星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第7話 ほしかった言葉

 

 

「アイ、うちの子になればいいのに」

 

風が、店先の花を揺らしていた。

 

淡い青色のブルースターが、小さく震える。

夕方の光が花びらの端に引っかかって、星みたいに瞬いた。

 

アイは、動けなかった。

 

凛の声は、冗談みたいに軽くなかった。

 

だけど、大人みたいに重くもなかった。

 

ただ、そう思ったから言った。

そんな声だった。

 

だから、困った。

 

冗談なら笑えた。

軽い同情なら、かわすことができた。

かわいそうだと思われたなら、怒ることもできた。

 

でも凛の言葉は、そのどれでもなかった。

 

「……なにそれ」

 

アイは、ようやく声を出した。

 

喉の奥が少し詰まっている。

 

それを隠すように、無理やり笑おうとした。

 

「漫画みたい」

 

凛は首を傾げた。

 

「だめなの?」

 

その言い方が、また困る。

 

だめに決まっている。

 

そんなの、簡単に言っていいことじゃない。

アイにはアイの事情がある。

施設のことがある。

母のことがある。

渋谷家だって、優しいからといって、何でも受け入れられるわけじゃない。

 

分かっている。

 

分かっているはずなのに。

 

胸の奥のどこかが、そうだったらいいのに、と思ってしまった。

 

それが、怖かった。

 

「だめに決まってるじゃん」

 

思ったより強い声が出た。

 

凛が少しだけ目を見開く。

 

アイは、止まれなかった。

 

「そんなの、簡単に言うことじゃないよ」

 

「簡単だとは思ってない」

 

「思ってるよ」

 

アイは笑顔を作ろうとした。

 

でも、うまくいかない。

 

笑顔の形が、顔の上でずれている気がした。

 

「凛ちゃんは、分かってない」

 

凛は黙った。

 

その沈黙が、また苦しい。

 

言い返してくれればよかった。

怒ってくれればよかった。

「そんなことない」と言ってくれれば、アイもまた笑って、冗談にできたかもしれない。

 

でも凛は、ただアイを見ていた。

 

責める目ではない。

 

不思議そうで。

少しだけ痛そうで。

 

それが、嫌だった。

 

「ごめん、帰るね」

 

アイはランドセルの肩紐を握り直した。

 

「アイ」

 

凛が呼ぶ。

 

振り返ったら、また何かが崩れる気がした。

 

だから、振り返らなかった。

 

「また明日」

 

いつもの言葉。

 

でも、いつもの声にはならなかった。

 

少し急いでいて。

少し震えていて。

少し、逃げている声だった。

 

アイは花屋の前を離れた。

 

歩き出す。

 

走りはしない。

 

走ったら、本当に逃げているみたいになる。

 

だから歩く。

 

背中に凛の視線を感じた。

 

追いかけてはこなかった。

 

それがほっとするのに、少しだけ寂しかった。

 

アイの姿が角の向こうに消えてからも、凛はしばらく動けなかった。

 

店先には、さっきまでの声が残っている気がした。

 

うちの子になればいいのに。

 

そんなに難しいことを言ったつもりはなかった。

 

帰りたくなさそうだった。

渋谷家にいる時、少しだけ普通に笑っていた。

花を見ている時、施設に帰る時より楽そうだった。

 

だから、そう思った。

 

なら、帰らなくていい方法があればいい。

 

凛にとっては、それだけだった。

 

でも、アイは傷ついた顔をした。

 

「凛」

 

店の奥から母の声がした。

 

凛は振り返る。

 

母は店先に立っていた。

 

さっきのやり取りを、全部ではなくても、見ていたのだろう。

 

凛はぽつりと言った。

 

「怒らせた」

 

母は静かに頷いた。

 

「そうね」

 

「悪いこと言った?」

 

母はすぐには答えなかった。

 

凛は母を見る。

 

いつもなら、良いことは良い、悪いことは悪いと言う。

けれど母は、少しだけ言葉を探しているようだった。

 

「悪いことを言ったわけじゃないと思う」

 

母はゆっくり言った。

 

「でもね、凛。家族になるって言葉は、言われた方の心に残るの」

 

「残る?」

 

「うん。嬉しくても、怖くても、簡単には消えない」

 

凛は黙った。

 

