BLEACH No name   作:鈴夢

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The Man Who Smiled After the Fall

 

 

 

 

 

 

┈┈┈┈┈

 

 

 

崩壊は突然訪れる。

 

だが"支配"は、

静かに始まる。

 

 

 

┈┈┈┈

 

 

 

 

The Man Who Smiled After the Fall

 

 

 

┈┈┈┈

┈┈┈┈┈┈

┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 

 

 

"あの事件"から

瀞霊廷は、長い間ひどく重たい空気に包まれていた。

 

誰も大きな声を出さない。

隊士たちは互いに視線を避け、必要以上の会話をしなくなった。

 

 

"禁忌"

 

"裏切り"

 

"虚化"

 

 

噂だけが静かに広がっていく。

 

だが、時間とは残酷なもので。

どれほど大きな事件であっても、尸魂界は止まらない。

 

失われた隊長格の穴を埋めるため、各隊では新たな編成が始まっていた。

 

 

┈┈

 

 

 

その日。

 

十三番隊隊舎には、朝からどこか落ち着かない空気が漂っていた。

 

ひっきりなし隊士たちがざわついている。

 

「聞いたか……?」

「五番隊の新隊長……」

「藍染副隊長らしいぞ」

「でも予想通りじゃない?」

「実力もあるし、隊士からも人気だし――」

 

声を潜めた会話が、廊下のあちこちで交わされていた。

 

執務室では、志波海燕 が書類を片手に眉を寄せている。

 

その顔には、珍しくはっきりとした苛立ちが浮かんでいた。

 

机の上には、中央から届いた正式通達。

 

五番隊新隊長――藍染惣右介。

 

海燕は舌打ち混じりに紙を机へ置く。

 

「((早すぎんだろ。……まあ、実力はお墨付きだろうが……))」

 

副隊長から隊長昇格。

それ自体は不自然ではない。

 

藍染は優秀だった。

 

鬼道。

統率。

人格。

 

全くもって、非の打ち所がない。

 

だが。

 

「((なんつーか……気持ち悪い。))」

 

あまりにも、出来すぎている。

 

平子たちが消えた直後。

浦原が追放された直後。

 

まるで最初から、空いた席へ収まることが決まっていたかのようなタイミング。

 

海燕は無意識に眉間を押さえた。

通達を机へと戻し、深くため息を漏らす。

 

 

――そこへ。

 

「"副隊長"」

 

襖が静かに開く。

現れたのは馨だった。

いつも通りの落ち着いた顔。

 

けれど、彼女も最近はどこか静かだった。

 

浦原たちが消えたあの日から。笑う回数が、少し減った。

 

海燕はそんな馨を見て、一瞬だけ表情を和らげる。

 

「おう!どうかしたか?」

「はい。九番隊が受け持っていた東流魂街の任務についての引き継ぎの書類が届いたので…」

 

馨の言葉と書類の山に"やっべえ"なんて声をあげる海燕。それもそのはずだった。ここ最近は穴が空いた隊の引き継ぎの任務や書類整理に追われていたのだ。

 

十三番隊は浮竹が療養することが多く、副隊長と席官だけでの対応が多い。さすがの海燕も疲労の色が見え始めていた。

 

「あ〜……そうだったな。悪い。後で見とく。」

「大丈夫です。この任務の内容は凡そ把握してるので。今日の午後にでも私と五席で現場――」

 

刹那――

ドタドタと激しい足音が鼓膜を叩く。

 

「なんだ?」

「?」

 

執務室に、別の隊士が慌てた様子で駆け込んできた。

 

「し、志波副隊長!!」

「なんだよ騒がしい」

「中央から追加の辞令が……!」

 

差し出された封書。

 

「んだよ、こんな時に……」

 

海燕は乱暴に受け取り、封を切る。

 

「もしかして追加の緊急依頼でしょうか?」

「だったら封書で来ねえだろ?このタイミングなら人事関係か――」

 

封書を取り出し、副隊長である海燕が先に目を通す。

 

そして。

"その手が止まった"

 

「……は」

 

空気が変わる。

馨が不思議そうに首を傾げる。

 

「どうかされましたか?」

 

返事がない。

 

海燕は紙を見つめたまま、完全に固まっていた。

 

その異様さに、周囲の隊士たちもざわめき始める。

 

「副隊長……?」

 

やがて。

海燕はゆっくり顔を上げた。

 

その目には、はっきりとした動揺が浮かんでいる。

 

「……は?」

 

掠れた声。

紙を持つ手が、わずかに強く握られる。

 

馨は近づこうとする。

 

「どうか――」

「"お前"」

 

海燕が遮るように口を開いた。

低い声だった。

 

