがかえって、事実の重さを濃くしていた。
アイは双子を見ていた。
喜びたい。
生まれてきてくれてありがとうと言いたい。
けれど、その言葉を口に出した瞬間、雨宮先生の名前を置き去りにしてしまう気がした。
腕の中の温度が愛しい。
それなのに、その温度を抱いている自分を責める声が胸の奥にある。
生まれた。
先生は戻らなかった。
その二つが、どうして同じ夜に起きたのか。
誰にも答えられなかった。
凛も双子を見ていた。
小さい。
温かい。
守りたい。
そう思うたびに、廊下の向こうが頭をよぎる。
雨の音。
戻らなかった足音。
白衣の背中。
どうして、両方は守れなかったのか。
その問いだけが、喉の奥に刺さっていた。
「凛ちゃん」
アイが呼ぶ。
凛は顔を上げる。
「今、一人でどこかに行ってる顔してる」
凛は黙った。
アイは涙を拭う。
「私も、行きそうになる」
「うん」
「でも、ここにいよう」
凛はアイを見る。
アイは双子を抱いている。
泣いている。
それでも、凛をここに引き戻そうとしている。
凛はゆっくり頷いた。
「うん」
「今は、この子たちのそばにいよう」
「うん」
「あとで、ちゃんと知ろう」
凛の指が震えた。
「うん」
その時だった。
凛の指に触れていた男の子が、小さく動いた。
まだ生まれたばかりのはずの目が、ほんの一瞬だけ開く。
凛は息を止めた。
赤ん坊の目。
それだけのはずだった。
けれど、その視線が、あまりにも強かった。
何かを見ているようだった。
何かを思い出そうとしているようだった。
「今……」
凛が呟く。
アイが涙を拭いながら聞く。
「どうしたの?」
「分からない。でも、この子……」
凛は言葉を探した。
見られた。
そんな気がした。
赤ん坊に見られた、という言い方が正しいのかは分からない。
でも、確かにそんな感覚があった。
白い天井。
小さな身体。
遠くで聞こえる声。
星野アイ。
その名前だけが、まだ言葉にならない場所で揺れている。
ありえない。
そんな感情の影が、ほんの一瞬だけ触れた気がした。
凛は小さく震えた。
「凛ちゃん?」
アイが呼ぶ。
凛はゆっくり首を横に振った。
「まだ分からない」
「うん」
「でも、何かある」
アイは男の子を見た。
小さな顔。
柔らかい髪。
まだ何も知らないはずの命。
けれど、今の凛の反応を見て、ただの気のせいとは思えなかった。
もう一人の女の子は、アイの声に反応するように小さく手を動かした。
アイがそっと囁く。
「大丈夫だよ」
すると、女の子の指先がわずかに動く。
まるで、その声を知っているみたいに。
アイは目を見開いた。
「この子、私の声を知ってるみたい」
凛はそっと答える。
「生まれる前から聞いてた」
「それだけかな」
アイは女の子を見つめる。
胸の奥に、少しだけ不思議な感覚が生まれた。
懐かしい。
会ったことがないのに。
抱いたこともないのに。
この子は、ずっと遠くからアイを見ていたような気がした。
暗い場所。
白い部屋。
小さな画面。
手を伸ばしても届かなかった光。
その光が、今はすぐ近くにある。
そんな感覚が、アイの胸にふわりと落ちた。
「不思議」
アイが呟く。
凛は頷く。
「うん」
誕生したばかりの二人。
でも、ただ新しく生まれただけではない。
そんな気配が、確かにあった。
名前の話になったのは、昼を過ぎてからだった。
いや、話になったというより、アイがようやく口にした。
「名前……考えなきゃ、なのに」
そこで言葉が止まった。
今、その話をしていいのか分からなかった。
この子たちは生まれた。
けれど、その夜、先生は戻らなかった。
喜びたいのに、喜ぶことが誰かへの裏切りのように思えてしまう。
凛は何も急かさなかった。
ただ、二人のそばにいた。
アイは双子を見つめる。
「名前がないままだと、この夜に飲まれちゃいそう」
