星の嘘を、鬼は見抜くか 〜渋谷凛は星野アイを救いたい〜   作:百合太郎

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第8話 名前のない手紙

 

 

机の中に、折りたたんだプリントが入っている。

 

アイはそれを、朝からずっと意識していた。

 

教科書を出す時も。

筆箱をしまう時も。

隣の子に話しかけられた時も。

 

机の奥に、白い紙がある。

 

そこには、まだ何も書けていない。

 

いや。

 

何も、ではない。

 

紙の端に、小さく「あ」とだけ書いてある。

 

ありがとうの「あ」なのか。

誰かの名前の「あ」なのか。

それとも、自分の名前の最初の音なのか。

 

書いたアイ自身にも分からなかった。

 

「じゃあ、昨日の手紙、出せる人は前に持ってきてください」

 

先生の声で、教室の空気が動いた。

 

椅子の音。

紙を持つ音。

誰かの笑い声。

 

「お母さんに書いた!」

 

「俺、お父さん」

 

「先生に書いたよ」

 

「おばあちゃんに渡してもいい?」

 

みんなの手には、名前のある手紙があった。

 

お母さんへ。

お父さんへ。

おばあちゃんへ。

先生へ。

友達へ。

 

宛てる相手がいる紙。

 

アイは机の中に指を入れた。

 

プリントの端に触れる。

 

取り出そうと思えば、取り出せる。

 

今からでも、何か書けるかもしれない。

 

いつもありがとうございます。

これからもよろしくお願いします。

 

それくらいなら書ける。

 

きれいな言葉。

誰に見せても困らない言葉。

先生も安心する言葉。

 

けれど、鉛筆を持つ手が動かなかった。

 

それは誰に向けた言葉なのか。

 

分からなかった。

 

「星野さん?」

 

先生に呼ばれて、アイは顔を上げた。

 

一瞬で笑顔を作る。

 

「すみません。忘れました」

 

声は明るくできた。

 

先生は少しだけ困ったように眉を下げた。

 

けれど、叱りはしなかった。

 

「そっか。じゃあ、急がなくていいから、書けそうな時に出してね」

 

「はい」

 

アイはにこっと笑った。

 

忘れました。

 

嘘ではない。

 

書けなかったことを、忘れたことにしただけ。

 

だから、たぶん嘘ではない。

 

そう思おうとした。

 

でも、斜め後ろから視線を感じた。

 

凛だ。

 

アイは振り返らなかった。

 

凛は、きっと見ている。

 

忘れたわけではないことも。

机の中にプリントがあることも。

少なくとも、何かを隠したことも。

 

でも、凛は何も言わなかった。

 

休み時間になった。

 

クラスメイトたちは、誰に手紙を書いたかで盛り上がっている。

 

「お母さん、泣くかな」

 

「うちは笑われそう」

 

「俺、字が汚いって言われるかも」

 

アイは笑顔でその輪にいた。

 

「アイちゃんは誰に書くの?」

 

聞かれる。

 

予想していた質問だった。

 

だから、答えも用意していた。

 

「まだ迷ってるんだ」

 

「アイちゃん、いっぱい書きたい人いそうだもんね」

 

「そうかな」

 

アイは軽く笑った。

 

相手も笑う。

 

それで終わる。

 

簡単だった。

 

簡単なのに、胸の奥が少しだけ重かった。

 

少し離れた席で、凛は自分のプリントを見ていた。

 

凛の手紙は、もう書き終わっているらしい。

 

文字は小さめで、まっすぐ並んでいた。

 

アイは見ようとしたわけではない。

 

でも、少しだけ見えた。

 

お母さんへ。

 

その文字だけで、アイは少し目を逸らしたくなった。

 

凛には、ありがとうを書く相手がいる。

 

それを羨ましいと思ったのか。

 

眩しいと思ったのか。

 

自分でも分からなかった。

 

昼休みのあと、先生がアイに声をかけた。

 

「星野さん、手紙のことなんだけど」

 

