┈┈┈┈┈┈┈┈
敵ではない
味方でもない
それでも
貴方と私の間には
越えられぬ線があった
┈┈┈┈┈┈┈
BETWEEN US
┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
――私は。
貴女を見た瞬間、目を奪われた。
理由は分からない。
今でも説明はできない。
美しかったからではない。
強かったからでもない。
無論、そのどちらも事実だった。
十三番隊三席。
若くして席官に上り詰めた死神。
鬼道の才。
剣技。
人望。
誰もが認める実力者。
だが――
私が惹かれたのは、そういうものではなかった。
貴女は他の死神達と違った。
上手く言葉にはできない。
ただ。
貴女の周囲には不思議な空気があった。
静かで。
穏やかで。
それでいて誰よりも強い。
前へ出て人を従える訳ではない。
威圧する訳でもない。
それなのに。
気付けば誰もが貴女を見ていた。
誰もが貴女を信頼していた。
私もその一人だった。
幼かった私は。
いつしか貴女の背を追うようになった。
剣も。
礼節も。
在り方も。
貴女のようになりたいと、そう思っていた。
だからこそ。
あの日の出来事を聞いた時。
私は信じなかった。
信じられるはずがなかった。
十三番隊隊士大量殺害。
志波海燕の死。
首謀者――無類井馨。
笑わせるな、と。
そう思った。
証拠が揃っていようと。
証言があろうと。
そんなものはどうでも良かった。
私は知っていた。
貴女がどのような人間か。
どのように生きてきたか。
どれほど他者を想い。
どれほど自らを犠牲にする人間だったか。
そんな貴女が。
仲間を手に掛けるはずがない。
だから私は手を貸した。
誰にも知られぬよう。
誰にも気付かれぬよう。
移送経路を書き換え。
監視の穴を作り。
貴女が生き延びるための道を残した。
後悔はない。
あの時も。
""今も""
私は己の判断が誤りだったとは思っていない。
そして――
長い時が流れた。
百年近い歳月。
二度と会うことはないと思っていた。
現世のどこかで生きているのか。
あるいは。
既に死んでいるのか。
それすら分からなかった。
だが、あの夜。
空座町へ降り立った時。
微かに感じた霊圧。
忘れるはずのない霊圧。
懐かしい気配。
胸の奥が僅かに揺れた。
そして理解した。
貴女は生きていたのだと。
――まさか。
本当に、再び貴女に会う日が来るとは。
月明かりの下。
朽木白哉は静かに目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは。
百年前と変わらぬ黒髪と。
真っ直ぐな瞳。
そして。
初めて出会ったあの日と同じように。
今もなお。
彼女の姿は、鮮明に記憶に刻まれていた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈
┈┈┈
┈┈
――約百年前 朽木邸
┈┈┈┈┈
過去――
広大な庭園を望む一室には、静かな空気が流れていた。
窓から差し込む柔らかな陽光。
風に揺れる竹林の音。
墨の香り。
その中心で、一人の少年が筆を走らせている。
「…………」
朽木白哉。
見た目は十二、三の頃。
幼さを残しながらも、その背筋は真っ直ぐだった。
一画。
また一画。
迷いなく筆を運ぶ。
そこへ障子が静かに開かれた。
「――精が出るな、白哉」
低く穏やかな声。
白哉は即座に筆を置き、姿勢を正した。
「祖父上」
現れたのは朽木銀嶺。
朽木家第二十七代当主にして、六番隊隊長。
その威厳は老いてなお衰えていない。
白哉は深く頭を下げる。
銀嶺は書き上げられた文字へ目を向けた。
「……見事だ」
「ありがとうございます」
「鍛錬ばかりでなく、書も続けておるか」
「はい」
白哉は迷いなく答える。
「剣も書も同じでございます」
銀嶺の眉がわずかに動いた。
「ほう」
「心を乱せば筆は乱れます。集中を欠けば剣も鈍ります。…故に、どちらも疎かにはできません」
その返答に、銀嶺は小さく笑った。
「そうか」
短い言葉だった。
だがそこには確かな満足が滲んでいた。
やがて銀嶺は視線を外す。
「白哉」
「はい」
「お前に会わせたい者がおる」
白哉は僅かに首を傾げた。
会わせたい者。
祖父がそう言うのは珍しい。
まして朽木家の人間ではないらしい。
銀嶺は後ろへ視線を向ける。
