BLEACH No name   作:鈴夢

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OUR HOME

 

 

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 

 

 

失ったと思っていた

 

帰る場所も

家族も

 

けれど

 

待っていてくれた人たちは

ずっとそこにいた

 

 

 

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 

 

 

OUR HOME

 

 

 

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 

 

 

 

 

 

藍染惣右介、市丸ギン、東仙要。

 

三人が黒腔の向こうへと消えた後も、瀞霊廷は静まり返ることはなかった。

 

むしろ、長く張り詰めていた糸が切れたかのように、尸魂界全土が混乱と慌ただしさに包まれていた。

 

 

「――負傷者は奥の部屋へ!」

「包帯を持ってきてくれ!」

 

「朽木隊長の容態は!?」

「阿散井副隊長は――」

 

負傷者の搬送。

各隊への状況報告。

 

中央四十六室壊滅の確認。

 

 

そして――旅禍との和解。

 

「――"私は拒絶する"」

四番隊とともに負傷者の対応をする織姫

 

「…これはここでいいのか?」

「はっ、はい!」

崩壊した建物の瓦礫を隊士達と共に片付ける茶渡

 

「おかわりくれ!!」

「…黒崎、少しは遠慮を…」

隣同士のベッドで治療を受ける一護と石田。

 

 

「…なあ、あの織姫って子…かわいいよなあ」

 

「あのでかいヤツ!あんな見た目だけどすげー良い奴だったぞ!」

 

「医務室のふたり、いつも言い合いしててうるさいんだけど」

「ほっときなよ〜」

 

 

護廷十三隊の隊士たちは、それぞれが信じられない思いを抱えながら走り回っていた。

 

旅禍と呼ばれた少年たちは、もはや敵ではなかった。

 

誰も彼らを拘束しようとはしなかった。

むしろ、多くの死神たちが彼らへ感謝の念すら抱いていた。

 

藍染の陰謀を暴き。

ルキアの処刑を止め。

そして尸魂界を救った者たち。

 

その認識が、少しずつ広がり始めていた。

 

そんな中。

もっとも多くの視線を集めていたのは、一人の女だった。

 

 

四番隊隊舎。

慌ただしく行き交う治療班の中を、黒髪の死神が歩いている。

 

袖をまくり、傷だらけの隊士へ回道を施しながら、次の患者の元へ向かう。

 

休む暇などなかった。

それでも彼女は立ち止まらない。

 

「――その方はこちらに、すぐに手当を。」

 

無類井馨。

かつて尸魂界最大の罪人と呼ばれた死神。

 

五十年もの間、その名は忌避され続けた。

 

複数名の隊士達の殺害。

逃亡。

大罪人。

 

誰もがそう教えられてきた。

 

だが。

今、その全てが嘘だったと知った。

すれ違う若い隊士が思わず足を止める。

 

「……あれが」

 

声を潜める。

 

「無類井…馨……」

「本当に生きてたんだな……」

「大罪人じゃなかったんだって」

「藍染隊長に陥れられてたって……」

 

小さな囁き。

けれどそこに恐怖はない。

敵意もない。

 

あるのは戸惑いと、罪悪感だった。

馨はそんな声に気づいているはずだった。

 

しかし振り返ることはない。

ただ静かに患者の元へ膝をつく。

 

「痛みますか?」

 

優しい声だった。

 

「だ、大丈夫です……!」

 

若い隊士が慌てて背筋を伸ばす。

馨は僅かに微笑んだ。

 

「そうですか。でも無理はしないでくださいね」

 

柔らかな回道の光が傷口を包む。

 

隊士は目を見開いた。

その光景はあまりにも自然だった。

 

まるで五十年前から変わらず、そこにいた死神のようで。

 

だからこそ胸が苦しくなる。

 

自分たちは。

この人を何十年も罪人だと思い込んでいたのか。

何も知らずに。

真実も知らずに。

 

遠くでは別の隊士たちが話していた。

 

「京楽隊長が言ってたぜ」

「何を?」

「昔の無類井さんは、隊士たちに滅茶苦茶慕われてたって」

「……なんか分かる気がするな」

 

その視線の先。

馨は汗を拭うこともなく、次々と負傷者へ回道を施していた。

 

誰かに褒められるためではない。

名誉を取り戻すためでもない。

ただ目の前に傷ついた仲間がいるから。

 

それだけだった。

 

その姿は。

あまりにも死神らしく。

あまりにも真っ直ぐだった。

 

そして、その光景を見つめながら。

虎徹勇音が申し訳なさそうに呟いた。

 

「……違ったんですね。」

 

誰に聞かせるでもなく。

 

「ずっと」

 

震える声だった。

 

「ずっと、私達は間違えていたんですね」

 

その言葉に答える者はいない。

だが、誰も否定しなかった。

 

 

┈┈

 

 

混乱の中でも、瀞霊廷を吹き抜ける風は穏やかだった。

 

長い長い嘘が終わった。

失われた五十年は戻らない。

 

奪われた時間も、失った人も帰ってはこない。

 

それでも。

無類井馨はそこにいた。

 

