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誰も知らなくていいと思っていた
誰にも知られたくないと思っていた
それでも
君は私を見つけてしまった
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RESONANCE
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┈┈┈┈┈
浦原商店、居間
ルキア救出の為、尸魂界へ乗り込む準備が進められる中、その一室には重たい空気が漂っていた。
畳の上に胡座をかく黒崎一護。
壁際に寄りかかる石田雨竜。
少し不安そうに座る井上織姫。
腕を組み静かに耳を傾ける茶渡泰虎。
その正面には浦原喜助。
そして人間の姿をした夜一がいた。
黒い髪を揺らしながら立つ四楓院夜一の姿に、未だ慣れない一護たちは時折そちらへ視線を向けてしまう。
だが今、彼らの意識は別の人物へ向いていた。
その場にいるはずのない人物。
ここ数日、姿を見せていない人物。
""無類井馨""
最初に口を開いたのは井上だった。
「あの………」
遠慮がちに。
けれど以前から気になっていたことをようやく口にする。
「馨さん、最近全然見ない…ですよね」
静寂が落ちる。
石田も眉を寄せた。
「僕も気になってた。朽木さんが連れ去られた後からだ」
「…そうだな」
茶渡も短く頷く。
誰もが思っていた。
だが誰も口にしなかった。
いや――正確には。
口にする余裕がなかった。
ルキアを助ける。
その目的が大きすぎたのだ。
しかし準備が整い始めた今だからこそ、逆にその不自然さが際立っていた。
そして、一護はずっと引っかかっていた。
あの日、ルキアが去った日。
それを見ていた馨の姿。
あの横顔。
あの目。
あれは決して無関心な人間の目ではなかった。
「……なぁ」
一護が口を開く。
低い声だった。
「浦原さん」
「ハイ?」
「……今更だけど、馨って何者なんだ」
部屋の空気が僅かに変わった。
「死神ってのはもちろん分かってる。……でもよ」
一護は視線を逸らさない。
「ルキア。馨の事になると話逸らしてたし、変な距離感があったっつーか……」
「……」
「やたら強えし、本人は何も話してくれねえし。」
「……」
「それに――」
拳を握る。
「馨はなんで…ルキアを助けなかったんだ」
沈黙。
「「「……」」」
誰も口を開かない。
浦原も、夜一も。
長い沈黙だった。
やがて。
夜一が小さく息を吐く。
「……喜助」
「……」
「本当に、話すんじゃの?」
その声音には僅かな警戒が混じっていた。
「……ふう」
浦原は帽子の鍔を押し上げる。
「ええ」
穏やかに。
けれど珍しく迷いなく答えた。
「むしろ彼らには話しておくべきでしょう」
一護たちを見る。
その目は真剣だった。
「馨サンの"壮絶な過去"を、ね」
一護たちは自然と姿勢を正した。
浦原は少しだけ目を伏せる。
まるで遠い昔を思い出すように。
そして静かに語り始めた。
「まず最初に……皆さんが思っていることは"間違い"っス」
「え?」
織姫が首を傾げる。
浦原は続ける。
「彼女はルキアさんを見捨てた訳じゃありません。むしろ逆っス」
「逆?」
一護が眉をひそめる。
浦原は静かに頷いた。
「彼女は今でも、朽木ルキアという存在を捨てられていない」
その言葉に部屋が静まり返る。
「捨てられない?」
石田が問い返す。
「ええ。捨てられないんスよ」
浦原は苦く笑った。
「尸魂界も、仲間も、過去も――」
浦原の脳裏に浮かぶのは馨の後ろ姿。
「"全部"……彼女は置いていけなかった」
一護が黙る。
なんとなく分かった気がした。
あの表情、あの日の横顔。
あれは怒りではない。
憎しみでもない。
もっと別のものだった。
「じゃあなんで……なんで行かねぇんだよ」
その問いに答えたのは夜一だった。
「怖いんじゃ」
全員が夜一を見る。
夜一は腕を組みながら壁にもたれる。
「怖いんじゃよ。もう一度向き合うことが」
「……」
「尸魂界に戻れば、必ず思い出す」
その言葉には重みがあった。
知っている者の重み。
共にあの時代を生きた者の重み。
夜一は静かに続ける。
「大切な者を失った日を」
息を引き取った、最愛の人を絶叫しながら抱きしめる馨。
「信じていた者達に裏切られた日を」
四十六室にて、四方八方から飛ばされる野次。
「自分が何者だったのかを」
月夜を見上げる、あの娘の後ろ姿。
「「……」」
部屋が静まり返る。
誰も言葉を挟まない。
そして浦原が口を開いた。
「今から数十年前。尸魂界で一つの大事件が起きました」
一護たちの表情が変わる。
浦原はゆっくりと語る。
「その事件の中心にいたのが」
そこで一度言葉を切る。
帽子の影に隠れた目が静かに細められる。
「"無類井馨"……彼女だったんス」
その瞬間。
部屋の空気が変わった。
誰もまだ知らない。
彼女が何を失ったのか。
なぜ逃げ続けているのか。
なぜ現世で、夜のコンビニで働きながら、無闇に人と関わらず生きているのか。
その全てが。
これから語られようとしていた。
浦原は続ける。
その声音はいつもの軽薄さを一切感じさせない。
どこか重く。
どこか苦く。
まるで、自分自身も忘れられない過去を掘り起こすような声だった。
「改めて……無類井馨。"元"護廷十三隊 十三番隊 三席」
その名が部屋に落ちる。
「出生は不明。」
「不明……って?」
織姫が小さく呟く。
浦原は頷いた。
「少なくとも尸魂界の正式な記録には残ってません」
浦原は指を立てる。
「親も、家族も、どこから来たのかも――何も分からない」
静寂。
それは一護たちが想像していた以上に異常な話だった。
尸魂界には膨大な記録がある。
死神の履歴。
流魂街の戸籍。
隊士の経歴。
何も残っていないなど、本来ありえない。
「だから噂だけが独り歩きした」
浦原は続ける。
「流魂街に捨てられていた子供、任務中の死神に偶然拾われた孤児、貴族の隠し子……いいや、実は十三番隊総隊長の血縁者だ」
「……」
「そんな話までありました」
石田が眉を寄せる。
「根拠はあるんですか?」
「ありません」
即答だった。
「"だから噂"なんス」
「……フッ……」
夜一が鼻で笑う。
「滑稽じゃった。理解できぬものを勝手に解釈したがる。哀れなものじゃ。」
浦原は小さく頷く。
「彼女は特別だった」
「……特別すぎたんじゃ」
霊術院入学。
飛び級。
鬼道。
剣術。
白打。
瞬歩。
どれも規格外。
どれも異常。
どれも説明がつかない。
「誰もが彼女を見ていた。良くも悪くも。」
浦原は扇子を閉じ、目線を下げる。
「期待」
「嫉妬」
「羨望」
「恐怖」
「好奇心」
馨に向けられていた様々な視線。
「……色んな感情を向けられていたんッスよ。」
浦原は目を伏せる。
「本人が望んでなくてもね」
┈┈
『見て』
『あれが無類井馨』
『また一番だって』
『化け物じゃない?』
『天才よ』
『近寄らない方がいい』
『綺麗な人だな』
『怖い』
『""何者なんだ""』
┈┈┈┈
誰もが知っている。
けれど誰も知らない。
そんな存在だった。
「彼女はずっと一人だったんス」
浦原がぽつりと言った。
その言葉に。なぜか織姫の胸が少し痛んだ。
現世で自分達と関わり始めた時。
織姫にとって馨は"良い人"でしかなかった。
少し闇もありそうだが、根は優しい。
自分の兄のことを話した時も、馨は優しく頭を撫でてくれたのを覚えている。
そんな優しい人が、実は誰よりも孤独を抱えていたなんて。
浦原は織姫の様子を見ると再び口を開く。
「……でも」
浦原は微笑む、本当に少しだけ。
懐かしそうに。
「一人だけ違ったんス。」
そんな彼女を、誰よりも優しく包み込んだ人がいる。
「""志波海燕""……」
一護が顔を上げる。
その名前を何となく耳にした記憶があった。
ルキアから聞いたことがある。
十三番隊副隊長で、ルキアが慕っていた人物だと。
そして。
既に亡くなっていた人物。
「志波サンだけは、馨サンを特別扱いしなかった」
天才だからでもない。
強いからでもない。
美しいからでもない。
利用価値があるからでもない。
ただ。
無類井馨という人間を見ていた。
「初めてだったんスよ」
浦原の声が少し掠れる。
「彼女が、誰かと普通に笑ったのは」
茶渡が静かに目を伏せた。
石田も何も言わない。
井上は胸の前で手を握りしめる。
「恋人になって、家族になって、仲間に囲まれて―――彼女はようやく幸せになった」
やっとだった。
本当にやっとだった。
誰にも理解されなかった少女が。
ようやく、居場所を見つけた。
「そして」
浦原の声が重くなる。
「""全部失った""」
空気が凍りつく。
誰も動かない。
「とある任務で……まア色々ありましてね。」
織姫が息を呑む。
夜一は黙ったまま目を閉じた。
浦原だけが続ける。
「仲間を守るため、彼女は戦った」
戦って。
戦って。
戦って。
自らがボロボロになろうとも。
何度も立ち上がった。
「そして。愛する人を、自らの手で、」
心の臓を貫く刃。
泣き叫ぶ彼女の悲鳴
「"""殺した"""」
部屋の空気が張り詰める。
一護が無意識に拳を握った。
「本人がそう言ってました。自らの手で殺したと。」
沈黙。
長い沈黙。
一護をはじめ、その場にいた織姫や石田、チャドが脳裏で彼女を思い浮かべていた。
最強とも言える彼女が抱えた深い闇。
ここ暫く、一緒に過ごしていたがそんな空気は感じなかった。
知的に見据える瞳も。
仲間を思う優しい眼差しも。
時折見せる、あの笑顔も。
その裏で、どんなに辛いことを背負っているのかと。
「……そんな」
織姫の声が震えた。
「あの人に……そんな過去があったなんて。」
「……」
石田と茶渡も動揺していた。
「その後」
それを他所に、浦原は続ける。
「さらに事件が起きた」
一護は無意識に両手拳を握りしめる。
「任務に参加していた隊士達の"大量虐殺"。その中で唯一の生き残り――」
大量虐殺。その言葉に全員がゾッと背筋を凍らせる。
「当時の隊長、そして"朽木さん"。2人だけが生き残ったんス。」
大量に、無残に。
そして、現場に残された証拠。
凶器となった斬魄刀。
霊圧、鬼道の残穢。
目撃証言、記録。
全て。
全て。
全て。
それは無類井馨を指していた。
「彼女が犯人だと誰もが信じた」
仲間を殺害。
愛していた人でさえ、馨は容赦なく刃を振るった。
本当に?