「"五番隊副隊長推薦"って……なんだこれ」

 

一瞬。

部屋が静まり返る。

周囲の隊士たちが目を見開く。

 

「えっ」

「五番隊……?」

「副隊長!?」

 

ざわめきが一気に広がった。

馨も僅かに目を見開く。

 

「……え?副隊長がですか?」

「違う……ちげえよ。」

 

海燕は無言で馨に書類を差し出す。

そこには正式な推薦状。

 

新五番隊隊長、藍染惣右介の名。

 

そして。

 

 

 

 

 

五番隊副隊長候補――"無類井馨"

驚くことに総隊長の山本元柳斎重國の押印もされていたのだ。

要するに、藍染の推薦状に対し、総隊長が許可を出したのだ。

 

静かな衝撃が、部屋全体を支配した。

 

「え、ちょっと待ってください」

「なんで無類井三席が?」

「五番隊って……」

 

隊士たちが口々に騒ぎ始める。

 

だが。

海燕だけは笑っていなかった。

 

むしろ逆だった。

表情が、どんどん険しくなっていく。

 

馨は書類を見つめながら、小さく呟く。

 

「藍染隊長が……推薦を……」

 

その声音には、純粋な驚きが混ざっていた。

 

海燕はそれを見て、奥歯を噛む。

 

嫌な予感しかしない。

タイミングが良すぎる。

 

平子たちが消え。

藍染が隊長になり。

 

その直後に、馨を自分の副隊長へ引き抜こうとしている。

 

偶然にしては、綺麗すぎた。

海燕は低く息を吐く。

 

「……おい、この通達。浮竹隊長は?」

 

隊士が困ったように答える。

 

「本日は療養中で……まだお耳には」

 

海燕の顔がさらに曇る。

最悪だった。

 

今、この場で冷静に判断できる人間がいない。

 

そして何より。

海燕自身が、冷静じゃなかった。

 

馨はまだ書類を見ている。

 

そこに書かれた、"信頼"と"期待"の言葉。

藍染らしい、丁寧で誠実な文章。

 

だが。海燕には、それが妙に気味悪く見えた。

 

「……馨」

 

低い声。

馨が顔を上げる。

 

海燕は少し迷うように沈黙し、それからゆっくり口を開いた。

 

「お前、どう思ってる」

 

馨は少しだけ視線を伏せる。

 

「……正直、驚いています」

「それだけか?」

 

問いが鋭くなる。

馨は海燕を見る。

 

その目には、いつもの余裕がなかった。

海燕は自分でも分かっていた。

 

今の自分は、冷静じゃない。

 

だが。

どうしても。

どうしても、嫌な予感が消えない。

 

「"海燕さん?"」

 

馨が少し心配そうに名を呼ぶ。

海燕は返事をしなかった。

 

ただ。手元の推薦状に書かれた名前を、鋭く睨みつけていた。

 

――藍染惣右介。

その文字だけが。妙に黒く、不気味に見えた。

 

「……五番隊副隊長推薦……」

 

誰かがぽつりと漏らしたその言葉をきっかけに。

 

 

十三番隊執務室の空気は、

一気にざわめき始めた。

 

隊士たちが顔を見合わせる。

 

驚き。

困惑。

そして。

 

どこか納得してしまうような空気も、確かにあった。

 

それも当然だった。

無類井馨は、あまりにも優秀すぎる。

 

鬼道。

回道。

白打。

霊圧。

 

どれを取っても、

既に副隊長格に匹敵すると言われている。

 

いや。

鬼道だけなら、隊長格すら超えているという噂もある。

 

それほどの存在が、未だ十三番隊三席に留まっていること自体、むしろ異例だった。

 

だからこそ。

藍染惣右介が副隊長として引き抜こうとすることも、総隊長がその案に押印することも、理屈だけで言えば理解できてしまう。

 

「……いや、でも普通に有り得る話ではあるよな?」

 

一人の隊士が、恐る恐る口を開く。

周囲の視線が集まる中、彼は少し気まずそうに頭を掻いた。

 

「無類井三席、実力だけならとっくに副隊長レベルだろ……」

「それはそう」

 

別の隊士が頷く。

 

「鬼道とか見たことあるか?あれ絶対おかしいぞ」

「この前の訓練場、一人だけ空間の密度違ったもんな……」

「卯ノ花隊長からも評価されてるって話だし」

「藍染隊長が欲しがるのも分かる」

 

その言葉に。

今度は別の隊士が、机を叩くように声を上げた。

 

「でも十三番隊はどうすんだよ!!」

 

空気が揺れる。

 