「入りなさい」
静かな声。
次の瞬間、障子が開かれた。
そして――
白哉は思わず目を見開く。
一人の女性が姿を現した。
黒髪。
整った顔立ち。
飾り気のない死覇装。
それだけのはずだった。
だが。
なぜだろう。
部屋の空気が変わったように感じた。
圧倒されるほどの霊圧ではない。
威圧感でもない。
ただ、そこに立つだけで視線を奪われる。
不思議な存在感。
凛と伸びた背筋。
一歩ごとの所作。
無駄のない動き。
まるで長い年月をかけて磨かれた刀のようだった。
「((――"美しい"))」
そう思った。
だが、それだけではない。
幼い白哉には上手く言葉にできない。
"気高い"
そんな言葉が一番近かった。
女性は部屋の中央まで進むと、静かに跪いた。
姿勢は微塵も崩れない。
そして深く頭を垂れる。
「初めてお目にかかります」
透き通るような声だった。
「護廷十三隊十三番隊所属、三席」
そこで顔を上げる。
真っ直ぐな瞳。
一切の媚びも恐れもない。
ただ礼節だけを備えた視線。
「"無類井馨にございます"」
その瞬間。
白哉の胸の奥で何かが鳴った。
今まで出会った誰とも違う。
実父とも。
祖父とも。
隊士たちとも。
朽木家の家臣たちとも。
違う。
ただ強いだけではない。
ただ美しいだけでもない。
自分が知らない何かを持っている。
そんな気がした。
白哉は知らず知らずのうちに。
彼女から目を離せなくなっていた。
┈┈┈
穏やかな午後。
庭園には風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと音を立てる。
縁側には二つの湯呑み。
そして一皿のみたらし団子。
白哉は静かに茶を飲んでいた。
その隣では、馨が遠慮なく団子を頬張っている。
「美味しい……」
「それは良かったです!今日お越しになると聞いていたので用意させたんです!」
「……恐縮です……」
出会って数ヶ月、会う度にキラキラと瞳を輝かせる青年に馨は何だか恥ずかしささえ感じてしまう。
「朽木家のみたらし団子は格別ですね」
「そうなのでしょうか?」
「そうです!」
真剣だった。
三本目に手を伸ばしている。
白哉は少しだけ呆れた。
「((……何度か会って気づいたが……少々夜一にも近い何かがあるな。馨殿は。))」
十三番隊三席。
隊士達から慕われる実力者。
その姿と団子を頬張る姿がどうにも結び付かない。
そんな光景を見ていると。
ふと、以前から抱いていた疑問が口をついて出た。
「あの、馨殿」
「はい?」
「なぜ」
白哉は視線を庭へ向けたまま言う。
「貴女は強いのですか」
ぴたり。
団子を持つ手が止まった。
馨は目を瞬かせる。
「……突然ですね」
「答えたくなければ構いません」
「いえ」
馨は苦笑した。
「ただ、考えたことがなかったので」
そう言って再び団子を一口。
もぐもぐと頬を動かす。
「((………))」
白哉は静かに待つ。
やがて馨は空を見上げた。
青空だった。
雲がゆっくり流れている。
「強いかどうかは分かりません」
静かな声だった。
「私より強い人なんて沢山います」
「そうでしょうか?」
「そりゃもちろん!総隊長も居ますし、もちろん他の隊長たちも!」
「…………」
「志波副隊長も」
その名前に馨は自然と頬が緩む。
白哉は見逃さなかった。
だが何も言わない。
馨は続けた。
「ただ」
少しだけ考えるように目を細めた。
「誰かのために強くありたいとは思っています」
白哉が視線を向ける。
馨は団子を置いた。
「仲間が傷付かないように、守りたい人を守れるように、悲しむ人が少しでも減るように」
風が吹く。
黒髪が揺れる。
「だからでしょうか。私は誰かのためなら頑張れるんです」
それは。
とても単純な言葉だった。
だが不思議と胸に残る。
白哉は俯いた。
自分には分からなかった。
誰かのため。
朽木のため。
家のため。
尸魂界のため。
そう言われ続けて育った。
だが。
自分自身はどうなのだろう。
何を大切にしたいのか。
何を守りたいのか。
まだ分からない。
「私に」
気付けば言葉が漏れていた。
「私にも」
馨が振り返る。
白哉は視線を逸らした。
少しだけ恥ずかしかった。
「そのような人間になれるのでしょうか」
小さな声だった。
幼い少年の本音だった。
「私は朽木の人間です。いずれ家を背負う」
「はい、」
「何れ、隊長にもなる」