変わらず人を救うために刀を握り。

変わらず誰かの傷を癒やしていた。

 

その背中を見つめながら、多くの死神たちは初めて理解する。

 

自分たちが追い出したのは罪人ではなかった。

 

護るべき仲間だったのだと。

 

 

┈┈

┈┈┈┈┈┈

 

 

 

翌日――

――隊首会

 

瀞霊廷の中心に位置する会議場には、重苦しい空気が漂っていた。

 

いつもならば十三の隊長が並ぶ場。

しかし今、その光景は大きく欠けている。

 

三番隊。

五番隊。

九番隊。

 

三つの穴が空いていた。

 

藍染惣右介。

市丸ギン。

東仙要。

 

裏切り者の名が刻まれたその空間は、まるで尸魂界に開いた傷口のようだった。

 

上座に立つ山本元柳斎重國は、静かに目を閉じていた。

 

そして。

 

「"非常事態じゃ″」

 

低く重い声が響く。

 

「三名の隊長格を失った護廷十三隊は、発足以来最大級の損失を受けた」

 

誰も口を挟まない。

 

「中央四十六室は壊滅。藍染惣右介の目的も未だ不明。さらに奴は崩玉を手にした」

 

会議室に沈黙が落ちる。

事実だけを並べても絶望的だった。

 

藍染がどこへ向かい、

何をしようとしているのか。

誰にも分からない。

 

分かっているのは。

次に動いた時、それは尸魂界にとって致命的な脅威となることだけだった。

 

京楽春水が深く息を吐く。

 

「それで?」

 

編笠の影から片目を覗かせた。

 

「総隊長は何を考えてるんです?」

 

山本は静かに答える。

 

「現世との協力体制じゃ」

 

数人の隊長が目を細めた。

 

「黒崎一護ら旅禍、浦原喜助、四楓院夜一。そして――」

 

一瞬だけ間が空く。

 

「""無類井馨""」

 

その名に、会議室の空気が微かに揺れた。

隊長たちの視線が自然と集まる。

 

京楽が肩をすくめた。

 

「……都合がいいねぇ」

 

誰に向けた言葉でもない。

 

「長い間追い出しておいて」

 

静かな声だった。

 

「必要になったから戻ってきてくれ、なんてねえ」

 

苦笑混じりの言葉。

 

誰も反論できない。

その通りだったからだ。

 

浮竹が静かに口を開く。

 

「京楽の言うことも分かる」

 

穏やかな声だった。

 

「だが、私は別の懸念がある」

 

全員が浮竹を見る。

 

「藍染の様子だ」

「……」

「彼は馨を知っていた」

 

いや、と浮竹は首を振る。

 

「知っていたどころではない。執着していた」

 

その言葉に数名の隊長が眉をひそめた。

 

双極の丘での出来事を思い出す。

藍染は明らかに馨へ興味を示していた。

 

それも異常なほどに。

 

「もし藍染が再び動くなら」

 

浮竹の声音が低くなる。

 

「馨は確実に狙われる」

 

誰も否定できない。

 

「利用されれば我々にとって大きな損失になる。…逆に奪われれば――」

 

言葉が止まる。

その先を誰もが理解していた。

 

沈黙。

 

そして。

 

「フッフッフッフ……」

 

不気味な笑い声が響く。

十二番隊隊長 涅マユリだった。

 

口元を歪めながら肩を震わせる。

 

「面白いネ」

 

隊長たちの視線が刺さる。

 

「実に面白いヨ」

「…涅」

 

砕蜂が睨む。

しかしマユリは気にしない。

 

「""共鳴""だったかな?」

 

口元が吊り上がる。

 

「刀を触れ合わせることで境界を曖昧にする。霊圧の変質、能力の再現、感覚の共有、記憶の流入」

 

愉快そうに指を折る。

 

「実に興味深いネ!」

 

その目は完全に研究者のそれだった。

 

「藍染惣右介より先に私が調べてみたいものだヨ」

「涅」

 

山本の一声で空気が凍る。

マユリは気怠そうにため息を漏らし口を閉じる。

 

しかし笑みは消えていない。

 

山本はゆっくりと目を閉じる。

脳裏に浮かぶのは、一人の少女だった。

 

まだ霊術院にいた頃。

初めてその力を見た日のこと。

 

共鳴。

模倣ではない。

奪うのでもない。

 

境界を曖昧にする力。

理解するほど深く繋がり。

繋がるほど己を失う。

 

危うい力。

 

あまりにも危うい力だった。

だからこそ、山本は誰にも詳細を語らなかった。

 

隊長格でさえ知らない。

知っていたのは浦原だけだった。

 

そして今。

その危険性を藍染も理解した。

 

山本は静かに目を開く。

 

「……儂が話す」

 

その一言に全員が顔を上げた。

 

「総隊長自ら?」

 

卯ノ花が問う。

山本は頷く。

 

「無類井とは儂が直接話す」

 

重々しい声だった。

 

「護廷十三隊として…そして一人の死神としてじゃ」

 

その意味を理解できた者は少ない。

だが京楽と浮竹だけは何も言わなかった。

 

