星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第6話 うちの子になればいいのに

 

 

渋谷家の味噌汁の匂いが、なかなか消えなかった。

 

施設の布団の中で、アイは天井を見ていた。

 

廊下から漏れる薄い光。

誰かの寝返りの音。

遠くで職員が歩く足音。

小さな子の寝言。

 

ここは、いつもの場所だった。

 

何度も眠った場所。

何度も朝を迎えた場所。

何度も笑顔を作って、何度も「大丈夫」と言った場所。

 

それなのに。

 

目を閉じると、違う匂いがした。

 

温かい味噌汁。

海苔で包んだ白いご飯。

焼き魚。

雨に濡れた玄関。

花屋の奥に続く廊下。

 

そして、凛の声。

 

――そっか。

 

ただそれだけ。

 

ご飯が少し食べられたとき、凛はそれ以上何も聞かなかった。

 

どうして怖いのか。

何があったのか。

いつからなのか。

 

何も聞かずに、ただ「そっか」と言った。

 

それが、ずっと残っている。

 

「……別に」

 

アイは布団の中で、小さく呟いた。

 

別に、また行きたいわけじゃない。

 

雨宿りしただけ。

夕飯を食べただけ。

花を見ただけ。

 

それだけ。

 

本当に、それだけ。

 

けれど、胸の奥はその言葉を信じてくれなかった。

 

また行きたい。

 

そう思ってしまった瞬間、怖くなった。

 

欲しいものを作るのは、怖い。

 

お気に入りを作るのは、怖い。

 

また見たい場所。

また聞きたい声。

また食べたい味。

 

そういうものは、なくなった時に痛い。

 

最初から欲しがらなければ、なくなっても痛くない。

 

期待しなければ、裏切られない。

 

アイはそれを知っていた。

 

知っているはずだった。

 

「見るだけ……」

 

布団の中で、アイはもう一度呟く。

 

花を見るだけ。

 

そう決めれば、大丈夫。

 

それ以上は、何も欲しがらなければいい。

 

そう思ったのに。

 

眠る前、最後に浮かんだのは、凛の家の食卓だった。

 

翌朝。

 

アイはいつも通り笑って登校した。

 

教室に入ると、すぐに声が飛んでくる。

 

「アイちゃん、おはよう!」

 

「おはよー!」

 

「昨日、雨すごかったね」

 

アイはぱっと笑った。

 

「おはよう! ほんと、びっくりしたよね」

 

明るく。

自然に。

いつものように。

 

それは簡単だった。

 

凛は、もう席に座っていた。

 

机の上に教科書を出して、鉛筆を並べている。

 

アイは少しだけ迷ってから、凛の席へ近づいた。

 

「凛ちゃん」

 

凛が顔を上げる。

 

「おはよう」

 

「おはよう」

 

アイは少しだけ息を吸った。

 

昨日のことをどう言えばいいのか、考えていた。

 

ご飯、美味しかった。

海苔、ありがとう。

お母さんによろしく。

お父さんにも。

 

言葉はたくさんある。

 

でも、どれも少しだけ照れくさい。

 

だからアイは、いつもより少し丁寧に言った。

 

「昨日、ごちそうさまでした」

 

凛は瞬きをした。

 

「うん」

 

それだけだった。

 

アイは思わず眉を寄せる。

 

「……それだけ?」

 

「お母さんに言った方がいいと思う」

 

「言ったよ!」

 

「ならいいんじゃない」

 

凛は普通にそう言って、教科書を机の中に入れた。

 

アイは少しむっとした。

 

せっかく、ちゃんと言ったのに。

 

もう少し何かあってもいいのではないか。

 

「凛ちゃんってさ」

 

「うん」

 

「たまに、すごく反応薄いよね」

 

「そう?」

 

「そう」

 

「ごちそうさまって言われたの、私が作ったわけじゃないし」

 

「そういう問題?」

 

「たぶん」

 

アイは口を尖らせた。

 

でも、少しだけ笑ってしまった。

 

その時、近くにいたクラスメイトが声を上げた。

 

「え、アイちゃん昨日凛ちゃんち行ったの?」

 

アイの笑顔が、一瞬だけ固まりかける。

 

