星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜 作:百合太郎
最初の夜は、眠るどころではなかった。
病室の明かりは落とされている。
窓の外は暗く、病院の廊下も昼間の慌ただしさが嘘のように静かだった。
けれど、その静けさの中で、小さな声が何度も響いた。
ふにゃ、と。
か細く。
けれど、確かに自分を呼ぶように。
アイは目を開ける。
身体は重い。
起き上がるだけで、まだ少し息が詰まる。
それでも、声が聞こえた瞬間に手が伸びた。
「アクア……?」
隣の小さな寝息が揺れている。
もう一人も、つられるように小さく動いた。
「ルビーも……?」
アイが困ったように笑う前に、凛が立ち上がった。
椅子に座ったまま、ほとんど眠っていなかったらしい。
「私が見る」
「凛ちゃんも寝てない」
「寝なくても動ける」
「それ、駄目な人の言い方」
「今だけ」
「今だけが続くやつ」
アイの声は弱かったが、少しだけ笑いが混じった。
凛は真顔のまま、二人を覗き込む。
「どっち?」
「たぶん、両方」
「両方」
凛は短く繰り返した。
その響きに、ほんの少しだけ途方に暮れた色が混じる。
守る対象が二人。
泣く声も二つ。
小さな手も二つ。
それを前にすると、凛の冷静さは少しずつ削れていく。
アクアを抱こうとして、凛の手が止まった。
小さすぎる。
触れたら壊れてしまいそうで、どう動かせばいいのか分からない。
アイがベッドの上から見て、小さく言った。
「凛ちゃん、顔が戦場」
「戦場より難しい」
「赤ちゃんだよ」
「だから難しい」
凛は慎重に、慎重すぎるほど慎重にアクアを抱き上げた。
アクアは一瞬だけ泣き声を強くした。
けれど、凛の腕の中に収まると、ぴたりと声を止めた。
凛は固まる。
「止まった」
アイも目を丸くする。
「本当だ」
「……見てる」
「赤ちゃんだよ?」
「うん。でも、見てる」
アクアの目は、まだ焦点が定まっているとは言えない。
それなのに凛には、こちらを見ているように感じられた。
ただ顔を向けているのではない。
何かを確かめているような視線。
凛の指先に、微かな痺れが走る。
怖い雷ではない。
けれど、反応がある。
アクアの小さな手が、凛の服を掴むように動いた。
白い天井。
知らない腕。
知らない身体。
けれど、聞こえる声がある。
星野アイ。
ありえない。
そう思う感情の欠片が、まだ言葉にならない場所で揺れていた。
凛は息を止めた。
「今……」
「どうしたの?」
「分からない」
凛はアクアを見下ろす。
アクアはもう目を閉じかけている。
ただの赤ん坊に戻ったみたいに。
けれど、凛の胸には小さな違和感が残った。
一方で、ルビーはアイの声に反応していた。
アイがそっと名前を呼ぶ。
「ルビー」
その声に合わせるように、小さな手が動く。
「ルビー、大丈夫だよ」
泣き声が少し弱まる。
アイはそっと指を差し出した。
ルビーの手が、頼りなく触れる。
その瞬間、アイの胸の奥がふわりと温かくなった。
「この子、私の声が好きなのかな」
凛はアクアを抱いたまま頷く。
「たぶん」
「たぶん?」
「かなり」
アイは少しだけ笑った。
ルビーはアイの声が聞こえるたびに、小さく反応する。
まるで、ずっと前からその声を探していたみたいに。
暗い部屋。
白い壁。
小さな画面。
その中で笑う人。
何度も聞いた声。
届かなかった光。
その光が、今はすぐ近くにある。
アイはルビーの頬を見つめながら、胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。
「不思議だね」
「うん」
凛はアクアを見た。
「二人とも」
「うん」
二人はしばらく、何も言わずにそれぞれの腕の中の小さな命を見ていた。
その沈黙の奥には、雨宮吾郎の名前が残っていた。
