┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈
俺が欲しかったのは
お前の隣だった
┈┈┈┈┈┈
――By My Side
┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈
十三番隊の隊舎は、その日ひどく騒がしかった。
┈┈┈┈
「おい!酒!酒持ってこい!!」
「今日は宴だ!許せって!」
「浮かれすぎですよ〜
海燕副隊長!」
畳の上を駆け回る隊士たちの声に、笑いが重なる。
中央では、ようやく正式に副隊長としての証である
刻まれている花の模様は
忍耐、はにかみ、内証――十三番隊らしい象徴的な花の印が光り輝いていた。
「お前ら離れろ!暑苦しい!」
海燕はそう怒鳴りながらも、口元は隠しきれずに緩んでいる。
その光景を、少し離れた柱のそばから見つめる影があった。
無類井馨。
白い湯呑みを片手に、騒がしい空間を静かに眺めている。
隊士達が笑顔で過ごすこの時間を見るだけで幸せを感じていたのだった。
するとその時、1人の女性隊士が馨の隣に腰掛ける。
「三席!嬉しそうですね?」
虎徹清音。入隊してまもない若くて幼い隊士だった。彼女もまた、馨が穏やかに笑う姿を見て、この時間を心地よく感じていたのだった。
馨は視線を海燕へ向けたまま、小さく笑った。
「うん。あの人、ずっと副隊長になるために頑張ってましたから」
穏やかな声音。
昔なら、こんな風に素直な感情を口にすることなどなかった。
誰とも深く関わろうとせず、感情を閉ざし、淡々と任務だけをこなしていた少女。
けれど今は違う。
隊士たちはもう知っていた。
彼女が誰より仲間を見ていることを。
誰より十三番隊を大切にしていることを。
「無類井三席!」
「酒の追加をよろしいでしょうか!?」
「飲みすぎは厳禁です。明日も任務がありますよ。」
「そこをなんとか!」
「お許しを!!」
隊士達が馨に詰め寄り、酒を追加したい!と懇願。馨は額に手を添え、わざとらしく悩む素振りを見せると、ほんの少し薬と笑う。
「まあ……少しだけなら。」
まさかの応えに驚く一同。
優しい笑みが見えた瞬間、ふと隊士達が本音を漏らす。
「なんか、副隊長に似てきましたよね!」
「今までなら冷たく"ダメです"だったはずなのに!」
「副隊長に似ると言われるのは嫌です」
即答。
周囲が吹き出す。
その笑い声の中で、馨自身もふっと肩を揺らした。
笑顔が増えていく馨の姿。
昔の彼女を知る者ほど、それがどれだけ大きな変化か理解していた。
「おい馨!」
騒ぎの中心から海燕が手を振る。
「お前も来いよ!」
「嫌です、うるさいので」
「三席が副隊長命令を拒否すんじゃねえ!」
「今決めました。辞表書きます」
「は!?」
また笑いが起きる。
海燕は"お前なあ!"と騒ぎながらも、どこか誇らしそうだった。
「三席も飲みましょう!」
「私注ぎますよ!」
「こら!男は少し離れなさい!」
「――なら少しだけ……」
馨が変わったのを、一番近くで見てきたのは海燕だった。
ひとりで立とうとして、
誰にも頼らず、傷ついても平気な顔をしていた少女。
その彼女が今、こんな風に人の輪の中で笑っている。
海燕はふっと目を細めた。
「……"よかったな"」
誰にも聞こえないほど小さな声。
けれど馨は、不思議とそれに気づいたように視線を向ける。
海燕は笑って誤魔化す。
その顔を見て、馨は少しだけ首を傾げ――
そしてまた、静かに笑った。
┈┈┈
隊舎の喧騒が静まり返った頃。
無類井馨は自室の机に向かっていた。
紙の束。
報告書。
未処理の書類。
宴のあとだというのに、結局こうして仕事をしている。
「((この2枚終わらせれば……明日の副隊長の仕事が少し減るかな。))」
胸中で小さく呟き、筆を走らせる。
せっかくの宴のあと、海燕には仕事の事ばかり考えさせたくないと自発的に少し報告書をまとめていたのだ。
「((……楽しかったな。))」
風呂上がりのせいか、身体は少しだけ火照っていた。
いつも結っている髪は今は下ろされ、さらりと背中へ流れている。
薄い部屋着姿の彼女は、昼間の"十三番隊三席"とはまるで別人だった。
年相応の――いや、それよりも少し幼く見える。
「((明日は七席の鬼道の修練もあったんだ。……早く終わらせて私も眠――))」
その時。
"こん、こん"
控えめなノック。
襖の柔らかい音が耳を掠めた。
「……?」
こんな時間に誰だろう。
警戒もせず襖へ向かい、開けた瞬間。
「よう」
そこに立っていたのは志波海燕だった。
湯上がりなのか、髪が少し湿っている。
酒臭さはほとんど消えていた。
程よくはだけた着流し。胸元は筋肉質な胸部が顕になっており、いつもより男性らしさが際立つ。
馨は一瞬だけ目を瞬かせる。
「……副隊長」
「その呼び方やめろって。むず痒い」
海燕は苦笑しながら頭を掻いた。
「入っていいか?」
「なにか急用ですか?」
「いや」
海燕は少しだけ視線を逸らしてから、照れ臭そうに笑う。
「お前と話したくて」
その一言に、馨の胸が小さく揺れた。
昔の自分なら、きっと拒んでいた。
けれど今は違う。
「……散らかってますよ」
「十三番隊でお前の部屋より綺麗な部屋見たことねえけど」
「褒めてないですよね、それ。殺風景って言いたいんですよね?」
「褒めてる褒めてる」
海燕は笑いながら部屋へ入る。
その瞬間、ふと動きが止まった。
「……お前、その髪」
「?」
「下ろしてるの、珍しいな」
馨は無意識に自分の髪へ触れる。
「ああ……風呂上がりなので」
「なんか別人みてえ」
「悪い意味ですか?」
「いや」
海燕は即座に首を振った。
そして少し困ったように笑う。
「……普通に、可愛い」
静寂。
馨の動きが止まる。
海燕も言ったあとで気づいたのか、"あっ"と顔を引きつらせた。
「いや違っ、変な意味じゃなくてだな!」
「副隊長」
「だからその呼び方やめろって!」
「酔い、完全には抜けてないんじゃないですか」
「抜けてるわ!!」
真っ赤になって否定する海燕に、馨は思わず吹き出した。
「ッぷ、……ふふっ」
小さな笑い声。
海燕はその顔を見て、一瞬ぽかんとする。
「……お前、そんな顔して笑うんだな」
「失礼ですね」
「いや、なんつーか――」
海燕は少しだけ目を細めた。
「ちゃんと、今、生きてる顔してる」
その言葉に。
馨の胸の奥が、静かに熱を持った。
「……ほら、座ってください。座布団出します。」
「わりいな。」
「さっき、ちょうど好きなお茶をいれたばかりなんです。良かったらどうぞ。」
「お、おう……」
馨は書類が並べられた低い漆塗りの卓へと海燕を促す。自分の対面側に座布団を置くと、湯のみに"こぽこぽ"と心地よい音を鳴らしながらお茶を入れたのだった。
「……すげえ、いい匂いだな。」
「でしょう?京楽隊長が勧めてくださったんです。甘すぎませんし、副隊長ならお好きだと思いますよ。」
「…………」
"どうぞ"、の言葉と共に置かれた湯のみ。
海燕はそれをゆっくりと口元に運ぶと穏やかに微笑む。
そして何より、自分が甘い玉露が苦手だということを知っていることに目をまん丸とさせていた。
1度しか口にしたことは無いはずなのに。
夜風が、少しだけ障子を揺らしていた。
卓を挟んで向かい合いながら、海燕は湯呑みを片手に天井を見上げる。
宴の騒がしさが嘘みたいに静かな時間だった。
「……」
馨も座り直すと湯のみに口をつける。
小さく息を吐いた時、天井を見上げる海燕へと視線を向けたのだった。