凛がアイを見る。
「この夜?」
「うん」
アイは涙で赤くなった目を伏せる。
「先生がいなくなった夜、ってだけにしたくない」
凛は唇を結んだ。
それは、残酷なほど正直な言葉だった。
この夜は、喪失の夜だ。
でも、それだけではない。
二人が生まれた夜でもある。
どちらかだけにすることはできない。
「呼びたい」
アイが小さく言った。
「この子たちを、ちゃんと」
凛は頷いた。
「うん」
アイは男の子を見る。
静かに揺れる瞳。
水の底に光が沈んでいるみたいな、不思議な目。
「アクア」
凛がゆっくり繰り返す。
「アクア」
アイは次に、女の子を見る。
小さな指。
声に反応するように動く手。
赤い宝石みたいに、内側に強い光を持っている気がした。
「ルビー」
凛は二人を見る。
「アクア。ルビー」
呼ばれたからなのか、男の子の指がわずかに動いた。
女の子も、アイの声に合わせるように小さく身じろぎする。
アイの目が潤む。
「返事した?」
凛は真剣に見つめた。
「たぶん」
「そこは笑ってよ」
「今は、無理」
アイは小さく頷いた。
「うん。私も」
二人は、笑えなかった。
でも、名前はそこに残った。
アクア。
ルビー。
この夜に飲み込まれないための、小さな灯りのように。
壱護が病院へ駆けつけたのは、その後だった。
顔色は悪い。
寝ていないのが一目で分かる。
病室に入るなり、彼はアイを見て、双子を見て、凛を見た。
何かを言いかけた。
けれど、言葉にはしなかった。
「……生きてるな」
それだけ確認するように言った。
アイは頷いた。
「はい」
壱護は次に、廊下の方を見た。
「雨宮先生の件は、こっちでも確認する」
その声には、いつもの荒さがなかった。
怒ることすら、今は後回しにしている声だった。
凛が小さく頭を下げる。
「お願いします」
「お前が頭を下げる話じゃない」
壱護はそう言ったが、強い口調ではなかった。
「ただ、これで終わりじゃない。誰かが動いたなら、理由がある」
凛は頷いた。
「分かっています」
壱護は双子を見る。
「名前は」
アイは小さく答えた。
「アクアと、ルビー」
壱護はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「そうか」
それだけだった。
けれど、その短い言葉の中に、受け止めるための時間が詰まっていた。
渋谷家の父と母も到着した。
母は病室に入った瞬間、言葉を失った。
それから、静かに涙をこぼした。
「二人とも……」
アイは何も言えず、ただ頷いた。
母は双子に近づきすぎず、少し離れた場所で手を合わせるように見つめた。
祝福したい。
抱きしめたい。
でも、同じ朝に人が亡くなったことを知っている。
その間で、どう振る舞えばいいのか分からない。
母の涙は、喜びだけのものではなかった。
父はしばらく黙っていた。
そして、凛の肩に手を置いた。
「よく、ここにいたな」
凛の目が揺れた。
責められると思っていた。
探しに行かなかったことを。
動けなかったことを。
けれど父は、それだけを言った。
よく、ここにいたな。
凛は唇を噛む。
「私は」
「今はいい」
父は短く言った。
「後悔は後で聞く。今は、その子たちを見ろ」
凛は頷いた。
「はい」
346プロ側からは、プロデューサーと志希が来た。
志希は病室の入口で足を止めた。
いつものように、面白そうに近づくことはしなかった。
双子を見て、アイを見て、最後に凛を見た。
「……触らないよ」
凛は何も答えなかった。
志希は白衣の袖を握ったまま、視線を落とした。
「今日は、その資格ないから」
その声は小さかった。
アイは志希を見る。
志希は、双子の反応に興味を持っているはずだった。
研究者として、知りたいはずだった。
けれど、近づかなかった。
プロデューサーは魂核の反応を確認し、静かに言った。
