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あれが最後だった。
最後に、
心から笑えた日々だった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
Our Last Peace
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魂魄事件から、長い年月が経っていた。
あの日。
突然消えた隊長格たち。
浦原喜助の追放。
追うように四楓院夜一の失踪。
技術開発局の封鎖。
虚化という禁忌。
瀞霊廷は一時、崩壊寸前とも言えるほど荒れていた。
誰もが疑い、誰もが怯えていた。
隊士たちは上官を失い。
席官たちは責任に押し潰され。
隊長格の空席は、尸魂界全体へ大きな影を落とした。
だが、時間とは残酷で、同時に優しい。
どれほど大きな傷も、ゆっくりと日常へ埋もれていく。
新たな隊長が配置され。
各隊は少しずつ立て直され。
瀞霊廷には再び、
穏やかな時間が戻り始めていた。
┈┈┈┈┈
"春"
桜の花が美しく舞う頃
十三番隊隊舎には、珍しく賑やかな声が響いていた。
「うわぁ……広……」
「お前キョロキョロすんなって!」
「だって初めてだし!」
今年の新入隊士たちだ。
死覇装もまだどこかぎこちない。
緊張した顔。
期待に満ちた目。
あちこちで初々しい声が飛び交っている。
十三番隊は比較的人気の高い隊だった。
穏やかな隊風。
面倒見の良い上官たち。
そして何より。
浮竹十四郎という、誰からも慕われる隊長の存在。
療養で不在の日も多いが、それでも十三番隊を希望する者は多かった。
廊下の奥では、隊士たちが新人へ説明をしている。
「隊舎内では走るなよー!」
「あと浮竹隊長の部屋の前では静かにな!」
「志波副隊長に酒誘われても基本的に断れ!!」
「"おい待て。最後のなんだァ!!"」
奥からすぐに怒鳴り声が飛ぶ。
どっと笑いが起きた。
その中心で、志波海燕は、新人たちを前に腕を組んで立っていた。
相変わらず声が大きい。
相変わらず距離が近い。
「いいかー!十三番隊は家族みてぇなもんだ!」
新人たちが目を瞬かせる。
「分かんねぇことあったら何でも聞け!怪我したら隠すな!腹減ったら食え!以上!」
「雑すぎません!?」
横から即座に仙太郎の声が飛ぶ。
「あー!あと!基本的に困ったことがあったら――」
海燕が振り返る。
廊下の向こうに集まる視線。
書類を抱えた馨が、呆れた顔で立っていた。
その姿を見た瞬間、隊舎内の空気が少し和らぐ。
「無類井三席!」
「噂通り綺麗……」
新人たちが小声でざわつく。
馨はそんな視線に慣れているのか、特に気にした様子もなく海燕へ近づいた。
「"基本的に"、なんですか?」
「とりあえず困ったらお前のとこに行けば解決だろ!」
「新人教育なんですから、もう少しちゃんとしてください」
「ちゃんとしてんだろ?」
「どこがです」
「心だよ心!」
「説明放棄しないでください。抽象的すぎます。」
海燕はけらけら笑う。
そのやり取りだけで、隊士たちがどこか安心したように笑っていた。
十三番隊の日常。
それは、ようやく戻ってきた穏やかな時間だった。
この数年間は今までにないほど穏やかで"普通"の日々だった。もちろん大変なこともあるが魂魄事件のような事は起こっていない。
風化までとはいかないが、ほとんどが過去の話だと記憶の片隅に追いやられている者もいた。
「皆さん、浮竹隊長があと少しでいらっしゃるので広間に集まってください。」
「「はい!」」
「……なんか俺の時より返事がちゃんとしてんじゃねえか。」
「それは私ですからね。副隊長?」
「言うようになったじゃねえか。」
ケタケタと笑うふたり。
刹那、馨の視線が新人たちの列の奥で止まる。
「……」
一人だけ。
静かに立っている少女がいた。
黒髪。
小柄な体。
周囲の新人たちより、どこか落ち着いた空気。
だが、その瞳だけは僅かに緊張している。
馨はゆっくり目を細めた。
「……あの子」
「ん?」
つられるように海燕も視線を向けた。
ほかの新人隊士達は楽しそうに会話をしながら広間へと向かっている。
しかし、その少女は未だに独りで不安そうだった。
「"朽木ルキア"」
「ああ、そうだ。」
"朽木"
その姓はこの尸魂界において誰しもが知る名だ。
"朽木家に迎えられた養女"
なぜその娘が十三番隊居るのか――
馨は過去の出来事を思い出す。
┈┈┈┈┈
┈┈┈┈