「……お前と出会って、どれくらい経つんだろうな」
ぽつり、と海燕が呟く。
馨は湯のみを置き、少し考えるように目を細めた。
「もうかなり経ってますよ」
「だよなあ……」
海燕は笑う。
「最初のお前、クソ生意気だったよな〜」
「副隊長こそ」
「俺!?」
「初対面で"友達になろうぜ!"ですよ。意味わかりません」
「いいだろ別に!」
「しかも断ってるのに毎日来るし」
「お前が毎回逃げるからだろ!」
「普通逃げます」
馨は真顔で返す。
海燕は"ひでえ"と肩を落とした。
けれど、そのやり取りすらどこか懐かしい。
「それに」
海燕は少しだけ声を落とした。
「あの頃のお前、今よりずっと危なっかしかった」
「そうですか?」
「ああ」
即答だった。
「ずっとひとりで立ってる感じだった」
海燕は視線を馨へ向ける。
なんとなく、あの頃の馨の後姿が脳裏に浮かんだ。
「誰かに頼る気もねえし、弱音も吐かねえし。下手したら、そのままどっか消えそうだった」
馨は少し黙り込む。
否定は、できなかった。
「だからまあ……兎にも角にも。」
海燕は照れ臭そうに鼻を掻いた。
「気づいたら、どんな時もお前がいたんだよな」
静かな声。
「任務行っても、お前がいて。隊舎戻っても、お前がいて。気づいたら隣にいるのが当たり前でよ。」
海燕はふっと笑う。
「最近なんか、お前がいねえと気持ちわりいくらい」
「……なんですかその例え」
馨は嫌そうに眉をひそめた。
「なんか嫌です」
「そこ即答すんなよ!」
「もっと他に言い方あるでしょう」
「いや本音なんだけど!?」
「なお悪いです」
馨は呆れたようにため息をつく。
だがその横顔は、どこか柔らかかった。
海燕はそんな彼女を見ながら、ふっと笑う。
「でも、お前変わったよな」
「そうですか?」
「ああ。よく笑うようになった。」
その言葉に、馨は少しだけ目を伏せる。
「それは副隊長たちがうるさいからです」
「俺らのせい!?」
「静かに生きていたかったのに」
「絶対嘘だろ?」
ツンデレというものだろうか。本音ではない。強がっているような様子だ。
そんな馨を前に、海燕は笑いながら机へ頬杖をついた。
「まあ、でもよ」
優しい声だった。
「今のお前の方が、俺は好きだぜ?」
「っ……」
「もちろん!昔のお前も面白くて好きだけどな?」
馨の呼吸が、一瞬止まる。
海燕はまるで気づいていない。
昔と同じ顔で、まっすぐ笑っているだけだった。
だから余計に"たち"が悪い。
馨は視線を逸らしながら、小さく呟く。
「副隊長って、たまに距離感おかしいですよね」
「え?」
「無自覚なのが一番厄介です」
「なんの話!?」
部屋に穏やかな笑い声が残っていた。
こんな時間が来るなんて、昔は思わなかった。
隊舎の中で。
同じ景色を見て。
同じ隊で笑い合っている。
それが、こんなにも自然になっている。
馨は少しだけ目を細めた。
――幸せだ。
ふと、そんな言葉が胸をよぎる。
その時だった。
海燕が急に居住まいを正す。
「……?」
さっきまでだらしなく座っていた男が、突然背筋を伸ばして正面に座り直す。
妙に真剣な顔。
馨はきょとんと目を瞬かせた。
「どうしました?」
「……いや」
海燕はなぜか視線を泳がせる。
よく見ると耳まで真っ赤だ。
「副隊長?」
「だからその呼び方今やめろ!」
「?」
馨はますます意味がわからない。
「……っ……そう、だな……俺は……」
海燕は何度か口を開いては閉じる。
そのたびに顔が赤くなる。
十三番隊副隊長。
豪快で、真っ直ぐで、誰より堂々としている男が。
今だけは、ひどく情けなかった。
「……"海燕さん?"」
その呼び方に、海燕は覚悟を決めたように顔を上げた。
真っ直ぐ。
逃げずに。
まるで戦場に立つみたいな顔で。
「"俺、お前のこと好きだわ"」
静寂。
夜風の音だけが、やけに大きく聞こえた。
馨は瞬きをする。
「……はい?」
「だから、好き」
「……?」
「いやその、"仲間として"とかじゃなくてだな」
海燕は真っ赤な顔のまま頭を掻く。
必死に言葉を選んでいる様子だ。
「女としてっていうか……ちゃんと、そういう意味で」
馨は数秒黙ったままだった。
理解が追いついていない。
まるで難解な鬼道の詠唱でも聞かされた顔。
海燕の額にじわっと汗が浮かぶ。
「……え、伝わってる?」
「えっと……」
馨は本気で困った顔をした。
「それは……」
ゆっくり、首を傾げる。
「どういう意味ですか?」
「え?お前マジで言ってる!?」
海燕は思わず机に突っ伏した。
「いやだって!! 普通わかるだろ!?」
「すみません、わからないです」
「嘘だろ……」
海燕は頭を抱えた。
馨はそんな彼を見ながら、本気で悩み始めていた。
「((……"好き"?))」
その言葉自体は理解できる。
けれども、海燕が自分に向ける"それ"が、どういう感情なのか。
彼女はまだ知らない。
恋を、知らないから。
「……海燕さん、熱あります?」
「ねえよ!!」
「顔赤いですよ」
「お前のせいだよ!!」
「?」
本当にわかっていない顔だった。
海燕はしばらく沈黙したあと、観念したように天井を仰ぐ。
「……あーもう、これだからお前は……」
呆れながらも、その声はどこか優しかった。"やっぱりそうか"と言わんばかりの様子に、余計に馨は申し訳なさそうに戸惑う。
「ごめんなさい。……私、分からないんです。」
「え?」
「好き……とか。そういう身体の中にある……気持ちとか……」
「……」
馨は悩ましげに眉を顰める。
本当に悩んでいる様子だ。深刻だった。
「……なんというか……言わば"心"というものでしょうか。」
「……」
彼女の言う"心"
胸元に手を添え、さらに葛藤した。
部屋の蝋燭の灯りが白い横顔を照らしているのに、その表情は酷く曇って見える。
海燕は真ん前に腰掛けたまま、何も言わない。
急かさず、問い詰めず、ただ隣にいる。
それが逆に、馨には苦しかった。
「好きだって言われても……嬉しいとか、苦しいとか……そういうのが、私にはよくわからない」
自嘲するように笑う。
「みんな当たり前みたいに話すじゃないですか。誰かを大事に思うとか、離れたくないとか」
声が少し震えていた。
「でも私は……それが分からない。だから、多分……どこか壊れてるんです」
その言葉に、海燕の眉がぴくりと動いた。
馨は気づかないまま続ける。
「誰かが死ぬのは嫌です。傷つくのも見たくない。守りたいとも思う」
"でも"と。
「それが"心"なのか分からないんです」
瞳は、どこか幼かった。
ずっと答えを探して、
でも見つからなくて、
気づけば"分からない自分"だけが残っていたような顔だった。
「だから海燕さんに言われても……私は、ちゃんと返せない」
消え入りそうな声。
海燕は僅かに拳を握る。
「怖いんです。もしこれが、普通じゃなかったらって」
その瞬間、海燕がふっと息を吐いた。
「馬鹿だなあ、お前」
呆れたような声だった。けれど優しい。
海燕は真っ直ぐと馨を見つめ、胸元をトントンと叩く。
「心ってのはな。身体ん中にあるもんじゃねえよ」
馨がゆっくり顔を上げる。
海燕は続けた。
「"人と人の間にあるもんだ"」
その言葉は、不思議なくらい静かに響いた。
「誰かと笑ったり、腹立てたり、心配したり。――そうやって初めて形になる。だから、一人じゃ分からなくて当たり前なんだよ」
馨の瞳が微かに揺れた。
海燕はいつものように笑うと"今更何言ってんだ"と言わんばかりに言葉を続けた。
「お前さ?自分じゃ気づいてねえだけで、ちゃんと痛ぇ顔するし、泣きそうにもなるし、誰かのために怒る。それ全部、"心"だろ」