「はい」
「そうあるべきだと教えられてきました」
拳が握られる。
「ですが」
「?」
「時折……分からなくなるのです」
風の音だけが聞こえる。
馨は何も言わない。
ただ静かに聞いている。
「何が正しいのか、何を選ぶべきなのか……私が本当に守りたいものは何なのか」
言い終えた時。
白哉は自分が随分情けないことを言った気がした。
しかし。
馨は笑わなかった。
否定もしなかった。
ただ。
優しく微笑んだ。
「……申し訳ございません。私は馨殿に何を言っ」
「""白哉様""」
その声に白哉は顔を上げる。
こちらを優しく見つめる馨に視点を合わせた。
「自分のお立場を考えることは大切です。責任もあります。……きっと私には想像もできないほど」
そして。
馨はゆっくりと言った。
「ですが、自分を見失ってはいけません」
白哉は息を呑む。
「誰かの期待に応えようとして、誰かの理想になろうとして、自分自身を置いていってはいけません」
その言葉は。
不思議なくらい真っ直ぐ胸に届いた。
馨は続ける。
「白哉様が大切だと思ったもの、守りたいと思ったもの、信じたいと思ったもの――それだけは」
真っ直ぐ白哉を見る。
「絶対に折らないでください」
世界が静かになる。
「っ……」
風も。
木々の音も。
聞こえなくなる。
白哉はただその瞳を見ていた。
馨はそっと自らの胸に手を当てた。
「迷った時は」
そして優しく笑う。
「心を信じてください」
「心……ですか」
「はい。きっと答えはそこにあります」
その瞬間だった。
胸の奥が熱くなる。
言葉にできない感覚。
まるで閉ざされていた何かが開くような。
遠くにあった光が少し近付いたような。
そんな感覚だった。
白哉はその意味を知らない。
まだ幼かったから。
だが、ただ一つだけ。
確かなことがあった。
「((……馨殿))」
この人の言葉を。
自分は一生忘れないだろう。
風が吹く。
縁側に置かれた空の皿。
「……もぐもぐ」
「……""あ""」
最後のみたらし団子はいつの間にか消えていた。
「……馨殿」
「はい?」
「最後の一本は私のものだったはずですが」
「気のせいです」
即答だった。
「食べましたね」
「証拠はありますか?」
「口元にたれが付いています」
「…………」
沈黙。
そして、朽木邸には珍しく。
少年の小さな笑い声が響いた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
――後に朽木白哉は知る。
自分の人生を変えた言葉は。
剣術でも。
鬼道でも。
教えでもなかった。
あの春の日。
縁側で交わした、たった一つの言葉だったのだと。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
――現在
空座町の深夜。
外れにある小さなコンビニは、昼間とは別世界のような静けさに包まれていた。
自動ドアが開く音もまばら。
店内に流れる有線放送と、冷蔵ケースの低い駆動音だけが耳に届く。
客はほとんどいない。
雑誌コーナーには立ち読みをする学生が一人。
飲料棚の前にはスーツ姿の男性が一人。
そんな程度だった。
「……」
レジカウンターの内側。
馨は頬杖をつきながら新聞を読んでいた。
夜勤にもすっかり慣れた。
商品の補充も終わっている。
掃除も済んでいる。
あとは朝まで適当に時間を潰せばいい。
「((……汚職議員の裏金問題……本当に、人間っていうのは平和だ事。))」
平和だった。
本当に、何事もない夜だった。
「――ッ?」
――その瞬間までは。
「((……何))」
ぴたり。
新聞をめくる指先が止まる。
「……え?」
思わず声が漏れた。
遠く。
本当に遠く。
だが確かに感じた。
忘れるはずのない霊圧。
胸の奥が大きく揺れる。
そんな感覚に馨はゆっくり顔を上げた。
そして。
信じられないものを見るように目を見開く。
「……白哉様……?」
あり得ない。
ここは現世だ。
しかも空座町。
護廷十三隊の隊長が来る理由など――
「((……いや、違う))」
一つだけあった。
"""朽木ルキア"""
脳裏にその名が浮かんだ瞬間。
今度は別の霊圧が爆発する。
「!?」
激突。
衝突。
荒々しい霊圧。
覚えのある気配。
「((一護!!))」
馨は勢いよく立ち上がった。
椅子が倒れ、店内に大きな音が響く。
立ち読みしていた学生がびくっと肩を震わせた。