「浮竹隊長、最近また体調悪いだろ!?」

「……っ」

「志波副隊長だけじゃ、隊務全部は回らねぇって!」

「ただでさえ休みもない中、ほかの隊の任務も受け持ってんだ!」

「そうだよ!無類井三席まで抜けたらどうすんだ!」

 

次第に、隊士たちの声に熱が混ざっていく。

 

誰も怒っているわけじゃない。

 

ただ。

"皆、不安だった"

 

平子たちが消えた。

浦原たちは追放された。

隊長格が次々と入れ替わる。

 

瀞霊廷そのものが、どこか不安定に揺れている。

 

そんな中で。

十三番隊の支えになっていた存在まで失うかもしれない。

 

その現実が、隊士たちを焦らせていた。

 

 

「でっ、でも!三席は上に行くべきっスよ!」

 

若い隊士が勢いよく立ち上がる。

その顔には、憧れと誇らしさが浮かんでいた。

 

「俺たちだって鼻高いじゃないですか!」

「十三番隊から五番隊副隊長っスよ!?」

「絶対向いてますって!」

「藍染隊長も優秀な方だし、悪い話じゃ――」

 

「だからって簡単に送り出せるかよ!!」

 

別の隊士が被せるように怒鳴る。

空気がぴりつく。

 

「俺たちには三席が必要なんだよ!!」

 

その声には、切実さが滲んでいた。

 

「浮竹隊長が療養中の時、誰が隊を支えてたと思ってんだ!」

「……」

「任務だって、隊士の治療だって、無類井三席が――」

 

言葉が詰まる。

静まり返る室内。

その中心で、馨はただ静かに立っていた。

 

騒がれることに、慣れていない。

 

自分のことで、ここまで感情をぶつけられることにも。

 

視線が少し揺れる。

胸の奥が、落ち着かない。

 

その時だった――

 

 

 

「――"うるせぇ"」

 

低い声が、空気を一瞬で切り裂いた。

全員が振り返る。

 

執務机の前。

海燕が、険しい顔のまま立ち上がっていた。

 

その表情に、場が静まり返る。

海燕はゆっくり周囲を見回す。

 

苛立っている。

それは誰の目にも明らかだった。

 

「本人置いて勝手に決めてんじゃねえよ」

 

低い声。

だが、怒鳴っているわけではない。

それでも、場を制圧するには十分だった。

 

隊士たちが気まずそうに押し黙る。

 

海燕は深く息を吐き、乱暴に前髪を掻き上げた。

 

だが、その顔には、

まだ消えない焦りが残っている。

 

「……」

 

馨はそんな海燕を静かに見つめた。

海燕はしばらく黙ったまま、机の上の推薦状を睨み続ける。

 

藍染惣右介。

 

その名前を見る度に、胸の奥がざわつく。

嫌な感じがする。

 

理由は分からない。

証拠もない。

 

だが。どうしても、嫌な予感が消えない。

馨はそんな海燕の様子に、少しだけ眉を寄せた。

 

「……海燕さん」

 

呼びかけても、

すぐには返事がない。

 

馨はその様子を前に眉を顰め、一度深呼吸すると凛と背筋を伸ばした。

そして隊士達の前でようやく口を開く。

 

「一先ず」

 

その声は、さらに低かった。

 

「藍染隊長のところへ行ってきます。」

 

ざわっ、と空気が揺れる。

 

「三席!?」

「今からですか!?」

「直接!?」

 

海燕は答えない。

ただ、推薦状を睨んだまま立っている。

 

馨はその横顔を見る。

いつもの海燕なら、もっと軽口を叩いている。

 

だが今は違う。

 

完全に、警戒していた。

馨は少し困ったように笑う。

 

「……海燕さん」

「ん?」

「そんな顔しないでください」

 

海燕が眉を寄せる。

馨は静かに続けた。

 

「大丈夫です」

 

その声は、いつも通り穏やかだった。

周囲を安心させるような声音。

 

「少しお話を聞いてくるだけですから」

 

海燕は返事をしない。

馨はさらに小さく笑う。

 

「藍染隊長の考えがあるだけです。五番隊も大変なのは同じですから。」

「……っ」

「"お優しい方"ですから。」

 

その言葉を聞いた瞬間。

海燕の眉間が、さらに深く寄った。

 

無意識に、奥歯へ力が入る。

 

――そこなんだよ。

 

心の中で毒づく。

 

優しい。

穏やか。

信頼できる。

誰から見ても完璧。

 

だからこそ、逆に気味が悪い。

海燕は視線を逸らし、乱暴に髪を掻き上げた。

 

「……お前、危機感なさすぎんだよ」

 

ぽつりと漏れた声。

馨が少しだけ目を丸くする。

 