「……でも」
「分からなくてもいいんだよ」
海燕は遮るように言った。
「最初から全部分かる奴なんかいねえ。誰かといるうちに、少しずつ知ってくもんだ」
そして、ふっと笑う。
「だから俺がいる」
馨の呼吸が止まる。
「お前が分かんねえなら、俺が何回でも隣で教えてやるよ」
その声は真っ直ぐだった。
励ますための綺麗事ではない。
本気で、この先も隣に立つつもりで言っている声だった。
馨は言葉を返せない。
胸の奥が、じんわり熱かった。
苦しいのに、どこか安心してしまう。
それが何なのか、まだ名前は分からない。
「……」
未だに小難しそうに顔を顰める馨を目の前に、海燕は埒が明かないと悟れば、いつものような陽気な表情と声色で言葉を放つ。
「まー、な!?難しく考えんな!……とにかく!よく聞け?いいな?――
――"お前は優しい!"」
突然、海燕が机を叩くように言った。
馨はびくりと肩を揺らす。
「えっと……」
海燕はもう引き返せなくなったのか、真っ赤な顔のまま言葉を並べ始める。
「美味そうにみたらし団子食う姿が好きだ!」
「はい?」
「仙太郎と清音と、稀にふざけてんのも……なんか好きだ!」
「……」
「任務中はあんな冷静なのに、甘味の話になるとちょっと子供っぽくなるのも好きだし!」
「海燕さん」
「あと!」
止まらない。
完全に止まらない。
「たまに!俺の頭を容赦なく馬鹿力で"ど突く"のも……破道の一でぶっ飛ばされんのも嫌いじゃない!」
馨は真顔になった。
「それただの変態じゃ……」
「違うわ!!」
海燕は即座に否定する。
「まあ聞け!」
「聞いてますけど」
「そういうとこだよ!」
「どういうとこですか」
「そういうところひっくるめて、全部が愛しいんだよ!」
静寂。
ぴたり、と空気が止まった。
海燕は肩で息をしていた。
完全に勢いで言い切った顔。
対する馨は。
「……」
固まっていた。
海燕の言葉が、ゆっくり頭の中へ落ちていく。
愛しい。
全部。
好き。
その瞬間。
「((……ッ……!))」
どくん、と胸が鳴った。
今まで感じたことのない音だった。
戦闘でも。
死線でも。
他の異性と向き合った時でさえ、こんな風にはならなかった。
息が、少し苦しい。
海燕はそんな馨を見て、急に不安になったのか慌て始める。
「いや待て!?今の重かったか!?」
「……」
「忘れろ!! やっぱ今のなし――」
「"海燕さん"」
小さな声。しかし凛としたもの。
海燕が止まる。
馨は俯いたまま、自分の胸元をぎゅっと掴んでいた。
「なんか……」
声が少し震えている。
胸元に添えられた手に力がこもるのがわかる。
「ここ……変です」
「……は?」
「苦しくて……うるさくて……」
馨は困ったように眉を寄せる。
「なんですかこれ」
海燕は数秒、ぽかんとしたあと。
――限界だった。
「お前マジか……」
頭を抱える。
どこか火照ったような、熱を帯びる馨の瞳を目の前に、海燕は目を見開く。
「え、待って。お前それ今まで経験ねえの?」
「?」
「……それ、多分」
海燕は顔を覆ったまま、小さく笑った。
「恋だよ、馨。」
そして馨はまだ理解していないまま、小さく首を傾げる。この感情、感覚が不気味な程に心地良い気がした。頭が熱くなって、まともに思考が働かないような――
「じゃあ!今度はお前の番!」
海燕がびしっと馨を指差す。
「ええっ!?」
「俺の……なんでもいいから!好きなところ言ってみろ!」
「なっ、なんですかそれ!」
「いいから!今のその感情がのってる時に、言語化してみろ!」
馨は困ったように眉を下げる。
だが海燕は完全に待機姿勢だった。
腕を組み、真剣な顔。
なぜか無駄に期待に満ちた目。
「((海燕さんの……好きなところ――))」
馨はしばらく考え込み――
閃いた!と言わんばかりに声をあげる。
「ご飯をごちそうしてくれるところ、です!」
「そこ!?」
海燕が机に突っ伏す。
「いやだって副隊長、よく奢ってくれるじゃないですか」
「はぁ!?まて!ほらー……もっとこう!あるだろ!?」
「あと、みたらし団子をいつも用意してくれるところ」
「完全に餌付けの話じゃねえか!」
「重要です!」
ふざけているのか?と疑ってしまいそうだが、馨は真剣そのものだった。
「任務帰り、"疲れてるだろ"って自然に渡してくれるので」
「いやまあ渡すけど!」
「あと副隊長、お店で頼みすぎたとか言いながら結局私に食べさせようとしますよね」
「育ち盛りだからいいかなって……」
「私もう子供じゃないです」
「でも食う量は育ち盛りだろ」
「失礼ですね」
「一昨日の任務の帰り、みたらし団子十五本食ったやつが言うな」
「……十三本です」
「誤差だろ!!」
海燕は頭を抱える。
だが馨はまだ真面目に考えていた。
「あと、甘味屋で店主さんに"いつもの"って言うところ」
「え」
「私の分も含まれてるところ」
海燕が少し固まる。
「……お前、見てたのか」
「見てますよ」
馨は不思議そうに言った。
「副隊長、私の好きなもの覚えるの異常に早いので」
「そりゃ!好きな女の好物くらい覚えるだろ!」
「またそういうこと自然に言いますよね」
「うわ無意識だった!」
海燕が自爆して崩れ落ちる。
馨はそんな彼を見ながら、少し考え込む。
「あと」
「おう……」
「私が夜遅くまで仕事してると、勝手に夜食持ってくるところ」
「……腹減るだろお前」
「この前も"たまたま余った"って言ってましたけど」
「……」
「絶対わざとですよね」
海燕は視線を逸らした。
図星だった。
馨はそこでくすっと笑う。
「"でも、嫌じゃないです"」
その一言で。
海燕、副隊長。
沈黙。
そんな中、馨は続けた。
「誰に対しても同じで。強い人にも弱い人にも態度を変えないし、立場で人を見ない」
静かな声だった。
「あと、仲間が傷つくと本気で怒るところ」
海燕の表情が少しだけ変わる。
「……それは普通だろ」
「普通じゃない事を、私は沢山見てきました」
馨はまっすぐ海燕を見る。
「だから、副隊長みたいな人は珍しいです」
その視線に、海燕の喉が少し詰まる。
馨はまだ続ける。
「あと、馬鹿みたいに人を信じるところ」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「半分かあ……」
「でも」
馨は少しだけ笑った。
「私は、その性格に助けられました。何度も」
昔の自分を思い出す。
ひとりでいた頃。
誰も信じなかった頃。
それでも海燕だけは、呆れるほど隣に来た。
逃げても。
突き放しても。
ずっと。
「……あと」
馨は少し言いづらそうに視線を逸らした。
「"副隊長がいると、安心します"」
「ッ……」
どくん。
今度は海燕の心臓が鳴る番だった。
「隊舎に戻って、副隊長の声がすると……なんか、ほっとするというか」
馨は自分でも不思議そうに呟く。
「いるのが当たり前みたいで」
海燕は何も言えなかった。
馨はそこでようやく小さく息をつく。
「……これ、"好き"ってことなんですか?」
海燕は数秒沈黙し。
そして、また顔を赤らめては熱を感じ始めた。
「…あー……もう無理。マジで。」
再び顔を覆う。
「っ……かわいすぎるだろお前……」
「?」
「その無自覚やめろ!!」
「また怒ってる」
「怒ってねえ!!苦しんでんだよ!!」
「重症ですね」
「お前のせいだよ!!」
海燕は覆っていた顔を露わにすると、今度は机に額を打ち付ける。
「……好きな女が天然すぎる。」
「副隊長、机壊れます。」
「お前のせいだよ!!」