泣き声が止んでも。
病室が静かになっても。
あの人が戻らなかった夜のことは、少しも遠くならなかった。
朝になると、警察が来た。
病院の人間が慌ただしく動く。
廊下には普段とは違う緊張が流れていた。
アイはベッドの上で話を聞いた。
凛はその隣に立っていた。
壱護も、病院へ残っていた。
「詳しいことはまだ分かっていません」
警察の説明は慎重だった。
病院の裏手で見つかったこと。
不審な人物の目撃情報があること。
雨が降っていて、足跡も不鮮明なこと。
外部の人間が関わった可能性もあること。
アイは手元を見つめたまま聞いていた。
凛は一言も挟まない。
ただ、指先だけが硬く握られている。
壱護が低い声で聞いた。
「ただの事故じゃないんだな」
警察はすぐには答えなかった。
「現時点では、事件として調べています」
その言葉で、病室の空気がさらに重くなった。
事件。
誰かが。
意図を持って。
雨宮先生を。
アイは唇を噛む。
「誰かが、私たちを知ってた……?」
壱護はすぐに否定しなかった。
「その可能性はある」
凛の脳裏に、ひとつの顔が浮かんだ。
綺麗に笑う少年。
温度のない声。
劇団ララライの廊下。
神木ヒカル。
けれど、凛はその名前を口にしなかった。
証拠がない。
疑うことと、決めつけることは違う。
「まだ、決めつけない」
凛が言うと、アイは静かに頷いた。
「でも、忘れない」
「うん」
忘れない。
それは、あの夜から何度も繰り返している言葉だった。
けれど、繰り返すたびに重くなる。
午後には、病院の個室で今後の話し合いが行われた。
壱護。
渋谷家の父と母。
346プロのプロデューサー。
凛。
アイ。
そして、病院側の最低限の関係者。
アクアとルビーは別室で看護師が見ている。
そのわずかな時間でさえ、凛は落ち着かなかった。
プロデューサーが資料を開く。
「まず、情報管理についてです」
壱護が腕を組んだ。
「隠すぞ」
その言葉は乱暴だったが、迷いはなかった。
「綺麗事じゃない。守るために隠す」
アイは頷く。
「はい」
凛も頷いた。
「分かっています」
プロデューサーが続ける。
「情報が漏れれば、星野さんだけでなく、双子も狙われる可能性があります。特に、魂核由来の反応については、外部へ知られること自体が危険です」
母が静かに言った。
「生活は、うちでも支えます」
父も頷く。
「凛一人に背負わせない」
凛はその言葉に、わずかに目を伏せた。
背負うつもりだった。
背負わなければならないと思っていた。
でも、父の声はそれを許さなかった。
壱護は資料を指で押さえた。
「双子は星野姓で通す。だが、外には出さない」
アイが顔を上げる。
「私の子だってことも?」
「当然だ」
壱護はすぐに答えた。
「お前が子どもを持ったなんて情報が漏れたら、芸能界どころの話じゃ済まない。本人たちも守れなくなる」
アイは唇を結んだ。
「はい」
壱護は凛を見る。
「凛の名前も出さない」
凛の指がわずかに動く。
壱護はそこを見逃さなかった。
「関わっていないことにする、という意味じゃない。守るために、外へ出す情報から外す」
凛は少しだけ目を伏せた。
「……分かっています」
「分かってても、傷つくだろ」
壱護の声が少し低くなる。
「だからここで言っておく。お前をなかったことにするためじゃない。双子とアイと、お前を守るためだ」
凛は黙った。
アイが、そっと凛の手に触れる。
「凛ちゃんは、いないことにならないよ」
凛はその手を握り返した。
「うん」
小さな声だった。
でも、その一言を言うまでに、少し時間がかかった。
プロデューサーは資料をめくる。
「346プロ側は、魂核と異能反応の継続検査を担当します。一ノ瀬さんは監視下で解析協力を行います」
凛の目が少しだけ鋭くなる。
「志希は?」
「単独での接触は禁止します」
「分かりました」
