┈┈┈┈┈┈┈
止まった心を動かしたのは
黒でも、白でもなく
"橙色"だった
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈
ORANGE
┈┈┈┈┈┈
静かな雨音が、
軒先を細く叩いていた。
現世の夜だった。
見慣れぬ天井。
畳の匂い。
微かに混じる薬品と茶葉の香り。
――尸魂界ではない。
ぼんやりとした意識の中、馨はゆっくりと瞼を開く。
「……ッ……」
簡易的に敷かれた布団。それは優しい陽の光の匂いがした。
灯りは薄暗い。
小さな卓上灯だけが、部屋の中央を淡く照らしていた。
その光の向こう。
ちゃぶ台を挟んで胡座をかく男がひとり。
「……"起きました?"」
柔らかな声だった。
そして懐かしい声でもあった。
「……あ」
緑と白の縞模様の帽子。
胡散臭いほど軽い笑み。
だがその目だけは、妙に静かだった。
"浦原喜助"
数十年前、尸魂界を追放された男。
そしてその隣、壁際には黒猫の姿――ではなく、人の姿へ戻った"四楓院夜一"が腕を組み、黙ってこちらを見ている。
馨はゆっくりと身を起こした。
その瞬間、全身に鋭い痛みが走る。
「ッ……」
「未だ痛みますか?」
「……少し」
「無理は禁物です。なんせ今のアナタは霊力が不安定ですから。」
白い布が擦れる。
視線を落とした馨は、自分がまだ囚人服のままであることに気付いた。
白い着流し。
罪人として収監された者にのみ与えられる衣。
その姿のまま、彼女は現世へ連れ出されていた。
「この薬を」
「……」
「安心してください。変な薬じゃないです。飲んだら楽になります。」
浦原は傍らに置かれた水の入った湯呑みと白いカプセルを手渡す。
馨は僅かに手を震わせながら手を伸ばす。浦原が彼女の背中を支え、ゆっくりと薬を飲ませた。
妙に体が怠い。
血液が鉛になった気分だ。
薬を飲み込み、小さく息を吐く。
そして辺りを見回すと裏原へと視線を戻した。
「……ここは」
掠れた声だった。
浦原は湯呑を手にしたまま、穏やかに答える。
「"空座町"。ボクと夜一サンが、あのあと身を潜めてる場所っス」
"あのあと"
その言葉だけで十分だった。
百年近く前。
尸魂界を追われた者たち。
禁忌を犯した罪人として、歴史から消された存在。
質素な畳部屋。
古びた柱。
小さな居間。
だが不思議と、どこか温かい空気があった。
「――平子隊長たちも?」
その問いに、浦原は一瞬だけ目を伏せた。
「……最初はしばらく一緒にいましたよ」
だが、と続ける。
「彼らは彼らで姿を消しました。まあ……色々ありましてねェ」
軽く笑ってはいたが、その裏にある年月の重さは隠しきれていなかった。
馨は何も言わなかった。
ただ静かに俯く。
理解していた。
自分はいま、"尸魂界から消された側"へ堕ちたのだと。
部屋に沈黙が落ちる。
「――……」
雨音だけが響いていた。
やがて浦原は、ちゃぶ台に肘を置きながら、静かに口を開いた。
「……今回の件」
その声音から、飄々とした色が消える。
「全部、把握してます」
馨の肩が微かに揺れた。
あの地獄のような出来事が再び脳裏に浮かぶ。
「あなたは、はめられた」
真っ直ぐな言葉だった。
慰めでもない。
同情でもない。
ただ、事実だけを置くような声。
その瞬間だった。
「…………」
――""ぽたり""
馨の瞳から、涙が零れ落ちる。
音も無く。
まるで壊れた器から、水が溢れるみたいに。
一滴。
また一滴。
彼女自身ですら気付いていなかった感情が、静かに崩れていく。
無表情のまま。
声も出さず。
ただ涙だけが布団へと落ちていった。
「……馨」
そっと名を呼び、夜一はすぐに立ち上がる。
馨の隣へ腰を下ろし、その冷え切った手を包み込んだ。
「…もう大丈夫じゃ」
その声は、驚くほど優しかった。
だが馨は、焦点の合わない瞳のまま呟く。
「……私が」
唇が震える。
「私が、殺した……」
掠れた声だった。
まるで自分自身へ言い聞かせるように。
忘れないために。