しかし馨は気付かない。
「((場所は――))」
窓の向こう。
暗い夜空を見つめる。
間違いない。
何かが起きている。
しかも最悪に近い形で。
「まさか……」
嫌な予感がした。
心臓が速くなる。
数十年間、一度も感じなかった感覚だった。
次の瞬間、馨はレジから飛び出した。
「ッ……」
自動ドアへ向かう。
するとちょうど、サラリーマン風の若い男性が栄養ドリンクを一本持ってレジへやって来た。
「あの、すみません会計――」
馨は立ち止まらない。
「え?」
男が間抜けな声を出す。
馨はそのまま店の外へ。
そして。
瞬間。
「ぇ……ええ!?」
姿が消えた。
風だけが残る。
「…………」
男は固まる。
手に持っていた栄養ドリンクが滑り落ちた。
床を転がる。
「……」
数秒の沈黙。
そして――
「…………え?」
理解が追い付かない。
もう一度店内を見る。
誰もいない。
外を見る。
やっぱりいない。
「…………ええ?」
さらに数秒。
「えええええええええええええええええっ!?」
深夜のコンビニに絶叫が響いた。
「消えたァァァァァァァァァ!!」
「店員さん消えたァァァァァァァ!!」
「なんだこれテレビ!?」
「ドッキリ!?」
「俺疲れてる!?」
完全にパニックだった。
だがその頃、馨は既に夜空を駆けていた。
「((……間に合うか――))」
瞬歩、風を裂く。
ビルの屋上を飛び越える。
霊圧はますます強くなる。
朽木白哉と知らない霊圧がひとつ。
そして一護。
三つの気配がぶつかり合っていた。
「((何が起こってるの))」
嫌な予感が胸を締め付ける。
もし、本当にルキアのことだとしたら――
夜風が黒髪を激しく揺らす。
そして馨は速度を上げた。
百年ぶりに感じた懐かしい霊圧へ向かって。
┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「……ぅ……がはっ……」
夜風が吹き荒れる。
一護は吐血し、地面に膝をついていた。
身体中が悲鳴を上げている。
目の前に立つのは護廷十三隊六番隊隊長――朽木白哉。
圧倒的な力。
圧倒的な格の違い。
一護は初めて理解していた。
「((……勝てねえ……))」
今の自分では絶対に。
その傍ら。
赤髪の男――六番隊副隊長、阿散井恋次が蛇尾丸を構えていた。
「悪く思うなよ」
低く呟く。
そして振り上げられる斬魄刀。
「よせ!!恋次!!」
「……くっ……」
「これ以上は――」
ルキアが必死に制止するも意味をなさない。
月光を受けた刃が鈍く光る。
次の一撃で終わる。
誰もがそう思った。
ルキアも思わず目を見開く。
「一護――!!」
その瞬間だった。
風が吹いた気がした。
いや、違う。
気付いた時には、もうそこにいた。
「なっ!」
「……」
白哉と恋次。
「ぁ……ッ」
ルキア。
「……ッ……」
そして一護。
その四人の間。
一人の女が立っていた。
揺れる黒髪。
コンビニの制服。
胸元には名札。
片手にはなぜか新聞。
どう見ても死神ではない。
どう見ても一般人だった。
だが、振り下ろされた蛇尾丸は。
その女の片手によって。
「((蛇尾丸を素手で!?))」
止まっていた。
ギリギリでもない。
受け流したわけでもない。
霊力に纏われた片手で掴んでいる。
まるで子供のおもちゃでも持つように。
「――なっ」
恋次の目が見開かれる。
蛇尾丸が動かない。
全力で引いても。
押しても。
びくともしない。
信じられない。
始解した斬魄刀を、死神ですらない格好の女が。
片手で止めている。
「なんだ、この女……!?」
恋次が叫ぶ。
「((……何となく……覚えがある気もするが……分かんねぇ……))」
その声を聞きながら。
馨は振り返らない。
ただ静かに蛇尾丸を掴んだまま。
「随分、乱暴ね」
穏やかな声だった。
「高校生相手に」
そして、ぱっと手を離す。
「くっ……」
恋次が思わず後ろへよろめいた。
「っ!?」
重い、何だ今の力は。
霊圧も見えない。
「((……いや、違ぇ……))」
あまりにも自然すぎて。
「((そもそも何も感じ取れねぇ!))」
その時。
ルキアの顔色が変わった。
「……馨…殿…?」
掠れた声。
信じられないものを見るような瞳。
なぜ。
なぜここに。
なぜ来た。
そんな感情が入り混じっていた。
馨はようやく振り返る。
月明かりが横顔を照らした。