アイはすぐに笑った。

 

「はい。すみません、明日出します」

 

「急がなくてもいいよ」

 

先生は優しい声だった。

 

「家族じゃなくてもいいからね。お世話になっている人でも、友達でも、先生でも」

 

「はい」

 

「書きたい人が決まらない?」

 

アイは笑顔のまま頷いた。

 

「誰にしようかなって」

 

それは嘘ではない。

 

けれど、本当でもなかった。

 

先生は少しだけアイを見たあと、優しく頷いた。

 

「そっか。書けたらでいいからね」

 

「はい」

 

アイは笑った。

 

先生は優しい。

 

でも、その優しさは忙しい優しさだった。

 

一人の子だけを長く見ていられるわけではない。

クラスには他にもたくさんの子がいる。

 

それは分かっている。

 

分かっているから、アイは笑う。

 

先生が安心できるように。

 

放課後。

 

アイは花屋へ向かった。

 

昨日は遠くからしか見られなかった。

 

今日は、店先まで行く。

 

そう決めていた。

 

別に、手紙のことで落ち着かないからではない。

 

ブルースターを見たいだけ。

 

そういうことにした。

 

店先には、いつものように花が並んでいた。

 

凛は、小さな鉢の位置を直している。

 

アイに気づくと、顔を上げた。

 

「見るだけ?」

 

アイは少しだけ迷った。

 

昨日は、遠くから。

 

今日は。

 

「……今日は、近くから」

 

凛は頷く。

 

「うん」

 

それだけだった。

 

アイは店先に近づいた。

 

ブルースターは、相変わらず淡い青色をしている。

 

幸福な愛。

 

変な花言葉。

 

でも、もう少しだけ名前を覚えてしまった花。

 

アイはランドセルを背負ったまま、花の札を少し見た。

 

「手伝う?」

 

凛が聞いた。

 

アイは少し考えて、頷く。

 

「札なら」

 

「うん」

 

凛は小さな札を何枚か渡してくる。

 

アイはそれを受け取った。

 

ガーベラ。

アスター。

ブルースター。

 

もう間違えない。

 

そう思ったのに、ランドセルの留め具が少し開いていたらしい。

 

中から、白い紙が滑り落ちた。

 

ひらり、と地面に落ちる。

 

アイの心臓が跳ねた。

 

凛がそれに気づき、手を伸ばしかける。

 

「だめ!」

 

思ったより強い声が出た。

 

凛の手が止まる。

 

店先の空気も、少しだけ止まった気がした。

 

アイは自分の声に驚いた。

 

凛を睨みたいわけではない。

怒りたいわけでもない。

 

でも、その紙を見られたくなかった。

 

紙は裏返しで落ちていた。

 

中身は見えていない。

 

凛は、落ちた紙から目を外した。

 

見えていないのではなく、見ないようにしているのだと分かった。

 

「拾わない方がいい?」

 

アイは息を整えた。

 

「……うん」

 

「分かった」

 

凛は手を引いた。

 

本当に、それだけだった。

 

「何それ」とも言わない。

「見ないよ」とわざわざ言うこともない。

拾ってあげようとした言い訳もしない。

 

ただ、拾わない。

 

アイは少しだけ遅れてしゃがみ、自分でプリントを拾った。

 

折れた角を直し、ランドセルの中にしまう。

 

手が少し震えていた。

 

見られなかった。

 

見られなかったのに、胸がざわざわしている。

 

凛はもう花の方を向いていた。

 

アイのプリントなんて、最初からなかったみたいに。

 

そのことが、少しだけ悔しくて。

 

少しだけ、ありがたかった。

 

しばらく、二人は何も言わずに札を並べた。

 

ガーベラ。

アスター。

カスミソウ。

 

凛が鉢を動かし、アイが札を渡す。

 

それだけの作業。

 

でも、アイの頭の中には、ランドセルの中のプリントがずっとあった。

 

紙の端の「あ」。

 

未完成の手紙。

 