どこまでも不思議な彼女。
ころころと表情を変える度に振り回される自分は本当に滑稽だった。
しかし、愛しくてたまらない。そんな感情が駆け巡る。
「……で?」
海燕が机に頬杖をつくと、少し不貞腐れたようにじっと馨を見る。
「なんか言うことねえの?」
「……」
馨は黙り込む。
さっきから胸の奥がずっと落ち着かない。
「えっ……と……」
海燕の言葉。
表情。
真っ直ぐな視線。
全部が、心臓をうるさくする。
海燕は少しだけ姿勢を正した。
そして改めて、まっすぐ馨を見る。
「俺は、お前のことが好きだ」
静かな声だった。
ふざけていない。
誤魔化してもいない。
「……」
馨の指先が小さく震える。
海燕は続ける。
「お前は……俺のこと、どう思う?」
部屋が静かになる。
遠くで風の音だけがした。
馨はしばらく視線を落としていた。
「((私が……海燕さんのことを……どう思ってるのか。))」
やがて小さく口を開く。
「――この気持ちが、好きなのか」
少し困ったような声。
「正直、わかりません」
海燕は黙って聞く。
「でも……副隊長に会うと嬉しいです」
馨はゆっくり言葉を探した。
「話すと楽しいし、隣にいると安心します。」
海燕の表情が少しだけ緩む。
「あと……胸の、この変な感じも」
馨は自分の胸元をぎゅっと掴む。
「副隊長といると、すごくうるさくて」
そこまで言って、ようやく自分で恥ずかしくなったのか。
「えっ…と、ですね。……」
頬がじわりと赤くなる。
海燕は数秒固まり――
「……っ」
顔を覆った。
「かわいすぎんだろお前……!」
「?」
「無自覚でそれ言うな!!」
馨は本当に意味がわかっていない顔だった。
海燕は深呼吸し、なんとか平静を保とうとする。
「……じゃあ、それで十分だ」
「え?」
「好きって、最初から完璧にわかるもんじゃねえだろ」
海燕は少し照れ臭そうに笑う。
「俺だって最初は"なんか気になるな"くらいだったし」
その言葉に、馨は少しだけ目を見開いた。
けれど次の瞬間。
彼女の表情がふっと曇る。
「……でも」
「?」
馨は視線を落とした。
「私は、副隊長には相応しくないです」
「……」
海燕の眉が動く。
「名家出身でもないですし」
「……」
「副隊長はいずれ、良家の方と一緒になるべきだと思います。」
静かな声だった。
どこか、自分に言い聞かせるような。
「きっと、それをみんな望んでるはずです」
馨は小さく笑う。
「私は……そういうことは……」
「……っ……」
海燕はどこか悔しそうに唇を噛んだ。
その瞬間――
「関係ねえよ!」
海燕の声が部屋に響いた。
馨がびくりと顔を上げる。
海燕は真っ直ぐ彼女を見ていた。
「関係ねえ!」
迷いなんて、一切ない目。
「俺が好きなのは、お前だ!」
強い声だった。
「無類井馨だ!」
馨の瞳が揺れる。
「お前が良家のお嬢さんだろーが、そうじゃなかろーが、関係ねえ!」
海燕は拳を握る。
「周りがどう思うかなんて知るか!」
まっすぐだった。
どこまでも。
「俺が隣にいてほしいって思ったのは、お前なんだよ!」
馨は言葉を失う。
海燕は少しだけ息をつき、照れ臭そうに笑った。
「それに」
「……?」
「名家だなんだで相手決めるような男なら、お前こんなに好きになってねえよ」
その一言が。
馨の胸の奥へ、真っ直ぐ落ちた。
ずっとどこかで怖かった。
自分は"特別"じゃないと。
誰かの隣に立つ資格なんてないと。
でも海燕は、そんなものを全部どうでもいいと言った。
まるで当たり前みたいに。
「……副隊長」
馨の声が少し震える。
海燕はふっと笑った。
「だから」
優しい声。
「お前は、お前のままで隣に来い」
海燕は静かに手を伸ばした。
大きな手だった。
剣を握り、
仲間を守り、
何度も戦場を駆け抜けてきた手。
馨は少しだけ戸惑いながらも、なんとなくその手へ自分の手を伸ばす。
指先が触れた瞬間。
海燕の手が、そっと包み込むように握った。
「……」
どくん。
胸が大きく鳴る。
いつも頭を撫でてくれる手。
任務帰りに肩を叩いてくれる手。
それなのに。
今は何故か、全然違って見えた。
骨ばっていて、
大きくて、
しっかりしていて。
――男の人の手だ。
そう意識した瞬間、馨の顔が一気に熱くなる。
海燕はそんな彼女を見て、少しだけ優しく目を細めた。
「……馨」
「は、はい」
声が裏返る。
海燕は馨の慣れない緊張を感じ、吹き出しそうになるのを堪えながら、手を握ったまま口を開いた。
「だから、お前はそのままでいいんだって」
「……」
馨は俯いたまま、小さく頷く。
だが、ふと顔を上げた。
「あの……」
「ん?」
「"隣に来い"っていうのは」
馨は真剣な顔だった。
「具体的に何をすればいいのでしょうか?」
「……あぁ!?」
海燕が変な声を出した。
「だ、だって……」
馨は本当に困っていた。
「いつも一緒にいるのは変わらないですし」
「いやまあそうだけど!」
「その……本当にわからなくて……」
海燕は頭を抱える。
恋愛初心者とかそういう次元じゃない。
ここまで真っ白だとは思わなかった。
「ええとだな……」
海燕はしどろもどろになりながら考える。
「((ド天然のこいつに……どうやったら伝わる?))」
そしてしばらくして、意を決したように机から少し離れた。
「……え?」
馨が不思議そうに見る。
海燕はぎこちなく腕を広げた。
「ん」
「……?」
「ほ、ほら!」
顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
「こうやって抱擁をだな!!」
「ほっ、ホウヨウ……」
静寂。
馨、完全停止。
海燕は腕を広げたまま、ジッと馨を見つめていた。対して馨は微動だにせず、頭の中でグルグルと何かを巡らせていた。
「……」
「……」
――数秒後
「むっ無理です!!」
「なんでだよ!?」
馨は勢いよく後ろへ下がった。
壁にゴツンと頭をぶつける程の勢いだ。
「っ……無理……」
耳まで真っ赤だ。
「きゅ、急に距離が近いです!!」
「"恋人"ってそういうもんだろ!?」
「こっ恋人!?」
今度は馨が変な声を出す。
海燕も"あっ"と固まった。
完全に勢いだった。
「いや、その、いずれっていうか!!」
「副隊長、話が飛躍しすぎです!!」
「好き同士なら普通そうなるだろ!?」
「普通がわかりません!!」
「俺もそんな詳しかねえよ!!」
二人して半ば叫び合う。
ぜえぜえと息を切らしながら距離は縮まらない。
その後。
――沈黙。
「((くっ!どうしたいいんだよ!この場合!))」
「((コイビト……コイビト、コイビト、コイビト――))」
お互い、ダラダラと冷や汗を流し始める。
第三者がもしこの場にいたら滑稽だろう。
「……ッ!」
そして、先に動くのは海燕。
「じゃ、じゃあ!」
海燕が咳払いした。
「今日は、手繋ぐだけでもいい」
馨は真っ赤なまま視線を泳がせる。
「……」
海燕は少しだけ不安になった。
「……嫌じゃねえなら……もう1回。」
その瞬間。
馨はふるふると首を振った。
そして恐る恐る。
ぎこちなく。
「……はい。」
もう一度、海燕の手を握る。
小さな手だった。
海燕はその手を壊れ物みたいにそっと握り返す。
馨は俯いたまま、小さく呟く。
「……これだけで、なんか、すごいです」
「……俺も」
海燕は困ったように笑う。
「心臓うるせえ」
対して馨は少しだけ顔を上げた。
その馨の顔を見て、海燕は耐えきれず、また笑ってしまった。
「あー!くそっ!」
「なっ、なんですか…」
「ほんと、お前かわいいな」