半年の程前のこと
その日。
無類井馨は、久方ぶりに朽木邸を訪れていた。
白い砂利を踏む音だけが静かに響く。
整えられた庭園。
張り詰めた空気。
流れる沈黙。
相変わらず息が詰まりそうな屋敷だ、と馨は内心で苦笑する。
案内された先は、六番隊隊長の私室。
襖が開かれると、そこにはひとりの男が立っていた。
「…………」
窓越しの光を背負い、庭園へ視線を向けたまま、こちらを振り返ろうともしない。
「……ご無沙汰しております、"白哉様"」
静かに膝を折る馨。
「遅ればせながら、六番隊隊長ご着任――おめでとうございます」
深く頭を下げる。
返事は無い。こちらを向く素振りさえない。
それでも馨は気にした様子もなく、ゆるく目を細めた。
「((立派になられた……))」
まだ幼かった頃。
"馨殿"と後ろをついて回り、鬼道を見れば珍しそうに目を輝かせ、少し褒めれば嬉しそうにしていた少年。
"馨殿!瞬歩でどちらが早いか勝負です!"
"馨殿!夜一の弱点を知りませんか!?"
"馨殿!今日は好物のみたらし団子を用意しております!"
馨殿!――
その面影はもう無いに等しい。
今ここにいるのは、朽木家を背負う男だった。
祖父である銀嶺を亡くし、当時副隊長出会った実父は任務によって殉職。
背負わざるおえない使命を与えられた白哉。嫌でも大人にならなければならない葛藤もあったであろう。
馨は理解していた。
やがて白哉が口を開く。
「……頼みがある」
低く、静かな声。
馨は顔を上げる。
「義妹の十三番隊入隊を願いたい。」
その言葉に、馨はわずかに瞬きをした。
「義妹……ルキア様を?」
「ああ」
「ですが、なぜ私に?直接、浮竹隊長へお話しされれば――」
「浮竹隊長は現在療養中だ。会えぬ」
即答だった。
確かに、ここ最近浮竹の体調は安定していない。
ならば、と馨は続ける。
「では、志波副隊長へお伝えを?」
その瞬間。
ほんの僅かに、白哉の沈黙が落ちた。
そして。
「……あやつは話が面倒になる」
「ッ……」
馨は思わず吹き出しかけ、慌てて口元を押さえる。
"うっし!なら入隊前に俺が直々にテストしてやる!"
……なんて白哉の苦手なテンションで言うに違いない。
容易に想像がついた
「分かりました。可能な限り話を通しておきます。」
「助かる。」
短い返答。
それだけで空気が閉じる。
だが馨は珍しく問い返した。
「ちなみに席官として、ですか?ルキア様の腕っ節は私も耳にしたことがありますし……」
「いや」
白哉は淡々と続ける。
「席官は与えなくていい」
馨の眉が微かに動く。
「……なぜです?実力があるなら、正式に席を与えることも――」
「以上だ」
ぴたり、と会話が断ち切られる。
白哉は最後まで振り返らない。
それでも馨には分かった。
――"守るためか"
朽木家の養女。
それに、彼には妻がいた。
"朽木緋真"――ルキアの姉。
病によって不幸にも亡くなってしまったことも知っている。
遺された妹。
朽木家当主の義妹、朽木家の養女。
それだけで注目を浴びる少女を、これ以上目立たせたくない。
そして何より。
十三番隊なら、浮竹がいる。
海燕がいる。馨がいる。
あの場所なら、きっと人として育つ。
そう判断したのだろう。
白哉は静かに続ける。
「浮竹隊長にも正式に書面で伝える」
「はい。」
「無類井三席からも、申し伝えてくれ」
その言葉に、
馨はふっと小さく笑った。
「承知しました。
十三番隊で、責任を持ってお預かりします」
その返答に、白哉は何も言わなかった。
ただ、張り詰めていた空気が僅かに緩む。
朽木家当主。
六番隊隊長。
祖父を失い、
実父を失い、
そして妻を失った男。
"強くあれ"
"朽木であれ"
そう定められた人生。
弱さを見せることも、
誰かに縋ることも許されず、
ただ静かに背を伸ばし続けてきた。
広い自室には沈黙だけが落ちる。
馨はそんな彼の背を見つめながら、静かに頭を垂れた。
「白哉様」
「……」
「どうか、ご無理をなさらず」
その一言。
あまりにも柔らかく、あまりにも自然で。
まるで張り詰めた心に、そっと温かな湯を落とされたようだった。
白哉の指先が、僅かに止まる。
胸の奥に沈殿していた重石が、ふっと軽くなる感覚。
こんな言葉を向けられたのは、
いつ以来だったのか。
「……"馨殿"」
低い声。
久しぶりに呼ばれた名。
「はい。白哉様」
ゆっくりと、白哉が振り返る。
月明かりの差し込む室内。
整った、美しい顔立ち。
冷たさすら感じさせるその容姿の中に、
ほんの僅か――
"馨殿!!"