けれどすぐに戻した。

 

「うん。雨宿りさせてもらっただけだよ」

 

「いいなー。凛ちゃんち花屋さんだもんね」

 

「私も行きたい!」

 

「アイちゃん、凛ちゃんと仲良しだね」

 

仲良し。

 

その言葉に、アイは少しだけ返事を迷った。

 

自分と凛は、仲良しなのだろうか。

 

そう言っていいのか。

 

友達というには、凛は変だ。

 

普通の友達なら、もっと簡単だ。

楽しい話をして、一緒に笑って、好きなものを聞いて、休み時間に遊ぶ。

 

凛は違う。

 

笑顔の奥を見てくる。

大丈夫を信じない。

でも、暴かない。

 

怖くて。

少し楽で。

よく分からない。

 

アイが答えに迷っていると、凛が横から言った。

 

「花見るだけならいいんじゃない」

 

アイは凛を見た。

 

凛は特に何も考えていない顔だった。

 

仲良しという言葉に、乗るわけでもない。

否定するわけでもない。

 

ただ、花を見ることについて答えた。

 

それが妙に凛らしくて、アイは少しだけ肩の力が抜けた。

 

「凛ちゃん、それ答えになってない」

 

「そう?」

 

「そうだよ」

 

クラスメイトたちは笑った。

 

「じゃあ今度行きたい!」

 

「お花見たい!」

 

凛は少し考えた。

 

「お店の邪魔にならないなら」

 

「凛ちゃん、まじめー」

 

アイはそのやり取りを聞きながら、少しだけ胸の奥を押さえたくなった。

 

関係に名前をつけられないことが、こんなに楽だとは思わなかった。

 

でも、少しだけもどかしかった。

 

放課後。

 

アイはまた花屋へ向かった。

 

今日は、昨日ほど迷わなかった。

 

それでも心の中では、きちんと言い訳を用意した。

 

ブルースターが元気か見に行くだけ。

昨日、雨で少し濡れていたから。

花がどうなったか気になっただけ。

 

凛に会いに行くわけではない。

 

そういうことにした。

 

店先では、凛が花の札を並べていた。

 

凛はアイに気づくと、いつものように言う。

 

「見るだけ?」

 

アイは少しだけ胸を張った。

 

「今日は、ブルースターが元気か見に来ただけ」

 

「うん」

 

「ほんとにそれだけだから」

 

「うん」

 

「疑ってない?」

 

「疑ってほしいの?」

 

「……そういうところ」

 

アイはため息をつくふりをした。

 

でも、口元は少し緩んでいた。

 

ブルースターは、昨日と同じように咲いていた。

 

雨のせいで弱っている様子もない。

淡い青色の花びらが、午後の光の中で小さく揺れている。

 

「元気そう」

 

アイが言う。

 

凛は頷いた。

 

「うん」

 

「よかったね」

 

「うん」

 

「……会話、続ける気ある?」

 

「ある」

 

「ほんと?」

 

「たぶん」

 

「たぶんなんだ」

 

凛は少しだけ考えたあと、小さな鉢を指さした。

 

「これ、少し動かすから、札持ってて」

 

「また?」

 

「うん」

 

アイは札を受け取る。

 

前よりも、受け取るまでの迷いは少なかった。

 

札を持つ。

落ちた葉を拾う。

小さな鉢を凛と一緒に少しだけ動かす。

 

それだけのことだった。

 

でも、見ているだけだった場所に、少しだけ自分の手が入っていく感じがした。

 

怖くないわけではない。

 

けれど、嫌ではなかった。

 

「アイちゃん、助かるわ」

 

凛の母が店の奥から顔を出した。

 

アイは反射的に笑う。

 

「全然大丈夫――」

 

言いかけて、止まった。

 

凛がこちらを見ている。

 

じっと。

 

アイは少しだけ口を曲げた。

 

それから、言い直す。

 

「……これくらいなら」

 

凛の母は、何も言わずに微笑んだ。

 

「それで十分」

 

十分。

 

その言葉が、アイの中に小さく落ちた。

 

大丈夫と言わなくても、十分。

 

完璧に手伝わなくても、十分。

 

それだけでいいと言われた気がした。

 

少しして、凛の母が言った。

 