家族。

 

その言葉は、凛にとって当たり前のものだった。

 

朝起きたら母がいる。

夜になったら父が帰ってくる。

ただいま、と言えば、おかえりが返ってくる。

 

それが普通だった。

 

でも、アイにとっては違う。

 

それは、分かっていたはずだった。

 

分かっていたのに、まだ分かっていなかった。

 

「でも」

 

凛は言った。

 

「アイが帰りたくなさそうだった」

 

「うん」

 

「ここにいる時、少し笑ってた」

 

「うん」

 

「だから、帰らなくていいならいいと思った」

 

母は凛の言葉を最後まで聞いた。

 

それから、少しだけ目を伏せる。

 

「凛は、本気でそう思ったのね」

 

「うん」

 

「そう」

 

母は店先のブルースターを見た。

 

夕方の風に揺れている花。

 

その前で、さっきまでアイが立っていた。

 

「凛がそう思っても、お母さんたちがそう思っても、それだけでは決められないことがあるの」

 

「なんで?」

 

「アイちゃんの気持ちも、施設の人の考えも、アイちゃんのお母さんのことも、ちゃんと考えなきゃいけないから」

 

「アイが、ここにいたいって思っても?」

 

「それだけで全部が決まるわけじゃない」

 

凛は眉を寄せた。

 

難しい。

 

でも、母の言葉は覚えようと思った。

 

「じゃあ、聞けばいい?」

 

母は首を横に振った。

 

「今すぐ聞いたら、きっと逃げるよ」

 

凛は黙った。

 

それは、少し分かる。

 

さっき、アイは逃げた。

 

花屋から。

凛の言葉から。

たぶん、自分の気持ちからも。

 

「でもね」

 

母は続ける。

 

「アイちゃんがどう思っているかは、とても大事」

 

「大事なのに、聞かないの?」

 

「聞く時を間違えると、答えられなくなることもあるの」

 

凛はまた黙った。

 

傷に触れる時は、優しくしても痛いことがある。

 

前にそう言われた。

 

今、少し分かった気がした。

 

自分の言葉は、たぶんアイの傷に触った。

 

優しいつもりでも。

本気だったとしても。

 

痛かったのかもしれない。

 

「じゃあ、どうすればいい?」

 

凛が聞くと、母は少しだけ微笑んだ。

 

「まずは、ここが怖くない場所だって、少しずつ知ってもらうことかな」

 

「怖くない場所」

 

「うん。急がないこと」

 

凛は小さく頷いた。

 

急がない。

 

それは、凛にとって少し苦手なことだった。

 

けれど、アイが逃げるなら、追いかけない方がいい。

 

それも、少しだけ分かっていた。

 

アイは施設の門の前で、一度立ち止まった。

 

夕方の空は、もう薄暗い。

 

門の向こうから子どもたちの声が聞こえる。

職員の声。

食器の音。

いつもの匂い。

 

アイは顔を上げる。

 

笑顔を作ろうとした。

 

けれど、うまく形にならなかった。

 

「アイちゃん?」

 

職員が声をかける。

 

「どうしたの?」

 

アイは慌てて笑った。

 

「なんでもないです」

 

声が少し硬い。

 

自分でも分かった。

 

職員は少し首を傾げたが、すぐ別の子に呼ばれてそちらへ行った。

 

アイは靴を脱ぎ、いつものように揃えた。

 

夕飯の時間。

 

食卓には白いご飯があった。

 

アイは箸を持つ。

 

今日は、いつもより食べづらかった。

 

白いご飯を見ると、渋谷家の食卓を思い出す。

 

海苔で包んだご飯。

味噌汁の匂い。

凛の母の「食べられる分だけでいい」。

凛の「そっか」。

 

そして。

 

うちの子になればいいのに。

 

アイは箸を置きそうになった。

 

でも、すぐに持ち直す。

 

大丈夫。

 

平気。

 

いつも通り。

 

いつも通りにすればいい。

 

ご飯を口に運ぶ。

 

ちゃんと飲み込む。

 

笑顔を作る。

 

何も問題ない。

 

問題ないはずなのに、胸の奥がずっとざわざわしていた。

 

夜。

 

布団の中で、アイは丸くなっていた。

 

目を閉じても、凛の声が消えない。

 

うちの子になればいいのに。

 