山本は続ける。

 

「無類井馨を今後どうするか」

 

「藍染との戦いにどう向き合うか」

 

「全て儂自身の口で伝える」

 

そして会議場を見渡した。

 

「異論はあるか」

 

沈黙。

 

「「……」」

 

誰も答えない。

 

否。

答えられなかった。

 

やがて山本は杖を鳴らす。

 

「ならば決定じゃ」

 

こうして。

五十年の時を経て。

護廷十三隊総隊長・山本元柳斎重國は、自ら無類井馨と今後について語らうと口にしたのだった。

 

――まだ誰も知らない。

その会談が、尸魂界の未来を大きく左右することを。

 

 

 

┈┈┈┈┈

 

 

四番隊隊舎。

 

柔らかな陽光が障子越しに差し込む病室には、薬草の匂いが静かに漂っていた。

 

藍染との戦いから数日。

重傷者たちの容態はようやく安定し始めていた。

 

広い病室には幾つもの寝台が並べられている。

 

一番奥には一護。

隣には石田。

さらに恋次

 

それぞれ包帯を巻かれながらも、会話ができる程回復していた。

 

 

病室の中では静かな時間が流れている。

 

その中央で。

無類井馨は次々と患者の診察を行っていた。

 

「花太郎くん」

「は、はい!」

 

慌てて返事をするのは四番隊所属 山田花太郎。

 

「新しい包帯、もらっていい?」

「はいっ!」

 

花太郎は勢いよく立ち上がる。

その慌てぶりに恋次が思わず吹き出した。

 

「お前強ばりすぎだろ?」

「し、仕方ないじゃないですか!」

 

花太郎の顔が真っ赤になる。

 

「無類井さんと一緒に仕事なんですよ!?」

「そこ威張るとこか?」

「違いますけど!」

 

病室に小さな笑いが広がった。

 

そんなやり取りを聞きながらも、馨は穏やかに治療を続けている。

 

そして。

一護の寝台の横へ腰を下ろした。

 

「少し見るね」

「ああ」

 

一護は素直に背中を向ける。

傷口を覆っていた包帯を外す。

 

双極の丘で受けた傷。

藍染との戦闘。

さらに無茶な戦いの連続。

 

本来ならば立っていることすら難しい重傷だった。

 

しかし。

傷跡へ指先を添えた馨は僅かに目を細める。

 

「うん」

 

優しく微笑む。

 

「順調」

 

一護が肩越しに振り返る。

 

「マジか?」

「筋肉もしっかり繋がってる」

 

回道の光が傷口を撫でる。

 

「あと数日もすれば普通に動けると思う」

「そりゃよかった」

「ただし」

 

馨はぴしゃりと言った。

 

「安静に」

「……」

「聞いてる?」

「……おう」

 

露骨に目を逸らした。

その反応に石田が即座に突っ込む。

 

「絶対守らない顔だな」

「うるせえ」

 

「三日以内に暴れるに一票だ」

「二日だな」

 

恋次が真顔で言い、石田が同じように呟く。

 

「おい恋次!お前も一緒になって言うんじゃねえ!」

 

病室に笑いが起きる。

馨も小さく吹き出した。

 

「((…みんな、元気でよかった))」

 

久しぶりだった。

こんな風に笑ったのは。

 

笑い声が落ち着いた頃。

馨はふと一護を見る。

 

少しだけ視線を伏せた。

 

「……一護」

「ん?」

 

一護が首を傾げる。

馨は少しだけ迷うように口を閉じる。

 

だが。

やがて静かに言った。

 

「――"ありがとう"」

 

一護が目を瞬かせた。

 

「え?」

「あの時、双極の丘で」

 

病室の空気が少し変わる。

誰も言葉を挟まない。

 

「私を止めてくれて」

 

馨は静かに続ける。

 

「私、あの時」

 

自分の手を見る。

僅かに震える指先。

 

「危なかったから」

 

藍染の言葉。

真実。

抱え続けた苦しみ。

 

そして共鳴によって流れ込んできた藍染の感情。

 

あのままなら。

本当に何かが壊れていたかもしれない。

 

一護は傷を負いながらも、動くことさえままならなかった状況にも関わらず、自分を引き止めてくれたのだ。

 

力強く、背後から、

大きな手と腕で護るように――

 

だから。

 

「"助かった"」

 

素直な言葉だった。

一護は少しだけ困ったような顔をした。

 

「……」

 

頭を掻く。

 

「いや……」

 

言葉を探すように視線を泳がせる。

その時だった。

 

「感謝するべきなのは」

 

石田が静かに口を開く。

 

「むしろ僕たちの方だ」

 

病室が静まり返る。

石田は真っ直ぐ馨を見ていた。

 

「だな」

 

恋次も頷く。

 

「俺たちは救われた」

「ああ。石田の言う通りだ。」

 

そして一護は口元に弧を描く。

 

「現世でも、尸魂界でも…何回助けられたか分かんねえな」

 

馨は目を見開いた。

言葉が出てこない。

 

一護は静かに笑う。

 

「俺たちさ」

 