過去と変わらない顔。
変わらない瞳。
変わらない優しさ。
そして、ルキアの視線が揺れる。
「((……私は……"あの時"))」
自分はあの日。
この人を拒絶した。
「((最後まで……私は))」
信じなかった。
「((再会しても尚……))」
遠ざけた。
なのに、助けに来た。
何も言わず。
当たり前のように。
「ルキア、怪我は?」
それだけだった。
責めるでもなく。
問い詰めるでもなく。
ただ、怪我を心配する。
それだけだ。
ルキアは言葉を失った。
胸が痛い。
何かを言わなければならない。
「っ……」
けれど、声にならない。
刹那――
ずっと沈黙していた男が口を開く。
「……"久しいな"」
低く。
静かな声。
馨の肩が僅かに揺れた。
数十年、聞いていなかった声。
馨は見上げた。
そこにいたのは。
首元に純白の風花紗を纏った男。
月光の下に立つ姿は。
昔より遥かに威厳を纏っていた。
"朽木白哉"
六番隊隊長。
そして。
かつて自分を"馨殿"と慕う少年。
「……」
「……」
二人の視線が交わる。
静かに、互いに何か思っているように、
「……ッ」
恋次は目を見開く。
あの隊長が。
誰かに自ら話しかけた。
しかも。
知り合いのように。
……いや。
それ以上だ。
白哉の瞳の奥には。
ほんの僅かだが。
懐かしさがあった。
「……"白哉様"」
馨が静かに口を開く。
「ご無沙汰しております。」
丁寧な一礼、呼び方。
その声音。
まるで百年前の続きを話しているようだった。
夜風が吹く。
誰も動かない。
一護だけが地面から顔を上げる。
痛む身体を忘れるほど。
目の前の光景に目を奪われていた。
なんなんだ。
この人は。
ただの死神じゃなかったのか。
自分に呆れながら。
時々笑いながら。
見守っていたあの女は。
一体。
何者なんだ――。
張り詰めた空気の中。
馨はゆっくりと恋次へ視線を向けた。
「説明してもらえる?」
穏やかな声だった。
だがその場にいる誰もが分かる。
これは質問ではない。
事情を聞くための言葉だ。
恋次は一瞬だけ白哉を見る。
白哉は何も言わない。
黙認。
恋次は小さく息を吐いた。
「……ルキアが人間に死神の力を譲渡した」
「ええ。把握してる。」
「なら話は早え。その罪状で連行命令が出てる」
「……」
「"護廷十三隊の正式な命令だ"」
余計な説明はない。
だが十分だった。
馨は静かにルキアを見る。
ルキアは俯いたまま何も言わない。
否定もしない。
言い訳もしない。
その姿だけで全て理解できた。
沈黙。
その時だった。
「ぅ……ぐっ……」
足首に何かが触れる。
うめき声とともに。
「……一護」
馨が視線を落とす。
そこには血だらけの手があった。
倒れたまま。
震える指で馨の足首を掴んでいる。
「……だめだ」
掠れた声。
今にも消えそうな声だった。
それでも。
その瞳だけは死んでいない。
「行かせるな……」
馨は黙って見下ろす。
「頼む……」
一護は歯を食いしばった。
「止めてくれ……」
その言葉に。
ルキアが目を閉じる。
恋次が僅かに眉を寄せる。
だが。
馨は答えない。
ただ静かに、その手を見つめるだけだった。
すると、不意に。
白哉の声が落ちた。
「……その男は」
静かな声。
「お前の何だ」
全員の視線が集まる。
馨は一瞬だけ考えた。
そして。
小さく笑う。
「教え子……かな。」
「教え子?」
恋次が思わず聞き返す。
馨は頷いた。
「そんな大層なものじゃないけれど、少し縁があっただけ」
その言葉を聞き、白哉は目を閉じる。
まるで何かに納得したように。
「やはりな」
「……?」
「そんな気がしていた」
視線が一護へ向く。
倒れてなお、立ち向かおうとする少年。
「太刀筋が似ていた」
ぽつりと、そう呟いた。
一護は意味が分からない。
恋次も分からない。
ルキアだけが僅かに目を見開く。
そして馨は苦笑した。
「そうですか」
それだけだった。
だが、その言葉の奥には。
百年前の記憶があった。
縁側。
木刀。
幼い少年。
懐かしい日々。
そして。
今。
馨はゆっくりと姿勢を正した。
「――白哉様」
空気が変わる。
恋次が思わず目を向ける。
この女は、隊長を名前で呼ぶ。
しかも。
まるで昔からそうだったかのように。
馨は真っ直ぐ白哉を見た。
「……本当に」
静かな声。
「ルキアを連れて行くおつもりですか」
白哉は即座に答える。
「無論だ」