その反応を見て、海燕は小さく舌打ちしたくなった。

 

「……とにかく、俺も行く」

「え?」

「お前一人で行かせる気ねぇから」

 

即答だった。

周囲の隊士たちがざわつく。

 

「副隊長、なんであんなに警戒してんの?」

「あれだろ。無類井三席、藍染副隊長と仲良いし」

「嫉妬か〜?」

「珍しいな……」

 

隊士達に海燕が考えていることはもちろん知らない。ただ引き抜かれることに苛立つ上官。その程度だろう。

 

馨はそんな海燕をしばらく見つめ。

 

やがて、小さく吹き出した。

 

「……ふふ」

「なっ、なんだよ!」

「過保護ですね」

「うるせぇ!てか笑い事じゃねえからな!」

 

即答だった。

だが。海燕の表情は、最後まで晴れなかった。

 

まるで今から向かう先に、何か得体の知れないものが待っているとでもいうように。

 

 

┈┈┈

 

 

 

 

「……」

「……」

 

 

五番隊へ向かう道中。

 

瀞霊廷の空気は、どこかまだ落ち着きを失っていた。

 

隊士たちは慌ただしく行き交い、各隊舎では未だ再編の話が続いている。

 

けれど。

五番隊へ近づくにつれて、その空気だけが妙に違っていた。

 

静かだった。

 

いや。

正確には、"落ち着こうとしている"空気だった。

 

不安を押し殺し、無理やり安心しようとしているような。

 

隊舎前へ辿り着いた瞬間、その理由が海燕にも分かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……藍染隊長のおかげで助かりましたよ」

「本当に……あのまま誰も来なかったらどうなるかと……」

「やっぱり藍染隊長なら安心だよな」

 

聞こえてくる声は、どれも安堵に満ちていた。

 

隊長格を失った五番隊。

平子真子という、隊士たちから親しまれていた存在が突然消えた。

 

その喪失感は計り知れない。

 

だからこそ。

 

その空席へ、"優秀で穏やかな藍染惣右介"が収まったことが、彼らにとって救いになっていた。

 

まるで。崩れかけた場所へ、ようやく支柱が戻ってきたように。

 

その様子を見ながら、海燕は無言のまま歩く。

隣では、馨が静かに周囲を見渡していた。

 

すると。

 

「"あっ――!"」

 

隊士の一人が、こちらへ気づく。

途端に、周囲の空気がぱっと明るくなった。

 

「無類井三席!!」

「志波副隊長まで!」

「来てくださったんですか!?」

 

隊士たちが次々と駆け寄ってくる。

その顔には、明らかな期待が浮かんでいた。

 

「藍染隊長が無類井三席宛に、推薦状を出したとお聞きしました!」

 

若い隊士が、どこか興奮した様子で口を開く。

 

「無類井三席が副隊長になってくだされば、五番隊は安心です!」

「本当に!」

「藍染隊長と無類井三席なら、きっと前よりもっと良い隊になりますよ!」

「鬼道も回道も出来るって聞きましたし……!」

 

口々に向けられる期待。

だが。その熱量は、少し異常だった。

 

平子たちを失った不安。

崩れた日常。

 

いつ起こるか分からない危機。

虚化の噂が本当なのであれば誰しもが恐れることだ。

 

今、尸魂界、瀞霊廷内では何が起こるかは分からない。だからこそ、自分たちの安心を誰もが求めていた。

 

それを埋める存在を、皆が必死に求めている。

 

だから。

藍染へ縋る。

馨へ縋る。

 

"安心できるもの"へ、必死に手を伸ばしている。

 

海燕はそれを見て、無意識に眉を寄せた。

 

――危うい。

 

五番隊の隊士たちは、精神的にかなり追い詰められていた。

 

優しい言葉を向けられれば、簡単に寄りかかってしまいそうなほどに。

 

馨はそんな空気の中でも、変わらず穏やかだった。

 

「……ありがとうございます」

 

小さく微笑む。

柔らかな声。

それだけで、周囲の隊士たちの表情がさらに和らぐ。

 

「やっぱり素敵な方だ……」

「藍染隊長が推薦するのも分かる……」

 

その様子を見ながら。

海燕は何も言わなかった。

 

だが変わらず、胸の奥が、妙にざわつく。

 

もし馨が本当に五番隊へ行けば。

この隊は、確実に彼女へ依存する。

 

藍染と馨。

完璧な隊長と副隊長。

 

誰も疑わない。

誰も逆らわない。

 

そんな五番隊が、簡単に想像できてしまった。

 

――嫌な絵面だ。

海燕は小さく舌打ちしそうになる。

 