壱護が続ける。
「雨宮先生の件は、うちでも確認する。346プロとも情報を合わせる」
プロデューサーが頷く。
「こちらでも可能な範囲で調べます」
凛は拳を握った。
「お願いします」
壱護は凛を見る。
「お前は今、動くな」
凛の肩がわずかに揺れる。
「でも」
「でもじゃない」
壱護の声が低くなる。
「お前が動けば、アイも双子も不安定になる。今のお前の役目は、探偵ごっこじゃない」
凛は唇を結ぶ。
悔しさが顔に出た。
でも、否定できなかった。
アイがそっと凛の手に触れる。
「今は、ここにいて」
凛は目を閉じた。
「……うん」
退院の日まで、凛の過保護はさらに加速した。
哺乳瓶。
おむつ。
着替え。
検査予定。
車までの導線。
病院出口の人目。
双子の寝る位置。
アイの休憩時間。
凛はすべて確認した。
何度も。
何度も。
アイはベッドの上でそれを見ていた。
「凛ちゃん、目が怖い」
「安全確認」
「軍隊?」
「それより厳しい」
「赤ちゃん相手に?」
「赤ちゃんだから」
凛は即答した。
アイは少しだけ笑った。
でも、その笑いはすぐに静かになる。
凛がここまで過敏になる理由を、アイは分かっていた。
雨宮先生の件がある。
あの夜、凛はアイのそばに残った。
残るしかなかった。
それでも、その選択の影は凛の中に残っている。
だから、今度は何も見落としたくないのだ。
退院の日。
病院の廊下は、静かだった。
アイはアクアを抱いた。
凛はルビーを抱いた。
壱護が前を歩き、周囲を確認している。
渋谷家の父と母も近くにいる。
346プロ側のスタッフも、離れた位置から目を配っていた。
病室を出て、白い廊下を歩く。
その廊下を、雨宮先生も何度も歩いていた。
資料を持って。
少し疲れた顔で。
推しを前にして目を泳がせながら。
それでも、医師として真面目に。
アイは途中で足を止めた。
凛も止まる。
誰も急かさなかった。
アイは廊下の先を見つめ、静かに言った。
「先生、ありがとうございました」
凛も、ルビーを抱いたまま頭を下げた。
「ありがとうございました」
アクアが小さく動いた。
アイの腕の中で、ほんの少しだけ手を伸ばす。
ルビーも、つられるように小さく泣いた。
廊下に二つの声が響く。
誰も何も言わなかった。
その声が、届いたかどうかは分からない。
でも、言わずにはいられなかった。
病院の外に出ると、雨はもう降っていなかった。
空は薄く晴れている。
けれど、凛にはまだ雨の音が聞こえる気がした。
車へ向かう途中、凛は一瞬だけ病院の裏手を見た。
足が止まりかける。
見に行きたい。
何があったのか。
どこで先生が倒れたのか。
誰がそこにいたのか。
確かめたい。
アイの声が、静かに凛を呼んだ。
「凛ちゃん」
凛は振り返る。
アイはアクアを抱いたまま、凛を見ていた。
「今は、行かないで」
凛はルビーを抱き直した。
小さな温度が腕の中にある。
「行かない」
「うん」
「今は」
アイはその言葉を聞いて、少しだけ頷いた。
「うん。今は」
車の中は、静かだった。
アイはアクアを抱き、凛はルビーを抱いている。
アクアは途中で目を開けた。
ぼんやりとした視線が、凛へ向く。
また、見られている。
凛はそう感じた。
「アクア」
アイが名前を呼ぶ。
アクアは一瞬だけアイの声に反応した。
それから、どこか考えるように目を閉じる。
赤ん坊が考えるはずはない。
そう思うたびに、凛の胸には違和感が残る。
ルビーはアイの声で落ち着いた。
「ルビー。帰ろうね」
アイが囁くと、ルビーの小さな手が動いた。
凛はそれを見つめる。
「やっぱり、普通じゃない」
アイは凛を見る。
「怖い?」
凛は少し考えた。
「怖い」
「うん」
「でも、知らないふりはしない」
アイは小さく頷いた。
「私も」
渋谷家に着くと、母が部屋を整えて待っていた。
小さな布団。
