星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第5話 渋谷家の食卓

 

 

「見るだけ」

 

それは、いつの間にか約束みたいになっていた。

 

放課後。

施設へ帰る道から、少しだけ外れた場所にある花屋。

 

アイは毎日来るわけではなかった。

 

毎日来たら、来たいと思っていることがばれてしまう気がした。

だから、一日空けたり、わざと別の道を通ったりした。

 

でも、気づくと足はそちらへ向いていた。

 

店先に並ぶ花。

淡い青のブルースター。

水をやる凛。

何も聞かない場所。

 

アイは、それを見に行く。

 

凛は、アイを見つけるといつも同じように聞いた。

 

「見るだけ?」

 

アイも、いつも同じように返した。

 

「見るだけ」

 

それで終わりだった。

 

どうして来たのか。

今日は施設で何かあったのか。

ご飯はまだ怖いのか。

 

凛は聞かない。

 

アイは、それが少しだけ不満だった。

 

聞かれたくない。

でも、聞かれないと、自分から何か言わなくてはいけない気がする。

 

だから結局、何も言わない。

 

何も言わずに、花を見る。

 

凛ちゃんは、たぶん知っている。

 

私がどこへ帰っているのか。

あの日、後ろにいたことも。

私が気づいていないふりをしたことも。

 

全部ではないかもしれない。

 

でも、たぶん知っている。

 

それなのに何も聞かない。

 

だから、余計に来てしまう。

 

「アイ」

 

凛の声で、アイは顔を上げた。

 

その日、凛は店先で小さな札を並べ替えていた。

 

白い札に、花の名前が書いてある。

 

ブルースター。

ガーベラ。

アスター。

カスミソウ。

 

凛は札を何枚か手に持って、鉢の前に差し直していた。

 

「持つ?」

 

「え?」

 

アイは思わず聞き返した。

 

「この札。軽いし」

 

凛が差し出してきたのは、花の名前が書かれた札だった。

 

花そのものではない。

折れそうな茎でも、壊れそうな花びらでもない。

 

ただの札。

 

けれど、アイは少しだけ迷った。

 

見るだけのはずだった。

 

見るだけなら、責任はない。

見て、少し話して、帰るだけ。

 

でも、手伝うとなると、ほんの少しだけ中に入る感じがした。

 

「……これくらいなら」

 

アイは札を受け取った。

 

凛は頷く。

 

「うん」

 

凛が鉢の前にしゃがみ、アイの持っている札を一枚ずつ受け取る。

 

「ガーベラ」

 

「はい」

 

「アスター」

 

「はい」

 

「ブルースター」

 

「それは覚えた」

 

アイが言うと、凛が少しだけ顔を上げた。

 

「えらい」

 

「子ども扱い?」

 

「小学生でしょ」

 

「凛ちゃんもね」

 

「うん」

 

あっさり頷かれて、アイは少しだけむっとした。

 

「そういうところ、ずるい」

 

「ずるい?」

 

「なんか、言い返しづらい」

 

「そう?」

 

「そう」

 

アイはそう言いながら、次の札を渡した。

 

スターチス。

 

名前の響きが少しだけ星に似ている気がして、アイは札を見つめる。

 

「花って、星みたいな名前多いね」

 

「アイが星に反応してるだけかも」

 

「そうかな」

 

「うん」

 

凛は淡々と答える。

 

アイは少し笑った。

 

その時だった。

 

ぽつ、と頬に何かが当たった。

 

アイが空を見上げる。

 

薄い雲が、いつの間にか広がっていた。

 

次の瞬間、ぱらぱらと雨粒が落ちてくる。

 

「あ」

 

「降ってきた」

 

凛は立ち上がり、札をまとめる。

 

最初は小雨だった。

 

けれど、すぐに雨脚が強くなった。

 

店先の軒に、雨の音が続けて響く。

 

凛の母が店の奥から顔を出した。

 

「凛、鉢を少し奥に寄せて」

 

「うん」

 

凛が手早く鉢を動かす。

 