あの人が?と
一護達は"そんなはずがない"と言わんばかりの表情を浮かべていた。
そして同時に、あのルキアが馨に妙な距離を置いていた理由もこの話で繋がった。
やっと、あのふたりの事を少し理解できた気がした。
「あの…馨さんが?」
「信じられない話ですね。」
「……ああ。」
織姫、石田、茶渡は嘘だと疑う。
それほどに有り得ない内容なのだ。
「そして直ぐに彼女は捕縛され、裁かれた。」
浦原は帽子を深く被り直す。
当時の酷い出来事から目をそらすように。
「その時の記録を盗み見したことがありますが……まあ酷いもんですよ。」
ゴクリと息を飲む一同。
「ありとあらゆる捏造記録。まるで彼女は化け物だと言わんばかりの調書内容。何十時間も彼女は罵声を浴びせられ、自分の発言も認められず。……情状酌量の提出があったそうですが、それさえも認められなかった。」
一護の眉が動く。
馨の哀しい背中が一瞬脳裏に浮かんだ。
「死刑は"確実"。彼女を救える者は尸魂界にはいなかった。」
誰が見ても。
誰が聞いても。
誰も信じてくれない。
「本人は否定した。何度も。」
「……ッ」
「床に頭を擦り付け、必死に頭を垂れ、罵声に耐えながら、不快感に何度も胃液を吐き出しながら。」
想像を絶する内容だった。
一護は胸元に手を添え、必死に堪える。
もちろんその光景を直接見たわけではない。ただ、浦原の口にする事実が想像で脳内で再生される。
┈┈┈┈
『違います!』
『私は皆を救おうと!』
『お願い……っ……違うんです……!』
『うっ……うぅぅ……』
『信じて!!』
『私は……私はッ……!』
┈┈┈┈
何度も。
何度も。
何度も。
それでも覆らなかった。
「夫である志波海燕の死体を祀ることも出来ぬまま。見送ることもできず。……あやつは独りで死を待った。」
冷たい床。
何も無い無機質な牢。
僅かに見える月を眺めながら。
馨は祈るように両手を合わせる日々を過ごしていた。
もう誰も信じてくれない。
誰も助けに来ない。
―――死ぬのだと。
「……でも、馨さんは生きてます、よね?」
ぽつりと織姫が呟く。
浦原と夜一はこくりと頷き、この話の結末へと話を続けた。
「ええ。彼女は間違いなく生きてます。」
現世で生きる馨。
魂魄でもなく、本物の馨の姿。
「――馨さんを連れ出したんです。ボクと夜一サンで。」
浦原が静かに笑う。
どこか誇らしげに。
「ワシと喜助は、昔から馨と繋がっとってのう。……見捨てられんかったんじゃ。」
「ええ。……それに"予測"してたんス。馨サンが何れ何かしらに巻き込まれると」
意味深な言葉だった。
しかし一護達は深堀しなかった。
きっと、無類井馨を取り巻く闇はまだまだあるのだと悟ったからだった。
「それと、馨サンを救い出すにあたって重要人物がもう1人……」
そこで一度言葉を切った。
「――"朽木白哉"」
「え……朽木って……この前の」
一護達の目が見開かれる。
「そうッス。朽木サンの義兄である彼も、馨さん救出にあたって抜け道を作ってくれた協力者でもあるんスよ。」
あの男が…?
あの冷たい男が。
ルキアを連れ去った男が。
「あやつは誰にも知られず動いたんじゃ。……まるで、ワシらが来ることを分かりきっていたようにのう。」
移送経路
警備
追手を遅らせ、逃げ仰せた馨。
その存在があったということは、きっと今の尸魂界内でも"あの事件はなにかおかしい"と、ある程度疑う者もいるに違いない。
「彼は彼なりに、彼女を救おうとしたんス」
「うむ。実際、追っ手がおらぬのも、何かあるんじゃとワシらは踏んでおる。」
浦原と夜一はそこで言葉を止めた。
"何かある"――その発言は余計に有耶無耶に聞こえてしまう。
きっと、まだ話せないことがあるのだと理解した。しかしそれを話したところで、きっと一護達は何も理解できない。
闇深い、無類井馨の内実。
そしてルキアとの関わり。
あのふたりには底知れない深い関係性があるのだと、改めて再理解した。
「"馨サンは、ルキアさんを見捨てた訳じゃない"」
浦原は真っ直ぐと一護を見据えた。
「今でも……前に進めないだけなんス」
最愛の人を失った夜。
信じていた仲間達。
失われた居場所。
奪われた人生。
全部が今も。
彼女の中では終わっていない。
「だから尸魂界へ戻れない。戻れば……また思い出してしまうんスよ」
浦原は小さく笑った。
だがその笑みは酷く寂しかった。
「馨サンは強い人です。……"けどね"」
一護たちはゴクリと息を飲む。
「""強い人ほど、壊れる時は脆いんスよ""」
その言葉に、誰も返事ができなかった。
ただ一護だけが、黙ったまま拳を握りしめていた。
胸の奥にどうしようもない感情が渦巻いていた。
あの日見た彼女の背中が。
初めて少しだけ理解できた気がした。
「「「……」」」
室内の空気は、重かった。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
畳の上に落ちる沈黙だけが、やけに耳につく。
浦原が語った過去。
無類井馨という死神が背負わされた罪。
愛した人をその手で殺したこと。
信じていた仲間に追われたこと。
そして数十年もの間、たった一人で生きてきたこと。
その全てを聞き終えた時――
「―――ッ!!!」
一護は立ち上がっていた。
勢いよく。
まるで、その場にいることさえ耐えられないように。
「黒崎くん……?」
織姫が戸惑った声を漏らす。
「……」
一護は答えない。
拳を固く握り締めたまま、出口へ向かう。
「おい、黒崎!」
石田が呼ぶ。
「一護!」
茶渡も声を掛ける。
だが、一護は振り返らない。
乱暴に戸が開かれる。
夜の風が吹き込み、店内の空気を揺らした。
そして、次の瞬間には、その姿はもうなかった。
「黒崎くん!」
「黒崎!」
「一護!」
三人の声だけが夜へ消えていく。
しかし返事はない。
遠ざかる足音だけが、微かに聞こえた。
やがて、室内に再び静寂が戻る。
織姫は不安そうに入口を見つめていた。
石田は眼鏡の奥で目を伏せる。
茶渡は腕を組んだまま黙っていた。
誰も責めなかった。
責められるはずもない。
あまりにも重すぎる話だった。
十七歳の高校生が受け止めるには……あまりにも。
「……追いかけた方がいいでしょうか」
織姫がおずおずと尋ねる。
浦原は帽子の鍔を軽く押し上げた。
「いや」
静かな声だった。
「大丈夫ッスよ。」
その言葉に、誰も反論しなかった。
部屋の壁にもたれる夜一は静かに目を閉じる。
再び沈黙。
外では虫の鳴き声が聞こえる。
しばらくして、浦原は湯飲みに残った茶へ視線を落とした。
その瞳はどこか遠くを見ている。
まるで数十年前、馨を救い出したあの日を思い出しているように。
「……でも」
ぽつりと呟く。
誰に聞かせるでもなく。
「彼女も、向き合う時期が来たんスよ」
夜一が僅かに目を開いた。
浦原は続ける。
「逃げ続けるには、長すぎた」
「……」
「真実にも」
湯飲みを置く。
小さな音が響く。
「自分自身にも」
店内の空気がわずかに揺れた気がした。
そして浦原は、どこか確信めいた笑みを浮かべる。
「黒崎サンなら――」
そこで言葉を切る。
夜一だけが、その続きを理解したように小さく鼻を鳴らした。
外では夜風が吹いていた。
遠く離れた場所で。
何も知らないまま生きてきた二人の運命が
――静かに交わろうとしていた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