「アイちゃん、お茶でも飲んでいく?」

 

アイは反射的に答えようとした。

 

「いえ、大丈夫――」

 

そこでまた止まる。

 

凛が見ている。

 

さっきより少しだけ、面白がっているようにも見えた。

 

アイは悔しくなった。

 

「……少しだけなら」

 

凛が言う。

 

「大丈夫禁止、効いてる」

 

「うるさい」

 

凛の母が小さく笑った。

 

「じゃあ、少しだけね」

 

アイはまた、渋谷家の玄関に立った。

 

前より少しだけ緊張は少ない。

 

けれど、靴はやっぱりきれいに揃えた。

 

つま先を合わせる。

端に寄せる。

 

凛は何も言わなかった。

 

言わないことに気づいて、アイは少しだけ安心した。

 

リビングに通される。

 

今日は夕飯ではなく、お茶と小さなお菓子だった。

 

凛の母は洗濯物を畳みながら、二人に麦茶を出してくれた。

 

「宿題、あるならここでやってもいいわよ」

 

凛は当たり前みたいにランドセルを開けた。

 

「やる」

 

アイは少し迷う。

 

何もしないで座っているのは落ち着かない。

 

だから、同じようにランドセルを開けた。

 

「私も、少しだけ」

 

机にノートを広げる。

 

鉛筆を持つ。

 

リビングで宿題をする。

 

たったそれだけのことが、アイには妙に不思議だった。

 

家の中には、いろいろな音があった。

 

洗濯物を畳む音。

お茶のグラスに氷が当たる音。

台所で何かを片付ける音。

外から聞こえる店の扉の音。

 

凛は静かに問題を解いている。

 

アイもノートに文字を書いた。

 

でも、時々視線が部屋の中をさまよう。

 

冷蔵庫のメモ。

壁のカレンダー。

棚の写真。

畳まれていくタオル。

 

何か手伝った方がいい気がした。

 

ただ座っていると、自分の居場所が分からなくなる。

 

アイは小さく手を上げた。

 

「あの、手伝います」

 

凛の母が顔を上げる。

 

「いいのよ、座ってて」

 

「でも」

 

アイが言いかけると、凛の母は少しだけ考えた。

 

そして、洗濯物の中から小さなタオルを何枚か取る。

 

「じゃあ、このタオルだけお願いしようかな」

 

アイは少しだけほっとした。

 

「はい」

 

タオルを畳む。

 

角を合わせて、きれいに折る。

 

それは簡単な作業だった。

 

でも、役割があると落ち着いた。

 

ただ座っていていいと言われるより、ずっと楽だった。

 

凛の母は、きっとそれを分かっている。

 

アイはなんとなくそう思った。

 

「上手ね」

 

「これくらいなら」

 

「うん、それで十分」

 

また、十分。

 

アイは少しだけ視線を落とした。

 

夕方になって、玄関の扉が開いた。

 

「ただいま」

 

凛の父の声だった。

 

凛の母が返す。

 

「おかえり」

 

凛もノートから顔を上げて言った。

 

「おかえり」

 

アイの手が、タオルの上で止まる。

 

二度目でも、慣れなかった。

 

ただいま。

おかえり。

 

自然で、当たり前で、何でもない言葉。

 

でもアイには、その何でもなさが眩しい。

 

凛の父がリビングに顔を出した。

 

「あ、アイちゃん。また来てくれたんだ」

 

また。

 

その言葉が、アイの胸に触れた。

 

一回きりではない。

 

偶然でもない。

 

また来たことを、責められていない。

 

アイは少しだけ背筋を伸ばした。

 

「お邪魔してます」

 

凛の父は笑った。

 

「邪魔じゃないよ。凛、最近ちょっと楽しそうだし」

 

凛がすぐに返す。

 

「別に」

 

凛の母が洗濯物を畳みながら言った。

 

「そう? 私はそう思うけど」

 

「普通」

 

「凛の普通は分かりづらいのよ」

 

父が笑う。

 

「昔からだな」

 

「そんなことない」

 

凛は少しだけ眉を寄せる。

 

アイはその会話を聞いて、思わず笑った。

 

作ろうとした笑顔ではなかった。

 