子どもの思いつきだ。

 

そう思おうとした。

 

凛ちゃんは、現実を知らない。

だから言えた。

本当はそんな簡単な話じゃない。

 

大人はきっと困る。

渋谷家だって困る。

施設だって困る。

母親だって、きっと関係してくる。

 

だから、あんな言葉を本気にしてはいけない。

 

本気にしたら、あとで痛い。

 

欲しいと思ってはいけない。

 

ほしいものは、なくなった時に痛い。

優しい言葉は、信じたあとで嘘になるかもしれない。

居場所だと思った場所から追い出されたら、最初からなかった時より苦しい。

 

だから、だめ。

 

アイは布団を頭までかぶった。

 

暗くなる。

 

それでも、浮かんでしまう。

 

渋谷家の玄関。

ただいま。

おかえり。

凛の母の笑顔。

凛の父の「また来てくれたんだ」。

店先のブルースター。

 

その中に、自分がいる絵。

 

「……だめ」

 

小さく呟く。

 

でも胸の奥で、別の声がした。

 

もし本当に、そうなれたら。

 

アイはぎゅっと目を閉じた。

 

翌日。

 

アイは、いつも通りに戻ろうとした。

 

教室の扉を開ける。

 

「アイちゃん、おはよう!」

 

「おはよう!」

 

笑う。

 

明るく。

軽く。

何もなかったみたいに。

 

先生に頼まれたプリントを配る。

クラスメイトの話に笑う。

休み時間には誘われた遊びに参加する。

 

いつも通り。

 

完璧に。

 

ただ、凛とは少し距離を取った。

 

昨日までとは、また違う距離だった。

 

見られるのが怖いのではない。

 

欲しがってしまった自分を、見られるのが怖かった。

 

凛は無理に話しかけてこなかった。

 

朝、目が合った時も、ただ頷いただけ。

 

給食の時、白いご飯を前にアイの箸がほんの少し止まった時も、凛は見ないふりをした。

 

掃除の時間、アイが落とした雑巾を拾ってくれた時も、何も言わなかった。

 

いつも通り。

 

そのいつも通りが、少しだけ腹立たしかった。

 

自分だけが揺れているみたいだった。

 

三時間目。

 

先生がプリントを配った。

 

「今日は、ありがとうを伝えたい人に手紙を書いてみましょう。家族でも、先生でも、友達でも、お世話になっている人でもいいですよ」

 

教室がざわつく。

 

「お母さんに書く!」

 

「俺、お父さん」

 

「妹に書こうかな」

 

「おばあちゃんでもいい?」

 

アイはプリントを見下ろした。

 

白い紙。

 

一番上に、こう書いてある。

 

『ありがとうを伝えたい人』

 

アイは鉛筆を持ったまま、動けなかった。

 

誰に書けばいいのだろう。

 

母親。

 

その文字が頭に浮かぶ。

 

すぐに消した。

 

施設の職員。

 

お世話にはなっている。

でも、何を書けばいいのか分からない。

 

先生。

 

クラスメイト。

 

それなら書けるかもしれない。

 

でも、何かが違う。

 

アイは笑顔のまま、紙を見ていた。

 

固まっていることに、誰にも気づかれないように。

 

その時、横から凛の声がした。

 

「書きたくないなら、白紙でもいいんじゃない」

 

アイは顔を上げた。

 

「そんなのだめでしょ」

 

「だめって誰が決めたの?」

 

「先生が困るでしょ」

 

「困らないと思う」

 

「凛ちゃんはすぐそう言う」

 

「アイもすぐ困らせるって言う」

 

アイは言葉に詰まった。

 

凛は、プリントに視線を落としたまま続ける。

 

「書ける人がいないなら、無理に書かなくてもいいと思う」

 

「……いるよ」

 

反射的に言った。

 

凛はアイを見る。

 

アイはすぐに笑った。

 

「お世話になってる人くらい、いるし」

 

「そう」

 

「いるから」

 

「うん」

 

凛はそれ以上、何も言わなかった。

 

アイはプリントに鉛筆を置く。

 

けれど、すぐには書けなかった。

 

少し迷って、紙の端に小さく「あ」とだけ書いた。

 

ありがとうの「あ」なのか。

 

誰かの名前の「あ」なのか。

 

