┈┈┈┈┈┈┈┈┈
長い沈黙の果てに
ようやく辿り着いた答えは
誰かのためではなく
私自身のものだった
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
ANSWER
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
――夜
┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈
静まり返った一番隊隊舎。
総隊長執務室。
長い沈黙の中、無類井馨は畳の上に正座し、静かに頭を垂れていた。
向かいには、護廷十三隊総隊長。
山本元柳斎重國。
重々しい空気が部屋を支配していた。
やがて。
「――"無類井馨"」
低く響く声。
「は」
「…まずは詫びねばならぬ」
馨は僅かに顔を上げた。
山本は真っ直ぐに彼女を見据えていた。
「お主を罪人として扱ったこと。お主から居場所を奪ったこと。…護廷十三隊を代表し、謝罪する」
静かな声だった。
だがその一言には総隊長としての重みがあった。
しかし馨は首を横に振る。
「総隊長殿に非はございません」
「……」
「当時の状況において、あの判断は正しかったかと」
「……」
「そう判断せざるを得なかっただけです」
「……」
「私は恨んでおりません」
山本は目を閉じる。
その言葉が、余計に胸へ刺さった。
もし彼女が怒りをぶつけてくれたなら。
責めてくれたなら、どれほど楽だったか。
だが馨は違った。
長い歳月を奪われながらも、誰も責めようとはしなかった。
「……そうか」
短く呟く。
そして話を変えるように口を開いた。
「無類井」
「はい」
「藍染惣右介に執着される理由に心当たりはあるか」
馨は少し考えた後、答えた。
「私の斬魄刀かと」
「…無名が?」
「はい。…共鳴の力」
「……」
「あるいは鬼道、白打を含めた戦力として。藍染ならば利用価値を見出したとしても不思議ではありません」
「……いいや。それだけじゃあるまい。」
即座に否定された。
馨は思わず顔を上げる。
山本の声音には確信があった。
「……なぜ、そう思われるのですか?」
沈黙。
そして。
山本は静かに問いかけた。
「お主、自らの出生についてどこまで知っておる」
馨は眉を寄せた。
「出生、ですか」
「うむ」
「…はい。私は南流魂街の奥地で拾われたと聞いております」
「……」
「一番隊の任務中に保護され、その後流魂街で育てられました。後に霊術院へ入り、十三番隊へ。――それ以上のことは"知りません"」
そしてふと、昔の記憶を思い出す。
「そういえば…総隊長殿は霊術院時代、一度だけ私を呼び出しましたね」
山本の眉が僅かに動く。
「……覚えておったか」
「はい」
当時。
まだ学生だった馨。
人気のない演習場。
山本と副官だけがいた。
何をするのかと思えば。
山本は流刃若火を抜いた。
そして、刀を合わせろと言った。
刀身が触れた瞬間。
世界が燃えた。
炎。
炎。
灼熱。
業火。
圧倒的な破壊の共鳴。
流刃若火の記憶。
その一端が自身へ流れ込んだ。
そして。
気付けば自分の刀は炎を纏っていた。
「あの時以来です。総隊長殿が私に興味を持った理由も…何も聞かされておりません」
山本は深く息を吐いた。
遠い昔を思い出すように。
――そう。彼女に初めて出会った時のこと。
それは霊術院時代ではなく――もっと昔のこと。
目を閉じる。
雨の日だった。
今でも覚えている。
┈┈┈┈
数百年前――
まだ護廷十三隊が流魂街の治安維持に奔走していた頃。
南流魂街。
空は厚い雨雲に覆われ、激しい雨が大地を打ち続けていた。
山林には虚の亡骸が幾つも転がり、その中心で、一人の老人が静かに斬魄刀を鞘へと納める。
護廷十三隊一番隊隊長。
山本元柳斎重國。
「周囲の霊圧は」
低く響く声に、副隊長 雀部長次郎忠息は周囲へ視線を巡らせた。
「消失しております。残敵はありません」
「そうか」
隊士たちもようやく肩の力を抜く。
「――ん?」
しかしその時だった。
かすかに。
雨音へ紛れるほど小さな声。
「……」
雀部は眉をひそめる。
「……隊長」
「うむ」
二人の耳には確かに届いていた。
赤子の泣き声。
この山奥で聞こえるはずのない、小さな命の叫び。
「私が確認して参ります」
雀部は刀へ手を添えたまま、慎重に山林へ足を踏み入れる。
隊士たちも自然と緊張を強めた。
虚による誘いか。
それとも何者かの罠か。
木々を掻き分ける音だけが、しばらく雨音へ混じって響く。
やがて――
「……隊長。」
雀部が戻ってきた。
その腕には、一人の赤子が抱かれていた。
「……!」
隊士たちの目が一斉に見開かれる。
純白の、それも流魂街ではまず目にすることのない高価な布へ丁寧に包まれた、小さな女の子。
頬を真っ赤に染め、力いっぱい泣いている。
だが隊士たちが驚いたのは、それだけではなかった。
「この子……」
「霊力が……」
「赤子とは思えぬ……」
その小さな身体からは、まだ未熟ながらも一本芯の通った、強い霊圧が静かに滲み出ていた。
まるで生まれながらに、大樹の根を宿しているかのような。
雀部は赤子を抱いたまま静かに報告する。
「近くに母親と思われる姿はありません。」
一拍置き、その表情が険しくなる。
「……ですが。」
雀部は布の一角を示した。
「この布に、血痕が付着しております。」
その言葉に、周囲の空気が一変する。
山本は赤子へ静かに目を落としたあと、雨の山林を見据えた。
「……雀部。」
「はっ。」
「探すぞ。」
その一言で、一番隊は即座に散開した。
雨に足跡は残らない。
それでも隊士たちは僅かな痕跡を頼りに山林を進む。
そして――
「……隊長!」
一人の隊士の震えた声が雨を裂いた。
山本たちが駆け寄る。
そこにあったのは。
「「!?」」
無惨という言葉ですら足りぬ光景だった。
美しい着物を纏っている女性の亡骸。
そして、その近くでは白い装束を纏った男たちが数名の亡骸。
どの亡骸も、身体は鋭利な刃物で何度も切り裂かれ、原形を留めぬほど損壊している。
血はすでに雨へ流され始めていた。
雀部は静かに周囲へ意識を広げる。
「……。」
「どうだ。」
「……複数名の霊圧を感じた形跡があります。」
雀部は拳を固く握る。
「ですが、我々に気付いたのでしょう。すでに何者の気配もありません。」
逃げられた。
その事実だけが重く残る。
雨だけが、何事もなかったかのように降り続いていた。
誰一人、口を開けない。
隊士たちは息を呑み、その凄惨な光景を見つめることしかできなかった。
山本はしばらく亡骸を見つめると、静かに踵を返す。
「……赤子を連れて帰る。」
誰も異論はなかった。
雨の中で唯一生き残った、その小さな命。
それが後に、尸魂界の運命を大きく揺るがす存在になることを、この場の誰一人として知る者はいなかった。
――そして、その直後だった。
報告が届いた。
"ある貴族が女を追っている"という情報。
しかもその女は。
幼い子を抱えて逃走していたという。
┈┈┈┈┈┈
「……無類井。」
「はい。」
「お主の母についてじゃ。」