忘れました、と笑った自分。

 

何も聞かなかった凛。

 

アイはブルースターを見つめたまま、ぽつりと言った。

 

「手紙」

 

凛は花を見たまま返す。

 

「うん」

 

「書けなかった」

 

「そっか」

 

「忘れたって言った」

 

「忘れてないのに?」

 

「うん」

 

「そっか」

 

それだけ。

 

責めない。

 

笑わない。

 

聞き出さない。

 

だから、言葉が少しだけ続いた。

 

「誰に書けばいいか、分からなかった」

 

凛はアイを見なかった。

 

花の札をまっすぐに直しながら、静かに聞いている。

 

「先生は、お世話になってる人でもいいって言ってたけど」

 

「うん」

 

「お世話になってる人はいるよ。いるけど……ありがとうって書いたら、なんか、違う気がした」

 

言ってから、アイは自分でも驚いた。

 

そんなこと、言うつもりはなかった。

 

でも言ってしまった。

 

凛は少し考えた。

 

「じゃあ、まだ書かなくていいと思う」

 

アイは顔を上げる。

 

「それでいいの?」

 

「分からないまま書くよりは」

 

アイは黙った。

 

分からないまま書く。

 

それなら、得意だった。

 

誰かが喜びそうな言葉を書く。

先生が安心しそうな言葉を書く。

きれいで、正しくて、間違っていない言葉を書く。

 

そうすれば、終わる。

 

でも凛は、まだ書かなくていいと言った。

 

分からないまま書くよりは、と。

 

アイはブルースターを見る。

 

淡い青色が、少しだけにじんで見えた。

 

「……凛ちゃんって、ほんと変」

 

凛は頷く。

 

「そうかも」

 

「そこは否定してよ」

 

「否定した方がいい?」

 

「もういい」

 

アイは小さく息を吐いた。

 

少しだけ、胸の奥が軽くなった気がした。

 

その夜。

 

渋谷家では、夕飯の片付けが終わったあとも、母と父がリビングに残っていた。

 

凛は自分の部屋にいる。

 

そう思って、母は父に話し始めた。

 

「凛がね、アイちゃんに言ったの」

 

母は湯呑みを両手で包んだ。

 

「うちの子になればいいのにって」

 

父は湯呑みを持つ手を止めた。

 

「……凛が?」

 

「うん。本気だったと思う」

 

「アイちゃんは?」

 

「動揺してた。怒ったようにも見えたけど……たぶん、それだけじゃない」

 

父はしばらく黙っていた。

 

それから、静かに息を吐いた。

 

「凛がそこまで言うのは珍しいな」

 

「うん」

 

「アイちゃん自身は?」

 

母は首を横に振る。

 

「まだ分からない。来たい気持ちはあると思う。でも、怖がってもいる」

 

「そりゃそうだろうな」

 

父は静かに言った。

 

「急に家族なんて言われても、喜ぶだけじゃ済まない」

 

「うん」

 

「俺たちが踏み込みすぎても、傷つけるかもしれない」

 

「そう思う」

 

母は手元の湯呑みを見る。

 

「でも、見ないふりも違うと思うの」

 

父は少し黙った。

 

それから、ゆっくり頷く。

 

「まずは、学校か施設の人と少し話せるか確認してみよう」

 

母が顔を上げる。

 

父は続けた。

 

「急がない。でも、知らないままにはしない方がいい」

 

母は小さく頷いた。

 

廊下の向こうで、凛は足を止めていた。

 

水を飲みに来ただけだった。

 

本当は、聞くつもりはなかった。

 

でも、自分の名前とアイの名前が聞こえて、止まってしまった。

 

全部は聞こえなかった。

 

けれど、いくつかの言葉だけは耳に残った。

 

急がない。

 

知らないままにはしない。

 

凛はコップを持ったまま、少しだけその場に立っていた。

 

自分一人では、どうにもできない。

 

それは少しずつ分かってきた。

 

でも、大人たちもアイのことを考えている。

 