迷いはない。
揺らぎもない。
「罪を犯した者を裁く。それが護廷十三隊だ」
「……」
「それが尸魂界の掟だ」
強く風が吹く。
その言葉を聞いた瞬間。
馨の胸が僅かに痛んだ。
"罪を犯した者は裁かれる"
当然の理屈。
正しい理屈。
ならば――
数十年前。
あの日。
""なぜ貴方は私を助けたのですか""
""なぜ移送経路を書き換えたのですか""
""なぜ見逃したのですか""
なぜ。
"""私を信じたのですか"""
「……」
その言葉は口にしない。
口にする必要もない。
白哉もまた。
何も言わない。
だが。
ほんの一瞬だけ。
二人の視線が交わる。
そこには、
百年前の出来事を知る者にしか分からない沈黙があった。
恋次は気付かない。
一護も気付かない。
ルキアだけが。
「……」
何かを感じ取ったように二人を見る。
そして、馨は静かに視線を落とした。
「……そうですか」
それ以上は言わない。
言えない。
今ここで交わすべき話ではないからだ。
そして、馨はゆっくりとルキアへ視線を向けた。
数十年という時を経て再会した少女。
かつて自分を姉様と慕った少女。
そして。
自分を拒絶した少女。
だが。
馨はそれを責める気持ちは欠片もなかった。
ただ。
一つだけ確かめたかった。
「……ルキア」
その声に。
ルキアの肩が小さく揺れる。
「あなたは」
馨は静かに問い掛けた。
「どうしたいの?」
夜風が吹く。
その問いは。
誰のためでもない。
白哉のためでも。
恋次のためでも。
一護のためでもない。
ルキア自身のための問いだった。
「……ぁ……」
ルキアは俯く。
長い沈黙。
拳が震える。
怖くないはずがない。
尸魂界へ連れ戻される。
その先に待つ処罰も分からない。
けれど、ルキアはゆっくりと顔を上げた。
視線は馨へ。
その瞳に涙はない。
ただ覚悟だけがあった。
「……私は」
小さな声。
だがはっきりとしていた。
「罪を犯した」
一護が顔を上げる。
ルキアは続けた。
「人間に死神の力を譲渡した。それは護廷十三隊の掟に反する……だから」
一度目を閉じる。
「……向き合わねばならぬ」
そう言った。
「覚悟しております。」
静かな決意だった。
馨は何も言わない。
ただ見つめている。
ルキアは続けた。
「私は助けを求めぬ」
その言葉に。
一護の表情が変わった。
「おい……」
ルキアは振り返らない。
「これが私の選んだことだ」
「待っ」
「だから、受け入れる」
ブレのない言葉と声色。
馨はしばらく何も言わなかった。
やがて。
ほんの少しだけ微笑む。
昔と変わらない。
優しい笑顔だった。
「……そう」
そして静かに頷く。
「"分かった"」
それだけだった。
止めない。
否定しない。
説得もしない。
ルキアの意思を。
そのまま受け入れた。
「おい……!馨!!」
一護が叫ぶ。
血を吐きながら立ち上がろうとする。
膝が震える。
身体はもう限界だった。
それでも、立ち上がろうとする。
「頼む……!」
声が震える。
「止めてくれ!!」
「……」
「行かせるなよ!!」
「……」
馨は振り返らない。
「馨!!」
「……」
「頼む!!」
「……」
「頼むから!!」
返事はない。
一護は歯を食いしばる。
理解できなかった。
目の前の女なら止められる。
白哉とも。
恋次とも戦える。
それだけの力がある。
なのに。
何故。
何故何もしない。
「なんでだよ!!」
叫びが夜空に響く。
だが、馨は何も言わない。
ただ静かに立っていた。
その姿を見て、ルキアは僅かに目を伏せる。
そして。
「……ありがとう…ございます。」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
馨だけが聞いた。
馨は答えない。
ただ、ほんの少しだけ目を細めた。
そして、白哉が歩き出す。
恋次も続く。
ルキアが最後に振り返る。
視線の先には。
叫び続ける一護。
そして、動かない馨。
月明かりが三人を照らす。
やがて、穿界門が開く。
ルキアの姿が消えていく。
「ルキアァァァァァ!!」
一護の叫びが響いた。
悲痛な叫びだった。
届かない。
手を伸ばしても。
もう届かない。
白哉も。
恋次も。
ルキアも。
全て消えた。
穿界門が閉ざされた瞬間。空気はガラッと変化した、
重い空気は全てなくなり、いつもの空座町の空気があたりに充満する、
――静寂。
夜風だけが吹いている。