馨はそんな彼の様子に気づいているのかいないのか、静かな顔のまま歩き出した。

 

 

整頓された五番隊隊舎。

磨き抜かれた塵一つない廊下を歩き、たどり着く。

 

「……失礼します。藍染隊長は執務室に?」

「あ、はい!」

 

隊士が慌てて頭を下げる。

 

「お待ちしていると……!」

 

その言葉が、海燕には妙に引っかかった。

まるで。来ることを、最初から分かっていたみたいに。

 

 

┈┈┈

 

 

五番隊 隊長執務室。

襖の前で、馨は静かに一礼する。

 

「無類井馨です」

「志波海燕だ」

 

短く名乗る。

 

 

――数秒後。

 

「"どうぞ"」

 

穏やかな声が返ってきた。

 

襖が開くその瞬間。

海燕の目が、僅かに細くなる。

 

執務机の向こう。

新しい白い羽織を纏った、"藍染隊長"が座っていた。

 

隊長羽織。

それは不思議なほど、自然に彼へ馴染んでいた。

 

まるで最初から、そこへ立つべき人間だったかのように。

 

藍染は二人を見ると、穏やかに微笑む。

 

「来てくれたんだね」

 

その声音は、以前と何も変わらない。

柔らかく、安心感を与える声。

 

藍染は続ける。

 

「……志波副隊長も。わざわざ御足労頂き、ありがとうございます」

 

海燕は返事をしない。

 

ただ、藍染を真っ直ぐ見据える。

藍染はそんな海燕の視線すら、穏やかに受け流していた。

 

馨は静かに前へ進む。

 

そして。

海燕が持っていた推薦状を、ひょいと手元から抜き取った。

 

「お、おい!」

 

海燕が小さく眉を寄せる。

馨は何も言わないまま、そのまま藍染の机へ歩み寄る。

 

藍染の目が、静かに細められた。

 

 

馨は推薦状を両手で持ち。

そのまま――

 

"机へ返した"

 

「……辞退させていただきます」

 

静かな声だった。

部屋が、しん、と静まる。

 

海燕が息を止める。

藍染だけが、変わらず穏やかな顔をしていた。

 

けれど。

眼鏡の奥の瞳だけが、ほんの僅かに揺れた気がした。

 

「五番隊副隊長 推薦に関して。辞退させていただきます。」

 

もう一度、念を押すように口にする。

それは驚く程に静かな声だった。

 

だが。

その一言が落ちた瞬間、隊長執務室の空気は明らかに変わった。

 

窓の外から、遠く隊士たちの声が聞こえる。

五番隊隊舎は、久々に戻った"安定"へ安堵している。

 

それなのに。

この部屋の中だけ、妙に張り詰めていた。

 

「……」

 

藍染は、返された推薦状へ静かに視線を落とす。

 

机の上へ置かれた白い紙。

 

そこには、正式な推薦印。

総隊長、山本元柳斎重國の印まで押されている。

 

それがどれほど異例のことか。

この場にいる全員が理解していた。

 

普通なら。

断ることなど、ほぼ有り得ない。

 

藍染はしばらく黙ったまま、推薦状を見つめていた。

 

 

やがて。ゆっくりと顔を上げる。

眼鏡の奥の瞳は、相変わらず穏やかだった。

怒りも、不快感も見えない。

 

だからこそ。逆に、何を考えているのか分からない。

 

 

「……理由を、聞いてもいいかな」

 

その声は、驚くほど柔らかかった。

責めるような響きはない。

 

まるで、純粋に彼女の考えを知りたいだけだと言うように。

 

馨はその視線を受け止める。

 

そして。

静かに背筋を伸ばした。

 

 

「まずは」

 

小さく一礼する。

その動作は、いつも通り丁寧だった。

 

「推薦いただき、本当に光栄です」

 

落ち着いた声。

その声音には、本心からの敬意が滲んでいた。

 

社交辞令ではない。

本当に、感謝している。

 

「藍染隊長が、ここまで私を評価してくださっていたこと」

 

視線が、机の上の推薦状へ落ちる。

 

「……そして」

 

ほんの少しだけ、言葉を選ぶような間。

 

「元柳斎様の印まで頂いていたこと」

 

その瞬間。

海燕が僅かに眉を動かした。

 

隊長推薦だけではない。

総隊長直属で、既に正式な昇格候補として扱われていた。

 

それほどまでに、馨は高く評価されている。

 

藍染は黙ったまま聞いている。

馨はゆっくり頭を下げた。

 

「本当に、感謝しております」

 

その礼は深かった。

 

静かで。

真っ直ぐだった。

 

だからこそ。

海燕は余計に落ち着かなかった。

 