その一言に、馨はわずかに目を瞬かせた。
「……母、ですか。」
唐突だった。
そして、これまで出生について聞かれたことはあっても、母について語られたことなど一度もない。
山本は目を閉じ、小さく息を吐く。
「これから話すことは、確たる事実ではない。」
「……。」
「儂が長年集めた記録と、僅かに残されていた証言から導き出した、一つの推論に過ぎぬ。」
馨は黙って頷いた。
「お主を保護したあの日。」
「はい。」
「お主は、流魂街では到底手に入らぬほど上質な布へ包まれておった。」
山本の視線は遠い昔を見つめるようだった。
「その布地。刺繍。織り。……いずれも流魂街の民が持ち得るものではない。」
馨は静かに耳を傾ける。
「さらに、女を守るように命を落としていた者たちも、ただ逃げ惑った民ではない。」
「……。」
「誰かを守るため、命を賭して戦った者たちじゃ。」
山本は低く続ける。
「ゆえに儂は考えた。……お主の母は……。」
そこで一度言葉を切る。
長い沈黙。
「極めて高貴な身分の者と、何らかの関わりがあったのではないか、と。」
馨の瞳がわずかに揺れる。
「少なくとも。ただの南流魂街の民では説明がつかぬ。」
山本は首を横へ振った。
「もちろん、証はない。名も残されておらぬ。」
「……」
「ゆえに、儂は誰にも語らなんだ。」
その重々しい言葉には、軽々しく真実とは呼べないものへの責任が滲んでいた。
「じゃが。」
山本は真っ直ぐ馨を見る。
「近年になり、大霊書回廊の古い記録を調べ直したことで、一つだけ気になる記述を見つけた。」
「……?」
「ある名家の血筋が、数百年前に忽然と記録から消えておる。」
馨はゴクリと息を飲んだ。
「逃亡。あるいは、秘匿。そう受け取れる内容じゃった。」
山本の眼差しが鋭くなる。
「そして、その時期は――お主が儂に拾われた頃と、ほぼ一致しておる。」
部屋には再び静寂が落ちた。
馨は俯いたまま、自分の手を見つめる。
何百年も、自分は流魂街の孤児だと思って生きてきた。
その根底が、今、静かに揺らぎ始めていた。
「((……私の……母の存在――))」
残された赤子。
付近にはその関係者らしきものたちの亡骸。
「((あまり考えてこなかった。……尸魂界……流魂街において、父母が居ないことは珍しいことではない。……))」
山本はゆっくりと目を開く。
「確証はない」
「……はい」
「だが、その女がお主の母親であった可能性が高い」
馨の瞳が揺れる。
「母、親……」
「そしてその女は」
山本は重く言葉を続ける。
「極めて高位の貴族と関わりがあった。あるいは、その血族であった可能性がある」
部屋の空気が変わる。
馨は何も言えなかった。
山本だけが知る、もう一つの事実。
あの日。
赤子を抱き上げた瞬間。
ほんの一瞬だけ。
その霊圧が。
護廷十三隊の誰とも違う"どこか異質なもの"に感じられたことを。
そして今。
藍染惣右介が執着する理由も。
その血にあるのではないかと。
老いた総隊長は考えていた。
「――""綱彌代家""という名に心当たりはあるか」
静かな問いだった。
馨は少しだけ考える。
聞いたことのない名ではない。
むしろ、尸魂界で生きる者なら誰もが知る名だ。
「五大貴族の一つであることは存じております」
そう答えると、山本は小さく目を閉じた。
「……そうか」
それだけだった。
それ以上は何も語らない。
馨もまた追及しなかった。
聞きたいことはある。
だが、総隊長が今語らないのであれば理由があるのだろう。
「「…………」」
再び静寂が落ちる。
やがて山本はゆっくりと口を開いた。
「この話はいずれせねばならぬ。……だが今は急を要する案件がある」
馨は顔を上げる。
山本の目は真っ直ぐだった。
「無類井馨」
「はい」
「""護廷十三隊へ戻らぬか""」
その言葉に。
馨の瞳が大きく見開かれた。
「……え」
思わず声が漏れる。
山本は続ける。
「藍染惣右介、市丸ギン、東仙要」
「……」
「三名の隊長格を一度に失った。そして現在、護廷十三隊は混乱の最中にある」
重い現実だった。
三人の隊長。
しかもその内二人は百年以上隊を率いていた存在。
その空席はあまりにも大きい。
「特に五番隊じゃ」
山本の表情が僅かに曇る。
「副隊長、雛森桃。主のお陰で、何とか一命は取り留めた。」
「……」
「しかし精神状態は芳しくない。隊をまとめる者がおらぬ。」
馨は言葉を失う。
雛森の顔が浮かぶ。
あの少女の泣きそうな顔。
藍染を信じ続けた姿。
「((きっと……
胸が痛んだ。
だが、それでも。
「――"申し訳ございません"」
馨は静かに頭を下げた。
「私は既に護廷十三隊を去った身です。今更戻る資格など――」
「""ある""」
即座だった。
山本は断言した。
「お主は無罪であった。罪人ではない。戻る資格ならば最初からある」
「……ッ……」
馨は言葉に詰まる。
それでも首を横に振った。
「ですが……私は現世で暮らしております。護廷十三隊に戻るつもりは……」
そこまで言いかけた時だった。
山本が静かに告げる。
「――ならば"条件"を出そう」
馨は眉を寄せた。
「((……""条件?""))」
総隊長が、自分に。
「お主が復隊するのであれば」
山本は目を光らせる。
「浦原喜助、四楓院夜一」
大切な二人の名を告げた時、馨はなんとなく察した。
「""両名の追放処分を取り消す""」
その瞬間。
馨の表情が固まった。
「……っ」
思わず顔を上げる。
山本は続けた。
「正式に罪を撤回する。瀞霊廷への立ち入りも認めよう」
「……!」
「さらに」
老いた総隊長は静かに言う。
「黒崎一護ら旅禍との協力関係も不問とする」
「えっ」
「処罰はせぬ」
馨は息を呑んだ。
理解が追いつかない。
浦原喜助。
四楓院夜一。
自分を救うために全てを捨てた二人。
その罪を消す――と。
そして。
「((……一護達も――))」
一護達まで守ると言う。
あまりにも破格だった。
「総隊長殿……」
思わず呟く。
「……なぜ、そこまで」
山本はしばらく答えなかった。
「……」
だがやがて。
ゆっくりと口を開く。
「お主を呼び戻したいからではない」
「……」
「護廷十三隊に今必要なのがお主だからじゃ」
その言葉には嘘がなかった。
隊長として。
戦力として。
人望として。
そして何より。
"藍染惣右介と対峙できる存在"として。
今の護廷十三隊に必要だった。
「それに」
山本は静かに続ける。
「わしはもう二度と」
老いた瞳が細められる。
「護るべき者を、誤った裁定で失いたくない」
その一言だけだった。
だが。
それだけで十分だった。
馨は何も言えなくなる。
長い年月を、この男もまた。
苦しみ続けていたのだと。
「……ッ……」
初めて知った。
部屋には再び沈黙が落ちる。
返答を急かす者はいない。
総隊長は待つ。
ただ静かに。
無類井馨という一人の死神の答えを。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈
夜の瀞霊廷。
柔らかな風が吹き抜ける。
「…………」
無類井馨は一人、石畳の道を歩いていた。