「だからそういうの急に言わないでください……!」
海燕の大きな手が、そっと馨の手を包んでいる。
――"温かい"
指先から熱がじわじわと広がって、胸の奥まで落ちてくる。
馨は視線を落とした。
こんなにも近い距離で海燕を見るのは、初めてだったかもしれない。
「……馨」
呼ばれるだけで、心臓が跳ねる。
海燕は優しく笑った。
戦場で見る猛々しい笑みでも、十三番隊で騒いでいる時の豪快な笑顔でもない。
壊れ物を見るみたいに、柔らかな目。
それが全部、自分へ向けられている。
馨は耐えきれなくなって、さらに目を伏せた。
「……そんな見ないでください」
「なんでだよ」
「……恥ずかしいので」
「ははっ」
低く笑う声。
けれど手は離れない。
むしろ海燕の親指が、安心させるみたいにそっと馨の指先を撫でた。
その仕草に、また胸が熱くなる。
「ほんと、お前かわいいな」
「っ……」
馨の肩がぴくりと揺れる。
耳まで熱いのが、自分でも分かった。
「……そういうこと、言わないでください」
「なんで?」
「……その、困るので……」
声が小さくなる。
海燕はしばらく何も言わなかった。
ただ、じっと馨を見つめていた。
愛おしいものを見るみたいに。
ずっと探していた宝物をようやく見つけたみたいに。
その視線があまりにも優しくて、馨はますます顔を上げられなくなる。
けれど、握られた手だけは、逃げる気になれなかった。
海燕はふっと目を細める。
馨はゆっくりと顔を上げた。
「「…………」」
目が合う。
近い。
近すぎる。
海燕の瞳の中に、自分が映っていた。
「……返事、今じゃなくても——」
その時だった。
「――ん?」
「――ッ!?」
ぴく、と。
ふたり同時に視線が障子の向こうへ向く。
微かに揺れた霊圧。
それも、隠す気があるのか無いのか分からないほど雑な気配。
海燕の目が鋭く細まり、馨も即座に腰を浮かせた。
「仙太郎!」
「清音さん!」
2人の声がぴたりと重なる。
"そこ"に潜んでいるであろう2人の名を――
――ズザァァァッ!!!!
「うわぁぁぁっ!!」
「きゃああああっ!!」
勢いよく襖が外れ、そのまま二人まとめて部屋に雪崩れ込んできた。
仙太郎は顔面から畳へ激突。
清音は襖を抱えたまま転がっている。
「「……」」
一瞬の静寂。
そして暫くして。
「お、お前らァァァ!!!」
海燕の怒号が響いた。
「いや違うんです副隊長!これは事故で!!」
仙太郎が必死に誤魔化そうとするも海燕と馨を前に効く訳もなく。
するとズイっと清音が2人の真正面に立つと何故か瞳を輝かせながら声を上げた。
「違いません! 完全に聞き耳です!! 」
「おい清音!?味方しろ…」
「だってやっと言えたんですよ!? 副隊長むっつりすぎます!!」
「むっ……!?」
海燕の顔が一気に赤くなる。
馨は数秒ぽかんとしていたが、耐えきれず吹き出した。
「ふ、ふふっ……」
「馨まで笑うな!!」
「だって……っ、海燕さんの顔……茹でダコみたいでッ」
「うるせえ!」
四方八方から茶化されている気がしてさらに恥ずかしさが増していく海燕。
その様子を見て、同性の仙太郎はニヤッと笑うとわざとらしく腕を組む。
「いや〜でも良かったっスねぇ!"好きだ"ってちゃんと言えて!」
「聞いてんじゃねえよ!!」
「途中めちゃくちゃ空気良かったっす!」
「全部聞いてんじゃねえかァァァ!!」
隊舎中に響きそうな勢いで叫ぶ海燕。
その様子を見ながら、馨は肩を震わせる。
——さっきまでの緊張も、胸の痛いほどの静けさも。
全部。
いつもの十三番隊らしい騒がしさに飲み込まれていった。
┈┈
翌朝。
十三番隊隊舎、隊長室。
「――以上が西流魂街での虚発生状況です」
馨が淡々と資料を手に読み上げる。
向かいには隊長の浮竹十四郎。
その隣には副隊長の海燕。
いつも通りの定例報告だった。
――のはずだった。
「ふむ……」
浮竹は資料を眺めながら穏やかに頷く。
海燕も真面目な顔で腕を組んでいた。
だが。
その実。
「……」
「……」
二人ともまともに相手の顔を見れていない。
昨夜のことが頭から離れないのだ。
お互いの告白。
手を繋いだこと。
"好き"と言われたこと。
抱擁未遂事件。
思い出すだけで心臓がうるさい。
馨が資料を差し出す。
「副隊長」
「お、おう!」
びくっ、と海燕が妙に大きな声を出す。
馨もつられて肩を揺らした。
その空気を誤魔化そうと、二人は同時に机の湯呑みに手を伸ばす。妙に乾く喉を潤そうと、ごくごくと茶を飲む。
浮竹はそんな二人を見て、ふっと笑った。
そして容赦なく――
「"そういえば"」
にこにこと、実に嬉しそうな顔で口を開いた。
「"付き合い始めたんだろう?"」
「「ブフッ!!!!」」
二人同時に、盛大にお茶を吹き出した。
「げほっ、ごほっ!!」
「っ……!!」
海燕が机を叩きながら咳き込む。
馨は顔を真っ赤にし、手ぬぐいを口元に押さえたまま固まっていた。
「なっ、なんで知ってるんすか!?」
海燕が叫ぶ。
浮竹はきょとんとした顔をする。
「え?」
そして悪気ゼロの笑顔で答える。
「清音と仙太郎が教えてくれたんだよ。」
沈黙。
海燕の額に青筋が浮いた。
対して馨はすっと立ち上がる。
「……」
無表情。
だが目が据わっている。
「か、馨?」
「副隊長」
「は、はい。」
「今すぐあの二人をここへ呼びましょう」
完全に獲物を捉えるような瞳。
霊圧は濃くなり、ただならぬ雰囲気が静かに膨れ上がる。
「その顔怖えんだけど!?落ち着けって!」
「情報漏洩です」
「確かにそうだけど!」
「隊規違反として指導が必要です」
「絶対私情入ってるだろ!」
馨は静かに刀へ手を添えた。
「斬りますか?」
「落ち着きなさい、馨!!」
浮竹が慌てて止めに入る、が
なんだかんだめちゃくちゃ楽しそうだった。
「ははっ……いやあ、よかったよ本当に」
"にこにこ"
完全に保護者の顔。
浮竹の無垢な笑顔を見ると冗談染みた怒りは不思議と消えていく。
「海燕がずっと馨のこと見てるの知ってたし」
「ちょっ、隊長!?」
「馨も海燕のことになると少し表情柔らかかったからねえ」
「……っ」
海燕は浮竹の言葉に慌て、
馨の顔がまた赤くなる。
浮竹は楽しそうに湯呑みを持った。
「でも安心したよ」
優しい声だった。
「二人とも、ようやく素直になれたんだなって」
その瞬間。
少しだけ空気が柔らかくなる。
だが。
次の瞬間。
隊長室の外から。
「失礼しまーす!」
「隊長ー!」
元気な声と共に障子が開く。
そこには。
「うおっ!」
「ひぃっ!」
仙太郎と清音。
「「……」」
そして、海燕と馨は同時に立ち上がる。
「お前らぁぁぁぁ!!!」
「……お聞きしたいことがあります。」
いつものように声を張り上げる海燕。
静かに怪しい笑顔を向ける馨。
「「ひぃいいいいいい!!」」
仙太郎と清音はお互いを抱き合う。
「副隊長!目が怖いっす!」
「三席もっと怖い!!」
隊長室を逃げ回る二人。
追いかける海燕。
無言で鬼道を詠唱し始める馨。
浮竹はその光景を見ながら、楽しそうに笑った。
「はははっ!十三番隊も賑やかになったなあ」
「隊長!笑ってないで助けてくださいよ!」
「三席詠唱してますって!隊舎吹き飛びますよ!!」
――その日。
隊舎中に、
"副隊長と三席、ついに付き合ったらしい"
という噂が爆速で広まったのは言うまでもなかった。
そして……恐れていたことが直ぐに起こる。
その噂は、恐ろしい速度で"瀞霊廷中を駆け巡った"
――十三番隊副隊長、志波海燕。
――同じく十三番隊三席、無類井馨。
ついに恋仲!