藍染はそんな馨を、じっと見つめている。

 

その視線は穏やかなのに、どこか妙に深い。

 

やがて馨は、ゆっくり顔を上げた。

 

「"ですが"」

 

空気が少しだけ変わる。

その声には、はっきりとした意思があった。

 

「今の十三番隊には、まだ私が必要だと判断しました」

 

海燕の目が、僅かに見開かれる。

馨は冷静に続ける。

 

「浮竹隊長のご体調が、最近さらに不安定です」

 

その言葉を口にした瞬間、

部屋の空気が少しだけ沈んだ。

 

浮竹の病。

それは十三番隊の者にとって、

ずっと避けられない現実だった。

 

「志波副隊長だけでは、現在の隊務負担が大きすぎます」

「……ッ……」

 

海燕が何か言いかける。

だが、馨はそのまま続けた。

 

「それに」

 

視線が静かに揺れる。

 

「今の十三番隊は、隊士育成の時期でもあります」

 

藍染は変わらず黙って聞いている。

馨は淡々と説明し続けた。

 

「鬼道や白打に適性のある隊士も増えてきています。その育成を途中で投げるべきではないと判断しました」

 

その言葉には、妙な説得力があった。

"自分が必要"と口にしているのに、そこに傲慢さがない。

 

ただ。

現状を冷静に見て、最適解を話しているだけ。

 

だからこそ、余計に重い。

 

海燕はそんな馨の横顔を見る。

 

「((……こいつ、こういうとこなんだよな。))」

 

変に感情論へ走らない。

自分を誇示もしない。

なのに、誰よりちゃんと周りを見ている。

 

だから、皆ついていく。

だから、必要とされる。

だから、ここまで成長もできた。

 

馨は少しだけ間を置く。

 

そして。困ったように笑った。

 

「あと」

 

その瞬間。海燕が嫌な予感を覚える。

馨の右手人差し指が海燕を真っ直ぐと容赦なく指すのだ。

 

「"うちの副隊長、制御できる人いないので"」

「おい」

 

即座に声が飛ぶ。

馨は平然としていた。

 

「放っておくと、すぐ怪我しますし」

「してねぇよ」

「この前も隊舎の屋根から飛び降りて――」

「足滑っただけだ!!」

「お酒持ったまま」

「そこ関係ねぇだろ!!」

「あります。」

「ねーーえ!」

「しつこいです。」

「お前がだよ!」

 

 

馨は本気で不思議そうだった。

海燕は頭を抱える。

 

藍染ですら、小さく吹き出していた。

 

「ふふ……」

 

静かな笑い声。

その笑い方は、昔と変わらない。

 

優しく。

穏やかで。

人を安心させる笑い方。

 

だが。

 

海燕はその笑顔を見ながら、

やはり妙に落ち着かなかった。

 

馨はそんな二人を気にせず、

再び真面目な顔へ戻る。

 

空気も自然と静まっていく。

 

「……それと」

 

藍染の視線が、

静かに彼女へ向く。

 

馨はゆっくり続けた。

 

「これは、私個人の意見ですが」

 

藍染が小さく目を細める。

その変化は僅かだった。

だが海燕は見逃さなかった。

 

馨は迷いなく言葉を続ける。

 

「五番隊には、既に適任の方がいるかと」

 

海燕が僅かに眉を寄せる。

藍染は黙ったままだ。

馨は静かに言った。

 

「"市丸三席です"」

 

その名前が落ちた瞬間。

藍染の瞳が、ほんのわずかに揺れた。

 

本当に一瞬だった。

 

だが。

海燕は確かにそれを見た。

馨は気づいていない。

 

 

「非常に若い方ですが、才能があります」

 

静かな声。

 

「まだ粗削りですが、藍染隊長の元であれば、副隊長まで成長できるかと」

 

海燕が少し驚いた顔をする。

 

「((……適当に理由を言ってるだけじゃねえ。真っ当な理由を言いやがる……))」

 

ただ断るだけじゃない。

五番隊の未来まで見て、答えを出している。

 

馨は最後に、静かに一礼した。

 

「……そのように、判断したまでです」

 

綺麗な言葉だった。

感情論ではない。

恐れでもない。

 

ただ。

自分が今どこにいるべきかを、冷静に見定めた答え。

 

 

「……」

 

執務室へ、

静かな沈黙が落ちる。

 

藍染は何も言わなかった。

ただ、静かに馨を見つめていた。

 

その視線だけが。

妙に深く、底知れなかった。

 

 

藍染はしばらく沈黙していた。

 

執務室には、紙をめくる音すら存在しない。

 

窓の外から聞こえる隊士たちの声だけが、妙に遠かった。

 

