┈┈┈┈┈
平穏とは
音も無く訪れ
音も無く壊れていく
┈┈┈┈┈
THE MAN WHO ARRIVED IN SILENCE
THE BLADE AND ME
┈┈┈┈┈┈┈
瀞霊廷の一角。
かつては静かだった十二番隊隊舎は、今や別の熱を帯び始めていた。
鉄の匂い。
薬品の匂い。
どこかで響く爆発音。
そして――。
「"だからなんで勝手に触るんスか!!"」
「"うっさいわ!!んな危ないモン机に置いとく方が悪いやろが!!"」
隊舎中に響き渡る怒声。
廊下を歩いていた隊士たちは慣れた様子で避難していく。
開け放たれた技術開発局の一室では、散乱した書類の真ん中で浦原喜助が頭を抱えていた。
その向かいでは、腰に手を当てた猿柿ひよ里が今にも蹴りを入れそうな勢いで睨みつけている。
「人を実験材料みたいに扱うなっちゅーねん!!」
「いやいや誤解っスよ!これは未来の瀞霊廷のための――」
「未来の前に今のウチが死ぬわ!!」
どごっ、と机が蹴り飛ばされる。
「あーーっ!!それ徹夜でまとめた資料!!」
「知らんわ!!」
――そんな騒がしい空間の入口で。
「……"失礼します"」
静かな声が落ちた。
その瞬間、数人の隊士が振り返る。
現れたのは、白い風呂敷包みを抱えた 無類井馨だった。
「十三番隊から差し入れです。浮竹隊長が、皆さんお忙しそうだからと」
途端に浦原の顔がぱっと明るくなる。
「無類井サン!いや〜〜助かるっス!!最近まともな飯食ってなかったんスよ!」
「嘘つけ!!さっき勝手に人のプリン食ったやろが!!」
「ひよ里サンのじゃなくて局の共有財産っス!」
「殺すぞ!!」
再び始まる怒鳴り合い。
見慣れ始めた光景に馨はクスッと笑うと、もう片手に持っていた赤い風呂敷をひよ里に差し出す。
「ひよ里さんには私から。はい!たこ焼きです。」
「さすがや馨!気い利くやっちゃなあ〜!」
その中で、ひよ里はふと馨を見ると眉を吊り上げた。
「……あんたも気ぃつけや。コイツ、へらへらしとるけど碌でもない男やで」
「えっ」
「色目使われたら絞め殺したるからな!!直ぐに言いや!」
「使ってないっスよ!?」
「うるさい!!」
馨は一瞬目を丸くしたあと、小さく吹き出した。
その笑い声に、浦原が少しだけ目を細める。
「……てか……笑うんスねぇ、無類井サン」
「失礼でしたか?」
「いえいえ。なんというか、安心したっス」
その言葉の意味を聞く前に――
「"おっ、なんやなんや。今日も騒がしいなぁ"」
間延びした声。
ひらひらと手を振りながら現れたのは五番隊隊長 平子真子 だった。
「げっ、真子!」
「うわ、ひよ里ちゃん今日も怖〜」
「誰がひよ里ちゃんや!!」
「ええやん別に〜」
瞬間。
飛び蹴り。
「ぐはっ!!」
「平子隊長!!」
馨の声とともに周囲が慌てる。
しかし平子は床に転がったままケラケラ笑っていた。
「ほんま元気やなぁ〜」
「死ね!!」
「うぅ!?アカン!そこは急所――」
再び始まる大喧嘩。
隊士たちは完全に見慣れているのか、
誰も止めようとしない。
そんな騒動を横目に、
浦原はやれやれと肩を竦めながら馨へ向き直った。
「差し入れいつもありがとうございます。浮竹隊長にもよろしくお伝えください。」
「いえ。私も気になっていましたし。」
丁寧にお辞儀する馨。
その所作に浦原も穏やかに微笑んだ。
「……十三番隊はどうっスか?」
「相変わらず穏やかですよ」
「浮竹隊長のご体調は?」
その問いに、馨は少しだけ表情を和らげた。
「最近は比較的落ち着いています」
そう答えてから、少し迷うように視線を伏せる。
「……私の回道で、少しだけ治療も試していて」
浦原の眉が僅かに上がる。
「へぇ」
「もちろん根本的にどうにか出来るわけじゃありません。
でも、咳が落ち着く日も増えました。卯ノ花隊長にもお世話になっていて……」
その言葉には、どこか安堵が滲んでいた。
浮竹の苦しそうな姿を、ずっと近くで見てきたのだろう。
浦原はそんな馨を見つめながら、ふっと柔らかく笑う。
「さすがっスねぇ」
「?」
「鬼道だけじゃなく、回道まで扱えるなんて」
そしてどこか感心したように続けた。
「卯ノ花隊長も話してたんスよ。"あの子は治す力の扱いまで異常に上手い"って。」
「……買い被りです」
「いやいや、あの卯ノ花隊長が人を褒めるのって、かなり珍しいんスよ?」
馨は少しだけ困ったように笑う。
褒められることに、どうにも慣れていない顔だった。
浦原はその様子を見ながら、どこか考え込むように視線を細める。
"壊す力"ではなく、
"治す力"をここまで自然に扱う。
それなのに――。
彼女の奥には、
妙に底知れないものがある。
そんな違和感だけが、
静かに胸に残っていた。
「そういや今度、鬼道衆との情報交換会やるんスけど」
「情報交換会?」
「ええ。技術開発局もまだ手探りっスからねぇ。よかったら無類井サンにも来てほしいんスよ」
「私が?」
「鬼道の扱い、隊長格並って聞いてるっス」
「噂です」
「"その噂が本当か見てみたいんスよ"」
くすりと笑う浦原。
だが次の瞬間。
その目だけが、少し鋭く細められた。
「あと――」
一拍。
「貴方の斬魄刀について、少し教えてほしいんスけど」
空気が僅かに静まる。
遠くでひよ里の怒鳴り声が響いているのに、
そこだけ妙に静かだった。
「……」
馨は数秒だけ沈黙し、それから困ったように微笑む。
「……また今度、で」
「はは。振られちゃったっスね」
「秘密主義なんです」
「余計気になるなァ」
馨はそれには答えず、空になった風呂敷を畳む。
「では、失礼します。皆さん、ほどほどにしてくださいね」
馨の穏やかな言葉に
体の一部を掴み合いながら平子とひよ里はこちらに視線を向けた。
「無理や!!」
「無理や!!」
声が綺麗に重なった。
馨は思わずまた笑ってしまう。
そして騒がしい十二番隊を後にする。
「……ふー……」
その背を見送りながら。
浦原喜助は、
細く目を眇めた。
「……やっぱり、
妙な霊圧してるっスねぇ」
┈┈┈┈
十二番隊に顔を出す回数が増えるにつれて。
無類井馨は、少しずつその騒がしい面々とも言葉を交わすようになっていた。
最初はただの"十三番隊の静かな隊士"