少しだけ照れ臭そうに。

 

「最初、お前のこと怖かったんだぜ?」

「……」

「なんか冷てぇし」

「……」

「無愛想だし」

「…失礼」

「今もそう思ってる」

「ちょっと、」

 

再び小さな笑いが起きる。

 

だが。

一護はすぐ真面目な顔に戻った。

 

「でも」

 

その言葉に全員の視線が集まる。

一護は真っ直ぐ馨を見る。

 

「俺たち、お前に助けられたんだよ」

 

現世で。

虚との戦いで。

特訓で。

尸魂界で。

そして双極の丘で。

 

「だからさ」

 

一護は少しだけ笑った。

 

「礼ならこっちが言う方だろ」

 

石田も、恋次も。

静かに頷く。

 

馨は何も言えなかった。

 

胸の奥が熱い。

苦しいほどに。

 

五十年間。

誰かに感謝されることなどなかった。

 

罪人として生きてきた。

誰にも必要とされないと思っていた。

 

だから。

その言葉は。

 

あまりにも優しかった。

馨は小さく目を伏せる。

 

そして。

誰にも気づかれないほど僅かに微笑んだ。

 

「……ありがとう」

 

今度は。

本当に心からの言葉だった。

 

「そういえば阿散井くん。ルキアの状態、かなり良くなってきてる。」

「え!?マジっすか!」

「ええ。喜助さんと十二番隊で共同で動いてもらってるんだけど――」

 

ルキアは十二番隊の特殊な部屋で治療を受けている最中だった。馨も未だ、直接会うことは出来ていない。

ただ、現世から浦原の協力のもと、安定してきていると報告があった。

 

 

「恋次!治ったら俺と勝負だ!」

「へへ!いいぜ!」

 

「傷口、開いても治さないよ?」

「「……」」

 

 

 

病室の空気が少しだけ穏やかになった頃だった。

 

馨はふと視線を巡らせる。

 

並んだ寝台。

 

一護。

石田。

恋次。

 

そして――。

空いている一つの寝台。

 

馨の視線が止まる。

 

「………」

 

包帯を取りに戻ってきた花太郎が首を傾げた。

 

「どうしました?」

 

馨は返事をせず、その寝台へ近付く。

 

乱雑に畳まれた毛布。

誰かが使用していた痕跡。

 

だが、そこにいるはずの人物はいない。

 

――""志波岩鷲""

 

今朝まではここにいたはずだった。

一護も気付いたように振り返る。

 

「ああ、そういえば」

 

納得したように言う。

 

「岩鷲なら帰ったぞ」

 

その言葉に。

馨の指先がぴたりと止まった。

 

「帰った?」

「おう」

 

恋次が答える。

 

「傷も大したことねえとか、そんなこと言ってたぜアイツ。」

 

石田が眼鏡を押し上げる。

 

「お姉さんの空鶴さんが気になるとか、そんなことを言ってたな」

 

 

馨は静かに空の寝台を見つめる。

 

志波岩鷲。

志波海燕の弟。

 

 

そして――。

自分が捨ててしまった家族。

 

胸の奥が少し痛む。

思い出すのは昔の景色。

 

まだ幼かった岩鷲。

海燕の後ろを追いかけていた背中。

 

庭で転び。

泣きながら空鶴に怒鳴られ。

 

それでも笑っていた少年。

その光景が鮮明によみがえる。

 

馨は静かに目を伏せた。

 

あの日から。

自分は一度も志波家へ戻っていない。

 

戻れなかった。

海燕を殺した。

たとえ事情があったとしても。

 

たとえ海燕自身が望んだことだったとしても。

 

その事実だけは消えない。

だから逃げた。

怖かったから。

会う資格などないと思ったから。

 

実際、双極の丘に増援として現れた空鶴とは顔は合わせている。…だが、それ以上踏み込むことは出来ず、距離を取られていることは分かっていた。

 

昔と変わらない陽気な人柄。

しかし、ほんの一瞬目が合った時、彼女は笑うこともなく、こちらを静かに見据えただけだった。

 

 

 

 

「……馨?」

 

一護が不思議そうに声を掛ける。

馨は顔を上げた。

その表情は穏やかだった。

 

だが。

どこか覚悟を決めたような静けさがあった。

 

「…花太郎くん、あとは頼んでいい?」

「は、はい!もちろんです!!」

 

器具を整え、袂をまとめていた紐を手馴れた手つきで取り外す。どこか落ち着かず、緊張している気がした。

 

そんな馨の顔つきの変化に一護が敏感に反応した。

 

「馨、何かあったのか?」

 

ぽつりと呟く。

馨はそばに置いてあった手ぬぐいで手を拭き、そっと一護へと向き直った。

 

「少し出かけてくる。」

「出かけるって…どこ行くんだよ。」

 

一護は更に問いかけた。

石田や恋次、花太郎も馨を心配そうに見つめる。

 

「……」

 

馨は少しだけ迷う。

 

けれど。

隠す必要はないと思った。

 

「""志波家""」

 

病室が静まり返った。

 

一護が目を見開く。

石田も言葉を失う。

 