 

 

 

 

やがて。

藍染はふっと小さく笑う。

 

穏やかな、いつもの笑み。

 

「……"わかった"」

 

静かな声だった。

怒りも、失望もない。

 

むしろ。

どこか感心しているようですらあった。

 

藍染は椅子へ深く背を預けながら、静かに続ける。

 

「そこまで分析されているなら、こちらから反論することもないね」

 

その言葉に、海燕は僅かに眉を動かす。

もっと押してくると思っていた。

 

あるいは、もっと巧妙に揺さぶるかと。

だが藍染は、驚くほどあっさり引いた。

 

そのことが逆に、海燕を落ち着かなくさせる。

 

藍染は視線を海燕へ向ける。

 

「……志波副隊長」

「……はい?」

「良い部下をお持ちですね」

 

穏やかな声音。

 

だが。

 

その視線は、どこか深かった。

 

「……」

 

海燕は一瞬だけ黙り。

 

「当たり前だ!」

 

即答だった。

 

「十三番隊はどの隊よりも優秀だからな!」

「…少し抑えてください、副隊長」

「事実だろ?」

 

しかも妙に自信満々。

馨が少し目を丸くする。

海燕は腕を組みながら鼻を鳴らした。

 

「うちの隊士、すげぇんで!」

 

海燕らしい言葉と口調。

馨は思わず頬を緩ませていた。

 

「ふふ……ええ、よく分かります」

 

藍染は静かに笑う。

その笑顔は柔らかい。

 

誰が見ても、優秀で穏やかな隊長そのものだった。

 

馨はそんな藍染へ、改めて一礼した。

 

「この度は本当に、ありがとうございました」

「いや、こちらこそ残念だよ」

 

藍染の声は静かだった。

 

「君なら、五番隊を大きく変えてくれると思っていた」

 

その言葉に、嘘は感じられない。

だからこそ、妙に胸へ残る。

 

馨は小さく微笑んだ。

 

「何かお手伝い出来ることがあれば、いつでも呼んでください」

 

海燕が横で"軽く言うなよ"と言いたげな顔をする。

 

藍染はそんな二人を見ながら、少しだけ目を細めた。

 

そして。ぽつりと口を開く。

 

「……では、話し相手でも?」

 

その瞬間。海燕の眉がぴくりと動く。

馨は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。

 

「ええ。もちろんですよ」

 

迷いのない返事だった。

藍染は静かに微笑む。

その空気だけ見れば、穏やかな会話だった。

 

本当に。

 

ただそれだけの、

平和なやり取り。

 

けれど。

海燕だけは、胸の奥のざわつきが消えなかった。

 

 

 

┈┈┈

 

 

 

 

隊長執務室を出る。

 

襖が静かに閉まり、足音だけが廊下へ響いた。

 

しばらく。

二人は何も話さなかった。

 

前を歩く馨。

その背中を、海燕は少し後ろから見ている。

 

 

手入れされた死覇装。

真っ直ぐ伸びた背筋。

 

さっきまで藍染と向き合っていた時の姿が、まだ頭から離れない。

 

 

冷静だった。

感情に流されず。

 

十三番隊の現状を分析し、五番隊の未来まで見据えていた。

 

海燕は無意識に、小さく息を呑む。

 

 

「((……綺麗だった。))」

 

 

そんな言葉が、ふと頭をよぎる。

 

いつも隣にいる。

馬鹿みたいな話をして。

鬼道で吹き飛ばされて。

笑い合って。

 

そんな時間が普通になっていたせいで、

忘れかけていた。

 

この女は、本当に特別なんだと。

海燕は少しだけ視線を逸らす。

 

胸の奥が、妙にざわついていた。

 

馨はそんな彼の様子に気づいているのかいないのか、静かな足取りのまま歩いている。

 

結局――

十三番隊へ戻るまで、

二人の間に会話はなかった。

 

 

┈┈┈┈┈

 

 

 

 

十三番隊隊舎。

 

廊下へ足を踏み入れた瞬間、空気がぴんと張る。

 

待っていたのだ、隊士たちが。

 

執務室前には、十数人ほどの隊士が集まっていた。

誰もが不安そうな顔をしている。

 

その中でも。

一番前にいた清音が、不安げに一歩前へ出た。

 

「……三席」

 

小さな声。

馨が足を止める。

 

「っ……」

 

清音はぎゅっと袖を握りながら、恐る恐る尋ねた。

 

「……いなくなるのですか?」

 

その言葉が落ちた瞬間。

周囲の空気が静まり返る。

 

誰もが、答えを待っていた。

馨はそんな清音を見つめる。

 