そう思われていた彼女は、いつの間にか自然と、技術開発局の空気の中に溶け込み始めていた。
――もっとも。
静かなのは本人だけで、
周囲は相変わらず騒がしかったが。
┈┈┈┈
ある日の夕暮れ。
技術開発局へ向かう渡り廊下の途中で、馨はふと足を止めた。
どこからか、柔らかな旋律が聞こえてくる。
風に溶けるような音色。
視線を向けると、中庭の縁側に腰掛けたローズこと、鳳橋楼十郎が静かに楽器を奏でていた。
夕陽が金色の髪に落ちている。
その姿は、死神というより舞台役者のようだった。
演奏が終わると、ローズは気配に気づいたように視線を向ける。
「おや」
「……すみません。聞き入ってしまって」
「それは光栄だね」
ローズは微笑み、楽器を膝へ置いた。
「君は確か……十三番隊の」
「無類井馨です」
「知ってるよ。最近よく噂を聞く」
「噂?」
「綺麗で強くて、しかも鬼道の天才だって」
馨は小さく眉を下げた。
「そういうの、あまり好きではないんです」
「ふふ。控えめなんだね」
ローズは楽しそうに笑う。
「でも、君は少し音楽に似てる」
「音楽?」
「静かなのに、妙に人を惹きつける」
その言葉に、馨は少しだけ困ったように目を逸らした。
ローズはそんな反応すら面白そうに眺めながら、再びゆっくり楽器へ口をつける。
夕暮れの十二番隊に、
柔らかな旋律がまた流れ始めた。
┈┈┈
別の日。
馨が書類を片手に開発局に訪れた時。
廊下の奥から、盛大な破壊音が響いた。
「"だからガキは嫌いなんだよ!!"」
「"うるさいハゲーーー!!"」
「誰がハゲだ!!」
壁が吹き飛ぶ。
隊士たちが慣れた様子で避難する中、馨はため息混じりに現場へ向かった。
そこでは九番隊隊長 六車拳西と副隊長の久南白が本気で取っ組み合いをしていた。
「何をしてるんですか……」
馨が呆れたように声をかけると、白がぱっと顔を輝かせる。
「あっ、かおるん!!」
「…か、…かおるん?」
「馨だからかおるん!!」
勝手に決められていた。
白はそのまま馨の背後へ逃げ込む。
「聞いてよ かおるーん!けんせいがいじめてくるーー!!」
「お前が先に蹴ったんだろうが!!」
「だってノリ悪いんだもん!」
「ガキか!!」
拳西が額に青筋を浮かべる。
馨はそんな二人を見比べ、静かに口を開いた。
「……廊下、壊れてます」
「あ」
白が固まる。
「修繕報告、どちらの名前で出します?」
「けんせい!!」
「お前なァ!!」
再び始まりかけた喧嘩を見ながら、馨はとうとう小さく吹き出してしまった。
その笑い声に、拳西は少しだけ毒気を抜かれたように頭を掻く。
「ったく……お前も変な連中に懐かれてんな」
「そうかもしれません」
でもその声は、
少しだけ楽しそうだった。
┈┈┈
瀞霊廷中央書庫。
紙の匂いが静かに漂う空間で。
棚の奥から、馨はふと顔を上げた。
「……あ」
「ん?」
脚立に腰掛けながら本を読んでいた八番隊副隊長の矢胴丸リサが気だるげに視線を向ける。
「なんや、馨か」
「リサさんも来ていたんですね」
「まぁな」
リサはぱたん、と本を閉じた。
「((……官能小説?ていうかなぜこの場所にそのような本が……))」
表紙には随分と刺激の強い題名が書かれていたが、馨は触れないでおく。
「この前は悪かったな」
「?」
「うちの隊長。また酒飲んで騒いだんやろ?」
京楽のことだった。
馨は思わず苦笑する。
「はい。追いかけ回されました。」
「今度きつく言うとくわ」
「たぶん聞かないと思います」
「せやろなぁ」
二人の間に、静かな笑いが落ちる。
リサはそんな馨を見ながら、少しだけ目を細めた。
「んーーー」
「?」
馨の顔をじっと見つめ、微かに笑う。
「よう笑うようになったなあ。」
「え?」
「最初の頃、ずっと壁作っとったやろ。ウチに対して。」
馨は言葉に詰まる。
図星だった。
「まぁ、今後もよろしゅうな。」
リサは再び本を開きながら、ぽつりとそう呟いた。
┈┈┈
そしてまた別の日。
「だからなんでそうなるんスか!!」
「知らんわアホ!!」
今日も十二番隊は平和だった。
浦原とひよ里の怒鳴り合いを横目に、馨は静かに廊下を歩く。
「あのー!頼まれてた書類ここに置いておきますねー!」
「ひよ里サン、またこれが必要なので用意をお願いします。」
「殺すぞお前!ウチはやらんからな!」
「……あのー……聞こえてないか。」
そのまま静かに帰ろうとした時。
柱にもたれかかるように、ひらひら手を振る人物がいた。
平子真子。
「おっ、馨ちゃん」
「平子隊長」
「最近調子良さそうやなぁ」
平子はにやりと笑う。
「やっぱ彼氏の存在やろな〜」
「違います」
「え〜?この前も見たでえ?任務帰りに二人で仲良く甘味処おったところ。」
「…………」
「あーんしよったやろ!惣右介とバッチリ目撃しとるで!」
「……最悪です」
即答だった。
平子はケラケラ笑う。
そしてふと、何気ない調子のまま口にする。
尚、傍らでは相変わらず二人が騒ぎ散らしていた。
「なあ馨ちゃん。…最近、惣右介と会っとる?」
その名前に、馨は少しだけ瞬きをした。
「藍染副隊長ですか?」
「そそ」
「最近だと席官での集まりにいらっしゃった時に…」
「あいつ。席官だけの会にも顔出しよるんかい。」
「はい?」
「ふぅん……」
平子の笑みは変わらない。
けれど。
その奥の目だけが、ほんの少しだけ鋭くなった気がした。
「どうや?アイツは相変わらず優等生?」
「はい。とても穏やかな方かと。」
「やろなぁ」
平子は空を見上げる。
「穏やかすぎるくらいや」
その呟きは、妙に静かだった。
遠くではまだ、ひよ里の怒鳴り声が響いている。
「……」
けれどその瞬間だけ。
馨はなぜか、胸の奥に小さな違和感を覚えていた。
「今更やけど、馨ちゃんって惣右介と付き合い長いよな?」
馨は少し考えるように視線を上げた。
「……そうですね」
「きっかけはなんなん?」
その問いに、馨は少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「……一番最初は」
静かな声。
「私が十三番隊に着任した日です」
静寂な空間の2人とは真逆で、ひよ里が浦原に怒鳴っている。
その騒がしさから少し離れた場所で、馨はぽつりぽつりと話し始めた。