アイも何かしようとしたが、どれを触ればいいのか分からず、札を持ったまま立ち尽くした。

 

凛の母がアイを見る。

 

「アイちゃん、濡れるから中に入りなさい」

 

アイは反射的に笑った。

 

「大丈夫です。すぐ帰るので」

 

言い慣れた言葉だった。

 

大丈夫。

 

そう言えば、大体の人はそれ以上聞かない。

 

けれど、凛がこちらを見た。

 

「大丈夫って言う時ほど、大丈夫じゃないでしょ」

 

アイは言葉に詰まった。

 

それは、反則だと思った。

 

凛の母が小さく笑う。

 

「じゃあ、雨宿りだけ。見るだけの延長ね」

 

見るだけの延長。

 

その言葉に、アイは少しだけ逃げ道を見つけた気がした。

 

家に上がるわけじゃない。

特別なことじゃない。

 

ただ、雨宿り。

 

見るだけの延長。

 

アイは迷ってから、小さく頷いた。

 

「……少しだけ」

 

「うん」

 

凛が言った。

 

アイは店の奥へ足を踏み入れた。

 

花屋の店内は、外よりもずっと濃い花の匂いがした。

 

土の匂い。

水の匂い。

葉の青い匂い。

 

それに混じって、家の中から別の匂いがした。

 

味噌汁のような、温かい匂い。

 

アイは玄関の前で足を止める。

 

靴が並んでいた。

 

凛の靴。

凛の母の靴。

たぶん、凛の父のものらしい靴。

 

それだけなのに、胸の奥が少しだけざわついた。

 

「お邪魔します」

 

声が硬くなった。

 

自分でも分かった。

 

凛の母は、何も言わずに笑った。

 

「はい、どうぞ」

 

凛は普通に靴を脱ぐ。

 

アイはその横で、靴をきちんと揃えた。

 

つま先を揃えて、端に寄せる。

 

揃えすぎるくらいに。

 

凛がそれを見る。

 

「そんなに綺麗にしなくてもいいよ」

 

「こういうのはちゃんとした方がいいでしょ」

 

「ちゃんとしすぎると疲れない?」

 

「……またそれ?」

 

「うん」

 

アイは少しだけ睨むように凛を見る。

 

凛は何も悪びれた様子がない。

 

本当にそう思ったから言っただけ、という顔だった。

 

だから、余計に返しづらい。

 

「手、洗う?」

 

凛が聞く。

 

「うん」

 

凛に案内されて、アイは洗面所へ向かった。

 

廊下の途中、リビングが少し見えた。

 

テレビの音。

冷蔵庫に貼られたメモ。

壁にかけられたカレンダー。

棚の上の写真立て。

 

小さい頃の凛らしき写真があった。

 

今より少し幼い凛が、花の前で無表情に立っている。

 

その隣で、父と母らしい二人が笑っていた。

 

アイはすぐに視線を逸らした。

 

見てはいけないものを見た気がした。

 

凛の家は、特別豪華ではない。

 

広すぎるわけでもない。

きらきらしているわけでもない。

 

たぶん、普通の家。

 

でも、その普通が眩しかった。

 

「凛ちゃんの家、ちゃんとしてるね」

 

アイは手を洗いながら言った。

 

凛はタオルを差し出す。

 

「普通だよ」

 

「また普通」

 

「アイ、普通って言葉に反応するよね」

 

アイの手が止まった。

 

水滴が指先から落ちる。

 

「……そう?」

 

「うん」

 

凛はそれ以上、何も言わなかった。

 

聞かない。

 

いつものように。

 

アイはタオルで手を拭きながら、少しだけ唇を結んだ。

 

その時、玄関の方で扉の開く音がした。

 

「ただいま」

 

男の人の声。

 

凛の母がキッチンの方から返す。

 

「おかえり」

 

凛も廊下から短く言った。

 

「おかえり」

 

アイは、その場で固まった。

 

ただいま。

おかえり。

 

自然に行き来する声。

 