不安そうに揺れる瞳。

 

周囲の隊士たちも、

同じ顔をしていた。

 

馨はゆっくり目を細める。

 

 

そして。

そっと。

 

清音を抱き寄せた。

 

 

「……っ」

 

清音が目を見開く。

 

馨はそのまま、静かな声で言う。

 

「"私の居場所は、ここです"」

 

その瞬間。

空気が弾けた。

 

「っしゃああああ!!」

「よかったぁぁ!!」

「マジで安心した!!」

「三席ーーー!!」

 

隊士たちが一気に騒ぎ始める。

誰かは泣きそうになっている。

誰かは本気で飛び跳ねていた。

馨はそんな隊士たちを見ながら困ったように笑う。

 

海燕はその光景を少し後ろで眺めながら、小さく息を吐いた。

 

「((……お前はすげえよ……馨))」

 

そう思った瞬間。

 

胸の奥の重苦しさが、

ほんの少しだけ軽くなった気がした。

 

 

 

 

「(("俺がお前の居場所を必ず護る……"))」

 

 

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈

┈┈┈┈┈┈┈┈

┈┈┈┈┈┈┈

┈┈┈┈┈┈

┈┈┈┈┈

┈┈┈┈

 

 

その頃。

 

静まり返った五番隊隊長執務室。

 

藍染惣右介は、一人椅子へ腰掛けていた。

 

窓から差し込む夕陽が、眼鏡へ淡く反射する。

 

しばらく無言だった。

 

だが。やがて。

 

「……ふっ」

 

小さな笑いが漏れる。

 

肩が、わずかに揺れる。

 

藍染は口元を手で隠しながら、

静かに笑っていた。

 

だがその笑みは。

先程までの穏やかなものではない。

 

冷たく。歪んでいた。

 

「……本当に」

 

ぽつりと、小さく零れる。

 

「君は、私の想像を超えてくる」

 

馨の姿が脳裏へ浮かぶ。

 

――""辞退させていただきます""

 

迷いなく断る姿。

冷静に分析する姿。

 

そして。

"話し相手ならいつでも"

 

そう笑った顔。

 

藍染はゆっくり目を閉じる。

胸の奥にある感情が、静かに形を持ち始めていた。

 

興味ではない。

観察でもない。

 

もっと粘ついた、深い執着。

 

壊したい。

理解したい。

手に入れたい。

 

その全てが混ざったような、

歪んだ感情。

 

藍染は喉の奥で、

静かに笑う。

 

「……ああ」

 

低い声。

 

「やはり、君は特別だ」

 

 

――彼の脳裏には、十三番隊で笑う馨の姿が浮かんでいる。

 

浮竹と話す姿。

隊士たちに慕われる姿。

 

そして何より――

 

 

 

 

 

――""馨""!

 

あの男の声――志波海燕。

 

藍染の目が、ゆっくりと細められる。

 

「……なるほど」

 

 

彼は改めては理解する。

無類井馨という存在の"核"を。

 

彼女の精神は、既に強固な土台の上に築かれている。

 

仲間。

居場所。

信頼。

 

"その中心にいるのが、志波海燕だった"

 

海燕の隣で笑う時だけ、彼女はあまりにも自然だった。

 

あの孤独だった少女が、

唯一、無防備になる場所。

 

「彼女の基盤は……彼か」

 

ぽつりと呟く。

 

静かな執務室に、その声だけが落ちた。

藍染は椅子に深く背を預ける。

 

天井を見上げながら、ゆっくりと目を閉じた。

 

"邪魔な存在"

 

感情のない思考のように。

あまりにも自然に、その言葉が浮かぶ。

 

志波海燕がいる限り、

無類井馨は決してこちら側へ来ない。

 

彼女はきっと、

最後まで"護る側"であり続ける。

 

だからこそ――壊す価値がある。

 

藍染の喉奥から、小さな笑い声が漏れた。

 

「ッ……ふふ……」

 

低く、静かな笑い。

それは静寂に溶けながら、なお不気味に室内へ残り続ける。

 

 

 

 

机の端には、小さな花瓶が置かれていた。

 

そこに活けられているのは、

十三番隊の隊花――待雪草。

 

白く、小さな花。

 

冬の終わりを告げるように咲くその花を、藍染は何気なく見つめる。

 

しばしの沈黙。

 

やがて。

 

"はらり"と。

一枚、白い花弁が落ちた。

 

続けて、細い茎がゆっくりと垂れ下がる。

 

まるで命を失っていくように。

 

藍染はその様子を見つめながら、

ただ静かに微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

――"崩壊は、突然訪れる"

"支配は、最も優しい顔で近づく"――

 

 

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈

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