夜風に黒髪が揺れる。
総隊長執務室を出てから、どれほど歩いただろうか。
「((……私は……どう在るべきか。))」
考えることが多すぎた。
綱彌代。
出生。
藍染惣右介。
そして――""復隊""
おそらく、あの言い方であれば
五番対副隊長に属せ、ということだろう。
過去に副隊長に推薦されたことも有る。
きっと総隊長はそのつもりだ。
副隊長、雛森桃
消耗
頓挫
萎縮
無気
――正に鬱屈状態。
市丸や東仙が率いていた隊も不安定だと、ここ数日で小耳には挟んでいたが、あまりにも状況が違う。
なんせ"あの藍染惣右介"が率いていた隊。
誰しもが予想し得なかった大きな裏切り。それを真正面から五番隊は受けたのだ。
隊士達の消沈は予想できる。
だからこそ危機的状況なのだ。
「……んー……」
整理しようとしても上手くまとまらない。
そんなまま足だけが前へ進んでいた。
辿り着いたのは瀞霊廷の中心部。
徐々に死覇装が目につき始めた。
道行く死神たちが馨に気付く。
そして軽く頭を下げる。
「お疲れ様です」
「こんばんは」
礼儀正しい挨拶。
しかしどこか遠い。
恐れとも敬意とも違う。
どう接していいか分からない。
そんな距離感。
「((……真っ直ぐ四番隊に戻ればよかった。……まあ、もういいか。拘束される訳でもないし。))」
馨は慣れていた。
五十年前も。
現世でも。
そして今も。
静かに会釈を返しながら歩き続ける。
その時だった。
「――!」
視界の端に。
ひらりと揺れる桃色の着物が映る。
「あ」
足が止まった。
見覚えのある姿。
編笠。
隊長羽織の上に鮮やかな桃色の着物を羽織る――
口元にいつもの笑みを浮かべながら。
「"こんばんは、馨ちゃん"」
馨は僅かに目を見開いた。
そして小さく頭を下げる。
「京楽隊長。こんばんは」
「ははっ。いやぁ〜」
京楽は肩を竦めた。
「随分、くらい顔してるねぇ」
馨は思わず苦笑する。
「そうですか?」
「そうだよぉ」
京楽は大袈裟に頷いた。
「そんな顔して歩いてたら七緒ちゃんに怒られるよ?」
その光景が容易に想像できた。
思わず少しだけ口元が緩む。
「それは嫌ですね?」
「でしょ?」
京楽は楽しそうに笑う。
懐かしい感覚だった。
歳も、実力も、何もかもが離れているのに。
昔から京楽は何故か距離が近かった。
――まるで、"いい意味で"いつも観察しているようで。
京楽は次の瞬間。
ふっと表情を和らげた。
「何かあった?」
馨は視線を逸らした。
「……いえ」
「山じいのところからの帰りでしょ?」
図星だった。
沈黙が答えになる。
京楽は小さく息を吐く。
「やっぱりか」
「……」
「まぁ、あの人と話した後は大体そんな顔になるんだけどねぇ」
馨は何も言わない。
言葉にしたくなかった。
まだ整理できていない。
「……」
だから京楽も深くは聞かなかった。
代わりに。
ぽん、と軽く、馨の肩を優しく叩いた。
「よし」
「?」
「団子でも食べに行こう」
馨は目を瞬かせた。
「……はい?」
「甘いもの」
「いえ、そういう問題ではなく」
「ほらほら〜。馨ちゃん行きつけだった甘味処、まだ健在よ〜」
京楽は歩き出す。
「……"春水殿"」
「大丈夫」
振り返りながら笑う。
「ナンパじゃないよ〜」
「誰もそんなこと言ってません」
「言われる前に否定しとかないとねぇ」
「……」
「七緒ちゃんに刺されちゃうし」
「…………ふふっ、」
馨はとうとう吹き出した。
小さな笑い声。
それを聞いた京楽が満足そうに頷く。
「うん。今の方がいい」
「え?」
「笑ってる方が馨ちゃんらしい」
その一言に。
馨は少しだけ目を伏せた。
返事はしない。
できなかった。
京楽はそれ以上何も言わない。
ただ隣を歩く。
昔と同じ距離感で。
やがて二人は瀞霊廷の一角にある甘味処へ足を向けた。
┈┈
暖簾の向こうから漂う甘い香り。
賑やかな声。
どこか懐かしい空気。
その光景を見た瞬間、馨はふと気付く。
「((……不思議))」
こんな風に誰かに連れ出されるのは、いつ以来だろうか、と。
暖簾をくぐると、甘い醤油の香りが鼻をくすぐった。
京楽は慣れた様子で席へ腰を下ろす。
馨も向かいへ座った。
注文を聞かれる前だった。
店員が小皿を二つ運んでくる。
そのうち一つには、照りのあるみたらし団子が並んでいた。
馨は目を瞬く。
「……注文していませんが」
「してないよぉ」
京楽は湯呑みに手を伸ばしながら笑う。
馨はふと店員を見上げた。
見た事のある人物だった。
初老の……懐かしい人物。
きっと覚えていてくれたのだろう。
「馨ちゃん、絶対これ食べるでしょ?」
「……」
否定できなかった。
現世でも。
値引きされた団子を見つけるとつい買ってしまう。
そんな些細な好みまで覚えられていることに、少しだけ気恥ずかしくなる。
「――ありがとうございます」
「どういたしまして」
京楽は嬉しそうに笑った。
その優しさが妙に胸に染みる。
だからだろうか。
次の言葉は完全に不意打ちだった。
「"で、戻ってくるの?"」
馨は危うく口に含んだ茶を吹き出しそうになった。
「んぐっ……!!」
慌てて飲み込む。
京楽は肩を揺らして笑っていた。
「はははっ!!」
「……」
「馨ちゃんってさ」
「……はい」
「涼しい顔してるけど、意外と分かりやすいよねぇ?昔から変わらないよ、そういう所。」
馨は深々とため息を吐く。
「……あまり茶化さないでください、春水殿」
「ごめんごめん」
全く反省していない声だった。
しばらく笑っていた京楽だったが。
ふと表情を和らげる。
「でもね」
静かな声。
先程までの軽さが消えていた。
「僕は戻ってきて欲しいと思うよ」
「…………」
馨は黙る。
京楽は続けた。
「君の力は必要だ」
「……」
「今すぐ隊長になれと言われても、反対する人なんてほとんどいないと思う」
馨は苦笑する。
「買い被りです」
「本音だよ」
即答だった。
「強さだけじゃない」
京楽は真っ直ぐ馨を見る。
そして指を折りながら、言葉を続けた。
「統率力」
「人望」
「判断力」
「人柄」
真剣な眼差し。
馨はどこか恥ずかしささえ感じてしまう。
だが彼は本気でそう言っていた。
「馨ちゃんには全部ある」
「……」
「だから山じいは声を掛けたんだ」
店内の喧騒が遠く聞こえる。
馨は視線を落とす。
そんな風に考えたことはなかった。
「((……私は))」
自分はただ。
必死に生きていただけだ。
「それにね」
京楽は団子を一つ口に運びながら続ける。
「藍染が何を企んでるか分からない」
「……」
「おまけに」
その目が細められる。
「"馨ちゃんは間違いなく狙われてる"」
その言葉に空気が少しだけ重くなる。
山本からも言われた。
京楽からも言われる。
ならば事実なのだろう。
「そんな時」
京楽は肩を竦めた。
「こっちにいた方が都合がいいんじゃない?」
「……」
反論できなかった。
確かにそうだった。
藍染が動けば、現世も尸魂界も関係ない。
どこにいても狙われる。
ならば戦力のある場所にいた方がいい。
頭では理解できる。
だが――心が追いつかない。
「…………」
「……んー……」