誰かが帰ってきて、誰かが迎える。

それだけのことなのに、アイには少し不思議だった。

 

凛の父が廊下に顔を出す。

 

「あれ、お客さん?」

 

凛が言う。

 

「アイ。クラスの子」

 

アイはすぐに背筋を伸ばした。

 

「こんにちは、星野アイです。急にお邪魔してすみません」

 

きちんと頭を下げる。

 

凛の父は少しだけ目を丸くした。

 

でもすぐ、柔らかく笑った。

 

「そんなにかしこまらなくていいよ。雨、すごいね」

 

それだけだった。

 

怒られない。

詳しく聞かれない。

施設のことも、家のことも、何も聞かれない。

 

ただ、雨の話。

 

アイは少し拍子抜けした。

 

「……はい。急に降ってきたので」

 

「最近の天気は読めないなぁ」

 

凛の父はそう言って、濡れた肩を軽く払った。

 

凛の母がキッチンから声をかける。

 

「アイちゃん、雨が弱くなるまでゆっくりしていって」

 

「はい。ありがとうございます」

 

そう言いながら、アイは落ち着かなかった。

 

家の中にいる。

 

凛の家の中に。

 

それが、思ったよりずっと大きいことに感じられた。

 

雨は、なかなか弱くならなかった。

 

窓の向こうで、雨粒が線のように落ちている。

 

店先の花たちは奥へ寄せられていて、外は少し暗い。

 

凛の母が時計を見てから言った。

 

「アイちゃん、よかったら夕飯食べていく?」

 

アイは即座に笑った。

 

「いえ、大丈夫です」

 

言ってから、凛の視線に気づく。

 

また、大丈夫。

 

アイは少しだけ言い直した。

 

「……戻らないといけないので」

 

凛の母は無理に笑わなかった。

 

「そっか。連絡できるなら、聞いてみる?」

 

「え?」

 

「雨も強いし、あとで送るから。遅くならなければ大丈夫か、確認してみようか」

 

アイは戸惑った。

 

自分が夕飯を食べるために、大人がどこかへ連絡してくれる。

 

そんなことをしてもらっていいのか分からなかった。

 

「でも、迷惑じゃ」

 

「迷惑なら誘わないよ」

 

凛の母は優しく言った。

 

凛が横から言う。

 

「ご飯、多めにあるって」

 

「凛」

 

「昨日言ってた」

 

凛の母が苦笑する。

 

「そうね。多めにはあるわね」

 

アイは返事に困った。

 

帰らないといけない。

でも、雨は強い。

断る理由はある。

受ける理由もある。

 

それ以上に。

 

少しだけ、気になっていた。

 

凛の家の夕飯。

 

凛の母は施設へ連絡を入れてくれた。

 

短い会話だった。

 

雨が強いこと。

遅くならないこと。

食事を取ったあと、必ず送ること。

 

電話を切った母が、アイを見る。

 

「遅くならなければ大丈夫だって」

 

アイは胸の奥が変に跳ねるのを感じた。

 

「……ありがとうございます」

 

「じゃあ、手伝わなくていいから座ってて」

 

「いえ、手伝います」

 

反射的に言った。

 

凛の母は少し笑う。

 

「今日はお客さんでいいの」

 

お客さん。

 

その言葉にも、少しだけ落ち着かなさがあった。

 

食卓につくと、箸が並んでいた。

 

凛の席。

父の席。

母の席。

 

そして、アイの分。

 

味噌汁の湯気。

卵焼き。

煮物。

焼き魚。

小さな皿に盛られた漬物。

 

そして、白いご飯。

 

アイの手が、一瞬だけ止まった。

 

凛はそれを見ていた。

 

でも何も言わない。

 

凛の母も、気づいたのかもしれない。

 

けれど、直接は聞かなかった。

 

「食べられる分だけでいいからね」

 

その一言だけだった。

 

アイは笑う。

 

「はい。いただきます」

 

声は明るくできた。

 

箸を持ち、まず味噌汁を飲む。

 