「調べ物をしたくて、一番隊の書庫へ行ったんです」
「へぇ」
「その時、探していた本が見つからなくて……」
少しだけ困ったように笑う。
「そこで、藍染副隊長にお会いしました」
平子の表情は変わらない。
けれど視線だけが、静かに馨へ向けられている。
「"何をお探しですか?"って、声をかけてくださって」
「……」
「それで、一緒に本を探してくださったんです」
その時のことを思い出しているのか、馨の声は少し柔らかかった。
「そこから、顔を合わせる度に気にかけてくださるようになって」
「ふぅん」
「私は……霊術院の頃から、あまり友人がいなくて」
その言葉は、随分と静かだった。
「だからきっと、そういう空気に気づいてくださっていたのかなって」
馨はどこか照れたように笑う。
「優しい方ですから」
その言葉を聞きながら、
平子はしばらく何も言わなかった。
ただ静かに、
遠くを眺めるような目をする。
それから。
「……そうかぁ」
いつもの軽い声。
けれど。
その奥には、妙に曖昧な響きが混ざっていた。
馨は首を傾げる。
「平子隊長?」
「んー?」
「どうかしましたか?」
平子は少しだけ笑って。
何気ない調子のまま口を開く。
「……惣右介には、気ぃつけや」
その瞬間、馨は僅かに目を瞬かせた。
「え?」
「いや、あいつ優秀やし、ええ奴やとは思うで?」
平子は肩を竦める。
「せやけど……たまーに、
何考えとるかわからん時あるんよなぁ」
軽口のような言い方。
いつもの、掴みどころのない隊長の口調。
けれど、その目だけは笑っていなかった。
馨は小さく沈黙する。
そして。
「……変なことを言うんですね」
そう返して、少しだけ困ったように笑った。
平子はその反応を見て、小さく息を吐く。
「ま、忘れてええよ」
「……」
遠くではまた、ひよ里の怒声と浦原の悲鳴が響いている。
平穏な、いつもの瀞霊廷。
なのに平子だけが――
まるで、何かが静かに狂い始めていることに、薄く気づいているようだった。
┈┈
それからというもの。
十二番隊へ顔を出す度に、浦原喜助 の誘いは続いた。
「今度ほんとに来てくださいよ〜」
「鬼道衆との研究会、絶対楽しいっスから」
「無類井サンの意見も聞きたいんスよねぇ」
最初は適当に流していた馨も、さすがに断り続けるのが難しくなってくる。
しかも。
"次は来ますよね?"
と聞いてくる時だけ、妙に目が本気だった。
――そして。
ある日の夕刻。
馨はとうとう折れた。
「……少しだけですよ」
その一言に、浦原は子供のように顔を輝かせた。
「やった!!」
「うるさいですよ?浦原殿。」
背後から冷静な声が飛ぶ。
振り返ると、そこには鬼道衆の総帥、握菱鉄裁が立っていた。
大柄な体。
厳格そうな空気。
だがその眼差しは穏やかだった。
「本日はお越しいただきありがとうございます。無類井殿」
「いえ……こちらこそ突然お邪魔してしまって」
「いや〜、実際かなり楽しみにしてたんスよ皆」
浦原がへらへら笑う。
その横では、静かに頭を下げる男の姿。
鬼道衆副鬼道長、有昭田鉢玄 。
「はじめまして。私は有昭田鉢玄です」
「無類井馨です」
「貴方のお話は以前から――」
まだ出会って数分すら経っていないのにも関わらず、鉢玄の話は止まらない。
見かねた浦原が馨に近づくと、耳元でわざとらしくコソッと口を開いた。
「ハッチは鬼道オタクなんスよ」
「浦原さん」
即座に低い声が返る。
馨は思わず小さく笑ってしまった。
十二番隊の騒がしさとは違う。
ここには、鬼道を極めた者たち独特の静かな熱があった。
部屋の奥には、
複雑な術式が描かれた紙。
霊子構造の図。
見たこともない術式記録。
空気そのものが、
普通の隊舎とは違う。
「……すごいですね」
馨がぽつりと漏らすと、
鉄裁は少しだけ表情を和らげた。
「鬼道は奥深い。だからこそ、探求し続ける価値があります」
その言葉には、深い誇りが滲んでいた。
そして鉄裁は改めて、丁寧に頭を下げる。
「本来なら、浮竹隊長と志波副隊長にも正式に許可を頂きに伺うべきでした」
「すみませんねぇ、半分強引に連れてきちゃって」
浦原が笑いながら言う。
しかし、馨は首を横に振った。
「大丈夫です」
「?」
「もうお二人には伝えてあります」
「えっ、早」
「そもそも、"行ってこい"と言ったのはあの二人ですから」
その瞬間。
浦原が吹き出す。
「ははっ!!十三番隊らしいっスねぇ」
鉄裁も僅かに目を丸くした。
「……なるほど」
馨は苦笑混じりに続ける。
「浮竹隊長は"たまには十三番隊以外とも交流しなさい"って」
「志波副隊長は?」
「"せっかくだし遊んでこい!"と」
「完全に保護者っスね」
「否定できません」
その言葉に、場の空気が少し和らぐ。
その時。
静かだった鉢玄が、少しだけ真剣な目で馨を見る。
「早速ですが無類井さんの鬼道、ぜひ一度見てみたいです」
その瞬間。
浦原の目も、
鉄裁の目も、
僅かに鋭くなる。
興味。
探究。
鬼道を極める者特有の、
純粋な知的好奇心。
馨はそんな視線を受けながら、
少し困ったように微笑んだ。
「……期待されるほどではありませんよ」
だが、浦原だけは、その言葉を聞きながら静かに思う。
「((……"嘘っスね"))」
この人は、まだ何かを隠している。
鬼道を極める者ほど、
"隠している人間の空気"がわかる。
特に。
目の前の女は、
静かすぎた。
実力を誇示する者特有の気配がない。
だからこそ逆に、底が見えない。
「……」
部屋に僅かな沈黙が落ちる。
その空気を破ったのは、浦原だった。
「じゃあ」
両手をぱちん、と叩く。
「せっかくなんで一個だけ見せてもらえません?」
「見せる?」
「はい。鬼道」
浦原は楽しそうに笑う。
「なんでもいいっスよ?無類井サンの得意なやつ」
鉄裁は腕を組んだまま静かに様子を見ている。
鉢玄も息を呑むように馨を見つめた。
馨は少し考え込み。
それから。
「……では」
静かに一歩前へ出た。
「いきます」
空気が変わる。
それまで穏やかだった霊圧が、
ゆっくりと研ぎ澄まされていく。
浦原の笑みが僅かに止まった。
鉄裁の眉が動く。
鉢玄は無意識に背筋を伸ばしていた。
馨は右手を静かに前へ出す。
そして、淡々と。