まだ少年だった頃の、あどけなさの名残が見えた気がした。
馨は目を細める。
「よかった」
「……?」
「顔を見せてくださいましたね」
その言葉に、白哉は一瞬だけ目を見開く。
跪いたままの馨へ、静かに歩み寄る。
衣擦れの音だけが響いた。
そして――
「お前は、信に足る。」
「…………」
「頼んだ。」
白哉の口元が、ほんの僅かに緩む。
それはきっと、他人が見れば気づかぬほど小さなもの。
けれど馨には分かった。
朽木白哉という男が、
数十年ぶりに見せたのではないかと思うほど、
穏やかな微笑みだった。
その瞬間。
ほんの僅かだけ。
白哉の視線が揺れた気がした。
┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
"朽木ルキア"――
その名は、入隊前から隊士たちの間でも知られていた。
朽木家の養子。五大貴族の名を持つ死神。
それだけで周囲は勝手に距離を測る。
霊術院でもそうだった。
遠巻きに見られ、陰で噂され、
丁寧な言葉を向けられながらも、
決して踏み込まれることはない。
ルキア自身も、それが当然だと思っていた。
だから十三番隊へ配属されたその日も、
自然と他者との間に線を引いた。
隊舎の隅で静かに座り、必要最低限しか話さず、誰かに声を掛けられれば肩を跳ねさせる。
隊士たちは気にした様子もなく話しかけてくるが、ルキアは何故かそれに慣れなかった。
「朽木さん、今度甘味処いきません?」
「っ……いや、私は……」
「今度の巡回、一緒の班だよな!」
「……あ、ああ」
ぎこちない。
とにかくぎこちない。
そして何より、
本人に"壁を作っている自覚"がないのが厄介だった。
そんなある日。
執務室で書類整理をしていた馨は、遠巻きに隊士たちを避けるルキアを見て小さく息を吐く。
その隣では海燕が頬杖をついていた。
「あれ、完全に昔のお前じゃねえ?」
「……否定はしません」
「よし決めた」
海燕が立ち上がる。
「余計なことしないでくださいね、海燕さん」
嫌な予感しかしない、と馨は思った。
案の定だった。
「朽木!!」
「ひっ!?」
突然大声で呼ばれたルキアが飛び上がる。
周囲の隊士たちもぎょっとして振り返った。
海燕はずかずかと近寄る。
「お前ボソボソ喋んな!何言ってるかわかんねえ!」
「す、すみませ……」
「謝るな!もっとハッキリ喋れ!」
「ぁ……」
「"副隊長、パワハラですよ"」
冷静に突っ込む馨。
思わずルキアの前に立つと両手を腰に当てた。
「退け、馨。」
「無理です。パワハラで浮竹隊長に報告します。」
過去に海燕に絡まれた時のことと全く同じことが再現されていた。あまりにも自由奔放で"やられた側"はストレスを感じることを馨が一番分かっていた。
「なら!お前もなんか言ってやれよ!」
「副隊長が圧強すぎるんです」
「お前、完全に他人事だな!?」
「違います。あなたに問題があると言ってるんです。」
「んだとーー!?」
そんなやり取りに、周囲の隊士たちがどっと笑う。
ルキアだけが取り残されたように目を丸くしていた。
怒られているのかと思えば、誰も怒っていない。
むしろ――笑っている。
「ほら朽木、お前もなんか言え!」
「え……」
「十三番隊は静かだと埋もれるぞ!」
「いや、副隊長がうるさいだけです」
「馨!お前最近俺への当たり強くねえ!?」
「通常運転ですよ。」
「副隊長に向かって何言っ」
「"縛道の一、塞"」
言葉を遮り、馨は容赦なく相手を拘束した。
「なっ!?」
床に転がる副隊長。また笑いが起こった。
「おい!!解除しろ!馨!」
「"ルキア"、こっちこっち。みんなでお昼ご飯。」
「おーーーい!!覚えとけよー!!」