壊れ切るために。
夜一が手を強く握る。
しかし浦原は――何も言わなかった。
否定もしない。
慰めもしない。
その痛みを、今ここで軽々しく消してはいけないと理解していたからだ。
彼女はまだ、地獄の途中にいる。
下手な言葉は、きっと傷を抉るだけだ。
だから浦原は、別の言葉を選ぶ。
「馨サン」
静かな声だった。
「あなたはこの先、更に危険に晒される可能性があります」
馨の睫毛が微かに震える。
「中央四十六室だけじゃない。もっと厄介な連中が動いてる」
藍染惣右介。
その名はまだ出さない。
だが浦原は既に確信していた。
今回の一件の裏にいる"異常"を。
馨はゆっくりと目を閉じる。
もう嫌だ、と。
これ以上苦しみたくない、と。
その絶望が、声にならず部屋に滲んでいた。
そんな彼女へ、浦原は静かに笑う。
昔と変わらぬ、どこか掴みどころのない笑みで。
「でも」
雨音の向こう。
その声だけが、やけに優しく響いた。
「ボクらがいます」
夜一もまた、握った手を離さない。
「おぬしは独りじゃない」
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈
"心が止まってしまった"
世界から色が抜け落ちていった。
空は青かったはずなのに、ただ白く霞んで見えて。
夕焼けは赤く燃えていたはずなのに、もう思い出せない。
笑い声も、風の音も、遠い。
まるで分厚い水の底に沈められたみたいに、何もかもが鈍く響く。
人は普通に生きている。
昨日と同じように笑って、怒って、泣いて。
なのに自分だけが、どこか別の場所へ置き去りにされてしまったようだった。
心だけが、あの日で止まっている。
前へ進かなければならないと分かっていても、身体はただ惰性で動くだけ。
食事をして、眠って、朝を迎える。
それだけを繰り返しているうちに、自分が本当に生きているのかさえ分からなくなっていった。
色のない世界は静かだった。
静かすぎるほどに。
だから時々、ふと思う。
もしあの人の声を完全に思い出せなくなったら。
あの温度も、眼差しも、触れた手の感触も。
その時、自分の中に残るものは何なのだろう、と。
記憶は少しずつ磨耗していく。
まるで古いフィルムみたいに、輪郭から先に滲んでいく。
怖かった。
忘れたくないのに。
忘れてしまうことでしか、人は生きていけない。
だから馨は今日も、色のない空を見上げる。
何かを失ったまま。
何も戻らないと知りながら。
┈┈┈┈┈┈
┈┈┈
逃亡から、およそ五十年。
尸魂界で過ごした日々は、遠い昔話のように薄れていた。
馨は空座町の片隅で、ひっそりと生きていた。
誰にも深く関わらず、何も望まず、何も残さず。
まるで、自分という存在ごと過去に埋めてしまいたいとでもいうように。
朝になれば目を覚まし、小さな部屋の窓を開ける。
陽の光を浴び、街を歩き、必要最低限の言葉だけを交わして生きる。
それだけだった。
死神でもない。
十三番隊三席でもない。
誰かを守ろうとした女でもない。
ただ、"無名の誰か"として。
季節だけが静かに巡っていく。
春には川沿いの桜が咲き、夏には蝉の声が耳に残る。秋は夕焼けが長く、冬は吐く息が白かった。
それでも馨の時間だけは、止まったままだった。
時折、夢を見る。
夢の中では、彼が笑っている。
――志波海燕。
陽だまりみたいな声で笑い、呆れたように肩を竦め、"お前なあ"と困ったように名前を呼ぶ。
その姿を見るたび、胸の奥が痛んだ。
けれど。
目を覚ました瞬間、いつも少しずつ失っていく。
声が思い出せない。
どんな調子で笑っていたのか。
どんな風に、自分の名前を呼んでいたのか。
夢の中では確かに聞こえていたはずなのに、現実へ戻った瞬間、それは指の隙間から零れる水のように消えてしまう。
昔、誰かが言っていた。
――人の記憶は、最初に"声"から失われていくのだと。
馨はその言葉を、酷く嫌っていた。
忘れたくないと思えば思うほど、輪郭は曖昧になっていく。表情も、温度も、声も。