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┈┈┈┈┈┈┈
浦原商店を飛び出したあとも、一護の頭の中にはずっと同じ顔が浮かんでいた。
無類井馨。
静かな目。
どこか諦めたような笑み。
そして――あの日の背中。
ルキアが連れ去られていくのを見ながら、何も出来なかった背中。
いや。
違う。
何もしなかったんじゃない。
"出来なかったんだ"
浦原の話を聞いた今なら分かる。
あの人は、あの日からずっと。
時間が止まっている。
だからこそ気になった。
放っておけなかった。
┈┈┈
夜の空座町。
街灯の明かりがアスファルトを淡く照らしている。
「はぁっ、はぁっ……はぁっ!」
一護は走っていた。
ただひたすらに。
肺が焼けるように熱い。
息が苦しい。
それでも足を止める気にはなれなかった。
頭の中を何度も繰り返すのは、浦原の話だった。
――愛した人を殺した。
――仲間に裏切られた。
――数十年間、一人で生きてきた。
「……くそっ」
思わず吐き捨てる。
理解したつもりだった。
馨がどこか諦めている理由も。
人と距離を取る理由も。
冷たいようで優しい理由も。
だが実際に過去を聞いてしまえば、そんなものは全部甘かった。
あんな人生。
あんな過去。
どうやって背負って生きてきたのか。
考えるだけで胸が苦しくなる。
気づけば足は自然と向かっていた。
――あの"コンビニ"へ。
空座町の外れ。
少し古びた小さな店。
ガラン、と自動ドアが開く。
一護は勢いよく店内へ飛び込んだ。
「っ……!」
肩で息をしながら店内を見回す。
「((いつもならこの時間――))」
いつもなら。
レジの奥で退屈そうに雑誌を読んでいるか。
商品棚を整えているか。
そんな黒髪の女がいるはずだった。
しかし――
―――いない。
一護の視線が店内を走る。
飲料コーナー。
弁当棚。
雑誌売り場。
バックヤードの入口。
「((……いねえ。))」
どこにも、いない。
「……は?」
思わず漏れる。
もう一度見回す。
それでもいない。
まるで最初から存在していなかったみたいに。
胸の奥がざわつく。
「……ッ……」
その時だった。
「お客さん?」
声が飛びこむ。
レジの向こう側から、五十代ほどだろうか?
少し恰幅の良い中年男性が不思議そうな顔をしていた。
「……あ」
一護は我に返る。
慌てて呼吸を整える。
こんな顔で聞けば怪しまれる。
できるだけ平静を装った。
「……あの」
それでも声が少し掠れた。
「ここで働いてる無類井さん、いないっすか」
男性は一瞬きょとんとした。
「ああ、無類井さん?」
知っている反応だった。
一護は内心ほっとする。
「はい」
「君、無類井さんの知り合い?」
「まあ……そんな感じです」
曖昧に答える。
男性は顎を撫でながら苦笑した。
「珍しいなあ」
「?」
「君みたいに無類井さんを訪ねてくる人なんてほとんどいないからさ?たまに変なストーカーっぽい人は来るんだけど……君みたいな子は初めてだよ。」
その言葉が妙に胸に刺さる。
当然だ。
誰とも関わらないように生きてきた人なのだから。
男性はレジから少し身を乗り出した。
「今日は休みだよ」
「休み?」
「……いや、正確には体調不良かな」
一護の眉がぴくりと動く。
「体調……悪いんですか」
「珍しいんだけどねぇ」
男性は困ったように笑った。
「無類井さん、ほんと真面目だから」
「……」
「熱があろうが風邪ひこうが出てくるような人なのに、今日は電話一本だけだったよ」
""今日は休ませてください""
それだけだったらしい。
店長は肩を竦める。
「ちょっと声も元気なかったかな」
一護の胸が嫌な音を立てた。
浦原から聞いた過去。
それを知らず、
自分は馨に何を言った?
何をした?
ルキアを止めなかったことを咎め、手を出し、怒鳴りつけた。
なんてことをしてしまったのだと、一護は後悔していた。
「……家」
気づけば口にしていた。
「え?」
「無類井さんの家、知ってますか」
一護の問いに、店長は申し訳なさそうに肩を竦めた。
「うん、知らない」
「従業員の家知らねぇのかよ……」
「いやいや、今の時代そんなもんだって」
店長は苦笑する。
「そもそも無類井さん、自分のこと全然話さないし」
「……」
「住所も緊急連絡先も最低限しか出してないからねぇ」
一護は舌打ちを飲み込む。
確かに馨らしたい――徹底している。
誰とも深く関わらない。
誰にも踏み込ませない。
まるで最初から消える準備でもしているみたいに。
そんなことを考えていると。
店長がふと一護を見た。
そしてニヤリと笑う。
嫌な予感がした。
「なあ、君」
「……なんすか」
「もしかしてさ」
店長はレジに肘をつきながら顔を近づける。
「無類井さんのこと好きなの?」
「はぁ!?」
店内に一護の声が響いた。
「なっ……!」
耳まで真っ赤になる。
店長はケラケラ笑った。
「いやいや、だってさ」
「違ぇよ!」
「まだ何も言ってないじゃん」
「顔がニヤついてんだよ!」
「はははは!」
一護は額に青筋を浮かべる。
このおっさん。
絶対面白がっている。
「いやでもねぇ」
店長はなおも笑いながら言う。
「息切らして飛び込んできて」
「……」
「店入った瞬間、無類井さん探して」
「……」
「休みって聞いたら露骨に顔色変わって」
「……」
「そりゃそう思うでしょ」
「違ぇって言ってんだろ!」
店長はしばらく笑っていたが、やがて少しだけ優しい顔になる。
「でも」
「?」
「無類井さんが誰かに心配されてるの、初めて見たかもしれないな」
その言葉に、一護は何も言えなかった。
店長は窓の外を見る。
「いい人なんだよ」
ぽつりと呟く。
「いつも真面目だし」
「……」
「困ってる人がいたら放っとけないし」
「……」
「でも、自分のことは全然話さない」
少し寂しそうな声だった。
「だからかな」
店長は笑う。
「誰かが探しに来てくれるのは、ちょっと嬉しい」
一護は視線を逸らした。
胸の奥が妙に落ち着かない。
「……別に」
小さく呟く。
「ただ放っとけねぇだけだ」
「はいはい」
「だから違ぇって!」
「何が?」
「だから……!」
店長はとうとう吹き出した。
一護は顔を真っ赤にしたまま踵を返す。
「もういい!」
ガラン――
自動ドアが開く。
夜風が吹き込んだ。
「あ、君」
背後から声が飛ぶ。
一護は振り返らない。
「見つけたら伝えてくれるかい?」
「?」
「しっかり休んで、って」
「……」
優しさに、思わず笑いそうになる。
ほんの少しだけ。
「伝えとく」
「ありがとう」
そう言い残し、一護は店を飛び出した。
――そして店を出た瞬間、現実が押し寄せてきた。
「……どこ探せばいいんだよ」
思わず空を見上げる。
飛び出したものの、家を知らない。
連絡先も知らない。
住んでいる場所も。
普段何をしているのかも。
何も知らない。
霊圧を辿ろうにも無理だった。
馨は異常なほど気配を隠す。
死神としても。
逃亡者としても。
生き延びてきた理由の一つだろう。
実際、以前、一護は聞いたことがある。
"家どこなんだよ"
軽い気持ちだった。
すると馨は少し考えたあと。
"絶対教えない"
即答だった。
しかも妙に真顔で。
"なんでだよ"
"絶対に"
"だからなんで"
"絶対に"
話にならなかった。
思い出して一護は眉をひそめる。
「あンの頑固女が……」
小さく吐き捨てる。
しかし、そこで足を止める気にはなれなかった。
分からないなら探す。
それしかない。
一護は拳を握る。
夜の街を見渡した。
どこにいるかなんて分からない。