「安定しています」
アイは息を吐く。
凛も少しだけ肩の力を抜いた。
「ただ」
プロデューサーは続ける。
「この二人には、通常の生命反応とは違う要素があります。今後も継続的な確認が必要です」
凛は頷く。
「分かっています」
アイも頷いた。
「一人で決めません」
その言葉を聞いて、プロデューサーは小さく頷いた。
昼下がり。
病院の外には警察の姿があった。
雨宮吾郎のことが、正式に伝えられた。
病院の外で見つかったこと。
警察が捜査していること。
詳しいことは、まだ何も分からないこと。
アイは、泣いた。
長く関わったわけではない。
けれど、最後まで自分たちを診てくれた人だった。
普通ではない状況に戸惑いながらも、医師として向き合ってくれた人だった。
推しを前にして動揺して、それでも仕事をしようとしていた人だった。
「先生、会わせてくれるって言ってたのに」
アイは小さく言った。
凛は隣で頷く。
「うん」
「ありがとうって、言えてない」
「私も」
アイは涙を拭う。
その時、男の子――アクアが、小さく手を動かした。
まるで、その名前に反応したように。
雨宮先生。
その言葉を、知っているみたいに。
凛は息を止めた。
アイも気づく。
「今……」
「うん」
二人はアクアを見つめた。
もちろん、赤ん坊が何かを理解しているはずがない。
そう思うべきだった。
けれど、そう思い切れない何かがあった。
小さな手は、もう一度だけ動いた。
凛は静かに、アクアの手に指を添えた。
「先生」
アイが囁く。
「ありがとうございました」
アクアは目を閉じている。
けれど、その小さな指先が、ほんの少しだけ震えた。
夜。
病室はようやく静かになった。
アイは眠っている。
疲れ切っていた。
それでも、両腕の近くにはアクアとルビーがいる。
凛はその横で、二つの名前が書かれたメモを見ていた。
星野アクア。
星野ルビー。
まだ正式な書類ではない。
でも、そこには確かに名前があった。
凛は二人を見つめる。
アクアは、凛の雷に淡く応える。
ルビーは、アイの声に強く揺れる。
そして、どちらにも、凛とアイだけでは説明できない奥行きがあった。
まるで、遠いところから何かを抱えて来たような。
まるで、誰かの願いの続きを持っているような。
アイが薄く目を開けた。
「凛ちゃん」
「起きた?」
「少し」
アイは双子を見る。
「二人とも、寝てる?」
「うん」
「名前、書いてくれた?」
凛はメモを見せる。
アイは微笑もうとして、うまく笑えなかった。
「かわいい」
凛は少しだけ首を傾げる。
「字が?」
「名前が」
「うん」
凛はもう一度、双子を見た。
「この子たち、何か知ってる気がする」
アイは少し驚いてから、小さく頷いた。
「赤ちゃんなのにね」
「うん。でも」
「怖い?」
凛は正直に答えた。
「少し」
アイも頷く。
「私も」
二人は黙って双子を見つめた。
怖い。
不思議。
愛しい。
その全部が、同じ小さな寝息の中にある。
アイは静かに言った。
「でも、会えてよかった」
凛は頷いた。
「うん」
「先生にも、見てほしかったね」
凛は言葉を失った。
病室の外、白い廊下はもう静かだった。
けれど、その静けさの奥に、戻らなかった声がまだ残っている気がした。
その夜、二つの命が生まれた。
アクア。
ルビー。
まだ紙にも書かれていない名前を、アイは何度も胸の中で呼んだ。
けれど、その声の奥には、戻らなかった人の名前が沈んでいた。
雨宮吾郎。
最後まで自分たちを診てくれた人。
会わせてくれると言った人。
その人は、夜明けまで戻らなかった。
凛は双子を見つめたまま、拳を握った。
守るものが増えた。
けれど同じ夜に、守れなかったものも生まれてしまった。
小さな寝息が二つ、病室に響いている。
その音は確かに希望だった。
それでも凛は、まだ笑えなかった。