思い出そうとするたびに、遠ざかっていく。
まるで、"時間"そのものが、彼を連れ去っていくようだった。
だから馨は、思い出すことをやめようとした。
何も考えなければ、苦しくない。
誰とも関わらなければ、失うこともない。
そうやって、静かに生きていくつもりだった。
もう二度と、尸魂界には関わらない。
戦いにも、運命にも。
ただ、この小さな街で、誰にも知られず生きていく。
――そのはずだった。
けれど運命は、いつだって。
忘れたいと願った頃に限って、
静かに扉を叩くのだ。
┈┈┈┈
┈┈┈┈
現在――
空座町の外れ。
駅前から少し離れた、古びた住宅街。
昼間でもどこか静かなその一角に、年季の入った木造アパートが建っている。
外壁は少し色褪せ、
階段は歩く度に軋む。
二階の角部屋。
そこが、無類井馨の住処だった。
彼女は"現世の人間"として静かに生きていた。
あるのは、小さな生活だけだった。
朝。
薄いカーテン越しに差し込む光。
小さな流し台。
干したままの白いTシャツ。
読みかけの本。
古びた扇風機。
馨は静かに目を覚まし、湯を沸かす。
その横顔は、数十年前と何ひとつ変わっていない。
だからこそ、この町では妙な噂が立っていた。
"あそこのアパートの女の人、全然歳取らないらしい"
"未亡人なんだって"
"めちゃくちゃ綺麗だけど、なんか近寄り難いよな"
"夜に一人で歩いてるの見たことあるけど、雰囲気やばかった"
空座町ではちょっとした有名人だった。
だが本人は気にしていない。
ただ静かに、生きているだけだった。
アルバイト先は近所のコンビニ。
深夜帯、人の少ない時間を選んで働いている。
「――ありがとうございました」
レジ越しに微笑むだけで、
男子高校生が固まる。
常連のサラリーマンが無駄に緊張する。
だが馨自身は、それすらどうでも良さそうだった。
ただ、淡々と毎日を過ごしている。
"生き残ってしまった者"みたいに。
そして――そんな本人を置いて、
"物語は動き出す"
┈┈┈
夕暮れの空座町。
薄橙に染まりきれない空の下、アパートのバルコニーの縁部分に体を預け、馨は静かに目を閉じていた。
風が、長い髪を揺らす。
だが、その表情は微動だにしない。
――"また"。
微かに空気が震える。
時折、感じる。
死神の霊圧を。
未熟で、
不安定で、
どこか懐かしい霊圧。
"最近、この町は騒がしかった"
「((……今日も二つ))」
死神の霊圧。
それに混じる、鋭く乾いた気配――滅却師。
しかも二つなのだ。
ぶつかり合っている。いや、競い合っていると言った方が正しい。
「……何をやってるんだか。」
呆れたように、小さく息を吐く。
遠く離れていても分かる。
荒っぽくて真っ直ぐな霊圧。
そして、無駄に繊細で神経質な霊圧。
虚を倒した数でも競っているのだろうか。派手な空気がやたらと身を揺らす。子供じみた騒がしさが、霊圧越しにまで伝わってくる。
昔なら、少しは笑っていたかもしれない。
けれど今の馨には、ただ遠い。
賑やかな光景も。
誰かが誰かと張り合う熱も。
守りたいと願って剣を振るう真っ直ぐさも。
全部、遠い昔に置いてきてしまった。
世界は、ずっと色を失ったままだ。
それでも――
「……懐かしい。」
ぽつりと落ちたその言葉だけが、
かすかに人間らしい温度を残していた。
┈┈
その二日後の夕暮れ時。
部屋で寝そべっていた馨。
「……?」
ポケットの中の簡易連絡器が久しぶりに震えた。
随分昔、浦原が作った特製の通信機。
「はい?無類井です。」
『いや〜、もしもし馨サン?お久しぶりっスねえ〜』
「喜助さん、お久しぶりです。何か用で?」
浦原商店に時たま顔を出すがここ最近はご無沙汰だった。
最近だと、
紬屋雨こと、ウルル。
花刈ジン太ことジン太。
二人の子守りをして欲しい、なんて言われ、浦原不在の元立ち寄ることは良くあった。
直接こんな連絡が来るのは……ひと月ぶりくらいだろうか?数週間前、夜の散歩の時に少し話をしたのが最後か……?