自分でも分からなかった。

 

放課後。

 

アイは花屋に行かなかった。

 

行かないと決めていた。

 

今日は行かない。

昨日あんなことを言われたばかりで行ったら、気にしているみたいだから。

本気にしたみたいだから。

 

だから行かない。

 

施設へ向かう道を歩く。

 

いつもの道。

 

でも、途中で足が止まった。

 

花屋のある方角が、見える。

 

少し遠回りすれば、前を通れる。

 

行きたいわけじゃない。

 

ただ、道があるだけ。

 

そう言い訳しながら、アイは少しだけ遠回りした。

 

花屋はいつも通りだった。

 

店先には花が並んでいる。

淡い青色のブルースターもある。

 

凛は店先にいた。

 

花の鉢を少し直している。

 

凛の母も、奥にいるのが見えた。

 

いつも通りの場所。

 

アイは、通りの向かい側で立ち止まった。

 

近づけない。

 

行けば、きっと凛は聞く。

 

見るだけ?

 

たぶん、それだけ。

 

それが分かっているから、余計に行けなかった。

 

今行ったら、昨日の言葉を本気にしているみたいになる。

 

うちの子になればいいのに。

 

その言葉を、まだ持っていることが、凛にばれてしまう気がした。

 

アイはランドセルの肩紐を握る。

 

行きたいわけじゃない。

 

ただ、帰り道だから。

ただ、見えただけ。

 

でも足は動かない。

 

店先で、凛が顔を上げた。

 

目が合った。

 

アイの心臓が跳ねる。

 

逃げようかと思った。

 

けれど凛は、すぐには声をかけなかった。

 

ただ、アイを見た。

 

それから、ブルースターの鉢を一つ持ち上げる。

 

店先の、通りからよく見える場所に置いた。

 

まるで、花の位置を直しただけみたいに。

 

アイに向けたわけではない、という顔で。

 

でも、アイには分かった。

 

見ていいよ。

 

そう言われた気がした。

 

アイは動けなかった。

 

凛は声をかけない。

 

急かさない。

 

近づいてこない。

 

その沈黙が、今日は少しだけ優しかった。

 

しばらくして、アイは一歩だけ進んだ。

 

店までは行かない。

 

でも、さっきより少し近い場所まで。

 

凛がようやく口を開いた。

 

「見るだけ?」

 

アイは少し黙った。

 

いつものように「見るだけ」とは言えなかった。

 

だから、小さく答える。

 

「……今日は、遠くから」

 

凛は頷いた。

 

「うん」

 

それだけ。

 

アイはブルースターを見る。

 

淡い青の花。

星みたいな形。

幸福な愛。

 

やっぱり変な名前だと思う。

 

でも、目を逸らせない。

 

アイはしばらく黙ってから、凛に聞いた。

 

「怒ってないの?」

 

「何に?」

 

「昨日、私が変な言い方したこと」

 

凛は少し考えた。

 

「怒ってない」

 

「……そっか」

 

「でも」

 

凛はアイを見る。

 

「嫌だったなら、ごめん」

 

アイは答えられなかった。

 

嫌だったなら、簡単だった。

 

怒ればよかった。

「嫌だった」と言えばよかった。

「もう言わないで」と言えばよかった。

 

でも、嫌だったわけではない。

 

むしろ。

 

むしろ、嬉しかった。

 

そう認めるのが怖かった。

 

アイは唇を噛みそうになって、慌てて笑顔を作ろうとした。

 

でも、うまくいかなかった。

 

「……凛ちゃんは」

 

声が小さくなる。

 

「ほんと、変なことばっかり言うね」

 

凛は少しだけ首を傾げた。

 

「そうかも」

 

「認めるんだ」

 

「うん」

 

その返事があまりに凛らしくて、アイは少しだけ息を吐いた。

 

笑えたわけではない。

 

けれど、胸の奥に詰まっていたものが、ほんの少しだけ動いた気がした。

 

また沈黙が落ちる。

 

でも、昨日ほど痛くなかった。

 

アイはブルースターを見る。

 

嫌だったなら、怒れた。

 

冗談なら、笑えた。

 

嘘なら、忘れられた。

 

でも凛の言葉は、そのどれでもなかった。

 

だからアイは、まだその言葉を捨てられない。

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