すっと、こぼれた。

 

凛の普通。

 

渋谷家の普通。

 

まだ眩しい。

 

けれど、前より少しだけ、目を逸らさずにいられる。

 

その夜、施設へ戻ると、職員がアイに声をかけた。

 

「アイちゃん、最近少し楽しそうね」

 

アイは反射的に笑った。

 

「そうですか?」

 

「学校、慣れてきた?」

 

「はい。クラスの子が優しいので」

 

嘘ではない。

 

クラスの子は優しい。

先生も優しい。

凛も、たぶん優しい。

 

でも、全部ではない。

 

職員は忙しそうに頷いた。

 

「それならよかった」

 

それ以上は聞かれなかった。

 

アイは部屋へ戻る。

 

ランドセルからノートを出した。

 

宿題はもう終わっている。

 

なのに、何かを書きたくなった。

 

鉛筆を持ち、ノートの端に小さく文字を書く。

 

ブルースター。

 

少し迷って、その横に小さな花の形を描いた。

 

五枚の花びら。

星みたいな形。

 

うまくは描けなかった。

 

でも、なんとなく分かるくらいにはなった。

 

その時、廊下から足音がした。

 

アイは慌ててノートを閉じた。

 

見られたら困る。

 

別に悪いことではない。

でも、見られたくなかった。

 

お気に入りを持つことは、まだ怖い。

 

その頃。

 

渋谷家では、凛がリビングで宿題の続きをしていた。

 

母は食器を片付けている。

 

父は店の奥で明日の準備をしている。

 

凛は鉛筆を止めた。

 

「お母さん」

 

「なに?」

 

「アイ、帰る時だけ顔が変わる」

 

母の手が止まる。

 

「そう」

 

「ここにいる時は、少し普通」

 

「凛の言う普通?」

 

「うん」

 

母は少しだけ微笑んだ。

 

「そう見えるのね」

 

「うん」

 

凛はノートの端を見つめる。

 

そこには、途中まで解いた算数の式があった。

 

でも今は、数字より別のことが気になっていた。

 

「帰りたくなさそうに見える」

 

母はすぐには答えなかった。

 

凛は続ける。

 

「じゃあ、帰らなくていいようにはできないの?」

 

母の表情が、少しだけ変わった。

 

優しい顔のまま、でも少しだけ大人の顔になる。

 

「それは、凛が思うほど簡単なことじゃないよ」

 

「なんで?」

 

「アイちゃんには、アイちゃんの事情があるから」

 

「事情って?」

 

「家族のこととか、施設のこととか。大人がきちんと考えないといけないことがたくさんあるの」

 

凛は眉を寄せた。

 

「帰りたくないなら、帰らなくていい方がいいと思う」

 

「そう思う気持ちは、悪くないよ」

 

母は静かに言った。

 

「でも、凛がそう思ったからすぐにそうできる、というものではないの」

 

「……そう」

 

凛は納得していない声で返した。

 

母はそれ以上、無理に説明しなかった。

 

凛はまだ小学生だ。

 

法律も、親権も、手続きも分からない。

 

でも、アイが帰る時に笑顔を硬くすることは分かる。

 

施設の門の前で笑顔を作っていたことも覚えている。

 

渋谷家で少しだけ普通に笑った顔も、覚えている。

 

だから、難しいと言われても、胸の中の引っかかりは消えなかった。

 

数日後。

 

アイはまた花屋へ来た。

 

今度は店先に立つ時、少しだけ自然だった。

 

凛の母を見つけて、アイは挨拶をする。

 

「こんにちは」

 

以前のように、背筋を伸ばしすぎた声ではなかった。

 

少しだけ普通の声。

 

凛の母も自然に返す。

 

「いらっしゃい」

 

アイは店先で、凛と一緒に花の札を並べた。

 

ブルースター。

ガーベラ。

アスター。

 

アイは札を持って、鉢の前に差していく。

 

「それ違う」

 

凛が言った。

 

アイは手元を見る。

 

アスターの鉢の前に、ブルースターの札を置こうとしていた。

 

「分かってるし。ちょっと間違えただけ」

 

「ブルースターは覚えたんじゃないの?」

 

「今のは手が勝手に」

 