まるで息をするように、詠唱を始めた。
「"千手の涯、
届かざる闇の御手――"」
空気が震える。
部屋の灯りが僅かに揺らいだ。
「"映らざる天の射手――"」
霊子が集束する。
それは明らかに、
通常の鬼道とは密度が違った。
鉄裁の表情が変わる。
「……まさか」
鉢玄が小さく呟く。
「この霊圧……」
浦原だけが、静かに目を細めていた。
馨の詠唱は止まらない。
「"光を落とす道、
火種を抱く風――"」
術式が、
空間そのものへ描かれていく。
床。
壁。
天井。
見えない文字列のような霊子構築。
異常な速度。
異常な精度。
そして。
「"破道の九十―"―」
その瞬間。
空気が凍った。
鉢玄が目を見開く。
鉄裁が思わず一歩前へ出る。
浦原の笑みが、完全に消えた。
「""黒棺""」
――轟。
詠唱が完成した瞬間。
部屋の中央に、漆黒の霊圧が静かに発生する。
巨大な黒い立方。
だが。
馨は完全詠唱を行ったにも関わらず、威力を極限まで制御していた。
空間破壊を起こさず。
建物も壊さず。
ただ、術式だけを成立させている。
それがどれほど異常か。
鬼道を知る者ほど理解できた。
漆黒の棺が、静かに霧散していく。
そして馨は、何事もなかったかのように振り返る。
「……こんな感じでいいですか?」
沈黙。
完全な沈黙だった。
最初に口を開いたのは鉢玄だった。
「きゅ、九十番台を……こんな……」
「しかも、空間破壊無しっスからね。」
声が震えている。
鉄裁ですら、珍しく言葉を失っていた。
浦原喜助は。
しばらく馨を見つめたあと、ゆっくりと笑った。
だがその目は、今までで一番鋭かった。
「……いやぁ」
静かな声。
「やっぱり、貴方とんでもないっスねぇ」
部屋の中央には、
未だ重たい霊圧の余韻が残っていた。
九十番台鬼道。
しかも完全詠唱。
本来なら建物ごと吹き飛んでもおかしくない術を、目の前の女は呼吸一つ乱さず制御してみせた。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
馨だけが、不思議そうに三人を見回している。
「……?」
その顔は本当に、
"何かおかしなことをした"という自覚がない顔だった。
「昔から鬼道は得意なんです」
さらり。
あまりにも自然な言い方だった。
鉄裁の眉がぴくりと動く。
「……"得意"で済む話ではありません」
握菱鉄裁 の低い声が静かに響く。
馨はきょとんと瞬きをした。
「そうでしょうか?」
「そうっス」
浦原が即答する。
「今の、普通の死神なら隊舎半壊しててもおかしくないんスよ?」
「でも壊れてませんよ?」
「そこが怖いんス!!」
浦原が珍しく声を張った。
鉢玄が思わず頷く。
「制御が異常なんです……」
馨は少しだけ考えるように視線を泳がせ、それからぽつりと続けた。
「"十三番隊では、もっと気軽に使ってますし"」
嫌な予感がした。浦原の笑顔が引きつる。
「……ちなみに、どういう時に?」
「軽い破道なら、よく志波副隊長を吹き飛ばしてます」
数秒。
誰も理解が追いつかなかった。
「……はい?」
浦原が間の抜けた声を出す。
馨は悪びれる様子もなく続けた。
「お酒を持ったまま飛び込んできたりするので」
その光景がありありと想像できた。
「何番っスか」
「三十一です」
「軽くない!!」
ばん、と浦原が机を叩く。
鉢玄が肩を跳ねさせた。
鉄裁は深々とため息をつく。
「それを志波副隊長へ?」
「はい」
「……生存していたのですか」
「壁にはめり込んでましたけど」
「十分重傷っスよ!?」
馨は本気で不思議そうだった。
「でも、そのあと普通に飲みに行ってました」
「志波副隊長が異常なんス!!」
浦原が頭を抱える。
その横で鉢玄は完全に引いていた。
「十三番隊ってそんな隊なんですか……」
「普段は平和ですよ?」
「どこが!?」
ついに鉄裁まで突っ込んだ。
部屋に笑いが広がる。
馨も小さく吹き出した。
肩を震わせるほどではない、
静かな笑い。
けれど最初に会った頃と比べれば、
随分と表情が柔らかくなっていた。
浦原はそんな馨を見ながら、
ふと笑みを薄める。
笑っている。
穏やかだ。
けれど。
この人はどこか、根本的に"違う"。
鬼道を扱った瞬間に見えた霊圧。
あれは、普通の死神の構造ではなかった。
浦原は視線を細める。
「……無類井サン」
「はい?」
さっきまでの軽い調子とは違う声色だった。
空気が僅かに変わる。
鉢玄も鉄裁も、自然と口を閉ざした。
浦原はゆっくりと言葉を選ぶ。
「前から思ってたんスけど」
一拍。
「貴方の霊圧、かなり特殊っスよね」
馨の睫毛が、僅かに揺れる。
ほんの小さな変化。
けれど浦原は見逃さなかった。
「特殊……ですか?」
「ええ」
浦原は静かに続ける。
「死神の霊圧なんスけど、妙に"揺らぎ"がある」
その言葉に、鉄裁も静かに目を細めた。
浦原はさらに言う。
「鬼道を発動した瞬間、霊子構造が一瞬変化してるんスよ」
部屋が静まる。
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
「普通の斬魄刀とも違う。虚化とも違う。でも、何か別の"変質"が起きてる」
浦原の目が、研究者のそれへ変わっていく。
「……"貴方の斬魄刀と、関係あるんじゃないっスか?"」
沈黙。
馨はしばらく何も言わなかった。
視線だけが静かに伏せられる。
その横顔は相変わらず穏やかなのに、どこかだけ輪郭が曖昧になるような感覚があった。
┈┈┈
鬼道衆との顔合わせを終えた頃には、瀞霊廷の空はすっかり夜の色へ変わっていた。
高い塀の向こうに浮かぶ月は白く、静かな石畳を淡く照らしている。
夜風が吹くたび、隊舎の庭木がさらりと揺れた。
その帰り道。
並んで歩く浦原喜助と無類井馨。
昼間の賑やかさが嘘のように、
夜の瀞霊廷は静かだった。
「――改めて、今日はありがとうございました」
不意に、浦原がそう口を開く。
「鬼道衆の皆さんにも、ずいぶん助けていただいちゃってて。今回のこの場は鬼道衆の方々も切望されていた場なので……ご協力いただけて感謝してます。」
飄々とした口調のまま、けれどその声色には珍しく本音が混じっていた。