『……ちょっと来てもらっていいっスか?』
聞こえてきた軽い声。
「……へえ。珍しいですね」
『紹介したい方がいるんスよ』
その一言だけだった。
浦原が"紹介したい"などと言う時は、大抵ろくでもない。
馨は小さく溜息を吐く。
「……今から向かいます」
『待ってるっス〜』
馨は通話を切るとすぐに起き上がる。
いつものラフなショートパンツにTシャツ。
そしてサンダルを履いて、自宅をあとにした。
┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈
――浦原商店。
夕暮れに染まる古びた店。
暖簾をくぐると、昔と変わらぬ畳の匂いがした。
その瞬間。
馨の足が止まる。
「――っ!?」
居間の奥。
現世の高校の制服を纏った義骸姿の少女。
小柄な身体。黒髪。
そして、どこか張り詰めた横顔。
""朽木ルキア""
馨の瞳が微かに揺れる。
だがすぐに違和感に気付く。
「((何故、何も感じない……?))」
霊圧が無い。
否。正確には、"死神としての力"がほとんど感じられない。
だからこそ、今まで存在に気付けなかった。
「おい浦原!いい加減出てこい!貴様呼び出しておいて何も――」
ルキアの視線がこちらへと無意識に向けられた瞬間、入口へ立つ馨を見た瞬間、息を呑んでいた。
「なっ……」
空気が凍る。
六十年。
あまりにも長い時間だった。
「なぜ……"貴方"が……」
かつて憧れていた人。
十三番隊三席。鬼道の才に愛された死神。
海燕の隣で笑っていた人。
いつも妹のように慕ってくれていた人。
そして――
"尸魂界から逃亡した罪人"
ルキアは真実を知らない。
中央四十六室が下した裁定しか知らない。
だからその存在は、どこか触れてはいけない"過去"になっていた。
馨は、それを一瞬で察する。
ルキアが、自分を真っ直ぐ見られないことも。
無意識に距離を取っていることも。
刹那、ルキアの傍らから現れたライオンのぬいぐるみがひょっこりと顔を覗かせる。
「っっっっはぁ!?!?!?」
コンは、浦原商店の奥から現れた馨を見た瞬間、ぬいぐるみの身体をぶわっと跳ね上がらせた。
「な、な、な、なんだこの!!」
小さな腕をぶんぶん振り回しながら絶叫しはじめる。
「ウルトラスーパーミラクルビューティフルアルティメット美女ぉぉぉぉ!!?」
「声がうるさいぞコン」
――と、ルキアが即座に踏み潰した。
「((これは……"改造魂魄?"))」
次から次へと現れるイレギュラーに馨は立ち尽くすのみ。
浦原が呼び寄せたのは"これ"が理由なのか。
たまたまなはずは無い。あの男はそういう所は性格が悪いと理解していた。
「……」
「……」
沈黙する二人(と、一匹?)