着替え。
必要なものが、できる限り分かりやすく並べられている。
父は無言で荷物を運んだ。
壱護は玄関先で周囲を確認し、必要な指示を出している。
アイはアクアとルビーをそっと寝かせた。
凛はその周囲を確認し始める。
窓。
カーテン。
照明。
布団の位置。
荷物の置き場所。
アイが少しだけ笑う。
「凛ちゃん、また始まった」
母が優しく言った。
「凛ちゃん、座って」
「まだ確認が」
父が短く言う。
「座れ」
凛は即座に座った。
「はい」
アイが少しだけ笑った。
久しぶりに、ほんの少しだけ柔らかい笑いだった。
けれど、その笑いが終わる前に、アクアが泣いた。
続けて、ルビーも泣いた。
アイと凛が同時に固まる。
アイが言う。
「どっち?」
凛が答える。
「両方」
「どうする?」
凛は数秒、真剣に考えた。
それから、アクアを見て、ルビーを見て、用意してあったおむつと哺乳瓶の方へ視線を走らせる。
「……まず、確認する」
「何を?」
「おむつ。次にミルク。それでも駄目なら抱っこ」
「すごい、手順化してる」
「手順がないと崩れる」
「凛ちゃんが?」
「私が」
凛は真顔で言い切った。
アイは一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。
けれど、泣き声は止まらない。
「じゃあ、私はアクア」
「私はルビー」
「まず、おむつ」
「うん」
「そのあとミルク」
「うん」
「それでも駄目なら?」
「抱っこ」
二人は顔を見合わせた。
悲しみも消えない。
雨宮先生のことも、胸の奥に沈んだままだ。
それでも、アクアとルビーは泣く。
泣いたら、抱かなければならない。
おむつを替えなければならない。
ミルクを用意しなければならない。
悲しみがあっても、生活は待ってくれない。
命は、待ってくれない。
その夜、アイは予定表を開いた。
手はまだ少し震えていた。
それでも、書いた。
アクアとルビーが退院した。
先生に、ありがとうを言った。
でも、届いたか分からない。
凛ちゃんはずっと周りを見ていた。
私も怖い。
でも、二人は泣く。
泣くと、抱っこしなきゃいけない。
おむつも替える。
ミルクも作る。
そのたびに、今が続いていることを思い出す。
アイは鉛筆を止めた。
隣では、凛がルビーを抱いている。
アクアは小さく眠っている。
その寝顔を見ていると、胸が痛くなる。
先生は戻らなかった。
でも、この子たちはここにいる。
その両方を抱えたまま、明日が来る。
夜更け。
部屋が静かになった頃、アクアが目を開けた。
ぼんやりとした視界。
天井。
隣にいる小さな温度。
近くで眠るアイの気配。
少し離れた場所にいる凛の気配。
そして、どこか遠くで雨の音。
もう降っていないはずなのに。
雨の音だけが、消えずに残っている。
俺は――
そこまでで、意識はほどけた。
身体が小さすぎる。
思考は長く続かない。
けれど、何かが残っている。
白い廊下。
星野アイ。
小さな命。
そして、最後に見た雨。
アクアの小さな手が動いた。
凛はそれに気づいた。
眠っていなかった。
いや、眠れなかった。
凛はそっとアクアのそばへ寄り、指を添える。
「眠れない?」
もちろん、返事はない。
アクアは凛の指を見ている。
凛はしばらく、その小さな瞳を見つめていた。
そして、ほとんど声にならないほど小さく聞いた。
「先生のこと、知ってるの?」
アクアは答えない。
答えるはずがない。
ただ、その目が一瞬だけ揺れた気がした。
凛は息を止めた。
赤ん坊が答えるはずはなかった。
それでも凛は、その小さな瞳の奥に、雨の夜の続きを見た気がした。
守るものは増えた。
けれど、守れなかったものも、まだ終わっていない。
凛はアクアの小さな手を包みながら、静かに目を伏せた。
夜は明けた。
それでも、雨の音はまだ消えていなかった。