…という話題は、護廷十三隊にとって格好の酒の肴だった。
そして当然、面白がる者たちも現れる。
┈┈┈
「"ほう"」
二番隊隊舎の縁側。
四楓院夜一は頬杖をつきながら、にやりと笑った。
「ついに"あやつら"くっついたか」
向かいでは京楽春水が酒を揺らしながら楽しそうに目を細める。
「いやあ、青春だねえ〜」
「海燕のやつ、意外と押し切ったのお」
「馨ちゃん初心だもんなあ」
完全に面白がっていた。
┈┈┈
そして数日後。
任務帰りの夜道。
資料を抱えた馨が大通りを歩いていると。
「お、噂のお嬢ちゃんじゃないかい?」
「うむ、幸せそうじゃのう〜」
左右からぬっと現れた影。
「……っ」
馨の肩が跳ねる。
「馨」 「馨ちゃん♪」
右には京楽春水。
左には四楓院夜一。
護廷十三隊でも屈指の"面倒な大人"二人だった。
馨は二人の悪戯に日頃から悩まされていたのだ。
……そして今回の"恋仲事件"。それが余計に二人を楽しませているのも理解していた。
「……失礼します。」
「待て待て待て!隊長を前に無視するとは如何なものかのう?なあ?京楽?」
「お話聞かせてよ〜、馨ちゃん。」
「嫌です。断固として。」
夜一がにやにやしながら覗き込む。
「まさか志波の坊やを落とすとはのう〜」
「いやあ、若いっていいねえ」
京楽は楽しそうに笑う。
「…………」
馨は額に"怒りマーク"を滲ませながら、スタスタと二人の間を抜けていく。
しかし容赦なく二人は追いかける。
「隊舎で手とか繋いでたりするの?」
「……春水殿」
「ん?」
「黙ってください」
即答だった。
「リサさんに言いますよ?」
「おお〜!馨ちゃんも言うようになったねえ!」
「((……))」
全く効かない相手にさらに青筋を浮かべる馨。
夜一はそれを見てさらに吹き出す。
「かーっ!かわいい反応しおる!」
「ほんと初心だねえ」
「海燕のやつ絶対振り回されとるじゃろ」
「いや逆かもしれないよ?」
「〜〜っ!!」
いつまでも追いかけてくる二人についに観念し、立ち止まると、馨は俯いたままぷるぷるしていた。
恥ずかしさが限界を超えている。
「本当に……」
小さく呟く。
「それ以上言わないでください……!」
声が完全に消え入りそうだった。
その瞬間、
「「…………」」
夜一と京楽、顔を見合わせる。
そしてにんまりと頬を赤く染めて微笑むと……
「「かわいい〜〜〜!!」」
「やめてくださいっ!!」
馨、ついに叫ぶ。
瀞霊廷に彼女の珍しい大声が轟いた。
その時、向かいの角から現れたのは――
「おーい馨!」
聞き慣れた声、海燕だった。
「お前が持ってる書類。急遽六番た――」
夜一と京楽、同時に"にやり"。
海燕は二人の姿を捉えると"マジか"と言わんばかりに目を見開く。
「お、噂の彼氏じゃ」
「副隊長殿、お熱いことで」
「……あ?」
海燕は嫌な予感しかしなかった。
馨は助けを求めるように海燕を見る。
その顔がもう限界寸前で赤い。
海燕は一瞬で状況を察した。
「ちょっと!また虐めてんスか!?」
「いじめとらんわ」
「可愛がってるんだよ〜」
「同じですよね!?」
海燕は馨の前へ立つ。
まるで庇うみたいに。
「ほら行くぞ馨!」
「……はい」
馨は少しほっとした顔で頷いた。
軽く会釈をして、逃げるように踵を返す――
だが。
「海燕君〜、夜道で抱きしめすぎると嫌われるよ〜」
「っっっ!!?」
海燕と馨、思わず同時停止。
「……春水殿、その情報はどこから。」
「仙太郎くんと清音ちゃん」
「あいつらぁぁぁぁ!!!」
「……指導します。」
瀞霊廷に、今夜も海燕の絶叫が響き渡った。
┈┈┈
┈┈┈┈
さらに数日後――
「ほれ、ついてこい」
「……だからどこへ向かってるんですか」
馨は少し呆れながら、前を歩く四楓院夜一の背を追っていた。
今日は非番。
突然"面白いものを見せてやる"と言われ、半ば強引に夜一に連れ出されたのである。
「ほれ。ついたぞ。」
そして到着した場所を見て、馨は目を瞬かせた。
巨大な門。
整えられた庭園。
静謐な空気。
「……朽木家?」
「うむ!」
夜一は悪戯っぽく笑った。
馨は呆れ顔でジッと見据える
「久々に"白哉坊"をからかいに来た。」
「帰りません?」
「帰さんぞ。」
「……帰ります。」
「おい、馨。」
立ち去ろうとする馨の腕を容赦なく掴む夜一。
「そうじゃのう〜。仙太郎と清音からのリーク、もっとバラしてもいいんじゃがのう〜」
「……」
「一昨日、お主が"つい酒に酔っ"」
「申し訳ございませんでした。行きましょう。」
即答。
その先を言わせないと言わんばかりに、真剣な眼で夜一を見つめる。
どちらかというと"それ以上言ったら斬ります"レベルの圧力をかけていた。
「よし!なら行くぞ!」
夜一はずかずかと敷地へ入っていく。
案内の者たちも止めない。
……いや、止められない。
「白哉坊〜! 遊びに来てやったぞ!」
春の風を切るように、軽快な声が朽木邸へ響く。
広大な屋敷の門を、まるで自分の家のように夜一はずかずかと進んでいく。
その後ろを歩く馨は、相変わらずだな……と小さく息を吐いた。
磨き抜かれた長い廊下。
静寂に包まれた空気。
朽木家特有の、張り詰めるほどに整えられた気配。
けれどその奥――障子の向こうに広がる庭園だけは、柔らかな陽光に照らされていた。
白砂の上に影を落とす青葉。
静かに揺れる竹。
透き通るような池の水面。
その中心で、ひとり木刀を振るう少年がいた。
「……っ!」
鋭い踏み込み。
幼さを残す身体つきでありながら、その太刀筋は既に貴族の坊ちゃんという言葉からは程遠い。
汗が頬を伝い、黒髪が揺れる。
夜一はそれを見た瞬間、にやりと口角を上げた。
「お〜、やっとるやっとる」
その声に、少年――"朽木白哉"がぴたりと動きを止める。
振り返った瞬間だった。
「夜一……」
「白哉坊〜!」
凛とした立ち姿。
整った顔立ち。
だが。
「……また貴様か、夜一」
鍛錬を止めた白哉は、露骨に嫌そうな顔を向ける。
突然押しかけてきたことへの不満を隠そうともしない視線。夜一はそんな反応にけらけらと笑った。
「なんじゃその顔は。相変わらず可愛げのない坊じゃのう」
「誰のせい――」
言いかけた、その時だった。
夜一の後ろに立つ人影へ気づいた白哉の目が、ふっと見開かれる。
「……"馨殿?"」
空気が変わった。
先ほどまでの刺々しさが嘘のように消え去り、白哉はぱっと表情を明るくする。