恋次だけが事情を察したように視線を落とした。

 

馨は小さく微笑む。

 

「今しかないと思うの。…私はこの先、尸魂界にいれるとは限らないし。ここに居る今だからこそ、行かないと。」

「……」

「"謝らないといけないから"」

 

誰に向けた言葉でもない。

自分自身へ言い聞かせるような声だった。

 

「ずっと」

 

何十年間も

 

「逃げていたから」

 

海燕のこと。

残された家族のこと。

 

そして。

自分自身のことから。

 

花太郎が心配そうに見上げる。

 

「無類井さん……」

 

馨は優しく笑った。

 

「大丈夫」

 

そう言って死覇装の襟元を整え、窓の外へ視線を向ける。

 

遠く。

瀞霊廷の外れ。

流魂街の方角。

 

そこに志波家がある。

かつて、自分を家族と認めてくれた人たちがいる。

 

そして今は、帰ることを恐れている場所。

 

馨はゆっくりと息を吐く。

脳裏に浮かぶのは海燕の顔だった。

 

夢の中で言われた言葉。

 

――前に進め。

 

――真実を見つけろ。

 

――お前はお前だ。

 

 

「………」

 

静かに目を閉じる。

 

そして。

再び開いた時には迷いはなかった。

 

「行ってくるね。」

 

その言葉を残し。

無類井馨は病室を後にした。

 

 

 

志波家の門を叩くために。

四番隊隊舎を出た馨は、その足で流魂街へ向かった。

 

 

誰かを連れて行くこともなく。

 

一人で。

本当に、一人で。

 

「((…恐れてはいけない。覚悟が決まった今、迷わず行くべきなのよ。))」

 

瀞霊廷を抜ける頃には、胸の奥に重い石が沈んだような感覚があった。

 

緊張。

恐怖。

後悔。

 

それらが複雑に絡み合い、足取りを鈍らせようとする。

 

だが。

馨は止まらなかった。

止まる資格などないと思ったからだ。

 

 

 

┈┈┈┈┈

┈┈┈┈┈

 

 

 

馨が出ていった後、一護はベッドに横たわり、静かに天井を見上げていた。

 

そしてふと、瞼を閉じる。

思い返すのは――志波空鶴との会話だった。

 

 

 

 

┈┈┈┈┈

┈┈┈┈

┈┈┈

 

 

 

――数日前

志波家にて――

 

 

瀞霊廷へ向かうための準備が進む志波家。

 

巨大な天を衝く大砲――花鶴大砲の最終調整が行われる中、一護たちは束の間の休息を与えられていた。

 

夕暮れだった。

空は赤く染まり、庭先を吹き抜ける風がどこか静かだった。

 

一護は縁側に腰を下ろし、黙って空を見上げていた。

 

その隣へ、ゆっくりと志波空鶴がやって来る。

 

普段なら豪快に笑う女だったが、その時の横顔は妙に静かだった。

 

 

「……なあ」

 

ぽつり、と、空鶴が声を掛ける。

 

「ん?」

「…馨は……どうしてんだ」

 

一護は一瞬だけ目を瞬かせた。

その名前が出てくるとは思わなかった。

 

そういえば。

ここへ来てから、馨の話はほとんどしていない。

 

というより、空鶴と岩鷲が明らかに避けていると分かっていたからだ。

 

現世での死神の存在。

浦原喜助、四楓院夜一。

――そして無類井馨。

 

その名を出した時、二人の間に明らかに動揺があった。

 

 

それから、空鶴も岩鷲も聞いてこなかった。

だからこそ、一護は少し意外だった。

 

「どうしてんだって……」

 

言葉を探す。

 

「……んー…」

 

元気かと聞かれれば、元気なのだろう。

 

飯も食う。

働いている。

戦える。

笑うことだってある。

 

 

「…元気にはしてる…んじゃねえか?」

 

空鶴は黙って聞いていた。

 

「働いてるし」

「……へえ」

「結構普通だぞ」

 

そう言ってみる。

 

だが。

続く言葉が自然と口から零れた。

 

「でも」

 

空鶴の視線が向く。

一護は少し眉をひそめた。

 

「なんつーか……」

 

うまく説明できない。

だが感じたことはある。

 

何度も。

 

「時々さ」

「うん」

「一瞬だけ、すげぇ変な感じになんだ。」

 

空鶴は何も言わない。

 

風だけが吹く。

一護は視線を落とした。

 

「あいつ、笑うんだよ」

「……」

「普通に」

「……」

「優しいし」

「……」

「強えし」

「……」

「…でも、なんか」

 

そこで言葉が止まった。

 

胸の奥に引っ掛かっていた感覚。

それをどう表現すればいいのか。

 

「……」

 

しばらく考えた後、一護はぽつりと呟く。

 

「…何も無えっていうか…空っぽっていうか…」

 

空鶴の肩が僅かに揺れた。

 

「独りなんだよ」

 

夕焼けが長い影を落とす。

 

「あいつの家、なんもねえし」

「……」

「浦原さんと夜一さん以外、最初は深く関わろうとしなかったし」

「……」

「なんか、ずっと胸ん中が壊れたまま生きてる感じがする」

 