そんな馨を見ながら、京楽はふと話題を変えた。
「ところで」
嫌な予感がした。
「旅禍の男の子」
「……」
「気になるのかい?」
「……え?」
馨の肩が僅かに跳ねる。
京楽は見逃さなかった。
「図星だ」
「違います」
「今の反応で?」
「違います」
「ふーん」
絶対に信じていない顔だった。
京楽は楽しそうに笑う。
そして。
少しだけ遠くを見るように目を細めた。
「……""よく似てるよ""」
馨が顔を上げる。
「""海燕くんに""」
その名前に胸が揺れた。
京楽は静かに続ける。
「あの子を鍛えたの、馨ちゃんだよね?」
「……え?」
思わず聞き返す。
「太刀筋、間合い、踏み込み、癖」
京楽は指を折りながら数える。
「驚くほど近かった」
馨は言葉を失った。
そんなつもりはなかった。
ただ。
強くなって欲しかっただけだ。
「それに」
京楽は笑う。
「人を助けるためなら無茶をするところも似てる」
「……」
「まぁ」
そこで肩を竦める。
「無茶苦茶さは海燕くんの方が上だけどねぇ」
「……ふふっ」
馨は思わず吹き出した。
確かにそうだった。
無鉄砲。
考えるより先に動く。
困っている人を見ると放っておけない。
昔からそうだった。
京楽も思い出しているのだろう。
懐かしそうに笑っていた。
そしてふと、優しい目で馨を見る。
「だからさ」
「……?」
「逃げないであげてよ」
その言葉に、馨の動きが止まる。
「海燕くんからもみんなからも」
「……」
「そして」
京楽は微笑んだ。
「"自分自身からもね"」
その言葉だけは。
胸の奥へ真っ直ぐに落ちていった。
┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈
京楽と別れた後、馨はすぐに四番隊に帰るつもりだった。
だが気付けば足は別の方向へ向いていた。
「((……懐かしい、……ああ。))」
見慣れた道。
見慣れた景色。
いつの間にか辿り着いていたのは、十三番隊隊舎の近くだった。
「…………」
夜の風が木々を揺らしている。
隊舎からは灯りが漏れていた。
隊士たちの話し声も聞こえる。
「((……懐かしい。))」
変わらない。
長い歳月が流れたはずなのに。
あまりにも変わらない光景だった。
「……」
馨は思わず足を止める。
周辺の木々を見渡し、大きく深呼吸する。
「…………はぁ」
刹那――
「"馨、三席…?"」
「……!」
背後から聞こえた声。
心臓が跳ねた。
聞き覚えのある女性の声だった。
ゆっくり振り返る勇気が出ない。
だから、反射的に顔を逸らしてしまった。
「……ッ……」
逃げるように。
見つかってしまった子供のように。
「"馨三席……!"」
今度はもう一人。
慌てた男性の声だった。
駆け寄ってくる足音。
そして次の瞬間。
柔らかな衝撃が胸にぶつかった。
「っ……!」
馨は目を見開く。
抱きつかれていたのだった。
「"清音さん…?"」
「……う………うぅっ…」
虎徹清音だった。
昔と変わらない顔。
だが、その顔はぐしゃぐしゃに歪んでいた。
「うっ……」
「き、清音さ」
「うぅ……っ!!」
言葉にならない。
ただ涙だけが溢れている。
馨の死覇装を強く掴みながら。
まるで離せば消えてしまうかのように。
「……生ぎ……て……」
震える声。
「本当に……ッ……生きてた…ッ…!」
馨は何も言えなくなった。
「……ッ……」
過去、何も告げずに消えた。
謝る資格すらない。
そう思っていた。
だからこそ。
こんな風に抱きつかれる資格などないと思っていた。
「ごめん、なさい……」
ようやく絞り出した言葉。
しかし清音は首を横に振る。
何度も、何度も、子供のように。
その後ろでは。
小柄な男が立ち尽くしていた。
小椿仙太郎。
いつも騒がしく。
いつも海燕の後ろを付いて回っていた男。
その仙太郎が。
今にも泣きそうな顔をしていた。
「……三席ッ……!」
ようやく出た声。
だが続かない。
唇が震えている。
「仙太郎…さん…」
馨が名前を呼ぶ。
それだけで。
仙太郎の目が赤くなる。
「馬鹿野郎……!」
掠れた声だった。
「本当に……馬鹿野郎だ…!…」
怒鳴りたかった。
文句を言いたかった。
言いたいことなんて山ほどあった。
それなのに。
目の前に本人が現れた瞬間。
何も変わっていない、優しい人が現れた瞬間。
何も言えなくなってしまった。
「……すみません」
馨は小さく頭を下げる。
仙太郎は乱暴に目元を拭った。
「謝んなよ……」
その声も震えていた。
「"帰ってきた"ならそれでいいじゃねえか!!」
「っ……」
その言葉に馨の胸が締め付けられる。
――""帰ってきた""
その言葉がどうしてこんなに重いのか。
分からなかった。
――その時だった。
「……っ!」
隊舎の奥から足音が聞こえる。
聞き慣れた優しい足音。
馨の身体が強張った。
振り返らなくても分かる。
分かってしまう。
足音が近付く。
そして。
隊舎の灯りの中から一人の男が姿を現した。
「あ……ッ……」
馨は思わず声を漏らす。
白い隊長羽織。
柔らかな微笑み。
長い銀髪。
十三番隊隊長。
――浮竹十四郎。
「……騒がしいと思ったら」
穏やかな声。
変わらない声。
昔から何一つ変わらない。
その姿を見た瞬間。
馨の身体が硬直した。
「…………ッ……」
呼吸が止まりそうになる。
会いたかった。
ずっと。
会いたかった。
それなのに。
一番会うのが怖かった人でもあった。
だからここまで、四番隊隊舎から一歩も出なかったのだ。
海燕を失った日。
何も言えなかった。
何も返せなかった。
隊長の期待も。
信頼も。
全て裏切ったと思っていたから。
だから。
浮竹と目が合った瞬間。
馨は反射的に視線を落としてしまう。
「……ぁ……」
まるで罪人のように。
再び。
深く
深く――
頭を下げた。
「……ご無沙汰しております」
声が震えた。
「浮竹隊長」
沈黙が落ちる。
誰も喋らない。
清音も。
仙太郎も。
息を呑んで見守っていた。
そして。
次の瞬間。
浮竹は小さく笑った。
本当に。
心の底から安堵したように。
「……"おかえり、馨"」
その一言だけだった。
責める言葉も。
問い詰める言葉も。
何もなかった。
ただ、ずっと待ち続けていた人の声だけが。
そこにあった。
「……っ……」
馨の視界が滲む。
顔を上げられなかった。
そのまま、半ば清音に引っ張られるようにして。
馨は十三番隊隊舎へ、久しぶりに足を踏み入れた。
┈
「((……ああ。……懐かしい。))」
木の廊下。
夜の静かな空気。
どこか懐かしい薬草の香り。
「((……変わっていない。))」
何もかも。
長い歳月が流れたはずなのに。
まるで昨日までここで暮らしていたかのようだった。
「――あ」
自然と足が止まる。
視線の先に縁側。
月明かりに照らされた木の床。
海燕と何度も肩を並べて座った場所。
仕事を終えた後。
酒を飲みながら。
団子を食べながら。
どうでもいい話をした場所。
そして。
その隅に置かれた一枚の座布団。
少し色褪せている。
端には丁寧に縫い直された跡があった。
馨は思わず足を止めた。
「……この座布団」
ぽつりと零れた声。