「手のせい」

 

「そう」

 

「手、謝った方がいい」

 

「凛ちゃん、変なこと言うね」

 

「六回目?」

 

「今のは変なことって言っただけで、変なのとは言ってない」

 

「細かい」

 

「凛ちゃんに言われたくない」

 

二人は少しだけ笑った。

 

店の奥で、凛の母がそれを見ていた。

 

アイの笑顔は、前より少しだけ子どもらしかった。

 

作り込まれたものではなく、ふと出てきたような笑顔。

 

まだ危うい。

まだすぐ消える。

 

でも、たしかにそこにあった。

 

夕方。

 

空が淡い色に変わり始める。

 

店先の空気が、少し冷える。

 

アイは時計を見た。

 

帰る時間だった。

 

施設へ戻らなければならない。

 

その瞬間、胸の奥が少し重くなる。

 

でも、いつものように笑う。

 

「じゃあ、そろそろ帰るね」

 

凛はアイを見た。

 

花を見ていた時より、笑顔が硬い。

 

さっきまで少し自然に笑っていたのに、帰ると言った途端、いつもの顔に戻っている。

 

凛は思わず言った。

 

「帰りたくない?」

 

アイの時間が止まった。

 

店先の音が遠くなる。

 

通りを歩く人の声。

自転車のベル。

店の奥で母が動く音。

 

全部が少し遠い。

 

アイは笑おうとした。

 

「そんなことないよ」

 

すぐに出せるはずの言葉。

 

いつもの声。

 

けれど、凛は言った。

 

「嘘」

 

短い言葉だった。

 

アイは息を止める。

 

「……凛ちゃん」

 

声が少し低くなった。

 

怒ればいい。

 

ひどい、と言えばいい。

なんでそんなこと言うの、と笑えばいい。

帰りたくないわけないじゃん、と軽く流せばいい。

 

いくらでもやり方はある。

 

でも、どれも出てこなかった。

 

凛は責めている顔ではなかった。

 

ただ、本当にそう見えたから言っただけ。

 

それが分かるから、余計に困る。

 

凛は少しだけ視線を落とした。

 

「帰りたくないなら、帰らなくていい方法があればいいのに」

 

アイは何も言えなかった。

 

それは、あまりにも子どもっぽい言葉だった。

 

大人なら言わない。

 

施設のこと。

家族のこと。

書類のこと。

決まりのこと。

 

そういうものを知っている大人なら、簡単に口にしない。

 

でも凛は小学生だった。

 

だから、言えた。

 

まっすぐに。

残酷なくらい、簡単に。

 

そして凛は、さらに言った。

 

「アイ、うちの子になればいいのに」

 

アイの時間が、完全に止まった。

 

風が吹いて、ブルースターの花が小さく揺れる。

 

淡い青色の星が、アイの視界の端でぼやける。

 

うちの子。

 

凛の家の子。

 

渋谷家の子。

 

凛の母に「いらっしゃい」と言われる場所。

凛の父に「また来てくれたんだ」と言われる場所。

「ただいま」と「おかえり」が自然に行き来する場所。

味噌汁の匂いがする場所。

白いご飯を海苔で包んでも、理由を聞かれない場所。

 

そこに、自分がいる。

 

一瞬だけ。

 

本当に一瞬だけ、その絵が浮かんでしまった。

 

アイは笑おうとした。

 

「なにそれ」

 

いつもの声を出そうとした。

 

「漫画みたい」

 

軽く。

冗談みたいに。

そんなことあるわけないじゃん、と。

 

それで終わらせるつもりだった。

 

凛は首を傾げる。

 

「だめなの?」

 

アイは答えられなかった。

 

だめに決まっている。

 

そんな簡単な話じゃない。

自分には自分の事情がある。

施設にいる理由がある。

母親のことだってある。

渋谷家は優しいけれど、それは自分の家ではない。

 

言うべき言葉は、いくつもあった。

 

なのに。

 

胸の奥のどこかが、そうだったらいいのにと思ってしまった。

 

笑えばいい。

 

いつもみたいに、冗談にすればいい。

 

なのに、アイはうまく笑えなかった。

 

その言葉が、あまりにも欲しかったものの形をしていたから。

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