浦原は現れない。
ただ静かに、二人がその場で沈黙する。
やがて馨は、ゆっくりと口を開く。
「――"ルキア"」
懐かしい呼び方だった。
優しくて、昔と何も変わらない声。
だがその瞬間、ルキアの肩がびくりと震える。
視線が揺れる。
「……ぁ……」
何かを言おうとして、結局言葉にならない。
そして。
「……浦原!」
半ば無理やり空気を断ち切るように、ルキアは声を上げた。
「物が仕入れられたらまた連絡しろ!」
妙に早口だった。
まるで逃げるみたいに。
「ルキ――」
馨か再び名を呼ぶ前に、ルキアと魂魄は部屋を飛び出した。
襖が勢いよく開き、夕方の風が吹き込む。
そしてそのまま、
ルキアは振り返ることなく去っていった。
「……っ……」
静寂。
立ち尽くす馨。
強く握りしめられた拳は悲しげに震えていた。
「"イヤァ……やっぱそうなりますよねェ"」
浦原は帽子を軽く押さえながら部屋の奥から現れた。面白がるようにも見えるし、困ったようにも笑う。
「…………」
「朽木さん。覚えてるでしょう?」
馨は何も言わない。
ただ、閉じられた襖を静かに見つめていた。
その瞳だけが、ほんの少しだけ悲しそうだった。
夕暮れの赤い光が畳へ長く伸びる。
馨はしばらく動かなかった。
ただ、ルキアが去っていった方角を見つめている。
その横顔は静かだった。
静かすぎるほどに。
浦原は口を開かない。
だが次の瞬間――
「……うわぁっ!!」
鈍い衝撃音と浦原の呑気な声。
その身体が畳へと押し倒された。
「おっと……落ち着いてくださいよ、馨サン。」
「…………」
「随分、物騒なことするじゃないッスか。」
気付けば、馨が浦原の押し倒し、襟元を掴んでいた。
細い指。
だがその力は凄まじい。
押し倒された浦原の周囲で、
畳がミシ、と嫌な音を立てる。
そして。
霊圧。
凄まじい圧力が、部屋全体へ落ちた。
「((……久しぶりに感じますね、貴方の霊圧。))」
浦原はその霊圧に嫌な汗を流した。
空気が重く沈む。
棚の湯呑みが震え、障子が軋む。
まるで目に見えない刃が、空間そのものを裂いているみたいだった。
六十年。
抑え込み続けてきた力。
その一端だけで、並の死神なら立っていられない。
「……どういうつもり」
低い声だった。
怒りを押し殺した声。
だがそれが逆に恐ろしい。
「なぜ、ルキアを私の前に――」
浦原は押し倒されたまま、
静かに彼女を見上げる。
そして帽子を少し押さえながら口を開いた。
「"そろそろ"」
その声から、
いつもの軽薄さが消えていた。
「"あなたも、過去と向き合うべきだ"」
馨の瞳が鋭く揺れる。
「このタイミングは、むしろ前向きに捉えないといけない」
意味深な言葉だった。
まるで、これから更に大きな何かが起こると知っているみたいに。
馨は眉を寄せる。
「何を――」
「"この前"」
浦原が続ける。
「異様な霊圧を感じたでしょう?」
その瞬間。
馨の動きが止まる。
数週間前、
夜の空座町で、ほんの一瞬だけ感じた霊圧。
懐かしかった。
遠い昔、十三番隊で何度も感じていた霊圧。
だがあまりにも微弱で、
すぐに消えた。
だから自分の錯覚だと思っていた。
浦原は静かに言う。
「"朽木ルキアは、現世の人間に死神の力を渡しました"」
「……!」
馨の瞳が見開かれる。
反射的に口を挟んでいた。
「それは……重罪になるはずです」
空気が張る。
尸魂界の法。
死神が人間へ力を譲渡すること。
それがどれほど異常で、
どれほど危険なことか。
馨は誰より知っている。
浦原は静かに頷いた。
「ええ。だから尸魂界側も、いずれ動くでしょう」
「……」
「朽木サンには、そのうち何かしらの処分が下る可能性が高い」
淡々とした口調だった。
だがその内容は重い。
馨の手から、少し力が抜ける。
「力を渡した相手は、黒崎一護っていう高校生っス」
黒崎一護。
知らない名前だ。
「((あの霊圧――))」
だが。
最近の異様な霊圧。
不自然に増えた虚。
空座町を覆うざわついた空気。
その全てが、ようやく繋がる。