「馨殿! お久しぶりでございます!」
勢いよく駆け寄ってくる姿は、先ほどまで庭で鋭い太刀筋を見せていた少年とは思えない。
大人びた顔ではなく年相応の少年の顔つきと声色。
馨は跪くように片膝を地面に着くと、頭を下げた。
「お久しぶりです、白哉様」
「お変わりありませんか!? 今日はどうしてこちらへ? ……ああ、立ったままでは失礼だ。すぐに茶を――」
「待て待て待て」
夜一が肩を震わせながら口を挟む。
「なんじゃこの態度の差は!」
「……何のことだ。」
白哉は真顔で返す。
だが耳だけがほんのり赤い。
夜一はついに腹を抱えて笑い出した。
「ぶははっ! 白哉坊、お前さては馨に惚れておるな!?」
露骨に嫌そうだった。
「うるさい! たわけ!」
白哉は一瞬で顔を真っ赤に染め上げた。
普段の気品も何もない。
年相応の少年らしい反応に、夜一はますます腹を抱える。
「図星か図星か!」
「違う!!」
「ほほう?」
「夜一!貴様!」
完全に遊ばれている。
馨が止めに入るも、夜一は楽しそうに目を細めるばかりだった。
そして――その瞬間。
夜一の顔に、嫌な笑みが浮かぶ。
「あ、そうじゃ白哉坊。実はの――」
その空気だけで、馨は察した。
「夜一様!!」
ばっ、と勢いよく夜一の口を両手で覆う。
「絶対に言わないでください!」
「んぐっ!? んーっ!!」
「本当にやめてください!!」
夜一は口を塞がれたまま肩を震わせる。
白哉はぽかんと目を瞬かせた。
「……どうされたのですか?」
「何でもありません!」
「馨殿に何かあったのですか?」
「ありません!!」
必死で否定する馨。
だが――。
夜一はにやりと笑った。
次の瞬間、馨の拘束をするりと抜ける。
「あーっはっは! 実はのう!」
「夜一様!!」
馨の手は届くことなく――
「馨に想い人が出来たんじゃ!」
空気が止まる。ぴしり、と。
庭園を流れていた風音すら消えたような静寂。
白哉の表情が、ゆっくり消えていく。
「……え」
その声は、あまりにも小さかった。
馨は冷や汗を流す。
「((…まだ幼い白哉様になんてことを……夜一様!))」
馨はわたわたと手を震わす。
どうしようも無い状況に打つ手が見つからない。
「しかも最近なんぞ良い雰囲気での〜!」
「やめてください!!」
「なんじゃ、照れるな照れるな!」
白哉は固まったまま動かない。
その姿を見て、夜一はついに堪えきれなくなった。
「っふ、あーはっはっは!」
ひらり。
一瞬だった。
夜一の姿が掻き消えたかと思うと、次の瞬間には白哉の背後へ回り込んでいる。
「な――」
さらり、と。
綺麗に結われていた髪紐が簡単に解かれ、黒髪がばさりと肩へ落ちた。
「朽木白哉〜! 討ち取ったり〜!」
夜一は高らかに笑い、そのまま瞬歩で庭園の向こうへ逃げていく。
「夜一様!!」
馨が頭を抱える。
対して白哉は――静かだった。
ゆっくりと髪を押さえ、俯く。
「あの……白哉様」
だが次の瞬間。
「馨殿、少々お待ちください」
ぞくり、と霊圧が揺れた。
「……あの化け猫、直ぐに討ち取りに参ります」
静かな声。
しかし怒気だけは恐ろしいほど濃い。
そして白哉の姿もまた、一瞬で消えた。
「……え」
静まり返った庭園。
つい先ほどまで騒がしかったはずなのに、今は風が竹を揺らす音しか聞こえない。
馨はぽつん、とその場に取り残されていた。
「……置いていかれたんだけど……」
思わず零れた声が、やけに虚しく響く。
夜一は逃走。
白哉は追撃。
結果だけ見れば、完全に巻き込まれ損である。
しかも非番に。
馨は深いため息を吐くと、そっと踵を返した。
「帰ろう……」
だが、その瞬間だった。
「――そう急がずともよい」
低く、落ち着いた声。
馨の肩がぴくりと揺れる。
「……あ、」
振り返った先。
縁側へ続く渡り廊下に、一人の老人が立っていた。
白い羽織。
歳月を重ねた威厳。
静かにそこにいるだけで空気を支配する存在感。
朽木銀嶺。
六番隊隊長にして、朽木家現当主。
馨は即座に姿勢を正した。
「……失礼いたしました」
静かに跪く。
銀嶺はそんな馨を見下ろし、ゆるやかに目を細めた。
「無類井三席。久しいな。」
「ご無沙汰しております、朽木隊長。」
「そう固くなるな。あれほど騒がしい者たちに振り回された直後であろう。」
わずかに口元が緩む。
どうやら先程の一連を見ていたらしい。
馨は恥ずかしさに少しだけ視線を逸らした。
銀嶺はゆっくり庭へ目を向ける。
「……白哉はどうだ?」
その問いに、馨は少し考えるように目を伏せた。
「……ひと月ほど前でしょうか。鬼道の鍛錬を見てほしいと頼まれたことがありました」
「ほう」
「まだ荒削りではありますが……飲み込みが早く、何より努力を怠りません」
脳裏に浮かぶ。
悔しさを隠しながら、何度も詠唱を繰り返していた少年の姿。
失敗しても顔を上げ、黙々と前へ進む姿。
「その時、白夜様の成長をより強く感じました。」
「…………」
「私も白夜様から学ぶことが非常に多いです。」
馨は凛と、穏やかに微笑んだ。
美しい彼女の姿は銀嶺さえも惹かれるものがあった。
強い心
正しさを貫く心
その姿を、銀嶺は信頼していた。
「……そうか」
短い言葉。
だが、その声音には確かな安堵が滲んでいた。
祖父として。
隊長として。
銀嶺は白哉の未来を誰より案じているのだろう。
しばしの静寂。
やがて銀嶺は、ふっと穏やかに笑った。
「これからも白哉を頼むぞ」
「……はい」
「それと――」
銀嶺の目が、どこか楽しげに細められる。
「想い人は、大切にな」
「…………え?」
固まる馨。
銀嶺は何も言わない。
ただ、全て分かっていると言わんばかりに静かに笑うだけだった。
その瞬間。
馨は悟った。
「((夜一様……絶対余計なこと吹き込んでる……!))」
じわり、と額に冷や汗が浮かぶのだった。
┈┈┈
朽木邸を後にした馨は、ひとつ深く息を吐いた。
「……疲れた……」
夜一に振り回され、白哉は暴走し、最後には銀嶺にまで茶化された。
頬の熱がまだ引かない。
帰り道。瀞霊廷内を歩いていると――
「"随分、賑やかでしたね"」
不意に聞こえた穏やかな声に、馨は顔を上げた。
背後、感じる霊圧。
夕暮れの柔らかな光の中に、二人の死神が立っている。
「……藍染副隊長」
五番隊副隊長、藍染惣右介。
柔らかな物腰。
穏やかな笑み。