それでも、なぜか今は。
見つけなければいけない気がしていた。
誰よりも一人でいることに慣れてしまったあの人を。
今だけは、一人にしてはいけない気がしていた。
「……探すか……」
そう呟いた。
だが。
それが想像以上に困難だった。
┈┈┈
「どこだよ……」
夜はさらに深まる。
住宅街を練り歩き、路地を曲がる。
橋を渡る。河川敷を抜ける。
何度も。
何度も。
何度も。
「((……ここまで来たらぜってえ見つける))」
だが諦めなかった。
「((気配……慎重に追え……))」
残穢。
かすかに残る霊圧。
それだけを頼りに。
追い続けた。
┈┈┈
――二時間後。
空座町の外れ。
人気のない住宅街。
古びたアパート。
二階建て。
外壁は色褪せ。
鉄階段は少し錆びている。
築何十年だろうか。
セキュリティも何も皆無な建物に、何故か無性に悲しささえ感じる。
「((多分ここだ……にしても――))」
"あまりにも普通だった"
いや、普通すぎた。
尸魂界で名を轟かせた死神。
浦原や夜一が命懸けで救った人物。
そんな人間が住む場所には見えなかった。
「……」
風が吹く。
二階の廊下に干された洗濯物が揺れる。
妙に静かだった。
胸が苦しくなるほど。
「ここ……か」
微かに感じる彼女の霊圧。
本当に微かだ。
消えそうなほどに。
一護は鉄階段を上る。
"ぎし、ぎし"と古い音が鳴る。
そして。
一番奥。
表札も何もない。
外に置かれた洗濯機は稼働していなかった。
整頓された外の景観。
ふと、傘立てにあった青い傘が目に入る。
「((……馨の傘。ここで間違いないな。))」
彼女が愛用している傘。
それと全く同じもの。
この家で間違いないだろう。
「……ッ……」
ドアの前に立った時、やけに心音が響く。
浦原の言葉が蘇った。
"強い人ほど。壊れる時は脆い"
――""ドクン""
最愛の人を失った。
仲間を失った。
居場所を失った。
――""ドクン""
そして数十年。
一人で生きてきた。
「……ふー……」
一護は拳を握る。
深く息を吸う。
そして、覚悟を決めた。
"ピンポーン"
静かな廊下に古いチャイム音が響いた。
「……」
返事はない。
もう一度。
"ピンポーン"
「……」
沈黙。
「((……音も何もしねえ。……でも確かに気配――))」
刹那、
微かに。
本当に微かに。
中で誰かが動いた気配がした。
「……!」
一護は思わず、そのまま今度はノックをしてみた。
コンコン――
二度目のノックのあと。
しばらくして、部屋の向こうから足音が聞こえた。
ゆっくりと。
どこか重たい足取りで。
カチャリ、と鍵の外れる音。
続いて、古びたドアが軋みながら開く。
その音は妙に大きく聞こえた。
長い年月を経た木材の悲鳴のようで、ひどく寂しい音だった。
「……」
現れたのは馨だった。
黒髪を後ろで一つに束ね、白いロンTに薄いグレーの部屋着。
死神の姿ではない。
ただの、一人暮らしの女性。
けれど。
その顔は少しやつれて見えた。
「……」
「……」
一瞬だけ。
二人とも言葉が出なかった。
「……ぁ」
先に口を開いたのは一護だった。
「……よ、……よお」
不器用な挨拶。
馨は少しだけ目を丸くしたあと、小さく微笑む。
「"こんばんは"」
その声は相変わらず穏やかだった。
けれどどこか、疲れているようにも聞こえた。
一護は頭を掻く。
本当は言いたいことなんて山ほどあった。実は会うのは"あの時"ぶりだった。
ルキアが連れ去られ、浦原商店で馨に怒りをぶつけた時。
もしかしたら、もう顔も合わせてくれないのではと思ってしまうほど、最後に会った状況が悪すぎた。
「……」
いざ顔を見ると全部飛んでしまう。
「いきなり悪い。…しかもこんな時間に。」
「大丈夫よ。」
「……ちょっと……話していいか?」
馨は数秒だけ黙った。
断られるかと思った。
だが。
「……どうぞ」
そう言って身体を横にずらし、一護を中へと案内した。
「狭いけど」
「そんなこと気にすんな」
一護は靴を脱ぎ、部屋へ上がった。
その瞬間。
胸の奥が少しだけ苦しくなった。
「((……なんつーか……))」
"孤独"
そんな一言が浮かぶほど、部屋は質素だった。
六畳ほどのワンルーム。
壁紙は少し色褪せている。
窓際には年季の入った扇風機。
今にも止まりそうなほど古い型だった。
小さなテーブル。
座布団が二枚。
新聞と本が数冊。
それだけ。
テレビはない。
パソコンもない。
趣味を感じるものも。
写真も。
飾りも。
何もない。
生活感はある――だが。
"人生の気配がない"
この人は何十年もここで生きてきたはずなのに。
そこに残っているのは最低限の生活だけだった。
「……」
一護は何も言えなかった。
キッチンが視界に入る。
一人が立てばいっぱいになる程度の空間。
けれど綺麗だった。
調味料は整列している。
鍋も磨かれている。
包丁も丁寧に片付けられている。
毎日使っているのだろう。
その痕跡だけがある。
"生活するために生きている"
そんな印象だった。
「そこ、座布団のところ座って。」
「お、おう。」
一護は座布団に座るとキッチンに向かう馨を視線で追う。
その時、ふと。
冷蔵庫の横に置かれた買い物袋が目に入る。
その中から少しだけ覗いていた。
透明なパック。
「((……この人、いっつも団子食ってるけど、本当に好きなんだな。))」
雑に、哀し気に
値引きシールが貼られた、みたらし団子。
「……」
一護はなぜか目を離せなかった。
そして、浦原から聞いた話を思い出す。
志波海燕。
この人が愛した人。
この人が失った人。
なんとなく。
理由もなく。
胸が苦しくなる。
「――"ごめん"」
馨の声が聞こえた。
一護は振り返る。
「緑茶でいい?」
「……おう」
「コーヒーとかジュースとか、洒落たものはないから」
少しだけ申し訳なさそうに笑う。
一護は首を振る。
「別にそんなの気にしねぇよ。つーか……急に来たのは俺だし。」
お湯を沸かす音が聞こえる。
――カチッ
ボコボコ――
小さな部屋だからこそ。
その音がよく響いた。
「……」
妙だった。
今まで知らなかった、この人のことを。
強い人だと思っていた。
何でも出来る人だと思っていた。
大人で。
冷静で。
隙なんてない人だと思っていた。
でも違った。
ただ。
独りだったのだ。
あまりにも長い時間。
一人で。
「……」
「……」
時計の秒針が鳴る。
カチ――
カチ――
カチ――
静かだった。
静かすぎた。
この部屋には。
誰かが笑った痕跡がない。
誰かを待った痕跡がない。
誰かと過ごした痕跡がない。
あるのは。
"一人分の生活だけ"
そして、それが何十年も続いているんだ。
「((……この人は――))」
一護は目を伏せた。
自分なら耐えられない。
友達も。
仲間も。
居場所も。
全部失って。
こんな部屋で。
こんな静かな夜を。
何度過ごしたのだろう。
「ッ……」
その時、湯呑みがテーブルに置かれる。
小皿には、みたらし団子が二本。
「どうぞ」
馨が向かいに座る。
いつも通りの穏やかな顔。
何事もないような顔。
だけど。
今の一護には分かってしまった。
その穏やかさが。
どれだけ長い孤独の上に成り立っているのか。
扇風機がゆっくり首を振る。
古いモーター音が鳴る。
その部屋だけ。
まるで時間が止まっているようだった。
湯気の立つ緑茶。
古い扇風機の回る音。
窓の外から聞こえる遠い車の走行音。
それ以外は何も聞こえなかった。
向かい合って座る二人。
しばらく沈黙が続いた。
何から話せばいいのか分からない。