「十三番隊の皆さんにも、よろしくお伝えください。差し入れなんかも、いつもありがとうございます」
「あれは隊長たちが勝手にやってるだけです」
「いやぁ、ああいうの嬉しいんスよ?研究続きだと甘味って命ですから」
「この前、隊舎のお菓子を勝手に全部食べたって聞きましたけど」
「誤解ッス」
「涅さんの方が怒鳴り込んできたらしいですよ」
「……記憶にございません。てか涅サンと話すんスね?」
「はい。ここ一週間ほどですが。」
そんな何気ない会話のあと。
浦原はふと、横を歩く馨へ視線を向けた。
月明かりに照らされた横顔は静かで、感情を読み取りづらい。
だからこそ、余計に興味を惹かれる。
「"ところで"」
来た。
そんな顔で、
馨の歩幅がほんの少しだけ速くなる。
「無類井さんの斬魄刀について――」
「嫌です」
「まだ最後まで言ってない!!」
浦原は思わず声を上げる。
「いやぁでも気になるじゃないですかァ。始解不明、能力不明、霊圧構造も特殊。」
「だから嫌なんです」
「ちょっとだけ!名前だけでも!」
「無名です」
「それ通称ですよね?」
「正式名称です」
「絶対違うでしょ!?」
馨は完全に聞き流しながら歩き続ける。
その背中を、浦原は諦め悪く追いかけた。
「教えてくださいよォ〜」
「嫌です」
「隊長命令」
「十三番隊所属なので無効です」
「強い」
その後。
「ちなみに斬魄刀ってどこまで変化するタイプで――」
「言いません」
「霊圧同調型?」
「言いません」
「特殊系?」
「言いません」
「怖……」
馨はぴたりと足を止める。
「浦原隊長」
「はい?」
「……その探り方、尋問みたいです」
「あっ、職業病ッス」
悪びれもなく返され、馨はじとっとした目を向けた。
「技術者としては、知的好奇心が爆発寸前なんスよ」
馨は小さく息をついた。
そして真っ直ぐと浦原に向き直ると真剣な眼差しを向けた。
「総隊長に言われているんです。私の斬魄刀については、
必要以上に口外するなと」
その瞬間。
浦原の表情が、ほんのわずかに変わった。
軽薄そうな笑みの奥、観察者の目になる。
「……へえ」
総隊長だけが知っている。
その事実の重さを、浦原は一瞬で理解した。
護廷十三隊総隊長、山本元柳斎重國。
その男が、わざわざ秘匿を命じる斬魄刀。
しかも、この少女自身も話したがらない。
「……あまり、私は自分の斬魄刀について話したくないんです」
夜道の中、馨は静かにそう言った。
その声は、珍しく少しだけ硬かった。
浦原は数秒黙り込む。
「……なるほど」
それ以上は聞かなかった。
「じゃ、今日はここまでにしときます」
「助かります」
「でも諦めたわけじゃないッスからね?」
「諦めてください」
「えぇ〜……」
そんな軽いやり取りを最後に、
その日の会話は終わった。
――だが。
浦原喜助は、
諦める男ではなかった。
┈┈┈
翌日。
十三番隊隊舎へ向かう途中。
「無類井さーん!!」
木陰から、
ぬるりと現れる浦原。
「っ!?」
馨がびくりと肩を揺らす。
「おはようございます!ところで斬魄刀について――」
「嫌です」
「即答二日目!」
┈┈┈
さらに別の日。
人気の甘味処。
静かに団子を食べていた馨の前へ、偶然を装って座る浦原。
「いやぁ〜奇遇ですねえ?」
「……」
「こんなところで会うなんて運命――」
「尾行ですよね?」
「人聞き悪いなァ」
浦原はにこにこしたまま、湯のみを持ち上げる。
「ところで斬魄刀――」
「帰ります」
「団子まだ二本残ってますよ!?」
┈┈┈
さらにその翌日。
書類を届けに来た浦原は、隊舎の廊下で満面の笑み。
「今日こそ教えていただきたい!」
「嫌です」
「まだ何も聞いてない!!」
近くを通った隊士たちが、
思わず吹き出す。
「またやってる……」
「最近の日課だな……」
「浦原隊長、完全に絡みにいってますよね」
馨は額を押さえながら、深いため息をついた。
「……どうしてそこまで知りたいんですか」
すると浦原は、
少しだけ真面目な顔になる。
「知らないものを、放っておけない性分なんですよ」
その目だけは、笑っていなかった。
技術者。
研究者。
そして観察者。
未知を前にした時の、
あの男特有の目だった。
馨はそれを見て、
小さく眉を寄せる。
┈┈┈
それからというもの。
浦原喜助による、いわゆる――
"斬魄刀ストーカー"は、幾度となく続けられた。
「無類井さーん。今日こそ、ちょーっとだけでいいんスよ」
「嫌です」
「始解の名前だけでも」
「嫌です」
「じゃあ鞘の形だけ」
「見えてるでしょう」
「じゃあ触って――」
刹那、馨は構えの姿勢に
「"縛道の一、塞"」
「ちょ、待っ――!」
廊下の真ん中で両腕を後ろに回された浦原が、情けない声を上げる。
「ホンマに懲りんなぁ。いい加減諦めえやハゲ。」
ひよ里含め、十二番隊の隊士たちは、もはや見慣れた光景のようにそれを横目で通り過ぎていく。
「隊長、またですか」
「いやあ、研究者としての純粋な探究心っスよ」
「それを世間では迷惑と言います」
馨はにこりともせずそう言い、淡々と歩き去る。
だが浦原は、そこで諦める男ではなかった。
廊下で見かければ声をかける。
中庭で見かければ遠くから手を振る。
十三番隊の隊舎近くで見つければ、わざとらしく偶然を装って現れる。
終いには馨も、浦原の姿を視界に入れた瞬間――
すっ、と。
得意の瞬歩で姿を消すようになった。
「……あれ?」
浦原はぽつんと廊下に取り残される。
数秒後、曲がり角の向こうから海燕の笑い声が聞こえた。
「おいおい、ついに見ただけで逃げられてんじゃないっすか!」
「志波副隊長、笑いごとじゃないっスよ」
「笑いごとですよ。」
「ひどいなあ」
浦原は困ったように笑う。
けれど、その瞳の奥だけは、どこか笑っていなかった。
┈┈┈┈
そして――とある日。
馨は再び、十二番隊へ差し入れを届けに来ていた。
手には風呂敷。
中身は十三番隊からの菓子と茶葉。
"いつもお世話になっております"と、それを届けるのも、いつしか恒例になっていた。
だが、十二番隊隊舎の奥。
浦原の執務室の前まで来た時だった。
中から、聞き慣れた声がした。
「((……海燕さんの声?))」
馨は足を止める。
少しだけ開いた襖の隙間から、低い声が漏れていた。