温かい。

 

思ったより、ずっと温かかった。

 

「美味しいです」

 

アイは言った。

 

凛の母は笑う。

 

「ありがとう」

 

そこで終わると思った。

 

けれど、凛の母は続けた。

 

「でも、そんなに頑張って褒めなくていいよ」

 

アイは固まった。

 

「え?」

 

「美味しかったら美味しいでいいし、苦手なら苦手でいいの」

 

アイは返せなかった。

 

そんなことを言われると思っていなかった。

 

褒めるのは、いいことだ。

相手が作ってくれたなら、美味しいと言うのが正しい。

そうすれば、相手は喜ぶ。

空気がよくなる。

自分も嫌われない。

 

なのに、頑張らなくていいと言われた。

 

苦手なら苦手でいいと言われた。

 

どうしていいか分からない。

 

凛は横で普通に味噌汁を飲んでいる。

 

父は焼き魚の骨を取りながら、のんびり言った。

 

「うちは味が薄い時もあるからね」

 

「ちょっと」

 

凛の母が父を見る。

 

父は笑う。

 

「いや、美味しいけど」

 

「言い方」

 

凛が淡々と言う。

 

「お父さん、たまに余計」

 

「凛まで」

 

その会話が、アイには不思議だった。

 

誰も完璧ではない。

言い間違えて、突っ込まれて、笑っている。

 

それで空気が壊れない。

 

むしろ、少し温かくなる。

 

アイは箸を握り直した。

 

白いご飯を見る。

 

やっぱり、少し怖い。

 

何が怖いのか、うまく説明できない。

 

白くて、柔らかくて。

中に何か混ざっていても、すぐには分からない。

 

昔の記憶が、ぼんやり胸の奥を撫でる。

 

アイは笑顔を作ろうとした。

 

その時、凛の母が何気なく言った。

 

「そういえば、海苔もあるわよ。おにぎりに使おうと思ってた小さいの」

 

凛が立ち上がり、棚から小さな海苔の袋を取ってきた。

 

そして、何も言わずにアイの近くへ置く。

 

凛はアイを見ていなかった。

 

ただ、自分のご飯を食べている。

 

見ていないふり。

 

アイは海苔の袋を見る。

 

それから、白いご飯を見る。

 

少し迷って、海苔を一枚取った。

 

小さくご飯を包む。

 

海苔の黒で、白が隠れる。

 

それを口に運んだ。

 

さっきより、少しだけ楽だった。

 

完全に平気ではない。

 

でも、食べられる。

 

アイは小さく呟いた。

 

「……これなら、少し平気」

 

凛が短く返す。

 

「そっか」

 

それだけだった。

 

それ以上、何も聞かれなかった。

 

どうして怖いのか。

いつからなのか。

何があったのか。

 

何も。

 

だから、アイはもう一口食べた。

 

食卓では、いろいろな話が続いた。

 

明日の天気。

花の仕入れ。

店番のこと。

凛の学校のこと。

 

「凛、最近ちゃんと友達と遊んでる?」

 

母が聞く。

 

凛は少しだけ顔を上げる。

 

「遊んでる」

 

「本当に?」

 

「図書室行った」

 

「それは遊びなの?」

 

「たぶん」

 

父が笑った。

 

「凛らしいな」

 

アイはその会話を聞きながら、どこに入ればいいのか分からなかった。

 

黙っていると、困らせる気がする。

 

でも、無理に話すと浮いてしまう気もする。

 

そんなアイに、父が自然に聞いた。

 

「アイちゃんは、花は好き?」

 

いつもの答えならすぐ出せた。

 

はい、きれいなので。

見ていると楽しいです。

凛ちゃんが教えてくれるので。

 

いくらでも作れた。

 

でも、アイは少しだけ止まった。

 

そして、言い直す。

 

「……ブルースターは、少し気になります」

 

凛が顔を上げた。

 

母が微笑む。

 

「そっか。じゃあ、あの子はアイちゃんのお気に入りね」

 