馨はゆっくりと浦原から手を離した。
畳へ視線を落とす。
「……ああ」
小さく呟く。
「だから最近、こんなにも騒がしかったのですね」
その声は、どこか酷く疲れていた。
浦原はゆっくり身体を起こす。
そして改めて馨へ視線を向けた。
「物語がまた動き始めてるんスよ」
静かな声だった。
「あなたが逃げたあの日から止まってたものが、また少しずつね」
馨は一瞬目を伏せる。
がしかし、再び浦原の襟元を掴むと抱いていた疑念をぶつけた。
「答えて」
馨の声は静かだった。
だが、静かすぎる。
怒鳴るよりも遥かに危うい声音。
「ルキアが現世に残った件。あなた、何か噛んでる?」
浦原は黙る。
その沈黙だけで、馨の中の"確信"が濃くなっていく。
「尸魂界が、あの子を放置するわけがない」
ぎり、と胸元を掴む手に力が入る。
「護廷十三隊が、朽木家が、そんな不自然な形を許すはずがない。放っておくはずがない。」
浦原は何も言わない。
馨の脳裏に、嫌な感覚だけが積み重なっていく。
――何かを隠している。
それも、取り返しのつかない類の何かを。
「……ひとつ、確認なんだけど」
ゆっくりと顔を上げる馨。
その瞳は、まるで本能で獲物を見抜く獣のようだった。
「ルキアに――"何かした?"」
空気が止まる。
一瞬だけ。浦原喜助の笑みが、ほんの僅かに消えた。
けれど次の瞬間には、いつもの調子に戻る。
「やだなァ」
へらりと笑う。
「"何もしてませんよ"」
その軽い声。
だが馨は、胸の奥が冷えていくのを感じていた。
――嘘だ。
この男は、
何かを抱え込んでいる。
畳が、鈍く軋んだ。
「――っう!?」
刹那、視界が反転する。
気づいた時には、今度は馨は床へ押し倒されていた。
長い黒髪がばさりと広がり、畳へ墨を流したように散っていく。
その上から覆い被さる影。
帽子が落ちる。
さらりと零れた金髪が、馨の頬をかすめた。
鼻先が触れそうなほど近い。
けれどそこに甘さはない。
あるのは、探るような視線と、底の見えない圧だけだった。
「……随分、虫がいいですねェ」
低い声。
いつもの軽薄な調子は消えている。
馨が眉を寄せる。
「何が言いたいの」
「何って、あなたはこの数十年、逃げ続けてきたじゃないですか」
ぴくり、と馨の瞳が揺れる。
浦原は見逃さない。
「見ないふりをして、関わらないふりをして、普通の人間みたいに生きて」
静かな声だった。
責めるでもなく、
怒るでもなく。
だからこそ、深く刺さる。
""自分は何十年も逃げて何も関わらなかったくせに、
今さらルキアのことだけ気にするんですか?""――真っ直ぐとそう言われている気がした
尸魂界から目を背けてきた
真実も、自分自身のことも避けてきた
なのに"大切な人"だけは助けたいのか
「でも」
浦原の顔が、さらに近づく。
「あなたが避けてきた世界で、また何かが起ころうとしてる」
その瞬間。
馨の脳裏を、
嫌な予感が過った。
全部が、一本の線で繋がっていく感覚。
「関わりたくないなら、朽木さんのことも放っておけばいい」
浦原は淡々と言う。
「見なかったことにして、また逃げればいい」
その言葉に、馨の指先が微かに震えた。
"逃げる"
その言葉だけは、今でも胸の奥を抉る。
「……でも」
浦原の目が細くなる。
「気になるなら、あなたの力も貸してください」
空気が変わる。
店の奥で見ていたウルルとジン太ですら、息を呑むほどに。
浦原喜助は、
初めて真正面から馨を見据えていた。
"過去"ではなく。
"罪"でもなく。
"逃亡者"でもなく。
一人の戦力として。
「そして――」
低く落ちる声。
「過去に起こった真実を、あなた自身の正体を――」
浦原は馨の頬に手を寄せ――
「一緒に突き止めませんか?」
馨の瞳が大きく揺れた。
それは誘いだった。
同時に――脅しでもあった。
""あなたはもう、
無関係ではいられない""
そう告げるように。
「…………」
沈黙の中。
畳へ落ちた浦原の帽子だけが、
静かに転がっていた。
┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈
夜の空座町。
商店街を抜ける風が、ゆっくりと夜の匂いを運び始めていた。
「はぁっ、はぁっ……はぁ……」
浦原商店を飛び出したルキアは、そのまま足早に路地を進む。まるで、何かから逃げるように。
小さな身体。白いワンピース姿の義骸。
その背中を、ぴょこぴょことライオンのぬいぐるみが追いかけていた。
「お、おい!ルキアねえさーーん!待てって!」
コンだった。
短い足で必死に追いつきながら、ようやく隣へ並ぶ。
「なんなんだよ急に!店飛び出してさァ!」
ルキアは答えない。
ただ前だけを見て歩く。
その横顔は、普段よりずっと硬かった。
コンはそんな彼女をちらりと見上げる。
そして、空気も読まずにぽつりと呟いた。
「……でもさ〜」
ルキアの足がほんの僅かに止まりかける。
「さっきのお姉さん、めちゃくちゃ美人だったな……」
淡い街灯の光がルキアの瞳を揺らした。
脳裏に焼き付いて離れない。
静かな目。
変わらない声。
"ルキア"と呼ぶ、あの優しい声。
何十年経っても、何ひとつ変わらなかった。
だからこそ、余計に苦しかった。
コンはまだ続ける。
「あんな人いたんだな浦原商店に!なんか普通の人じゃねー感じだったし!つーか霊圧ヤバくなかったか?」
ルキアの唇が微かに結ばれる。
コンは首を傾げる。
「知り合いか?」
沈黙。
商店街の喧騒だけが遠く聞こえる。
やがて、ルキアは前を向いたまま、小さく口を開いた。
「――違う」
短い一言だった。
だがその声は、妙に硬かった。
コンは目を瞬かせる。
違う。
その言葉が、
"嘘"であることくらい、さすがのコンでも分かった。
だが。
これ以上踏み込んではいけない。
そう本能的に察する。
だからコンは、珍しく何も言わなかった。
ただ黙って、隣を歩く。
ルキアは俯く。
胸の奥が、
嫌にざわついていた。
「((……馨殿))」
無類井馨。
ルキアはまだ、
真実を知らない。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈
┈┈┈
空座町の朝。
青く澄んだ空。
通学路を埋める学生たちの声。
信号機の電子音。
コンビニから流れる軽快なBGM。
そんな平凡な朝の中を、
無類井馨は静かに歩いていた。
いつものラフな服装。
色落ちしたデニムのショートパンツ。
褪せた白いTシャツ。
ラフなスニーカー。
そして編み込まれた長い黒髪。
朝風が吹くたびさらりと揺れた。
まるで普通の若い女性。
数十年前、死神として恐れられていた女だとは、誰も思わない。
だがその瞳だけが、
時折ひどく遠くを見ていた。
過去を置いてきた人間の目だった。
その時。
「"やっっっべえええええ!!!""」
朝の静けさをぶち壊す叫び声。
馨が顔を上げる。
通学路を全力疾走してくる男子高校生。
乱れた制服。
肩に引っ掛けた鞄。
焦った顔。
そして――
"鮮やかな橙色の髪"
その瞬間。
馨の時間が止まる。
「……っ」
目を奪われた。
朝日に照らされる横顔。
鋭い目付き。
誰かを守るためなら、
迷わず前に出そうな目。
その一瞬だけ。
過去の記憶が、鮮明に蘇る。
""お前、また無茶しただろ""
呆れたように笑う声。
「((……海燕))」
縁側。
十三番隊の隊舎。
陽だまりの匂い。
自分の名を呼ぶ、
優しい声。
『馨』
志波海燕。
「ぁ……」
胸が、ずきりと痛んだ。
もちろん違う。
別人だ。
何もかも違う。
それでも。
あまりにも似ていた。
馨は無意識に立ち止まっていた。
そんな彼女に気付かず、一護は叫ぶ。
「遅刻遅刻遅刻!!」
肩のライオンぬいぐるみ――コンが怒鳴る。
「だから昨日早く寝ろって言ったんだよ!!」
「うるせぇ!!テメェが夜中騒いだからだろ!!」
「オレのせいにすんのかぁぁぁ!?」
「あー!!ったく!!ルキアの野郎!何で起こしてくんねぇんだよ!!」
騒がしい。
なのに。
その騒がしさすら、
どこか懐かしく感じた。
だが次の瞬間。