一護は力なく倒れたまま、拳を地面へ叩き付ける。
「くそっ……!」
悔しさ。
怒り。
無力感。
全部が混ざっていた。
そして。
ゆっくり顔を上げる。
そこには、まだ馨が立っていた。
動かない。
追い掛けようともしない。
ただ、月明かりの中で。
静かに立ち尽くしている。
まるで。
何かを失った人のように。
一護にはその横顔が見えた。
「……」
百年前。
同じ光景を見送ったことがある人の顔だった。
┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈
その後、浦原商店。
表の明かりは落ちている。
街も静まり返り、人の気配はほとんどない。
そんな中。
商店の引き戸が静かに開いた。
そこにいたのは馨だった。
肩には意識の半ば飛びかけた一護。
血まみれの死神代行。
そして、何も言わず二人を迎えた浦原喜助。
驚きもない。
質問もない。
まるで最初から分かっていたようだった。
浦原は一護の傷だらけの姿を見て、そして馨を見る。
「奥、使ってください」
それだけだった。
馨も頷くだけ。
二人は奥の部屋へ向かう。
「……」
障子が閉まる。
残された浦原は静かに目を伏せた。
そのまま何も言わない。
┈┈┈
部屋の中。
一護は布団に腰を下ろしていた。
身体中が痛む。
白哉と恋次との戦い、
全くは歯が立たなかった事実。
そして、ルキアを失った事実。
「……ッ……」
全てがまだ生々しかった。
馨は黙ったまま回道を施している。
「……」
淡い光が傷口を包む。
裂けた皮膚が塞がる。
砕けた筋肉が繋がる。
それでも。
部屋には会話がなかった。
ただ、回道の光だけが静かに揺れている。
一護は俯いていた。
馨も何も言わない。
どれほど時間が経っただろう。
ようやく傷が落ち着き始めた頃。
馨が回道を解く。
「これで――」
その瞬間だった。
「……ンッ!!」
部屋が揺れる。
壁を叩きつけるような音。
馨の背中が壁へ叩き付けられた。
障子が震える。
湯呑みが倒れる。
「…………」
「はぁ……はぁ……ッ……」
一護だった。
馨の胸ぐらを掴んでいる。
息が荒い。
目は真っ赤だった。
怒り。
悔しさ。
悲しさ。
全部が混ざっている。
「てめぇ……」
低い声。
震えている。
「なんでだよ……!」
馨は何も言わない。
ただ見下ろしている。
一護はさらに胸ぐらを引き寄せた。
「なんで助けなかった!!」
声が部屋に響く。
「なんでルキアを行かせた!!」
「……」
「なんでだよ!!」
馨の表情は変わらない。
そして真っ直ぐと応える。
「ルキアが望んだから」
静かな声だった。
その一言で、一護の感情が爆発する。
「ふざけんな!!」
手に力が入る。
Tシャツの襟元が歪む。
壁が軋む。
「望んでなかったら助けたのかよ!?」
「……」
「助けるべきだっただろ!!」
「……」
「嫌だって言ってても!!」
「……」
「逃げるって言わなくても!!」
「……」
「助けるべきだったんだろ!!」
叫び。
叫び。
叫び。
それでも。馨は動じない。
一護を見つめるだけだった。
「……あなたは」
静かな声。
冷たい声。
「本当にそう思うの?」
一護は即答した。
「ああ!!当然だろ!!」
「何故?」
「仲間なんだぞ!!」
「……」
「助けたいんだよ!!」
「だったら――」
馨が口を開く。
一護の言葉を遮るように。
そして、冷たく言った。
「あなたが強かったら良かったのにね」
静寂。
世界が止まる。
一護の目が見開かれる。
馨は続けた。
「あなたがもっと強かったら、ルキアを守れた」
「なっ」
「誰の手も借りずに」
「……っ」
「自分で」
一護の身体が震える。
何も言えない。
言い返せない。
全部、事実だったからだ。
馨は視線を逸らさない。
「違う?」
その瞬間。
一護の拳が振り上がる。
「――!!」
怒りのままに。
悔しさのままに。
その顔へ向かって。
叩き込まれる――
……はずだった。
「……ツはあ……はぁ……」
拳は馨の頬の横を通り過ぎ、壁へ突き刺さった。
木材が砕ける。
大きな穴が空く。
部屋が揺れる。
だが、馨は瞬きすらしなかった。
避けもしない。
防ぎもしない。
ただ静かに見ている。
一護の拳が震えていた。
殴れない。
殴れるはずがない。
本当は分かっているから。
悪いのは馨じゃない。
連れ去ったあの二人でも
尸魂界でも……