すると。
後ろにいた清音が勢いよく反応する。
「気付きました!?」
「え」
「それ!馨三席が使ってた座布団です!」
清音は誇らしげに胸を張る。
「買い直さなかったんですよ!」
「……」
「破れたところはちゃんと縫って!」
「……」
「綿も入れ直して!」
「……」
「ずっと使ってるんです!」
横から仙太郎も頷いた。
「志波副隊長が座ってたやつも残ってるぞ」
馨は言葉を失う。
そんなもの、とっくに捨てられていると思っていた。
自分の痕跡など。
残っているはずがないと。そう思っていた。
「……馬鹿ですね」
思わず笑ってしまう。
だが。
その声は少し震えていた。
清音は首を傾げる。
「なんでですか?」
「……そんなもの」
馨は座布団を見つめる。
「残しておく必要なんてないでしょう」
すると。
清音と仙太郎は顔を見合わせた。
そして、まるで当然のことを言うように。
「ありますよ」
答えた。
馨は何も言えなくなる。
その時だった。
奥から数人の隊士が現れる。
「――!」
若い隊士たちや見覚えのある顔も。
当時を知らない者もいるだろう。
だが。
彼らは馨を見るなり。
一斉に立ち上がった。
そして、深く頭を下げた。
「お疲れ様です」
「ご無沙汰しております」
「無類井三席」
馨は目を見開く。
慌てて手を振った。
「……やめてください」
「え?」
「"私に頭を下げないでください"」
思わず強い声になる。
隊士たちは困惑する。
馨は眉を寄せた。
「私はそんな立場ではありません」
「ですが……」
「やめてください」
その言葉に。
隊士たちは戸惑いながらも頭を上げた。
ずっと、ずっと
――罪人だった。
追われる側だった。
敬意を向けられることに、まだ慣れなかった。
その様子を見ていた浮竹は何も言わない。
ただ静かに見守っていた。
「……」
やがて。
「"馨"」
優しい声。
「少し話をしようか」
「……」
「ついてきなさい」
馨は小さく頷く。
案内されるまま。
二人は奥へ進む。
十三番隊隊長執務室。
何度も訪れた部屋だ。
扉が閉まる。
二人きりになる。
静かな空間。
馨は無意識に室内を見渡した。
本棚。
書類。
昔と変わらぬ机。
そして、その一角で。
「…………っ」
視線が止まった。
"木製の古びた写真立て"
そこに収められていたのは。
祝言の日の写真だった。
志波海燕。
無類井馨。
並んで笑っている。
幸せそのものだった頃。
「……」
声が出ない。
覚えている。
あの日、浮竹は写真を何枚も焼き増しして、ほかの隊の隊士たちに配って回っていた。
┈┈┈
『いい写真だろう?』
『息子と娘みたいなものだからな。』
『……馨なんて、本当に綺麗で――』
┈┈┈
と、皆に自慢して。
山本にも見せびらかしていた。
その光景まで鮮明に蘇る。
懐かしさと。
痛みと。
愛しさが同時に胸を締め付けた。
「……あの……浮竹隊ちょ」
馨が視線を動かした、その時だった。
「……!」
不意に、畳に手がつく音がした。
馨は反射的に振り返る。
そして凍りついた。
「なっ……!!」
浮竹十四郎が深く頭を下げていた。
土下座にも近いほどに。
深く。
深く。
「隊長!?」
馨は血の気が引いた。
慌ててその場へ駆け寄る。
膝を折る。
「やめてください!」
震える声が出る。
「頭を上げてください!」
「……」
「浮竹隊長!」
「……」
「どうか!」
「……」
「隊長!!!」
必死だった。
こんなことをさせるために来たわけじゃない。
謝らせるためじゃない。
責めるためじゃない。
それなのに。
浮竹は頭を上げない。
「ッ……」
「お願いです!隊長!頭を――」
肩が微かに震えていた。
そして、絞り出すような声が落ちる。
「…っ…すまなかった」
馨の息が止まる。
「隊長……」
「守れなかった」
その一言だった。
後悔が。
苦しみが。
懺悔が。
その短い言葉に全て込められていた。
「私は」
浮竹の声が震える。
「馨の隊長だったのに」
「……」
「何一つ……っ……守れなかった……!」
馨は言葉を失う。
初めてだった。
浮竹十四郎がこんな声を出すのを聞いたのは。
「お前の隊長だったのに……!何一つ守れなかった」
震える声。
聞いているだけで苦しかった。
やめてほしかった。
そんな顔をしてほしくなかった。
そんな声を出してほしくなかった。
「隊長……」
呼びかけても。
浮竹は頭を上げない。
畳に額が付きそうなほど深く頭を下げたままだった。
その姿を見て。
とうとう馨は堪えきれなくなった。
両手を伸ばす。
そして、浮竹の肩を掴んだ。
びくり、と肩が揺れる。
「……お願い…ですから」
掠れた声だった。
「もう、……いいですから」
「……馨」
「頭を上げてください」
強く、そう言った。
それでも浮竹は動かない。
だから馨は肩を掴む手に力を込めた。
「お願いです……もう、やめてください……」
その声は震えていた。
涙を堪えるように。必死に。
必死に。
浮竹を見つめる。
心の奥が痛かった。
「((……私は……))」
本当は――本当は。
憎んだことがなかった訳じゃない。
拘束されたあの日。
中央四十六室。
罪人として裁かれた日。
自分は何度も助けを求めた。
何度も。何度も。
""違う""と。
""私はやっていない""と。
叫んだ。
縋った。
信じて欲しかった。
助けて欲しかった。
浮竹十四郎なら。
自分の隊長なら。
海燕の隊長なら。
きっと何とかしてくれると。
そう思っていた。
だから.救われなかった時。
苦しかった。
悲しかった。
悔しかった。
――"どうして"
――"どうして信じてくれないんですか"
――"どうして助けてくれないんですか"
そんな感情を、何度も心の中でぶつけた。
恨みもした。
責めもした。
だが、時間は残酷だった。
そして、優しくもあった。
今なら分かる。
浮竹もまた、どうしようもなかったのだ。
中央四十六室。
絶対の裁定。
証言。
証拠。
全てが馨を犯人だと示していた。
浮竹は戦った。
誰よりも、諦めずに。
最後まで。
それでも届かなかった。
""ただそれだけなのだ""
「隊長……」
馨は唇を噛む。
「あなたは」
声が震える。
「あなたは、私のために戦ってくれたじゃないですか」
浮竹が僅かに顔を上げる。
「……」
「嘆願書を書いて……何度も四十六室へ掛け合って」
「……」
「それでも駄目だっただけです」
「馨……」
「知ってます」
涙が零れた。
ぽたり、と畳へ落ちる。
「全部……私は知ってます」
現世に逃げてから、浦原から聞いた話だった。
夜一から聞いた、浮竹が最後まで諦めなかったことを。
何度も動いたことを。
何度も頭を下げたことを。
知っていた。
知っていたから。
責めきれなかった。
憎みきれなかった。
「だから」
馨は必死に首を振る。
「もういいんです」
「……」
「私は」
そこで言葉が詰まる。
胸が苦しい。
涙が止まらない。
それでも。
どうしても伝えたかった。
「私は……隊長を許せないんじゃない」
真っ直ぐな馨の眼差しが、
涙の光を帯びて浮竹を見る。
「――隊長が"自分を許していないことが苦しいんです"」
静寂。