――""ゾワッ""
空気が変わる。
馨の表情が消える。
一護も反射的に顔を上げた。
重い霊圧。
通学路の喧騒が、一瞬だけ遠のく。
そして。
ビルの影から、
巨大な虚が姿を現した。
白い仮面。
裂けた口。
黒い霧を纏う異形。
虚は一直線に馨を見た。
「((狙いは私か――))」
強い魂。
喰えば、どれほど甘美か。
怪物が咆哮を上げ、巨大な腕を振り下ろす。
だが。
――目の前に現れた橙
そして死覇装――
「あっぶねえッ!!!」
黒い霊圧が爆発した。
「!?」
先程のオレンジの髪をした青年。
死神化していたのだった。
「((この霊圧……それにこの斬魄刀……!))」
巨大な斬魄刀を握り、馨の前へ飛び込む。
鼓膜を突き破りそうな程の轟音。
斬魄刀と虚の腕が激突する。
衝撃で地面が砕けた。
「ぐっ……!!」
一護の表情が歪む。
重い。
普通の虚じゃない。
押し潰されそうになりながらも、
一歩も引かない。
その姿に。
馨は再び、
目を奪われる。
「((……この背中――))」
"似ている"
護るために前へ出るところも。
無茶をするところも。
誰かのためなら、自分を顧みないところも。
まるで。
――海燕みたいだった。
「((……駄目だ…))」
胸が締め付けられる。
数十年間、蓋をしてきた感情が、一瞬だけ揺れた。
「おぁっ!?」
虚がさらに力を込める。
一護の足元のアスファルトが砕け散る。
「なんだよ……コイツ……!!」
このままだと狙われていた女性もろとも潰されてしまう――一護は必死に斬魄刀に力を込める。
その時。
「……」
馨は静かに前へ出た。
風が揺れる。
髪の毛がふわりと舞う。
そして。
低く澄んだ声が響いた。
「――"破道の四"」
一護が目を見開く。
「"白雷"」
刹那、蒼白い雷光が虚を目掛けて轟く。
たった一本の閃光が、空気を裂いた。
次の瞬間、虚の頭部が、綺麗に消し飛んでいた。
「""⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎ッァァァ!!!""」
巨大な身体が悲鳴をあげ、霊子となって崩れていく。
「…………」
馨は静かに崩壊する霊子を見上げていた。当の本人には傷はもちろん、塵一つもついていない。
静寂。
朝風だけが吹き抜ける。
一護は息を呑んでいた。
「((今……何が起こった?))」
地面に尻もちを着き、静かに前に立つ馨を見上げる。
"強い"
……いや、そんな言葉じゃ足りない。
目の前の女は、
"異常"だった。
馨はゆっくりと振り返り、一護を見る。
その瞳は、どこか悲しそうだった。
まるで――遠い誰かを重ねるみたいに。
一護は斬魄刀を握ったまま口を開く。
「あんた……見えてんのか?」
「はい」
静かな返事。
一護は眉を寄せる。
「……何もんだ?」
警戒するように、一護が眉を寄せる。
馨は答えなかった。
ただ、少しだけ困ったように目を細める。
その時だった。
ビュウ、と突風が吹き抜ける。
木々が大きく揺れる。
一護は思わず腕で顔を庇い、目を閉じた。
そして次に目を開けた瞬間。
「――――!?」
そこにいた女は、もう先ほどまでの姿ではなかった。
黒い死覇装。
風になびく長い髪。
腰に差された斬魄刀。
清々しい空を背景に立つその姿は、人間離れした静けさを纏っていた。
一護の息が止まる。
馨はそんな彼を見下ろしながら、どこか懐かしむように、小さく笑った。
「私は──」
ほんの僅か、言葉を迷う。
“死神”。
そう名乗れば簡単だった。
けれど。
長い年月を逃げ続け、何者にもなれず、何者でもないふりをして生きてきた彼女には、その名が少しだけ遠かった。
だから馨は、風に紛れるような声で言った。
「……ただの、通りすがりよ」
その言葉とは裏腹に。
彼女の背で揺れる死覇装だけが、
あまりにも鮮やかだった。
馨はほんの少しだけ微笑む。
だがその笑みは、
ひどく儚かった。
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