そんな空気だった。
やがて。
先に口を開いたのは一護だった。
「……まずさ」
握っていた湯呑みを置く。
そして、深々と頭を下げた。
馨が目を見開く。
「え……」
「ごめん」
真っ直ぐだった。
誤魔化しも。
照れ隠しもない。
不器用なままの謝罪だった。
「ルキアが連れてかれた時……俺……アンタに酷いこと言った」
一護の脳裏に浮かぶ。
浦原商店での出来事。
胸ぐらを掴んだこと。
責め立てたこと。
怒鳴ったこと。
そして。
""あんたなら助けられただろ""
そう言った自分。
「俺さ」
苦笑する。
「何も知らなかったんだよ」
「……」
「何も」
「……」
「アンタが何抱えてるかも」
「……」
「何があったかも」
「……」
「何で動けなかったかも」
「……」
「全部」
拳を握る。
「なのに勝手に決めつけて……勝手に怒って、勝手に責めた」
顔を上げない。
「だから……謝らせてくれ」
「……"俺が悪かった"」
「……」
静寂。
相変わらず扇風機だけが回っている。
その沈黙のあと、馨は小さく息を吐いた。
そして、少しだけ困ったように笑う。
「……"一護"」
「……ッ……」
「"顔を上げて"」
穏やかな声だった。
一護がゆっくり顔を上げる。
馨は首を横に振った。
「気にしてない」
本当に、心からそう思っている顔だった。
「あなたが怒るのは当然だったから」
「…でも」
そこで少し目を伏せる。
「私もごめんなさい」
今度は、馨が頭を下げた。
一護の目が見開かれる。
「お、おい」
「あなたに意地悪なことを言った」
静かな声だった。
「"あなたが強ければ良かった"のに、なんて……八つ当たりだった」
「いや……でも」
「本当は、あなたに言うべきことじゃなかった」
ゆっくり頭を上げる。
「ごめんなさい」
今度は一護が言葉を失う番だった。
まさか、まっすぐと謝られるとは予想外だった。
しばらくして。
「……なら、お互い様ってことでいいか」
そう言うと。
馨が少しだけ笑った。
「そうね」
その笑顔は。
久しぶりに見る柔らかなものだった。
ほんの少しだけ。
部屋の空気が軽くなる。
だが、一護は再び真剣な顔になる。
「俺、浦原さんから聞いた」
その言葉に。
馨の笑みが止まった。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ。
瞳が揺れる。
「……聞いたの?全部。」
「全部じゃねぇと思う……でも」
一護は続けた。
「だいたいは」
沈黙。
時計の秒針が響く。
カチ――
カチ――
カチ――
馨は何も言わない。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ静かに聞いていた。
一護は視線を落とす。
「正直さ、俺。アンタのこと何も知らなかった」
苦笑する。
「強ぇ人だなーくらいだった」
「……」
「あとちょっと訳あり」
「……」
「なんか怖いくらい強くて」
「……」
「何でも出来て……大人で」
「……」
「そんな感じ」
馨は黙っている。
「でも違った」
一護は顔を上げる。
真っ直ぐ彼女を見る。
「なんだかんだ、ちゃんと人見てるよな」
「……え?」
初めて馨が戸惑った顔をした。
一護は続ける。
「興味ないふりしてるけど、ちゃんと見てる」
「……」
「石田のことも井上のことも、チャドのことも……ルキアのことも、全部」。
思い返す。出会ってからの出来事を。
この人はいつだって一歩引いていた。
近づかない。
踏み込まない。
でも、見ていた。
ちゃんと。見ていた。
「厳しいこと言うし冷たいことも言う。でも人のことちゃんと見てから言うんだよなって。」
一護は断言する。
「だから……俺」
そして馨の瞳をまっすぐと見つめる。
「アンタ、嫌いになれなかった」
馨の瞳が少し揺れる。
「それに」
一護は笑った。
少し照れくさそうに、頭を掻きながら。
「何より、アンタ強ぇし」
「……」
「めちゃくちゃ強ぇ」
思わず笑ってしまう。
「虚なんか一撃だし、鬼道意味分かんねぇし、死神なのに何か別格だし」
「……ふふ」
「たぶん俺より強ぇし」
「それはどうだろ?」
「いや強ぇだろ」
珍しく少しだけ会話が弾む。
そして、一護は真顔になった。
ゆっくり、言葉を選ぶように。
口を開く。
「俺さ、本当に……アンタに憧れたんだ」
馨の動きが止まる。
一護自身も。
少し恥ずかしかった。
でも。これは嘘じゃない。
「浦原さんとも違う。夜一さんとも違う。」
「……」
「なんつーか……アンタ見てると」
言葉を探す。
そして、ようやく見つけた。
「""強くなりてぇって思った""」
部屋が静かになる。
「だから、知った今でも俺の中じゃ変わらねえ。」
一護は真っ直ぐ見つめる。
「……」
「アンタは」
少し笑った。
少年らしく。
真っ直ぐに。
「すげぇ人だよ」
その言葉に。
馨は何も返せなかった。
数十年間、言われたことのない言葉だったから。
罪人でも。
逃亡者でも。
哀れな女でもない。
ただ、一人の人間として。
尊敬していると。
憧れていると。
そう言われたのは―――あまりにも久しぶりだった。
浦原が言っていた言葉が脳裏をよぎる。
""どうしてそんなに全部を諦めた顔をするんです?""
""もっと自分自身にも興味を持ってみません?""
""いつまで、アナタは逃げ続けるんスか""
私は、何者で。
私は今、なんのためにここにいて。
「……ふー……」
静かに息を吐く。
「ねえ一護」
「ん?」
乾いた喉をお茶で潤す一護が顔を上げた。
馨は少しだけ迷った。
だが。やがて口を開く。
「君は」
「?」
「私が何者だとか」
一護が首を傾げる。
「私の斬魄刀の力は何なのかとか」
月明かりが馨の横顔を照らす。
「そういうの、気にならないの?」
しばらく沈黙が落ちた。
そしてふと、テーブルに用意されていたみたらし団子を一本手に取り、一護は咀嚼した。
――もぐもぐ
もぐもぐ――
そして飲み込む。
「――別に」
あまりにも自然な返答だった。
馨が目を瞬かせる。
「……別に?」
「おう」
一護は肩を竦める。
「気になんねーよ」
「なぜ?」
「なぜって……」
逆に困ったような顔になる。
しばらく考え。
やがて口を開く。
「お前が何者かなんて、お前だろ」
馨の瞳が僅かに揺れた。
一護は気付かない。
「死神だろうが」
「……」
「逃亡者だろうが」
「……」
「百年前の隊士だろうが」
「……」
「そんなの別に変わんなくね?」
あっさりと言う。
まるで本当に大したことではないかのように。
「俺が知ってんのは」
一護は指を差す。
「コンビニでバイトしてる変な女だ」
「……失礼ね」
「あとやたら団子食う」
「それは否定しない」
「あと説教が長ぇ」
「あなたが問題児だからでしょ」
「はいはい」
一護は鼻で笑う。
そして。
少しだけ真面目な顔になった。
「でもさ」
「?」
「俺が助けてもらったのは、無類井馨だ。」
静かな声だった。
「ルキアを助けられなかった時も」
「……」
「ぶん殴りたくなるくらいムカついたけど」
「…ええ」
「それでも、助けてくれたのはアンタだ。」
月明かりが揺れる。
一護は視線を逸らしながら続ける。
「だから別に」
「……」
「お前が何者かなんて、今さらだろ」
その瞬間。
馨の呼吸が止まった。
脳裏に。
遠い昔の記憶が蘇る。
声も、においも
忘れかけ始めていたあの人に。
――"友達になろうぜ!!"
そう言われた日。
自分を特別視せず、手を差し伸べてくれたあの人。
――"まーた団子食ってんの!"