浮竹の瞳が揺れた。
今まで張り詰めていたものが。
少しだけ崩れた気がした。
「……だから、お願いです」
馨は泣きながら笑う。
昔と同じように。
隊長を安心させるような笑顔で。
「もう……私の隊長でいてください」
その言葉に。
浮竹十四郎は、初めて完全に顔を上げた。
そして。
長い長い年月の後悔を抱えたまま。
静かに涙を流した。
静かな部屋だった。
聞こえるのは。
二人の呼吸だけ。
――長かった。
あまりにも長かった。
失ったものも。
諦めたものも。
数え切れないほどあった。
浮竹は涙を拭わない。
馨もまた涙を隠さない。
もう、取り繕う必要はなかった。
馨はゆっくりと息を吸う。
何かを決意するように。
唇を震わせながら浮竹を見る。
そして。
まるで迷子になった子供のように。
小さな声で言った。
「……隊長」
「うん」
「……ひとつ」
言葉が詰まる。
喉の奥が熱い。
声にならない。
それでも。
どうしても言いたかった。
ずっと。
言いたかった。
「……"ただいま"って」
涙が零れる。
ぽろぽろと止まらない。
「言っても、いいですか……?」
浮竹の瞳が大きく揺れた。
その一言に。
どれほどの想いが込められているのか。
理解してしまったから。
帰る場所を失った。
十三番隊を失った。
仲間を失った。
家族を失った。
そして。
自分自身の居場所さえ失った。
そんな彼女が。
今、ようやく。
帰りたいと言っている。
馨は泣きながら笑った。
上手く笑えているかも分からない。
それでも。
精一杯。
声を絞り出す。
「浮竹隊長……」
肩が震える。
視界が滲む。
「""ただいま戻りました""」
その瞬間。
浮竹は優しく馨を抱きしめた。
海燕を失い。
全てを失い。
それでも立ち続けた部下を迎えるように。
「……」
温かかった。
変わらない温もりだった。
馨は堪えきれず。
浮竹の隊長羽織を強く掴む。
子供のように。
声を上げて泣いた。
ずっと我慢していた涙だった。
浮竹はそんな馨の背をゆっくり撫でる。
何度も。
何度も。
言葉にならない想いを込めるように。
そして、震える声で。
ようやく、その言葉を口にした。
「おかえり」
馨の肩が震える。
浮竹はもう一度言う。
今度ははっきりと。
優しく。慈しむように。
「"おかえり、馨"」
帰る場所など。
もう無いと思っていた。
失ったと思っていた。
だが違った。
五十年という時間が流れても。
待っていてくれる人がいた。
名前を呼んでくれる人がいた。
帰ってきていいのだと。
そう言ってくれる人がいた。
だから。
馨は浮竹の胸に顔を埋めたまま。
泣きながら。
何度も。
何度も。
""ただいま""
と繰り返した。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
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┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈
一護達、旅禍が現世へ帰る前日の夜――
月は高く、瀞霊廷の白壁を淡く照らしていた。
戦いの痕跡はまだ残っている。
崩れた石畳。
修復途中の塀。
それでも数日前まで張り詰めていた空気は嘘のように穏やかだった。
旅禍として追われた黒崎一護たちは、今では多くの死神から笑顔で声を掛けられる存在になっていた。
"黒崎さん、お疲れ様です!"
"明日、現世に帰るんですよね!"
"また来てください!"
隊士たちが笑って手を振る。
とくに十一番隊の斑目たちとはかなり親睦が深くなった……らしい。
一護はそんな彼らに少し照れ臭そうに片手を上げた。
「ああ。」
――そんな何気ないやり取りさえ、数日前には想像もできなかった。
ルキアとはまだ会えていない。
それでも――明日なら。
きっと会える。
そんな確信が、一護の胸にはあった。
だからこそ今夜は、一人で瀞霊廷を歩いていた。
静かな夜風が黒衣を揺らす。
人気のない石畳を歩いていると、
ふいに、背後から穏やかな女性の声が聞こえた。
「――"こんな時間に、何してるんです?"」
「うおぉぉぉっ!?」
一護は飛び上がるように振り返った。
思わず斬月に手を掛けそうになる。
そこには、苦笑しながら立つ馨の姿。
長い黒髪を夜風に揺らし、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「失礼ですね、本当に。」
呆れたようにため息をつく。
「いや、普通ビビるだろ!急に真後ろから話しかけられたら誰だって!」
「私、そんなに気配を消していました?」
「消してたとかじゃねぇ!完全に幽霊だった!」
「幽霊……。」
馨は少しだけ口を尖らせる。
「……まだ死神なんですけど。」
「そこじゃねぇよ!」
一護は額を押さえ、大きく息を吐いた。
「寿命縮んだわ……。」
「それは申し訳なかったわね。」
そう言いながらも、どこか楽しそうに笑う。
その表情につられ、一護も苦笑した。
「……なんか最近、よく笑うようになったな。」
ぽつりと漏らした一言。
馨は少しだけ目を丸くした。
「……そう、?」
「ああ。……前はもっとさ。なんつーか……」
「?」
「無理して笑ってる感じだった。今は普通に笑ってる。」
その言葉に、馨は少しだけ視線を落とした。
夜風が二人の間を静かに通り過ぎる。
「……本当に、あなたは人をよく見ていますね。」
「そうか?」
「ええ。」
小さく微笑んだあと、馨は一護の隣へ並んだ。
「一緒に散歩しても?」
一護は肩をすくめる。
「そりゃ別に、構わねえけど?」
「ありがとう。」
二人はゆっくりと歩き始めた。
石畳を踏む音だけが静かな夜に響く。
肩を並べるその距離は近すぎず遠すぎず。
どちらも慌てて話し始めることはなく、
ただ夜の静けさを共有するように歩いていく。
数歩進んだところで、一護が横目で尋ねた。
「で?改まってどうした?」
馨は月を見上げ、小さく息をつく。
その横顔はどこか柔らかく、穏やかだった。
「……明日、皆さんは現世へ戻ります。」
「……うん。……ん?」
一護は"どういうことだ"と言わんばかりに目を見開き、微かな違和感に気づく。
「――"今夜しか、ゆっくり話せなくて"」
その言葉は、あまりにも自然に紡がれた。
だからこそ、一護は最初、その意味を理解できなかった。
「……うん。」
何気なく相槌を打つ。
二人は並んで歩き続ける。
数歩。
そして。
「……いや…………え?」
ようやく、その言葉が胸の中で形になった。
今夜しか。ゆっくり話せない。
それはつまり――。
一護の足が、ほんの僅かに止まりかける。
「((……待て、……今、何つった?))」
馨は静かに前だけを見て歩いている。
一護は必死に平静を装った。
「((いや違う。"俺たち"は明日、現世に帰る。だから"今夜しか"って意味だよな……?))」
そう自分に言い聞かせる。
だが。
胸の奥で、妙な違和感だけが大きくなっていく。
思い返せば、この数日。
瀞霊廷では何度も耳にした。
"無類井さん、こっちに戻ってくるんだよな?"