一番許せないのは。
何もできなかった自分自身だ。
「……くそ」
声が掠れる。
拳から力が抜ける。
肩が落ちる。
膝が崩れる。
そのまま。
畳の上へ座り込んだ。
顔が見えない。
俯いている。
だが。
肩だけが小さく震えていた。
悔しかった。
情けなかった。
何も守れなかった。
何もできなかった。
馨はしばらくその姿を見ていた。
何も言わない。
慰めもしない。
優しい言葉も掛けない。
ただ。
静かに見つめていた。
百年前。
自分も同じ顔をしたことがあるから。
どうしようもない無力感を。
誰より知っていたから。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈
""第一級重禍罪、朽木ルキアを殛囚とし、これより25日の後に真央刑庭において殛刑に処す""
""それが尸魂界の最終決定だ""
┈┈┈┈┈
ルキアの牢を後にした白哉は、静かな廊下を歩いていた。
牢獄の冷気がまだ衣に残っている。
――二十五日後。
朽木ルキアは双殛によって処刑される。
その事実を告げた妹の顔は、思いのほか穏やかだった。
だからこそ腹立たしい。
だからこそ――胸が重い。
「……?」
ふと。
前方から聞き慣れた足音が近付いてきた。
「随分冷静やったなあ、六番隊長さん」
「……」
「ご立派ご立派」
間延びした声。
現れたのは三番隊隊長、市丸ギンだった。
狐のような細い目をいつものように笑わせている。
「自分の妹が死ぬいうのにあの冷静さ、さすが六番隊長さん。死神のかがみやな」
彼の癖のある話し方はやけに人を挑発させる。しかし白哉は冷静だった。
「市丸隊長。副官も釣連れず、私に何の用だ?」
「いややなあ〜。妹さんが処刑されるいうんで、六番隊長さんがへこんでへんか心配しててやんか」
「兄には関係ないことだ」
「全然へこんでへん!すごいわあ。」
ギンは容赦なく続ける、
「 まあ、名門には罪人は邪魔やろし、なんとも思わへんのかな」
「……ほう、貴族の機微が平民に理解できるとは意外だな」
市丸は気にした様子もなく肩をすくめた。
「難儀やなぁ」
他人事のような声音だった。
「せっかく連れ帰ったのに、処刑やもんなぁ」
「用件はそれだけか」
「怖い怖い、まあちと話ししましょう?」
くすくすと笑う。
そして、ふと思い出したように声色を変えた。
「そういえば」
白哉の足が止まる。
「妹さん連れ帰る時の報告書、見させてもらいましたわ」
沈黙。
市丸は続ける。
「現世で妙な霊圧感じたとか書いてありましたなぁ」
その言葉に白哉の視線がわずかに細くなる。
「……」
「"生きとったんやろ?"」
空気が変わった。
先ほどまでの軽薄な笑みが、別の意味を帯びる。
「無類井馨ちゃん」
市丸は懐かしい名前を口にした。
「――あの事件の大罪人やん」
「……」
「忘れたん?」
白哉は何も答えない。
しかし市丸は気にせず続けた。
「なあ」
少しだけ声が低くなる。
「ほんま、あん時の事忘れられへんわぁ」
市丸はわざとらしく白哉の肩へ腕を回した。
隊長同士とは思えぬ無遠慮さだった。
「逃亡」
その言葉だけがやけに重い。
「よう逃げたと思わん?」
「……」
「どう考えても何かしら手助けがないと無理や」
市丸の口元が歪む。
「しかも不気味なんが、その後の捜索は禁止」
「……」
「追跡もなし」
「……」
「現世への調査もなし」
「……」
「まるで最初から見逃すつもりやったみたいや」
白哉は市丸を見ない。
ただ前だけを見据えていた。
「……だからなんだ」
ようやく返された声は冷たい。
市丸は肩を竦めた。
「別にぃ?ちょっと気になっただけや」
そして。
その細い目がわずかに開く。
蛇が獲物を眺めるように。
「無類井馨ちゃん」
懐かしむように呟く。
「好きやってんけどなぁ」
白哉の眉が僅かに動く。
だがそれだけだった。
市丸は笑う。
何もかも見透かしたように。
何も知らないように。
そのどちらとも取れる笑みで。
「ほな」
白哉は何も言わない。
そのまま踵を返した。
去っていく背中を見送りながら、市丸はひとり小さく笑う。
「……藍染隊長喜ぶやろなぁ」
誰にも聞こえない声。
静かな廊下に溶けて消えた。
「まあ、生きとんのは"知っとったけど"なあ」
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