「――"貴方が、無類井さんと恋仲であることは知っています"」
浦原の声だった。
いつものふざけた調子ではない。
柔らかいが、どこか鋭い。
まるで、刃を布で包んで差し出すような声。
馨は思わず、風呂敷を持つ手に力を込めた。
「……それで?」
海燕の声もまた、いつもより低かった。
「何が言いたいんですか。浦原隊長」
「彼女の斬魄刀についてです」
その言葉に、馨の呼吸が止まる。
執務室の中で、浦原は静かに続けた。
「あの子の能力は、いい意味でも悪い意味でも危険です」
「危険?」
「ええ。本人の資質も、霊圧も、鬼道の才も。どれも並外れている。けれど一番危ういのは、そこじゃない」
海燕は黙っていた。
浦原の声だけが、静かに落ちる。
「おそらく。あくまでも推測に過ぎませんが……誰かに知られた瞬間、必ず狙われる」
馨の胸が、どくん、と鳴った。
「狙われるって……誰にだよ」
「それは分かりません」
短く、浦原は答えた。
「虚でも、滅却師でもなく。まず先に、同じ死神が狙う可能性もあります。」
「……冗談じゃねえぞ」
海燕の声に、微かに怒気が混じる。
浦原は、そこで少しだけ息を吐いた。
「力は、善意だけで扱われるものじゃありません。特に、彼女のような存在は。」
沈黙。
その沈黙が、ひどく重かった。
馨は動けなかった。
聞いてはいけないと分かっているのに、足が床に縫い止められたようだった。
「実際、ちょっと引っかかることがあるんスよ」
浦原がぽつりと言う。
海燕がすぐに反応した。
「誰だ」
「今はまだ、言えません」
「浦原隊長」
「確証がない」
その声は、軽くなかった。
「だからこそ、今は動けない。ただ――あの子の近くにいる貴方には、知っておいてほしかった」
浦原は、まっすぐ海燕を見ているのだろう。
襖の向こうから、その視線の強さだけが伝わってくる気がした。
「志波副隊長」
「……はい。」
「どうか、よく見てあげてください」
海燕は何も言わなかった。
浦原は続ける。
「あの子は強い。恐ろしいほどに。けれど、強い人間ほど、自分が傷つくことを後回しにする」
馨の指先が、風呂敷の布を強く握りしめる。
「それに、無類井さんは……自分の価値を、少し誤解しているところがある」
「……」
「自分が何かに利用されても、それで誰かを守れるなら構わない。そう思ってしまう危うさがある」
海燕の声が、低く響いた。
「そんなこと、させねえよ」
短い言葉だった。
けれど、その一言には迷いがなかった。
「馨は、誰かの道具じゃねえ」
馨の目が、わずかに揺れる。
「斬魄刀がどうだとか、能力がどうだとか、そんなもん関係ねえ。あいつは馨だ。俺の――」
そこで海燕は一度、言葉を切った。
少しだけ照れたような、けれど逃げない声で言う。
「俺の大事な女だ」
襖の外で、馨の頬が熱くなる。
こんな時なのに。
胸が苦しくなるほど不安なのに。
その言葉だけが、やけに真っ直ぐ胸の奥に落ちた。
浦原は小さく笑った。
「それを聞けて安心しました」
「だったら最初から俺に任せてください」
「はい。だからお願いしてるんスよ」
少しだけ、いつもの浦原の調子が戻る。
けれど次の言葉は、また静かだった。
「きっとこれから、彼女の周りには色んな思惑が集まる。本人が望む望まないに関わらず」
「……ああ」
「その時、隣に立てる人間が必要です」
海燕は迷わず答えた。
「俺が立つ」
その瞬間。
馨は、もうそれ以上聞いていられなかった。
胸の奥が熱くて、痛くて、苦しくて。
けれど逃げ出したいのとは違う。
知らないところで、自分を案じる声がある。
守ろうとしてくれる人がいる。
それが嬉しくて、怖かった。
馨は音を立てないように一歩下がる。
風呂敷だけを部屋の前に置くと、馨は直ぐにその場から立ち去った。
┈┈┈┈┈┈
┈┈
翌日。
瀞霊廷の外れ。
長く使われていない修練場には、夕暮れ前の薄い光が斜めに差し込んでいた。
崩れかけた石壁。
風に揺れる雑草。
乾いた土の匂い。
隊士たちが使う中心区画からも離れているせいか、人の気配はほとんどない。
ここは、多少霊圧を暴れさせた程度では誰も来ない場所だった。
浦原喜助は、そんな修練場の中央にひとり立っていた。木履が砂を軽く踏む。
「いやあ……」
わざとらしく肩を竦める。
「こういう人気のない場所に呼び出されると、普通に怖いんスけど」
返事はない。
けれど次の瞬間。
ざ、と風が揺れた。
霊圧。
いや――違う。
"存在感そのもの"が、突然そこに現れた感覚。
浦原がゆっくり振り返る。
「こんにちは。浦原隊長。」
そこには、馨が立っていた。
死覇装の袖が風に揺れている。
長い髪が静かに流れ、その瞳だけが真っ直ぐ浦原を見ていた。
足音ひとつなかった。
瞬歩。
おそらく、かなり前からこの場にいたのだろう。
浦原は小さく息を吐く。
「……あー、やっぱり怖いっス」
馨は少しだけ首を傾げた。
「何がです?」
「いや、ほら」
浦原は苦笑混じりに言う。
「この感じ。ついに殺されます? 私。」
その瞬間。
馨の口元がほんの僅かに緩んだ。
「……だとしたら?」
「うわ、否定してくれないんスね…」
「逃げます?」
「逃げたら追ってくるでしょう?」
「もちろん」
さらりと返される。
浦原は肩を落とした。
「怖いなあ……」
軽口。
けれど、その空気はどこかぎこちなかった。
いつものような、追いかけ回して逃げられて終わるやり取りではない。
お互い分かっていた。
今日は、踏み込む日なのだと。
風が吹き抜ける。
修練場の端に積まれた古い木刀が、かた、と小さく鳴った。
その静寂の中で、馨はゆっくりと口を開く。
「……斬魄刀について」
声は静かだった。
けれど妙に響いた。
「知りたいんですよね?」
浦原の目が細まる。
その瞬間だけ、研究者の顔になる。
軽薄さも、飄々とした笑みも消えた。
「ええ」
短い返答。
馨は少し視線を伏せた。
「……わかりました。」
その言葉が落ちた瞬間だった。
""――ザッ!!""
床を踏み込む音。
次の瞬間。
馨の姿が消えた。
「っ――!?」
浦原の目が見開かれる。
速い。
反応より先に、
本能が危険を察知した。
夜風を裂くように、
白い影が一直線に迫る。
そして。
""キィン――ッ!!""