見ないふりをしないでいてくれる。

 

そのことに、凛は少しだけ安心した。

 

翌日。

 

アイは、まだ手紙を提出していなかった。

 

机の中に、折りたたんだプリントが入っている。

 

先生は急かさなかった。

 

凛も、何も聞かなかった。

 

ただ、休み時間にアイの近くを通った時、短く言った。

 

「分からないなら、分からないって書けば」

 

アイは顔を上げる。

 

「そんな手紙ある?」

 

「あるかも」

 

「ないよ」

 

「作ればいい」

 

アイは呆れたように凛を見る。

 

「凛ちゃんって、ほんと強引」

 

「そう?」

 

「そう」

 

でも、その言葉は胸の奥に残った。

 

分からないって書けば。

 

そんな手紙、普通はない。

 

でも、凛は作ればいいと言った。

 

その日の放課後。

 

施設に戻ったアイは、机の上にプリントを広げた。

 

紙の端には、小さな「あ」が残っている。

 

消しゴムを持つ。

 

消そうとした。

 

でも、消せなかった。

 

なぜか、その「あ」だけは消したくなかった。

 

アイは鉛筆を持つ。

 

しばらく白い紙を見つめる。

 

宛名は書けない。

 

誰に向けた言葉なのか、まだ分からない。

 

だから、宛名の欄は空けたままにした。

 

本文だけを書く。

 

少しずつ。

 

ゆっくり。

 

いつものように、相手が喜びそうな言葉ではなく。

 

正しいかどうか分からない言葉を。

 

『ありがとうって書く相手が、まだ分かりません。』

 

そこで手が止まる。

 

ひどい手紙だと思った。

 

こんなことを書いたら、先生は困るかもしれない。

 

でも、凛は言った。

 

分からないって書けば。

 

アイは続きを書いた。

 

『でも、書けるようになりたいです。』

 

その二行だけで、胸が苦しくなった。

 

もう終わりにしようと思った。

 

でも、ブルースターのことが浮かんだ。

 

渋谷家の店先。

淡い青色の花。

凛の「見るだけ?」

凛の母の「見るだけでも歓迎」。

 

アイは少し迷って、もう一文足した。

 

『花を見る場所ができました。』

 

書いてから、変な文だと思った。

 

ありがとうの手紙なのに。

 

誰宛てかも分からないのに。

 

花を見る場所ができました、なんて。

 

でも、消さなかった。

 

翌日。

 

アイは先生にプリントを出した。

 

先生は少し驚いたように紙を受け取った。

 

宛名がない。

 

けれど、何も言わなかった。

 

紙に目を落とし、少しだけ表情を柔らかくする。

 

それから、アイを見る。

 

「出してくれてありがとう」

 

アイは目を伏せた。

 

ありがとうを伝える手紙を出したのに、ありがとうと言われた。

 

変な気持ちだった。

 

でも、嫌ではなかった。

 

放課後。

 

アイは花屋へ向かった。

 

今日は言い訳を作らなかった。

 

ブルースターを見るため。

凛に会うため。

手紙を出したことを言うため。

 

どれも、たぶん本当だった。

 

店先に凛がいた。

 

いつものように、花の前にしゃがんでいる。

 

アイを見ると、顔を上げた。

 

「見るだけ?」

 

アイは少し考えた。

 

それから言った。

 

「今日は、手紙を出した報告」

 

凛は頷く。

 

「そっか」

 

アイは少し待った。

 

でも、凛はそれ以上何も言わない。

 

「それだけ?」

 

「うん」

 

「……ほんと、変なの」

 

けれど、アイは少し笑った。

 

凛も、ほんの少しだけ目を細めた。

 

ブルースターが風に揺れる。

 

その手紙には、宛名がなかった。

 

けれどアイは初めて、誰かに見せるためではない言葉を書いた。

 

それがどこに届くのかは、まだ分からなかった。

 

それでも、紙の端に残った「あ」の文字だけは、消さないでおいた。

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