言ってから、一護自身も不思議に思った。

 

なぜ自分はこんなことを話しているのだろう。

 

だが、それが一番近かった。

 

馨という人間を表す言葉に。

空鶴は何も言わなかった。

 

ただ前を向いたまま。

拳だけが静かに握られていた。

 

爪が掌に食い込むほど強く。

その表情を、一護は見なかった。

 

見えなかった。

 

だが。

ほんの一瞬だけ。

 

本当にほんの一瞬だけ。

空鶴の顔が苦しそうに歪んだ。

 

姉として。

家族として。

何十年も会えなかった人間の話を聞く顔だった。

 

帰ってくるはずだった兄の最愛の人。

笑っているはずだった家族。

 

それが今は。

独りで生きている。

 

誰にも頼れず。

帰る場所もなく。

 

その事実が胸を抉った。

空鶴はゆっくりと目を閉じる。

 

そして。

何事もなかったように視線を空へ向けた。

 

「……そうか」

 

それだけだった。

それ以上は何も聞かなかった。

 

何も言わなかった。

 

ただ、その短い言葉の奥には。

 

後悔も。

怒りも。

心配も。

 

会いたいという願いも。

全部が押し込められていた。

 

一護は気付かない。

だが縁側の奥では。

 

話を聞いていた岩鷲が静かに俯いていた。

誰も口を開かなかった。

 

夕暮れの風だけが、志波家を静かに吹き抜けていた。

 

 

 

┈┈┈

┈┈┈┈┈

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┈┈┈┈┈┈┈

 

 

 

 

「………」

 

 

見慣れた道が視界に現れる。

 

懐かしい景色。

流魂街の空気。

風の匂い。

遠くから聞こえる人々の声。

 

何もかもが昔のままだった。

 

それなのに、五十年という歳月だけが、自分の中に積み重なっている。

 

「っ…」

 

馨は小さく息を呑んだ。

 

そして。

視界の先に、その屋敷が現れる。

 

「……」

 

言葉が出なかった。

 

志波家。

かつて自分が嫁いだ家。

 

帰る場所だと思っていた場所。

何れ、海燕と共に生きていくはずだった場所。

 

建物は少し変わっていた。

増築された箇所もある。

修繕された壁も見える。

 

…"ようこそ!志波空鶴邸へ!"

と、大きく記された看板らしきものが増えている…

 

けれど、不思議なほど面影は残っていた。

 

縁側も。

庭も。

門も。

 

そこに流れる空気も。

何一つ忘れてはいなかった。

 

馨の指先が無意識に死覇装の袖を掴む。

 

ぎゅっと、強く。

まるで幼い子供のように。

 

「((…決めたじゃない。今しかないのよ。))」

 

心臓が痛いほど鳴っていた。

 

逃げたい。

今すぐ帰りたい。

そんな感情が何度も頭を過る。

 

だが、それ以上に。

"会わなければならない"と思った。

 

海燕のためにも。

自分のためにも。

 

「…ふー…」

 

馨はゆっくりと門へ歩み寄る。

 

一歩。

また一歩。

 

足音だけが静かに響く。

 

やがて、大きな門の前で立ち止まった。

 

中に人の気配がある。

感じ取れた。

 

岩鷲。

空鶴。

 

間違いなく居る。

その事実だけで喉が乾く。

 

馨は一度だけ目を閉じた。

 

「((……海燕さん))」

 

震える呼吸を整える。

 

「((…ちゃんと…伝えないと――))」

 

 

そして背筋を伸ばした。

 

五十年前の十三番隊三席として。

志波海燕の妻だった者として。

 

覚悟を決めたように、ハッキリと声を上げた。

 

「――失礼いたします!」

 

声が思ったより震えなかったことに、自分でも驚いた。

 

馨は門の向こうへ向かって深く頭を下げる。

 

「無類井馨にございます!」

 

風が吹く。

返事はまだない。

それでも馨は続けた。

 

「突然の訪問をお許しください」

 

拳を握り締める。

 

「志波空鶴殿、志波岩鷲殿」

 

喉の奥が痛い。

それでも言葉を止めない。

 

「長らく顔を出すことも叶わず、申し訳ございませんでした」

 

深く。

深く頭を下げる。

地面が見えるほどに。

 

「…本日は」

 

声が僅かに掠れた。

 

「どうか…お目通りを願いたく参りました!」

 

静寂。

 

「……」

 

風が庭木を揺らす音だけが響く。

 

馨は顔を上げない。

上げることができなかった。

 

もし拒絶されたら。

もし会いたくないと言われたら。

 

その言葉を受け止める覚悟はしてきた。

 

だからこそ。

ただ静かに待つ。

 

五十年越しの謝罪を。

ようやく口にするために。

 

 

 

 

 

「――ッ!」

 

 

重い音を立てて扉が開く。

錠が外れる音だけが、静まり返った屋敷の中に響いた。

 

馨は小さく息を整える。

 

「……失礼します」

 

そう告げて足を踏み入れた。

 