「お気に入り……」

 

アイは小さく繰り返した。

 

お気に入り。

 

好きなもの。

気になるもの。

また見たいもの。

 

そういうものを持つのは、少し怖い。

 

なくなった時に困るから。

 

でも、ブルースターの淡い青色が頭に浮かぶと、嫌な気持ちにはならなかった。

 

夕飯が終わる頃、雨は少し弱くなっていた。

 

アイは食器を片付けようとして、凛の母に止められた。

 

「今日はいいの」

 

「でも」

 

「次に来た時、お願いしようかな」

 

次。

 

その言葉に、アイは少しだけ動けなくなる。

 

凛の母は、当たり前みたいに言った。

 

次があるみたいに。

 

「そろそろ送るね」

 

「いえ、大丈夫です」

 

言ってすぐ、凛がこちらを見た。

 

「大丈夫禁止」

 

アイは目を丸くする。

 

「なにそれ」

 

「今日は多すぎ」

 

「数えてたの?」

 

「覚えてるだけ」

 

「またそれ」

 

アイは少し笑った。

 

凛の母が玄関で上着を取る。

 

「心配だから送らせて。大人の都合ってことで」

 

大人の都合。

 

それなら、断らなくていい気がした。

 

自分が甘えたわけではない。

相手の都合なら、受け取ってもいい。

 

アイは小さく頷いた。

 

「……お願いします」

 

玄関で靴を履く。

 

来た時と同じように、アイは靴をきちんと揃えた。

 

凛の母が言う。

 

「また雨宿りにおいで」

 

アイは少しだけ笑う。

 

「雨の日限定なんですか?」

 

「晴れの日は、花を見るだけでもいいわよ」

 

アイは返事に困った。

 

そこへ凛が横から言った。

 

「また来れば」

 

「簡単に言うね」

 

「難しく言った方がいい?」

 

「そういうことじゃない」

 

でも、笑ってしまった。

 

笑顔を作ろうとしたのではなく、少しだけ勝手に笑った。

 

玄関を出る前、アイは振り返った。

 

リビングからまだ味噌汁の匂いがする。

食器の触れ合う音がする。

凛の父が奥で何かを片付けている音がする。

 

普通の家の音。

 

眩しい音。

 

アイは少しだけ頭を下げた。

 

「ごちそうさまでした」

 

それは、いい子のための言葉だったかもしれない。

 

でも、少しだけ本当でもあった。

 

施設へ戻る道を、凛の母と歩く。

 

凛も途中までついてきた。

 

雨は弱くなっていた。

道路には水たまりが残り、街灯の光を映している。

 

アイは黙って歩いた。

 

白いご飯はまだ怖かった。

ただいまも、おかえりも、自分に向けられた言葉ではなかった。

家族の会話は少し眩しすぎた。

 

でも、嫌ではなかった。

 

むしろ、胸の奥に残っている。

 

味噌汁の匂い。

海苔で包んだご飯。

ブルースター。

凛の「そっか」。

凛の母の「見るだけでもいい」。

 

施設の門が近づいてくる。

 

アイは足を止めそうになった。

 

でも止まらない。

 

門の前で、凛の母が言う。

 

「今日は来てくれてありがとう」

 

ありがとう、と言われるとは思っていなかった。

 

自分が食べさせてもらったのに。

雨宿りさせてもらったのに。

迷惑をかけたのに。

 

アイは小さく首を振る。

 

「こちらこそ、ありがとうございました」

 

凛は何も言わずに立っていた。

 

アイは凛を見る。

 

「また明日」

 

いつもの言葉。

 

でも、今日は少しだけ違った。

 

凛は頷いた。

 

「また明日」

 

アイは門の中へ入る。

 

施設の匂いがした。

 

夕飯の匂い。

洗剤の匂い。

人の声。

 

いつもの場所。

 

なのに、その夜はなぜか、渋谷家の味噌汁の匂いがなかなか消えなかった。

 

それが少しだけ怖くて。

 

少しだけ、嬉しかった。

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