隣に座っていた男。
黒髪を揺らしながら笑っていた。
┈┈
『お前さ』
『?』
『なんでそんな難しく考えるんだよ』
『難しく?』
『三席だろうが何だろうが、お前はお前じゃねぇか』
『……』
『肩書きなんて後から付いてくるもんだろ?』
夕焼けの中。
"志波海燕"は笑っていた。
『俺が好きなのは』
『……』
『無類井馨だよ』
┈┈
「……っ」
馨の瞳が見開かれる。
思わず息を呑んだ。
あまりにも。
「((……海燕さん))」
似ていた。
言葉が。
考え方が。
「なんつー顔してんだよ。……おーい?」
何より。
人を見る目が。
一護は怪訝そうに眉をひそめる。
「おい?」
「……」
「どうした?」
馨は答えない。
ただ静かに目を伏せた。
胸の奥が痛かった。
苦しいほどに。
懐かしかった。
もう二度と聞けないと思っていた言葉を。
まるで別人の口から聞いたような気がした。
笑い方も。
怒り方も。
誰かを守ろうとするところも。
全部、""似ていた""
だから苦しかった。
今までは、ずっと。
――けれど。
違う。
馨はゆっくりと瞬きをする。
目の前にいるのは、志波海燕じゃない。
黒崎一護だ。
「((これが……あなたなのね、))」
じっと一護を見つめていた。
黒い瞳が揺れる。
その奥に映るのは――
オレンジ色の髪。
真っ直ぐな瞳。
不器用な優しさ。
諦めの悪さ。
誰かのために傷付くことを恐れない姿。
「ま、とにかく、アンタはすげぇ人だよ」
最後の団子を放り込む。
そして口元を緩ませ、優しく笑う。
その言葉が落ちた瞬間、馨は何も言わなかった。
ただ。
┈┈
――海燕さん。
┈┈
今までの馨なら海燕を重ねて終わっていただろう。
しかし今回は違う。
"海燕に似ている"――海燕ではない。
黒崎一護という存在を認識したのだ。
彼を知りたい。
ただただ、彼に興味を持ったのだった。
「……」
小さく息を吐く。
そして、尸魂界を去ってから数十年間。
誰にも向けなかった眼差しで、一護を見る。
少しだけ、信じてみたい。
そう思ってしまった。
馨は自分でも気づかぬほど柔らかく目を細める。
普段の冷たいほど静かな表情ではない。
警戒も。
諦めも。
どこにもない。
月明かりに照らされたその横顔は。
まるで長い冬の終わりに差し込む陽だまりのように穏やかだった。
「一護」
「ん?」
馨はゆっくり立ち上がる。
「――ついてきて。」
一護が何か言うより先に、彼女は部屋の窓へ歩み寄る。
ガラリ、と古いサッシが音を立てた。
夜風が部屋へ流れ込む。
カーテンがふわりと揺れた。
「おい!」
一護が眉をひそめる。
「どこから行くんだよ。」
しかし馨は答えない。
窓枠へ片足を掛けると、振り返って小さく首を傾げた。
「ほら。」
その瞬間だった。
淡い霊圧が彼女の身体を包み込む。
さらり、と黒髪が揺れる。
次の瞬間には。
そこにいたのは、コンビニ店員の女性ではなかった。
黒い死覇装。
腰に差された刀。
月明かりに照らされた白い横顔。
凛とした空気を纏う死神。
見慣れたはずの顔なのに、どこか遠い存在のように見えてしまう。
一護は思わず息を呑んだ。
「……ッ」
馨はそんな彼の様子に気付いているのかいないのか。
僅かに微笑む。
「手。」
「え?」
「貸して。」
馨は手を差し出す。
義魂丸も無ければ一護は死神になれない。
ならば抱えていってやろうと言う魂胆なのだが……
「ほら、来るんでしょ?」
一護はその手を見つめる。
初めて遭遇した、あの日の朝。
あの人はこんな風に死神だった。
手を伸ばせば届きそうなのに、どこか遠い存在。
そんな相手だった。
だが――
「いや」
一護は口元を歪める。
少しだけ得意げに。
「その必要ねえよ」
「?」
馨が首を傾げる。
すると一護は窓際へ歩き、肩を鳴らした。
「俺さ」
霊圧が揺れる。
「アンタがいない間に、ちょっとは成長したんだよ」
次の瞬間。
身体から霊体が引き剥がされるように飛び出した。
黒い死覇装。
背中に巨大な斬月。
橙色の髪を夜風が揺らす。
屋根の上に立った死神の姿に、馨は一瞬だけ目を見開いた。
義魂丸も何も使っていない。
自力だ。
「どうだ」
一護がニヤリと笑う。
「毎回誰かに蹴り出してもらわなくても死神になれんだよ」
少しだけ子供っぽい自慢。
だがそこには確かな成長があった。
馨はしばらく黙っていた。
そして――
ふっと小さく笑う。
本当に微かな笑みだった。
「そう」
その声はどこか嬉しそうだった。
「ちゃんと頑張ったんだ」
「なんだよその言い方」
「褒めてるの」
「全然そう聞こえねえ」
「じゃあ聞き方の問題ね」
「腹立つなあ!」
言いながらも一護の顔はどこか嬉しそうだった。
馨はそんな彼を見つめる。
ほんの少し前まで。
白哉の前で倒れ、何も出来ず悔しさに震えていた少年。
だが今は違う。
自分の足で立ち。
自分の力で死神になり。
確実に成長していた。
「……じゃあ、ついてきて。」
次の瞬間には二人とも隣家の屋根へと降り立っていた。
瓦が軽く鳴る。
夜の街が一望できた。
「ちょ……待てって!」
馨は再び屋根を蹴る。
黒い死覇装が夜風を切る。
一護は慌ててその背中を追った。
その姿は、まるで月明かりの上を歩いているみたいだった。
「お、おい!待てって!」
「……」
「だから待てって言ってんだろ!!」
叫びながら追い掛ける。
しかし馨は振り返らない。
先を行くのは馨。
死覇装の裾を風になびかせながら、屋根から屋根へと飛び移っていく。
瞬歩ではない。
霊圧で無理やり加速しているわけでもない。
ただ純粋に、身体の使い方が上手いのだ。
着地の衝撃を流し、次の跳躍へ繋げる。
まるで呼吸をするように。
まるで風の一部になったかのように。
軽やかに。
静かに。
そして速い。
「っ……!」
一護は歯を食いしばった。
追いつけないほどではない。
だが油断すれば距離が開く。
慌てて屋上の縁を蹴り、次のビルへ飛び移る。
コンクリート。
給水塔。
看板。
アンテナ。
次々と景色が流れていく。
その先を走る黒い背中。
長い三つ編みが月明かりを受けて揺れる。
「……」
不思議だった。
本気で逃げているわけではない。
だが待ってもくれない。
追いつきたければ追いつけ
――そんな無言の圧力がある。
「くそ……速ぇな……!」
思わず悪態をつく。
すると前方から声だけが返ってきた。
「遅いだけじゃない?」
「うるせぇ!」
即座に怒鳴り返す。
だがそのやり取りすら、どこか心地よかった。
夜風が頬を撫でる。
空座町の夜景が眼下に広がる。
遠くには商店街の灯り。
住宅街の窓明かり。
信号機の赤。
その全てを飛び越えながら進む。
そして一護はふと思う。
「((……この人――))」
綺麗だな、と。
景色ではない。
前を走るその人のことだった。
強い。
迷いがない。
誰よりも高い場所を見ている。
なのに。
どこか寂しそうだ。
どこか壊れそうだ。
だからだろうか。
気付けば目が離せなくなるような存在感。
胸の奥が少しだけ熱い。
憧れとも違う。
尊敬とも違う。
まだ名前の付けられない感情。
ただ――
もっと知りたい。
そう思った。
――あんたは何者なんだ。
――どうしてそんな顔をする。
――どうしてそんなに強い。
――どうしてそんなに悲しそうなんだ。
知りたい。
もっと。
もっと。
前を走る背中を見失いたくない。
その想いだけで足が前へ出る。
「……」
馨は振り返らない。
けれど背後から追ってくる霊圧を感じていた。
しつこいくらい真っ直ぐな霊圧。
諦めることを知らない霊圧。
思わず口元が緩む。
本当に似ている。
あの人に。
どうしようもないくらい。
やがて二人は空座町中央にある大きな公園へ辿り着く。
広い芝生。
誰もいない遊歩道。
風に揺れる木々。
そして月光に照らされた開けた広場。
馨はそこでようやく足を止めた。
ふわり、と着地する。
数秒遅れて一護も降り立つ。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をする一護。
対して馨は息ひとつ乱れていない。
「体力はまだまだだね。」
「……言ってろ」
一護は斬月を肩に担ぐ。
悔しそうに。
だがその目は死んでいなかった。
むしろ輝いていた。
追いつきたい。
隣に立ちたい。
認められたい。
そんな感情が滲んでいる。
月明かりの下。
馨はその視線を受け止める。
そして静かに腰の刀へ手を添えた。
今から伝えるのは、自分の最も深い部分。