"噂でしょ?"
"聞いたか?五番隊が――"
そんな噂を。
その度に一護は、
"ああ、死神たちが勝手に期待してるだけなんだろ” "
くらいにしか思っていなかった。
馨は間違いなく戦力だ。
きっと尸魂界側は彼女を手離したくない。
だが今更だろう。手放したのはそっちからだ、と。
馨は現世で長い年月を生きてきた。
浦原商店のみんながいて。
空座町があって。
古いアパートがあって。
コンビニで働いて。
それが彼女の日常だと思っていた。
だから当然。
明日、一緒に現世へ帰るものだと。
一度たりとも疑わなかった。
だから今。
胸の鼓動だけが妙に速くなる。
「……あの。」
思わず声が漏れる。
「どういう……。」
馨は少しだけ微笑んだ。
その笑みは優しいのに、どこか覚悟を決めた人のものだった。
「一護。」
一護は思わず顔を上げる。
「あなたに、話さないといけないことがあるの。」
そのまま二人は歩き続けた。
やがて瀞霊廷の奥。静かな林へと辿り着く。
高く伸びた木々。
葉の隙間から零れる銀色の月光。
夜風が枝葉を揺らし、
さらさら、と静かな音だけが響いていた。
まるで、この場所だけ時が止まったようだった。
「……」
「……」
二人は自然と足を止める。
満月が木々の間から姿を現し、
その光が二人を柔らかく照らしていた。
しばらく沈黙が流れる。
一護は何も言えない。
嫌な予感だけが胸を締め付けていく。
馨は月を見上げたまま、静かに息を吸った。
そして。
迷いのない声で告げた。
「私は――」
一度だけ瞳を閉じる。
「""尸魂界に残ります""」
静寂、風が止む。
木々のざわめきさえ遠くなったようだった。
一護の思考は、その一言で真っ白になる。
「…………」
声が出ない。
理解したくない。
理解できない。
目の前にいる彼女は穏やかな表情のまま。
だが、その瞳だけは揺るがない決意を宿していた。
一護はしばらく唇を震わせ、
ようやく掠れた声を絞り出す。
「……は……?」
それは驚きでも否定でもない。
信じたくない者が漏らした、
あまりにも小さな声だった。
刹那、
「……あー!」
張り詰めた空気を振り払うように、一護が急に声を上げた。
「分かった!」
馨が静かに視線を向ける。
「……?」
一護はどこか安心したように笑った。
「そういうことか。まだ白哉に会えてねぇからだろ?」
「……」
「怪我して寝込んでるって聞いてるし。だから、ちゃんと会って……話して……それから現世に戻るってことだろ?」
必死だった。
自分でも気付かないほどに。
“そうであってほしい”
その願いだけを並べ立てていた。
「……」
馨は何も答えない。
一護は構わず言葉を続ける。
「それにさ!コンビニ!」
「………」
「ほら、あの……ちょっとハゲたおっさん!店長!」
思い出しながら身振りまで交えて笑う。
「お前のこと待ってるって!」
「……うん。」
「あと浦原さんだって!夜一さんも!」
「…………」
「たつき達も。」
「…うん。」
「現世のみんながさ――」
そこで。
一護の言葉が止まった。
馨は、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと視線を逸らした。
月明かりが、その横顔だけを白く照らしている。
否定もしない。
肯定もしない。
けれど、その沈黙だけで十分だった。
一護の胸が、ゆっくりと沈んでいく。
「……。」
喉が締め付けられる。
さっきまで必死に繋ぎ止めていた”大丈夫”という希望が、
音もなく崩れていく。
「……本気、なのか。」
掠れた声。
馨はまだ、一護を見ない。
その代わり、小さく唇を噛んだ。
それだけで。
一護には分かってしまった。
これは冗談じゃない。
勢いで言った言葉でもない。
もう何日も、何週間も悩み抜いて。
覚悟を決めた人間の沈黙だった。
一護は拳を握る。
「……なんでだよ。」
返事はない。
「なんで……。」
さっきまで穏やかだった夜風が、急に冷たく感じた。
「せっかく……。」
言葉が震える。
「せっかく全部終わったじゃねぇか。」
「……」
「罪も晴れた。」
「……」
「もう逃げなくていい。」
「……」
「やっと……やっと普通に笑えるようになったのに。」
一護は唇を強く噛む。
「なんで今さら……。」
馨は静かに目を閉じた。
その表情には悲しみが滲んでいた。
けれど。
決意だけは、一歩も揺らいでいなかった。
馨は静かに息を吸った。
月明かりが、その横顔を白く照らす。
「私は……藍染に狙われています。」
一護はすぐに言葉を返した。
「……なら!」
一歩、馨へ近付く。
「現世で俺たちといればいい!俺もいる!浦原さんも!夜一さんだって!」
「……」
「仲間がいるだろ!」
その声には迷いがなかった。
誰かを守ることなど、理由にもならない。
一緒にいればいい。
それだけだった。
しかし、馨は静かに首を横へ振る。
「危険よ。」
その一言はあまりにも重かった。
「何をしてくるのか、分からない。」
「だからって!」
「覚えていないの?」
その声は穏やかなままだった。
けれど、一護の言葉を止めるだけの力があった。
「藍染惣右介の力を。」
一護は言葉を失う。
「あの人は……」
馨は藍染と刃を交えた時の、あの感覚を思い出していた。
底のない闇。
理解の及ばない知性。
何百手も先を読む思考。
「あなただけじゃない。護廷十三隊の隊長格も。……誰一人、敵わなかった相手よ。」
その現実だけは、変わらない。
静寂が落ちる。
一護は拳を握り締めるしかなかった。
そんな一護を見つめ、
馨は少しだけ微笑んだ。
「それに。」
その一言に、一護は顔を上げる。
「私が尸魂界へ残ることによって。」
少し間を置く。
「"喜助さんと夜一さんの追放は、正式に取り消されます。 "」
「……!」
一護の目が大きく見開かれた。
「それに。」
馨は続ける。
「"あなた達旅禍との協力関係も正式に認められます"」
「……え」
「処罰もありません。現世との連携も、今よりずっと増えるでしょう。」
「……」
「死神と現世。その距離は、きっと今より近くなる。」
「……」
「これから先、お互いに助け合える未来になります。」
一護は呆然と立ち尽くした。
その話が、どれほど大きな意味を持つのか、理解できてしまったからだ。
だからこそ。
嫌な考えが頭をよぎる。
「……まさか。」
掠れた声が漏れる。
「それを盾にされたのか。」
馨は何も言わない。
「餌にされたんじゃねぇのか!『お前が残れば全部認めてやる』って!」
「……」
「そうやって!脅されたんじゃねぇのか!」
馨は静かに一護を見つめた。
その瞳は真っ直ぐだった。
「……違います。」
短く、しかし迷いなく答える。
「これは。私自身が決めたことです。」
「そんなもん!」
一護の声が夜の林に響いた。
「そんなもん納得できるかよ!」
肩が震えている。
怒りなのか。
悲しみなのか。
自分でも分からなかった。
「お前が……!お前がやっと掴んだ人生だろ!」
長い年月。
誰にも名前を呼ばれず。