鋭い金属音。
火花が散る。
反射的に抜き放たれた浦原の斬魄刀と、馨の刀身が真正面からぶつかり合っていた。
衝撃で霊圧が揺れる。
浦原の腕に重みが走った。
「((っ!容赦ないっスね……!))」
まるで最初から、抜かせるつもりで斬りかかってきた。
「無茶苦茶するなァ……!!」
浦原が低く呟く。
だが。馨は答えない。
刀身と刀身が噛み合ったまま。
彼女は静かに目を閉じていた。
まるで、何かへ意識を潜らせるように。
「……」
長い睫毛が月明かりに揺れる。
そして。
その口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
――その瞬間。
浦原の瞳が、大きく揺れた。
「……な……」
息が止まる。
霊圧が、変質する。
いや。
"繋がった"
そう錯覚するほど、異様な感覚。
刀を通じて、何かが流れ込んでくる。
構造。
術式。
霊圧の癖。
斬魄刀そのものの――。
「まさか、これ……」
浦原の声が掠れる。
ありえない。そんなこと。
理論上存在しない。
死神の力は、魂と刀の結晶だ。
他者が触れて理解できるような、
そんな浅いものじゃない。
なのに。
――この女は、
"読んだ"
浦原喜助の背筋を、初めて冷たいものが走った。
自分の目の前で起こっている現実に、馨の本当の姿に。
恐怖さえおぼえた。
「……」
馨はゆっくり目を開ける。
その瞳は静かだった。
ただ静かに。
彼を見ていた。
「……うん。」
ぽつりと、小さな声。
その声だけで、浦原は理解してしまう。
この女は今、自分の斬魄刀を理解した。
能力を。
構造を。
本質を。
ありえない。
「――っ!!」
刀身が離れる。
静かな音と共に、
夜の空気が戻ってくる。
馨は何事もなかったかのように、
静かに刀を納めた。
「……失礼しました。いきなり抜刀したこと、お許しください。」
「……いえ、問題ないっス。」
浦原は動けない。
ただ、目の前の女を見る。
初めて。
心の底から、理解不能なものを見た顔だった。
馨は少しだけ困ったように笑う。
「――だから、あまり人には話したくないんです」
その言葉すら、浦原の耳には遠かった。
月明かりの下。
浦原喜助は、
初めて確信する。
――この力は、
尸魂界に存在してはいけない。
鯉口に添えられた指先。
かちり、と鳴った小さな音だけで、修練場の空気が張り詰める。
夕風が止まった。
草木すら息を潜めたような静寂。
浦原は、じっと馨を見つめていた。
その細められた瞳の奥では、無数の思考が巡っている。
もし本当に、自分の推測通りの能力なら。
護廷十三隊だけでは済まない。
中央四十六室。
貴族。
技術開発局。
いや――もっと深い場所にいる何かまで。
必ず、この力を欲する。
あるいは恐れる。
そのどちらかになる。
浦原はゆっくり口を開いた。
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
馨は答えず、静かに彼を見る。
「なぜ、私に教えるんスか」
低い声だった。冗談はない。
研究者としてでもなく、隊長としてでもない。
純粋な疑問。
「貴女は、この力をずっと隠してきた。人に知られれば危険だって、自分でも理解してる」
夕暮れの赤が、浦原の白い隊長羽織を薄く染めていた。
「なのに、どうして今になって」
「…………」
沈黙する馨。
風が吹く。
馨の髪が、静かに揺れた。
その横顔は不思議なほど穏やかだった。
そして少し考えた後、馨はそっと口を開く。
「……昨日」
ぽつり、と。
「"聞いてしまったからです"」
浦原の目がわずかに細まる。
「"浦原隊長と海燕さんの話"」
「……やはり貴方でしたか。差し入れが置いてあったのでまさかと思いましたが。」
「はい。……聞くつもりじゃなかったんです。本当に」
馨は少しだけ困ったように笑う。
「でも、聞いてしまった」
その笑みは弱かった。
まるで、自分でもどうしたらいいのか分からないような顔。
「隊長、怖がってたでしょう」
「……」
「私の力を」
浦原は否定しなかった。
できなかった。
それが誠実だと思ったから。
馨はその沈黙を見て、小さく頷く。
「でも同時に」
彼女はゆっくり顔を上げた。
まっすぐ浦原を見る。
「助けようとしてくれてた」
その瞬間。
浦原の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
「私は、自分の力が好きじゃありません」
静かな声。
「何度も思いました。こんなもの、無ければよかったって」
風が吹く。
遠くで木々がざわめいた。
「自分の刀なのに、"自分だけのものじゃない"みたいで」
その言葉は、想像以上に重かった。
浦原は初めて理解する。
この子は、"力を持っている側"なのに。
ずっと、"奪われる側"の恐怖の中にいたのだ。
「だから、怖かったんです」
馨の指先が、柄を少し強く握る。
「知られたら、きっと皆変わるって」
利用されるかもしれない。
あるいは。
恐れられるかもしれない。
浦原は何も言わなかった。
今ここで軽々しく慰めるのは、違う気がした。
その代わり。
ただ静かに、彼女の言葉を受け止める。
馨はそんな浦原を見つめたあと、ふっと、小さく笑った。
本当に微かに。
「……でも」
夕日が瞳に映る。
「浦原隊長は違う気がした」
浦原の呼吸が、わずかに止まる。
「…無類井さん」
「"あなたを信じます"」
その言葉はあまりにも真っ直ぐだった。
飾りも、迷いもない。
だからこそ重い。
浦原は思わず目を見開く。
馨は静かに続けた。
「もし、私に何かあったら」
風が吹き抜ける。
死覇装の袖が揺れる。
「貴方はきっと、助けてくれる」
「……」
「それを、信じて」
その瞬間。
浦原は、何も言えなかった。
技術開発局局長。
十二番隊隊長。
合理を知り尽くした男。
危険なものを危険だと判断できる男。
そんな彼に向かって。
この少女は、自分の最も深い秘密を差し出した。
信じる、という言葉だけで。
浦原はゆっくりと目を伏せる。
その口元から、いつもの軽薄な笑みは消えていた。
「……困ったなあ」
ぽつり、と呟く。
「そんな顔で言われると、断れないじゃないですか」
馨は少しだけ目を丸くする。
浦原は小さく息を吐いた。
そして。
研究者ではなく。
隊長でもなく。
ひとりの大人として、静かに言う。
「ええ。助けますよ」
その声は驚くほど穏やかだった。
「"何があっても"」
夕風が、二人の間を吹き抜ける。
その瞬間だけ。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ柔らいだ気がした。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈
音も無く、崩れる――
┈┈ ┈┈ ┈
┈┈┈ ┈ ┈┈
┈ ┈┈ ┈┈ ┈ ┈┈ ┈┈
まだ朝靄の残る瀞霊廷だった。
東の空が白み始めたばかりの時間。
静かな石畳を、無類井馨は足早に進んでいく。
肩にかかる髪を軽く払い、白い息をひとつ。
いつものように早めに隊舎へ向かう――ただそれだけの朝だった。
だが。