一部の人物にしか話したことのない秘密だった。
公園の広場には静かな夜が満ちていた。
風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが遠くで響いている。
一護の荒い呼吸も、少しずつ落ち着いていく。
そんな中――
馨はゆっくりと振り返った。
月光が横顔を照らす。
その表情はどこまでも静かだった。
ふと、左手が腰の刀へ伸びる。
鞘にそっと触れる。
まるで長年連れ添った誰かに触れるような仕草だった。
「――"黒崎一護"」
改めて、フルネームで呼ばれた一護は顔を上げる。
「ん?」
しばし沈黙。
馨は視線を落とし、自らの斬魄刀を見つめていた。
それから小さく息を吐く。
覚悟を決めるように。
「私の斬魄刀について知っている人は極わずか。」
静かな声だった。
だが不思議と耳に残る。
「尸魂界でも……今現在、知っているのは1人だけ。」
「へえ」
「現世では……喜助さんだけ」
一護は数秒黙る。
そして。
「だからなんだ?」
とても一護らしい反応だった。
秘密だの禁忌だの。
そういう言葉に過剰な価値を置く男ではない。
だから馨も少しだけ目を細めた。
「……普通はもう少し驚くところだと思うんだけど」
「いや、別に」
一護は肩を竦める。
「隠してたなら隠してた理由があんだろ」
「……」
「話したいなら聞くし、話したくねえなら聞かねえ」
その言葉に馨は一瞬だけ言葉を失った。
知りたいと言うくせに、踏み込む時は相手の意思を待つ。
だから厄介なのだ。
だから――
""信用してしまう""
「……ふふっ」
馨は小さく笑った。
「話したいから連れてきたの」
そう言うと、刀を静かに引き抜く。
月光を受けて銀色の刃が輝く。
どこにでもある浅打のような姿。
派手さはない。
霊圧も異様なほど静かだ。
一護は眉をひそめる。
「普通の刀に見えっけど」
「そう見えるようにしているから」
馨は刃を見つめたまま続ける。
「私の斬魄刀には名前がない」
風が吹く。
長い黒髪が揺れる。
「名前が……ない?」
「ええ」
一護が首を傾げる。
そんな話は聞いたことがない。
斬魄刀には必ず名がある。
それが死神の常識だ。
だが馨は首を横に振った。
「正確には違う」
静かに、どこか遠い昔を思い出すように。
「この子は、自分の名前を持っていない」
「どういう意味だよ」
「私が与えた呼び名はある」
その瞳が刀身へ落ちる。
「――
一護は黙った。
無名。
名が無い。
そのままの名前。
「変な名前だな」
「そうかもしれない」
馨は否定しなかった。
むしろ少し寂しそうに笑う。
「でも、それしか呼びようがなかった」
夜風が吹く。
公園の木々が揺れる。
そして馨は再び口を開いた。
「私の力は危険なの」
今度の声は少し低かった。
先ほどまでとは違う。
どこか冷たい響き。
「人を傷付けるから?」
一護が尋ねる。
だが馨は首を振る。
「違う」
即答だった。
「人を傷付ける力なら、この世にはいくらでもある」
始解も。
卍解も。
鬼道も。
白打も。
全てが人を殺せる。
それだけなら特別ではない。
「私の力が危険なのは」
馨の瞳が月光を映す。
「"境界"を壊してしまうから」
一護の眉が動く。
「境界?」
「自分と他人の境界」
静かな声。
「私の斬魄刀は、本来交わるはずのないものを繋げてしまう」
「……?」
「力と力」
「ん?」
「魂と魂」
「魂……?」
「記憶と記憶」
「???」
「想いと想い」
一つずつ言葉を置いていく。
「本来なら理解できないものまで理解してしまうの。感じなくていいものまで感じてしまうし、見なくていいものまで見えてしまう」
馨は自嘲気味に笑った。
「便利な力だと思う?」
一護は答えない。
「最初は私もそう思った」
刀を握る手に僅かに力が入る。
「でも違った。この力は、人を強くする代わりに壊していく。受け止めきれないものまで抱え込ませる。自分が誰なのか分からなくなるほどに」
月明かりの下。
馨の横顔はどこか儚かった。
「だから尸魂界は恐れた」
この能力を恐れる人物
「だから私は隠した」
誰にも、何も見せない。
「だから百年以上、この力を使わずに生きてきた」
長い沈黙が落ちる。
そして。
馨はゆっくりと一護へ向き直った。
真っ直ぐに。
逃げ場を与えないほど真っ直ぐに。
「それでも」
静かな声。
「私は今、君にだけは伝えたいと思った」
一護の瞳がわずかに見開かれる。
「なぜかは分からない」
馨は苦笑する。
「分からないけど……。君なら、この力を見ても逃げない気がした」
風が吹く。
黒い死覇装が揺れる。
そして馨は刀をゆっくりと構えた。
月光を映した刃先が、一護へ向けられる。
敵意はない。
試すような視線だけがある。
「だから見せる」
その声は静かだった。
だが確かな覚悟が宿っていた。
「私の斬魄刀――無名の力を」
静かな声だった。
だが次の瞬間。
空気が変わった。
馨は何の前触れもなく刀を抜き放つ。
――シャッ。
夜の静寂を裂くような金属音。
月光を受けた刀身が白く輝く。
あまりにも美しかった。
装飾はない。
奇抜な形状でもない。
ただ真っ直ぐ。
ただ研ぎ澄まされている。
余計なものを削ぎ落としたような刃。
まるで持ち主そのものだった。
馨は静かに構える。
切っ先が一護へ向く。
その瞬間。
一護の背筋を冷たいものが走った。
「……っ!」
さっきまでの穏やかな空気が消えている。
優しい笑みも。
柔らかな声音も。
そこにはない。
目が違った。
死神の目だった。
戦場に立つ者の目。
何人もの命を見送り。
何人もの敵と刃を交え。
何十年もの孤独を抱えてきた者の目。
「((……別人……?))」
一護の表情も自然と引き締まる。
背中の斬月へ手を伸ばした。
「おい」
声が低くなる。
「何のつもりだよ。馨――」
馨は答えない。
ただ静かに構えている。
そして。
「来るよ」
そう呟いた。
「――は?」
刹那。
消えた。
「っ!?」
一護の瞳が見開かれる。
瞬歩じゃない。
それなのに速い。
視界から消えたと思った瞬間には――
右。
本能が叫ぶ。
一護は反射的に斬月を引き抜いた。
「……ッく!!!」
凄まじい火花。
横薙ぎに放たれた馨の一撃が斬月に叩きつけられる。
「((…なんつー力だよ!!))」
重い。
予想以上に。
細い身体のどこにそんな力があるのかと思うほど。
「ぐっ……!」
足元の芝生が抉れる。
一護は数メートル押し込まれた。
だが。
馨は止まらない。
まるで最初からそこに立っていたかのように次の一歩を踏み出す。
上段。
袈裟斬り。
突き。
流れるような連撃。
無駄が一切ない。
「ちっ!」
一護は必死に受ける。
火花が散る。
金属音が夜空へ響く。
一撃。
二撃。
三撃。
息をつく暇もない。
「おいおいおい!!」
一護が叫ぶ。
「説明しながらやるんじゃねえのかよ!」
「説明してる暇があると思う?」
冷たい返答だった。
そしてまた斬撃。
「っ!」
「私が何者か知りたいんでしょ」
一撃。
「なら」
二撃。
「まずは生き残りなさい」
三撃。
「黒崎一護」
一護は歯を食いしばる。
その言葉に。
ふと昔の話を思い出した。
浦原との修行。
地下訓練場。
死神の力を失う恐怖。
容赦のない攻撃。
追い詰められた時間。
――そうだ。
あの人もそうだった。
教える時だけは。
絶対に手加減しない。
「くそっ!」
一護は斬月を振り抜く。
だが馨は既にそこにいない。
後ろ。
横。
上。
気付けば死角へ回り込まれている。
経験の差が露骨に出ていた。
「速ぇ……!」
息が上がる。
それでも。
一護の口元は少しだけ笑っていた。
怖い。
正直怖い。
だが同時に。
""楽しい""
久しぶりだった。
こんな風に全力で誰かと向き合うのは。
「……」
馨はその表情を冷静に見ていた。
そして思う。……やはり似ていると。
どれだけ追い詰められても。
どれだけ不利でも。
前を見ることをやめない。
あの人と。
志波海燕と。
胸の奥がわずかに痛む。
だが今は振り払う。
今見ているのは海燕じゃない。
"黒崎一護だ"
だから馨はさらに踏み込んだ。
口元に。
ほんの僅かな笑みが浮かぶ。
「……"十分"。」
一護が眉を寄せる。
「なにがだよ……!」
馨は答えない。
ただ静かに。
鍔迫り合いを続けながら。
そっと呟く。
「"""
夜風が止まった。
「"""
その瞬間。
世界が静止したようだった。
一護には何が起きたのかわからない。