「………」

 

1度しか訪れたことはない。

だが、幸せな記憶が蘇った。

 

暖かく迎えてくれた二人。

賑やかな会話、美味しいご馳走。

大切な居場所――

 

 

「………」

 

部屋の奥。

背を向けたまま椅子に腰掛ける空鶴の姿があった。

 

指先には煙管。

ゆらりと紫煙が立ち上る。

 

そしてその隣には、腕を組みながらこちらを睨みつける岩鷲。

 

 

 

その視線に宿る感情を、馨は知っていた。

 

 

"怒り"

そして――失った者への"悲しみ"

 

「……」

 

馨は何も言わず、その場で深く腰を折った。

 

さらに膝をつく。

額が畳につくほど深く。

まるで土下座するように。

 

その姿を見ても、空鶴は振り返らなかった。

ただ静かに煙を吐き出し――

 

「……""何しに来た""」

 

低く。

鋭く。

氷のような声だった。

 

「ツ…」

 

馨の肩が僅かに震える。

 

思わず息を飲む。

それでも顔は上げない。

 

上げる資格などないと知っていた。

 

「私は――」

「答えになってねえ」

 

空鶴の声が叩きつけられる。

 

「何しに来たって聞いてんだ」

 

部屋の空気が張り詰めた。

 

岩鷲も何も言わない。

ただ睨み続けている。

 

馨は拳を握った。

爪が掌に食い込む。

 

それでも額を畳につけたまま、震える声を絞り出した。

 

「……"謝罪"に参りました」

 

沈黙。

長い沈黙。

 

「「……」」

 

 

 

 

やがて。

空鶴が小さく鼻で笑った。

 

「謝罪だと?」

 

その声音に温度はない。

 

「今さらか?」

 

煙管が灰皿に置かれる。

かつり、と乾いた音が響いた。

 

 

 

 

 

 

「――""五十年""」

 

空鶴はゆっくりと振り返った。

鋭い眼差しが馨を射抜く。

 

「五十年も姿を見せなかった奴が、今さら何を謝るってんだ。」

 

馨は答えられない。

言葉が出ない。

どんな言葉も軽く思えた。

どんな理由も言い訳にしかならない。

 

だから。

ただ一つだけ。

 

「……申し訳、ございませんでした」

 

額をさらに畳へ押し付ける。

 

「海燕…さんは…ッ……私が殺しました」

 

震える声。

額を畳に擦り付け、必死に絞り出す、

 

 

刹那、

岩鷲が立ち上がった。

 

畳を踏み鳴らす音が響く。

 

「その口で言うんじゃねえ!!」

 

怒声が部屋を震わせた。

 

「分かってんのかよ!!」

 

岩鷲の拳が震えている。

 

「姉ちゃんがどんだけ泣いたと思ってんだ!!」

「岩鷲」

 

空鶴が制する。

だが岩鷲は止まらない。

 

「俺だって覚えてんだよ!!」

 

怒鳴りながら馨を指差した。

 

「兄貴が死んだ日も!!、兄貴がいなくなった後も!!あんたが消えた日も!!」

 

声が掠れる。

怒りだけではない。

 

悲しみだった。

 

「なんでだよ……」

 

岩鷲は拳を握り締める。

 

「なんで兄貴もいなくなって……

 

 

 

"あんたまでいなくなった"んだよ……!」

 

 

 

その言葉に。

馨は何も返せなかった。

 

 

「岩鷲、落ち着け」

 

低い声だった。

それでも岩鷲は荒い息を吐きながら拳を握り締めている。

 

馨は額を畳につけたまま動かなかった。

 

「申し訳……ございません」

 

震える声。

それでも必死に言葉を紡ぐ。

 

「私は……」

 

謝ることしかできなかった。

 

許されるとは思っていない。

許してほしいとも思わない。

 

この場で殴られてもいい。

罵られてもいい。

斬られてもいい。

殺されても構わない。

 

それだけのことをしたのだから。

 

 

 

海燕を失わせた。

そして、自分は逃げた。

 

"志波家に向き合うことすらできずに"

 

「本当に……申し訳――」

 

その時だった。

 

 

 

 

 

「""謝るな!!""」

 

空鶴の鋭い怒声が落ちた。

馨の肩がびくりと震える。

 

「――っ!!」

 

次の瞬間。

近付いてくる足音を感じた。

 

一歩。

また一歩。

 

空鶴だ。

馨は思わず息を飲む。

顔は上げない。

上げられない。

 

唇を強く噛み締める。

 

「((…っ…私は…私は……))」

 

 

 

そして。

両肩を強く掴まれた。

 

「なぜだ!!」

 

空鶴の声が震えていた。

 

「なぜ、おれたちを頼らなかった!!」

 

肩が揺さぶられる。

 

「なぜ何も言わなかった!」

 

もう一度。

強く揺さぶられる。

 

「なぜ逃げた!!」

 

空鶴の叫びは怒りだけではなかった。

 

苦しみだった。

悲鳴だった。

 

「家族だろうが!!」

 

馨の瞳が大きく揺れる。

 