十三番隊隊舎へ辿り着いた瞬間、
その空気が明らかに異様であることに気づく。
隊士たちがざわついていた。
誰もが落ち着かず、視線を泳がせ、小声で何かを囁き合っている。
「……?」
馨が眉を寄せる。
その時だった。
「無類井三席!!」
聞き慣れた声。
振り向けば、清音がほとんど駆けるような勢いでこちらへ来る。
顔色が悪い。
その後ろには、浮竹十四郎の姿もあった。
「おはようございます。何かあったんですか……」
だが――
いつもの穏やかな表情ではない。
「隊長……?」
馨が小さく目を見開く。
浮竹は数秒、どう言葉を選ぶべきか迷うように沈黙した。
「……大変なことが起きた」
低く、静かな声だった。
朝の冷えた空気が、さらに冷たくなる。
「昨夜、複数の死神が消息を絶った」
「え……」
「九番隊隊長、六車拳西。副隊長の久南白。鬼道衆からは握菱鉄裁、副鬼道長の有昭田鉢玄――」
そこまで聞いた瞬間、馨の表情が変わる。
六車、白
どちらもよく知る人物。
鬼道衆。
あの日、顔を合わせたばかりの面々。
鉄裁の穏やかな眼差し。
鉢玄の静かな物腰。
脳裏に過る。
「それだけじゃありません……!」
清音が震える声で続けた。
「八番隊の矢胴丸リサさん、三番隊の愛川羅武さん、
七番隊の鳳橋楼十郎さん、そして――」
一瞬、言葉が詰まる。
まるで、その名を口にすること自体が恐ろしいように。
「平子隊長も…猿柿副隊長まで……」
馨の瞳が揺れた。
平子真子。猿柿ひよ里。
そして。
「全員、"虚化"したと……中央四十六室は発表しています」
清音の言葉に、周囲の空気がざわめく。
""虚化""
死神が虚になるなど、
聞いたこともない。
あり得ない。
だが。
「……浦原さんは」
馨が静かに口を開いた。
その瞬間、
浮竹と清音の空気が変わる。
嫌な沈黙。
まるで、
その続きを言いたくないとでもいうように。
「……浦原隊長も拘束された」
世界が止まった気がした。
「拘束?」
「ああ。中央四十六室は、浦原隊長とその関係者を禁忌研究および隊長格失踪の重罪で拘束――」
言葉が詰まる。
「……いや、既に尸魂界追放が決定したと」
「"有り得ません!"」
馨は即答した。
迷いなど一切無い。
「浦原隊長が……そんなこと、有り得ない!!」
張り裂けるような声が隊舎へ響いた。
周囲の隊士たちが一斉に振り向く。
馨は浮竹へ詰め寄っていた。
「浦原隊長がそんなことをするはずがない!!」
その瞳は激しく揺れていた。
怒り。
混乱。
焦燥。
そして何より――恐怖。
「隊長!!中央四十六室に申し伝えを!!」
「馨、落ち着きなさい――」
「落ち着いてなどいられません!」
珍しかった。
いつも冷静な彼女が、
ここまで感情を露わにするのは。
「私は知っています!!あの人は……!」
言葉が詰まる。
脳裏に浮かぶのは、
月明かりの修練場。
『あなたを信じます』
そう告げた自分。
あの時の、
少し驚いたような浦原の顔。
「浦原隊長は……そんなことをする人じゃない……!」
声が震える。
浮竹は困ったように眉を下げた。
「馨……中央四十六室の決定は、私一人では覆せない」
「ならば!!」
馨はさらに一歩踏み込む。
「どうか私に権限を!!直接、四十六室へ――」
浮竹は苦しそうに表情を歪める。懇願する馨を前に誰もが戸惑っていたその時――
「"駄目だ"」
低い声が割って入った。
その瞬間。
馨の腕が後ろから掴まれる。
「……副隊長」
振り返れば、志波海燕が険しい顔で立っていた。
いつもの明るさは無い。
鋭い眼差しで、馨を見つめている。
「離してください……!」
「無理だ」
即答だった。
「今のお前を四十六室なんかに行かせられるか」
「でも――!」
「馨!!」
海燕の声が強く響く。
「ッ!」
その一喝に、馨の肩が僅かに震えた。
海燕は苦しそうに眉を寄せる。
「お前が浦原隊長を信じてるのは分かる」
「だったら……!」
「分かってるから止めてんだよ」
静かな声だった。
だが、その奥には必死さが滲んでいた。
「今のお前、完全に冷静じゃねえ」
「……っ」
「中央四十六室はもう動いてる。そんなところに単独で乗り込めば、お前まで危険視される」
その言葉に、馨の表情が強張る。
だが。
「それでも……!」
馨は唇を噛む。
「浦原さんは………」
漏れたその言葉に、
海燕の目がわずかに揺れる。
浮竹も静かに視線を落とした。
馨自身、口にしてから気づく。
――信じていた。
あの人は自分のことを分かってくれている理解者でもある。
だからこそ。
自分が、あの人を助けなければならないと。
だが海燕は、掴んだ腕を離さなかった。
「……今は駄目だ」
低く、必死に言い聞かせるように。
「頼むから、今は堪えろ」
その頃にはもう、瀞霊廷の空気そのものが変わり始めていた。
まるで。
長い悪夢の始まりを告げるように。
馨の脳裏に浮かぶのは、あの夜の修練場。
『あなたを信じます』
そう言った自分。
そして。
『私の身に何かあったら、あなたはきっと助けてくれる』
そう信じられた男。
あの人が、こんなことをするはずがない。
「……馨」
浮竹が静かに名を呼ぶ。
「今はまだ情報が錯綜している。下手に動くな」
だが。
馨の中で、
何かが嫌な音を立てていた。
まるで。
運命が、
静かに軋み始めるような。
そしてその瞬間。
遠くから、瀞霊廷全域へ響く警鐘が鳴り渡った。
ゴォン――……
重く。
不吉に。
まるで、尸魂界そのものが悲鳴を上げるように。
┈┈ ┈┈┈ ┈┈ ┈ ┈┈┈┈ ┈┈┈┈
┈ ┈┈┈┈ ┈┈┈ ┈┈┈ ┈┈┈┈
――その姿を。
少し離れた高台から、
一人の男が見下ろしていた。
風になびく死覇装。
整えられた茶髪。
眼鏡の奥の穏やかな瞳。
""藍染惣右介""
藍染は騒がしい瀞霊廷を静かに見渡しながら、その中心に立つ馨へ視線を向けていた。
混乱に陥る死神たち。
しかし、藍染だけは、あまりにも静かだった。
その口元が、ゆっくりと緩む。
微笑。
いつもの、柔和で穏やかな笑み。
けれど。
その瞳には、欠片ほどの温度もなかった。
「……美しい?」
誰へ向けた言葉でもなく、
ぽつりと零れる。
平穏が崩れていく音。
積み上げられた日常が、静かに壊れていく瞬間。
人が信じていたものが、形を失っていく瞬間。
藍染は、それを眺めていた。
まるで。
長い時間をかけて作り上げた舞台が、
ようやく幕を開けたかのように。
眼下では、馨が隊士たちの声に振り返る。
不安。
困惑。
理解できないという表情。
その姿を見つめながら、
藍染はゆっくりと目を細めた。
「君はまだ、
何も知らない」
静かな声。
優しい響き。
まるで慈しむような声音だった。
だが。
その実。
彼は今、確かに愉しんでいた。
壊れていく。
信頼が。
日常が。
尸魂界そのものが。
ゆっくりと、音もなく崩れていく。
その渦の中へ、馨が巻き込まれていくことを。
藍染は静かに笑う。
「っ……」
喉の奥で、小さな笑いが漏れた。
それは普段の彼からは想像もできないほど、冷たい笑みだった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