誰にも信じてもらえず。
現世で一人、生き続けた。
ようやく罪は晴れた。
ようやく笑えるようになった。
ようやく帰る場所を、自分で選べるようになった。
それなのに。
「それをまた!誰かのためだからって!尸魂界に縛られるなんて、おかしいだろ!」
一護は馨を真っ直ぐ見つめる。
「お前は!もう誰かの犠牲になる必要なんかねぇんだよ!」
その叫びは、怒鳴り声ではなかった。
必死だった。
目の前の人に、自分自身を大切にしてほしい。
ただ、その一心だった。
馨はその言葉を静かに受け止める。
そして、小さく目を伏せる。
「……ありがとう、一護。」
その声は、どこまでも優しかった。
「でも。」
ゆっくりと顔を上げる。
「私はもう、誰かに決められてここへ残るんじゃない。」
月明かりの中で、穏やかに微笑む。
「今度は、自分で選んだの。」
「ッ…」
「だからこれは、犠牲じゃない。――私の意志よ。」
ただ、一護を見つめる。
優しく。
どこまでも穏やかに。
やがて、小さく息を吸うと、その名を呼んだ。
「……一護。」
その呼び方に、一護は僅かに肩を震わせる。
「あなたと出会って。」
馨はゆっくりと言葉を紡いでいく。
「私の時間は、動き始めたの。」
「……」
「長い間、私はずっと止まったままだった。」
海燕を失った日から。
罪人として追われた日から。
何もかも。
心だけが、あの日に取り残されていた。
「でも。あなたは私を、無理やり前へ連れて行ってくれた。」
馨は少しだけ笑う。
「どんな時も、何度も何度も立ち向かうあなたを見て。私は初めて、自分自身と向き合えた。逃げ続けていた私を。……あなたが変えてくれた。」
一護は何も言えない。
ただ、その言葉を受け止めていた。
「……一護」
馨は一歩だけ近づく。
そして、
そっと右手を伸ばした。
一護の頬へ。
触れるか触れないかほど優しく。
その温もりに、一護は目を見開く。
馨は静かに微笑んだ。
「……最初はね。」
「……」
「あなたに海燕さんを重ねてた。」
一護の瞳が揺れる。
「姿も。戦い方も。真っ直ぐなところも。……全部、似ていたから。」
少しだけ寂しそうに笑う。
「でも。」
首を横に振る。
「違った。あなたは海燕さんじゃない。」
「……え」
「黒崎一護。――あなたという、一人の人だった。」
その言葉には、迷いが一切なかった。
「私は、ちゃんと。黒崎一護を見ていました。」
月明かりの中。
二人の視線が重なる。
馨の胸に広がる温かな感情。
それが何なのか。
まだ名前は付けられない。
けれど。
確かに、大切だと思えた。
すると一護は、
何も言わずに、馨の頬へ添えられたその手へ、
自分の手をそっと重ねた。
温かかった。
「……まだ。」
掠れた声が漏れる。
「まだ……あんたから教わりたいことがあった。」
馨は優しく頷く。
「……うん。」
「力だけじゃねぇ。もっと聞きてぇことも、あった。」
「……うん。」
短い返事。
それだけなのに、胸が締め付けられるほど優しかった。
しんみりとした空気が流れる。
すると。
馨はふっと吹き出した。
「……あの。」
「ん?」
「なんだか。」
少し困ったように笑う。
「今生の別れみたいな空気になってない?」
「……」
「……」
一護が思わず瞬きをする。
「いや、でも!」
馨は肩をすくめる。
「別れじゃないでしょ?さっき言ったじゃないですか。」
「あ」
「"現世との協力体制はこれから増える"って。」
「……」
「きっとまた会えます。場所が違うだけ。」
馨はゆっくりと一護の頬から手を離す。
「これからも。」
少し照れくさそうに笑う。
「よろしくね。」
一護は思わず苦笑した。
「……そういうとこだぞ。」
「え?」
「せっかく感動してたのに。台無しじゃねぇか。」
「ふふ。」
久しぶりに。
心から笑う馨の声が、夜の林に響いた。
そして、笑みを残したまま、一護を真っ直ぐ見つめる。
「一護。」
「ん?」
「私を助けてくれて、ありがとう。私を導いてくれて。…ありがとう。」
そして。
馨は、ふっと笑った。
それは今まで一護が見てきた笑顔とは、まるで違っていた。
優しく微笑む顔でもない。
誰かを安心させるために浮かべる笑顔でもない。まして、自分の悲しみを隠すための笑顔でもなかった。
肩の力が抜けるように。
心の奥底から自然と零れ落ちた笑み。
その笑顔には、五十年という歳月が少しも存在しなかった。
まるで時が巻き戻ったようだった。
愛する人の隣で、何の不安もなく笑っていた頃。
"志波海燕だけが知っていた、あの頃の無類井馨"
誰にも見せることのなかった、本当の彼女。
失われたと思っていた時間が、ほんの一瞬だけ戻ってきたかのような笑顔だった。
月明かりを受けて細められた瞳。
柔らかく緩む口元。
夜風に揺れる黒髪さえ、その笑顔を祝福しているようだった。
一護は、息を呑む。
綺麗だ、と。
そんな単純な言葉では到底足りない。
胸の奥が、不意に締め付けられる。
目が離せなかった。
今まで何度も彼女を見てきた。
怒った顔も。
泣きそうな顔も。
苦しそうな顔も。
優しく笑う顔も。
その全部を見てきたはずなのに。
"この笑顔だけは知らなかった"
そして直感する。
この笑顔はきっと、誰にでも向けられるものじゃない。
長い長い年月の中で、たった一人だけが見ていた笑顔。
――その人はもう、この世にはいない。
だからこそ。
今、自分の目の前で咲いたその笑顔は、
奇跡のように尊く思えた。
「……ッ…」
一護は何も言えない。
ただ、心が強く引き寄せられていく。
守りたい、とも違う。
憧れとも違う。
名前の付けられない温かな感情が、静かに胸いっぱいへ広がっていく。
そして馨は、その視線に気付くと少し照れくさそうに首を傾げた。
「……どうしました?」
その何気ない一言で、一護はようやく我に返る。
「……いや。」
照れ隠しのように視線を逸らし、小さく笑う。
「やっと、本当に笑った……気がしてよ。」
その言葉に、馨は一瞬だけ目を丸くし、
今度はもっと穏やかに、嬉しそうに笑った。
一護は何も言わない。
ただ一歩、静かに前へ出る。
そして。
そっと馨を抱き寄せた。
驚くほど優しく。
壊れ物を扱うように。
馨も抵抗はしなかった。
そのまま静かに目を閉じる。
夜風だけが二人を包む。
一護は、この感情にまだ名前を付けられなかった。
憧れなのか。
家族のような想いなのか。
それとも別の何かなのか。
まだ分からない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
この人に出会えて、本当に良かった。
一護は馨の肩に額を預けるようにして、
誰にも聞こえないほど小さな声で囁いた。
「……ありがとう。」
その一言だけで、二人には十分だった。
満月は静かに輝き続け、木々の隙間から差し込む銀色の光が、
新たな道を歩き始める二人を、優しく照らしていた。
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