霊圧が爆発したわけではない。
空が割れたわけでもない。
だが。
確かに何かが変わった。
「……なんだ」
刀と刀が触れている一点。
そこから、見えない何かが流れ込んでくる。
ぞくり、と背筋が震えた。
そして同時に。
馨の中へ。
斬月が流れ込んでくる。
怒り。
孤独。
悔しさ。
守りたいという願い。
母の笑顔。
雨の記憶。
届かなかった背中。
救えなかった後悔。
「……ッ……」
数え切れない感情が一瞬で馨の心へ流れ込む。
思わず息を呑んだ。
重い。
あまりにも。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
まるで、ずっと昔から知っていた誰かのように。
「((……なん、……だ……))」
そして、一護もまた違和感を覚える。
流れ込んでくる知らない記憶。
雨。
静かな縁側。
優しく笑う男。
みたらし団子。
長い長い孤独。
失ったもの。
置いてきたもの。
どうしようもなく抱え続けた痛み。
「なんだ……これ……」
一護が目を見開く。
鍔迫り合いの向こう。
馨がゆっくりと瞳を開く。
その紫がかった瞳は。
どこか震えていた。
そして。
彼女の握る無名が、静かに変化を始める。
細く、美しかった刀身。
死神らしい真っ直ぐな打刀。
その姿がゆっくりと崩れていく。
ギシ、と。
金属が軋むような音。
「((何が起こってる……?))」
刀身が肥大化する。
細身だった刃は幅を増し。
伸び。
歪み。
形を変える。
まるで何者かの魂に引っ張られるように。
反りも消える。
鋭く洗練された形状だったものが、荒々しく、無骨に。
そして、それはもはや日本刀ではなかった。
巨大な刃。
峰も鍔もない。
職人が磨き上げた美術品ではなく、
力任せに鉄塊を削り出したような異形。
まるで巨大な包丁。
あるいは処刑人の大鉈。
それが、黒崎一護の斬魄刀。
"斬月"――
馨が手にしている刀が、模倣するように斬月に変化したのだ。
一護の瞳が大きく見開かれる。
「なっ……!」
見間違えるはずがない。
毎日握っている。
何度も振るってきた。
自分の魂そのもの。
その姿が。
今。
馨の手の中にあった。
しかしどこか違う。
形は斬月。
間違いなく斬月。
なのに、柄を握る女の霊圧が混じっている。
紫がかった透明な霊圧が。
斬月の周囲を静かに漂う。
それは本物の斬月ではない。
だが偽物でもない。
""斬月と共鳴した無名""
境界を解かれ。
一時的に同じ波長へと辿り着いた、もうひとつの斬月だった。
「……」
馨は変化した刀身を静かに見つめる。
そして小さく呟いた。
「これが……"君の魂"。」
鍔迫り合いが解かれる。
金属音を響かせながら、馨は軽やかに後方へ飛び退いた。
夜風が二人の間を吹き抜ける。
「……っ……」
一護はその場から動けなかった。
握り締めた斬月。
そして、数メートル先に立つ馨の手にも同じ刀。
月明かりに照らされる大刀。
鍔のない巨大な刃。
荒々しく、無骨なその姿。
見間違えるはずがない。
どう見ても斬月だった。
「……は……?」
理解が追いつかない。
だが、それ以上に。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
さっきから流れ込んでくる。
「((あの記憶は……誰の……))」
知らない景色。
知らない声。
知らない感情。
「((……誰かの……女の悲鳴))」
雨。
「((似てる……馨に……))」
長い黒髪。
「((隣で笑う……あれは誰だ))」
優しく笑う男。
「((血まみれの……あの景色も))」
血。
「((誰かが襲いかかってきたことも))」
慟哭。
「((独りで……))」
真っ暗な部屋。
「((独り―――))」
ひとりで食べるみたらし団子。
何十年という孤独。
その断片が。
まるで走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
「なんなんだ……これ……」
思わず漏れた声。
馨はそんな一護を見つめながら、自らの手にある斬月へ視線を落とした。
そして、ふっと笑う。
どこか懐かしそうに。
愛おしそうに。
「"これが、私"」
静かな声だった。
一護が顔を上げる。
「はぁ……?」
「私の斬魄刀。」
馨は刀身を見つめる。
「""無名""」
月光が刃を照らす。
「模倣じゃない。」
首を横に振る。
「コピーでもない。」
そして。
一護へ視線を向けた。
「"共鳴する"力よ。」
夜風が髪を揺らす。
「あなたと私。」
「斬魄刀と斬魄刀。」
「魂と魂。」
真っ直ぐ、偽りのない瞳。
「――その"境界"を解く。」
一護の眉が寄る。
「境界……?」
馨は頷く。
「だから流れ込んでくる。あなたの記憶も。感情も。霊圧も。――願いも。」
その言葉に。
一護はさっき感じた感覚を思い出す。
怒り。
孤独。
守りたいという想い。
そして、逆に。
馨の感情も。
あれは。
見せられたのか。
いや。違う。
""感じたのだ""
「じゃあ……」
一護が目の前の斬月を指差す。
「それも……」
馨は静かに頷く。
「ええ。」
斬月を持ち上げる。
「あなたを知った結果。無名があなたと同じ波長になった。」
「……」
「だから形も変わる。能力も変わる。」
「……まじ、かよ」
「ええ。霊圧の質も近付く。」
一護の表情が強張る。
「そんなの……反則じゃねぇか。」
思わず本音が漏れる。
「ふふ」
馨は小さく笑った。
しかしその笑みはどこか寂しい。
「そうかもしれない。……だから私はこの力が嫌いだった。」
一護が息を呑む。
馨は斬月を見つめたまま続ける。
「知りたくないものまで知ってしまう。」
「……」
「相手の痛みも。」
「……」
「後悔も。」
「……」
「悲しみも。」
馨は斬月を優しく撫でた。
「""全部""」
静かな声。
だが……その言葉には重みがあった。
「そして。」
馨はゆっくりと顔を上げる。
紫の瞳が一護を真っ直ぐ映す。
「あなたを知るほど。あなたを理解するほど。力も私に流れ込んでくる。……共鳴は深くなる。」
斬月を撫でる手が止まる。
「だからこれは。」
少しだけ目を細める。
「強くなるための能力じゃない。」
訴えかけるような強い瞳。
「誰かを理解してしまう能力。」
その言葉に。
一護は何も返せなかった。
ただ、胸の奥が妙にざわついていた。
目の前の女が。
どれだけ長い間。
この力と付き合ってきたのか。
ほんの少しだけ。
理解してしまった気がした。
一護は言葉を失っていた。
目の前にあるもう一本の斬月。
そして脳裏に焼き付いた、知らない誰かの人生。
雨の匂い。
失った人の名前。
長い孤独。
どうしてそんなものを見せられたのか。
どうしてそんなものを感じてしまったのか。
「……ぁ」
理解できない。
理解できないはずなのに。
胸の奥が妙に重かった。
馨はそんな一護を見つめる。
そして静かに、自らの刀へ視線を落とした。
斬月。
共鳴によって姿を変えた無名。
「だから――無名。」
ぽつりと呟く。
「この刀には名前がない。」
夜風が吹く。
黒髪が揺れる。
「誰かの力になれる。誰かの形になれる。誰かの想いに触れられる。―――でも。」
馨は小さく笑った。
どこか寂しく。
どこか諦めたように。
「""自分自身の名前だけは見つけられなかった""」
一護は黙って聞いている。
「私は何者なんだろう。」
その声は独り言にも似ていた。
「死神?罪人?逃亡者?」
瞼を伏せ、薄く笑う。
「志波馨?無類井馨?」
ゆっくりと首を横に振る。
「もうよく分からない。」
共鳴するたび。
誰かを知る。
誰かになれる。
けれど。
自分だけが分からなくなっていく。
だから――無名。
名を持たぬ刀。
そして。
馨は月を見上げた。
「私に名はないの。」
月光がその横顔を照らす。
一護は何も言わない。
言えなかった。
馨はそんな彼を見て。
今度は少しだけ楽しそうに笑った。
「面白いでしょ?相手を知るほど強くなるのに……自分のことは、どんどん分からなくなる。」
そして刀を肩へ担ぐ。
斬月が月明かりを反射した。
「それが――」
紫の瞳が細められる。
「私の斬魄刀。……無名よ。」
静かな夜だった。
けれど一護には。
その言葉が妙に胸に残った。
まるで。
目の前の女がずっとひとりで抱えてきたものを。
ほんの少しだけ。
触れてしまったような気がして。
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