「兄貴は…いなくなったんだぞ!!」

 

空鶴の手に力が入る。

 

「お前まで……いなくなったら……」

 

声が掠れた。

 

「残されたおれたちは、どうしたらよかったんだよ…」

 

その言葉に。

馨はゆっくりと顔を上げた。

 

恐る恐る。

信じられないものを見るように。

 

そこにいた空鶴は。

 

怒っていた。

苦しんでいた。

 

そして――""泣いていた""

 

大粒の涙が頬を伝っていた。

 

「ずっと探して……」

 

掠れた声だった。

 

「兄貴がいなくなっても……お前が罪人だと言われても……」

「……」

「どこかで生きていると…!」

 

空鶴は唇を震わせる。

 

「帰って来るんじゃねえかって…」

 

馨の呼吸が止まった。

その言葉は予想していなかった。

 

憎まれていると思っていた。

恨まれていると思っていた。

顔も見たくないと思われていると。

 

そう信じていた。

 

だから。

だからこそ。

 

目の前の涙が理解できなかった。

 

 

「空鶴……殿……」

 

震える声が漏れる。

空鶴は乱暴に涙を拭った。

 

「殿じゃねえだろ!」

 

掴んだ肩を引き寄せる。

 

「家族だろうが…」

 

その言葉と共に。

空鶴は泣きながら馨を抱き締めた。

 

「帰って来るのが遅いんだよ……大バカ野郎!!」

 

その瞬間。

五十年という長い時間が。

ようやく少しだけ動き出した。

 

 

強く。

 

痛いほど強く。

 

「…くう、かく……」

 

空鶴は馨を抱き締めていた。

まるで二度と離すものかと言うように。

 

五十年という歳月を埋めるように。

 

馨は何も言えなかった。

 

ただ目を見開いたまま、その温もりを受け止める。背中に回された腕が震えている。

 

空鶴も泣いていた。

 

そして。

その後ろでは岩鷲もまた、顔を背けながら涙を流していた。

 

「ったくよ……」

 

乱暴に目元を拭う。

 

「帰ってくるのがおせぇんだよ……」

 

震える声だった。

怒っているようで。

泣いているようで。

 

そのどちらでもあった。

 

「ぁ……っ」

 

馨の喉が詰まる。

言葉にならない。

 

謝罪の言葉なら何度も考えてきた。

 

だが。

こんな言葉は想像したこともなかった。

 

空鶴は馨を抱き締めたまま静かに言った。

 

 

「"馨"」

 

その声は先程までとは違った。

 

怒りも。

憎しみもない。

 

ただ家族を呼ぶ声だった。

 

「お前が兄貴を殺すなんて」

 

空鶴は首を横に振る。

 

「そんなこと、おれは一度も思ったことはない」

 

岩鷲も無言のまま頷いた。

 

「兄貴がお前をどれだけ大事にしてたか」

 

「お前が兄貴をどれだけ愛してたか」

 

空鶴は知っている。

岩鷲も知っている。

 

志波家のみんなが知っている。

 

だからこそ。

 

「信じられなかった」

 

空鶴は小さく呟く。

 

「お前が理由もなく兄貴を斬るなんて」

 

あり得ない。

 

「仲間を惨殺するなんて」

 

そんなことは最初から分かっていた。

 

だから怒ったのだ。

だから苦しかったのだ。

 

「腹が立ったんだ」

 

空鶴の声が震える。

 

「独りで抱え込んだことに」

 

馨の肩が震えた。

 

「兄貴を失って、傷付いて、苦しんで…それでも誰にも頼らなかった。」

 

空鶴は僅かに力を込める。

 

「なぜだ」

 

絞り出すような声だった。

 

「なんでおれたちに何も言わなかった」

 

馨は答えられない。

答えようと口を開いても声にならない。

 

ただ涙だけが溢れてくる。

空鶴はそんな馨の頭をそっと撫でた。

 

昔と同じように。

家族にするように。

 

「おれたちは…家族だ!」

 

その言葉に。

 

「…ぅ……ッ…」

 

馨の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

 

 

「兄貴が居なくなっても」

 

「お前が罪人にされたとしても」

 

「そんなもの、関係ねえ!」

 

空鶴は真っ直ぐに言う。

 

「おれたちは家族だ!」

 

そして少しだけ笑った。

涙でぐしゃぐしゃの顔のまま。

 

「そうだろ?」

 

その瞬間。

馨の中で張り詰めていた何かが切れた。

 

「……っ」

 

声にならない。

ただ震える。

震えながら空鶴の衣服を掴む。

 

「ごめ……なさ……」

「だから謝るなって」

 

空鶴は困ったように笑った。

 

その横で岩鷲も鼻をすすりながら言う。

 

「…兄貴だったら絶対怒ってるぜ」

 

そして不器用に笑う。

 

「なんで家族頼らなかったんだってな…!」

 

その言葉に。

馨は泣きながら頷くことしかできなかった。

 

だがその涙は。

五十年前に流した絶望の涙ではなかった。

 

ようやく帰る場所を見つけた者の涙だった。

 

 

 

 

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