誰に対しても丁寧な男。
その隣には、小柄な少年がいた。
馨は見覚えがない少年だ。
細い身体。
白銀の髪。
まだあどけなさを残しているはずなのに、どこか掴みどころのない雰囲気。
藍染はゆるやかに微笑む。
「朽木隊長とも縁があるとは……さすがですね」
「え?」
「君の人望があるのでしょう」
「……あ、朽木邸に居たことですね。」
さらりと言われ、馨は少し困ったように眉を下げた。
「そんな大したものでは……」
すると、隣の少年が、じっと馨を見上げる。
細められた目。
まるで値踏みするような視線に、馨は僅かに首を傾げた。
「……はじめまして、ですよね?」
少年はに、と笑う。
「どーも、はじめまして。」
どこか間延びした関西訛り。
藍染が静かに口を開く。
「今日から入隊でね」
「そうだったんですか」
「市丸ギンいいます。これからよろしゅうお願いします。」
妙に柔らかい声。
けれど……何故だろう。
その笑顔の奥に、うっすらと冷たいものを感じた。
馨が言葉を探すより先に、ギンはふと藍染を見上げる。
「藍染副隊長」
「なんだい?」
「"この人が例の?"」
空気が止まりかけた。
だが藍染は表情を崩さない。
「((……この人が例の……って、どういうこと?))」
馨は不思議そうに二人を交互に見た。
「……ギン」
穏やかな声。
それだけで、ギンは肩をすくめる。
「失礼しました。……すんません。」
謝っているのに、全く悪びれていない。
馨は僅かに違和感を覚えながらも、深くは聞かなかった。
その様子を見つめながら――
藍染だけが静かに目を細めていた。
「そういえば――」
ふと、藍染が思い出したように口を開く。
「例の噂、聞きましたよ」
「……え?」
嫌な予感がした。
藍染は相変わらず穏やかな笑みのまま続ける。
「志波副隊長とのことです」
「……あ……はい……」
馨は思わず視線を逸らした。
今日はもうそればかりだ。
夜一に散々茶化され、白哉は暴走し、銀嶺にまで意味深なことを言われた直後である。
そこへ更に藍染。
羞恥で頭を抱えたくなる。
だが藍染はからかう様子もなく、静かに言った。
「良いことだと思います」
「……え?」
「君に大切な人ができることは、喜ばしいことですから」
穏やかな声だった。
まるで本心から祝福しているような。
馨は少しだけ目を瞬かせる。
藍染は続けた。
「前よりも、よく笑うようになった」
「……」
「交友も増えてきたようだ」
十三番隊の仲間たち。
その枠を超え、ほかの隊の隊長副隊長。
朽木家の次期当主である白哉とも関わる事も。
少し前までの自分では考えられなかった。
誰とも深く関わらず、必要以上に距離を置いていた自分。
藍染はそんな変化を、ずっと見ていたのだろうか。
「……ありがとうございます?」
どこか照れくさくて、疑問形になってしまう。
すると藍染は小さく笑った。
「ふふ」
優しい笑み。
けれど。
その視線に、馨は不意にどきりとした。
じっと見られている。
まるで。
自分でも気づいていない感情まで、静かに覗き込まれているような感覚。
思わず視線を逸らす。
すると隣で、市丸ギンが"にぃ"、と細めた目を更に歪めた。
「副隊長、無類井三席のこと好きすぎやないです?」
「ギン」
「冗談ですって」
くすくす笑うギン。
だが藍染は否定しなかった。
ただ静かに、馨を見つめていた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈
"平和な日々が流れていた"
十三番隊では相変わらず海燕が騒ぎ、馨が呆れ、浮竹が穏やかに笑う。
夜になれば隊舎には灯りがともり、
他愛もない会話が響く。
そんな穏やかな時間の中――
新たな隊長着任の日が訪れた。
十二番隊新隊長――浦原喜助。
その名は瞬く間に瀞霊廷中へ広がった。
そして、その日の夜。
十三番隊隊舎の縁側。
静かな夜風が吹き抜ける中、海燕は胡座をかいたまま楽しそうに笑っていた。
「いやぁ、すげえ人だったぜ?」
馨は湯呑みを手に、小さく首を傾げる。
「そんなにですか?」
「隊長格と副隊長が集まる定例会に、あの人――遅刻してきたんだぞ?」
「えぇ……?」
思わず引いた声が漏れる。
海燕は腹を抱えて笑った。
「しかも悪びれもしねえの! 京楽隊長なんかめちゃくちゃ笑ってたぜ!」
「大丈夫なんですか、それ……」
「知らねえ!」
けらけらと笑う海燕。
やがて、ふっと表情を和らげた。
「……ま、でも」
「?」
「曳舟隊長がいなくなってから、十二番隊ずっと慌ただしかったからな」
馨も静かに頷く。
しばらく前、十二番隊は不運にも隊長を失ったのだ。
近しい隊として、十三番隊が業務のフォローに何度か向かうことも多かった。
その度に、副隊長の猿柿ひよ里は強がりながらも苦しそうにもがいていた。それを分かっていたのは同じ副隊長の海燕。そして馨だった。
「ひよ里さんも、少しは気が楽になるといいですね」
「だなぁ。副隊長1人でかなり無茶してたっぽいし。」
「体調も崩されてましたし。」
「ああ。……お前みたいになんでも細かくうるせーくらいに言ってくれるやつが居ないから……そりゃ大変」
「海燕さん」
「嘘です。すんませーん。」
「……ふふ。」
夜風が吹く。
静かな空。
穏やかな時間。
海燕は空を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「これでやっと、十二番隊も落ち着くんじゃねえか?」
「……そうですね」
小さく笑う馨。
その横顔を見た海燕は、不意ににやっと笑った。
「――んなことより!」
「はい?」
隣の馨に向き直る海燕。
「今度の非番、久しぶりに一緒だよな?」
「そうでしたっけ……」
「なんだよ覚えてねえのかよ!」
海燕は身を乗り出す。
「いい甘味処見つけたんだよ! 行かねえか?」
その顔があまりにも嬉しそうで。
馨は少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「……はい。行きましょう」
「よし!」
海燕は満足そうに笑う。
十三番隊の灯りが、静かな夜に揺れていた。
穏やかで。
温かくて。
幸せな時間。
――この時までは。
誰も知らなかった。
静かに動き始めた歯車が、やがて多くの運命を狂わせていくことを。
そして。
ここから物語は――始まる。
┈┈┈┈┈┈┈