馨はルキアと初めて呼び捨てで名を呼び、一気に距離を縮ませた。背中を押され、一緒に歩くルキア。
「((……私は……とんでもない隊に入ってしまったのではないのか……))」
副隊長が三席に言いくるめられ、最終的には鬼道で拘束される始末。
「仙太郎!!助けろ!」
「はいいい!!!」
しかし、なにか暖かいものを感じる。
家族のように、気楽で、楽しくて。
「((初めてだ……このような思いは))」
誰も、"朽木家の養子"として扱わない。
ただの新人隊士として、当たり前のように輪の中へ引っ張り込んでくる。
それが――
ルキアには妙にくすぐったかった。
┈┈┈┈┈
隊舎に吹き込む風は柔らかく、廊下には隊士たちの笑い声が響く。
その中心にいるのは――
やはり、志波海燕と無類井馨の存在だった。
「"馨殿ー!"」
昼下がり。
書類を抱えて廊下を歩いていた馨のもとへ、小柄な影が勢いよく駆け寄ってくる。
振り返れば、死覇装の袖を揺らしたルキアが、どこか嬉しそうな顔で立っていた。
「どうしたの、ルキア」
「き、今日ももしよろしければ……!鬼道の修練をつけていただけませんか!?」
真っ直ぐな瞳。
まるで子犬のような期待の眼差しに、馨はふっと柔らかく笑った。
「もちろん。でも今日は昨日より難しいのをやるよ?」
「は、はい!」
ルキアは背筋を伸ばす。
その姿を見ていた周囲の隊士たちが、微笑ましそうに笑った。
「また始まったな」
「最近の朽木、ほんと馨三席について回ってるよな」
「まあ分かるけどなぁ……あの人、鬼道の教え方めちゃくちゃ上手いし」
「しかも美人」
「そこ重要か?」
「重要だろ!」
そんな軽口が飛び交う。
十三番隊という場所に、彼女も少しずつ馴染み始めていたのだ。
その時だった。
「おー! 今日も仲良くやってんな!」
豪快な声と共に現れたのは、海燕。
いつものように気さくな笑みを浮かべている。
「あ、海燕殿!」
「海燕さん」
ルキアが頭を下げる横で、海燕はにやりと笑いながら馨を見る。
「お前、ほんっとに馨にベッタリだな!」
「べっ!ベッタリという訳では…!」
「私こそ、いつも声をかけてくれて嬉しいもの。ねえ?ルキア。」
「〜〜!はい!」
まるで兄と姉のようだ。
ルキアは2人の妹のように、いつも可愛がられていた。
「で、悪いんだけど……馨、ちょっといいか?」
「……またですか?」
「またとはなんだよ」
「昨日も"ちょっといいか"って言って、そのまま甘味処まで連れていったじゃないですか」
「バレたか」
隊士たちがどっと笑う。
海燕は悪びれもせず、"今日はちゃんと仕事だ"と言いながら馨を手招きした。
「じゃあルキア。また後でね。」
「はっ、はい!」
馨は笑顔を浮かべ、どこか慣れたように彼の隣へ歩み寄る。
並んで歩き出す二人。
自然すぎる距離感。
隣に立つことが、まるで当たり前のような空気。
その自然すぎる距離感に、
隊士たちはまた顔を見合わせた。
それを見送りながら、一人の隊士がぽつりと口を開く。
「知ってるか朽木。」
「はい?」
「三席って、もともとすげー無愛想っていうか……怖い人だったんだぜ?」
「え?」
ルキアが目を丸くする。
「想像がつきません……」
「だよなぁ」
隊士は苦笑した。
「昔はもっとピリついてたんだよ。強えし、責任感も強いし、近寄りがたいっていうかさ」
「訓練もめちゃくちゃ厳しかったしな」
「笑ってても目が笑ってねえ時あった」
「今でも敵相手だと怖えけど」
隊士たちが苦笑混じりに頷き合う。
ルキアは驚いたように、遠くの二人を見つめた。
今の馨からは、そんな姿は想像できなかった。
「一時期なんて、本当に落ち込んでたからなぁ……」
「なあ」
一人の隊士がぽつりと呟く。
別の隊士が頷いた。
かつての馨は、どこか焦燥を抱えていた。
信頼していた仲間たちや上官の失踪。
十三番隊を守らなければならない立場。
無茶をして、死にかけたことも一度や二度ではない。
だが。
「持ち直したよなぁ、ほんと」
「副隊長のおかげだろ」
「あの二人見てると安心するんだよな」
「……つーかさ」
声を潜めて、ひとりがにやっと笑う。
「"そろそろ婚約するんじゃねーか?"」
「おいおい」
「いやでも絶対そうだろ。あの距離感だぞ?」
「副隊長、三席のことになると顔違うしな」
「三席も三席で、海燕さんの頼みだけ断れない感じあるよなぁ」
再び笑い声。
けれどそこに嫌な響きは無い。
むしろ、皆どこか嬉しそうだった。
あの二人が並んでいる光景が、十三番隊の日常になっていたから。
そんな会話を、
ルキアは静かに聞いていた。
視線の先。
廊下の向こうで、
海燕と並びながら話す馨の姿。
風に揺れる長い髪。
穏やかな微笑み。
柔らかな物腰。
だがその奥には、
誰よりも強い芯がある。
鬼道の才。
剣の実力。
隊士たちを包み込むような優しさ。
そして何より――
"海燕が、心から信頼している人"
「……綺麗だ」
ぽつりと漏れた声。
誰にも聞こえないほど小さく。
ルキアは知らず知らずのうちに、
その背中を目で追っていた。
憧れだった。
尊敬だった。
あんな死神になりたい、と。
そう思ってしまうほどに。
その時。
遠くから海燕の笑い声が響く。
「だから甘味処くらい付き合えって!」
「仕事だって言ったの海燕さんですよね?」
「……あれ?」
「はぁ……」
呆れながらも、完全には拒絶しない馨。
そのやり取りに、また隊士たちが笑った。
"十三番隊には今日も、穏やかな時間が流れていた"
┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈┈┈┈┈
新人隊士たちが入隊してから、
しばらく経っていた。
最初は右も左も分からず慌てていた新人たちも、少しずつ十三番隊の空気へ馴染み始めている。
隊舎内を走り回って怒鳴られたり。
任務報告書を間違えて馨に静かに説教されたり。
海燕に無理やり飲み会へ連れて行かれそうになったり。
そんな騒がしい日々を繰り返しながら、
隊はゆっくり"いつもの十三番隊"へ戻りつつあった。
そしてその夜も、馨の自室には紙をめくる音だけが静かに響いていた。
山のようだった書類仕事も、ようやく終わりが見え始めている。
虫の声と、
時折木々を揺らす風の音だけが、
縁側に穏やかに流れていく。
長い年月を共に過ごした者だけが持つ、
自然な空気があった。
馨は机へ向かったまま、最後の書類へ印を押す。
「……これで終わりです」
小さく息を吐いた瞬間。
「お疲れさーん」
だらりとした声が飛んでくる。
顔を上げると、障子を開けた先の縁側で酒を嗜みながらにやにやする海燕の姿があった。
「……少しは手伝うとか無いんですか?」
「だって俺がやるとやるで文句言うじゃねえか。」
「なんか、目の前でそうやっていられると腹が立つんですよね、何だか、」
「お前の勝手じゃねえかよ」
海燕は大げさに胸を押さえる。
「副隊長サマは忙しいんだよ」
「月を見上げてお酒を嗜むことが?」
「休息も仕事だ」
「どんな理論ですか」
馨は呆れたようにため息を吐く。
だが。
その声はどこか柔らかかった。
馨は簡単に片付けるとゆっくりと立ち上がる。
そして向かうのは海燕の隣。
気怠げに横たわる彼の隣で同じように茶を飲む。
ふたりで美しい夜空を見上げていた。
しばらく。静かな時間が流れる。
十三番隊の日常。
ようやく取り戻した、穏やかな時間だった。
その中で。海燕はふと、
何でもないような調子で口を開いた。
「なあ、馨」
「はい?」
馨は湯呑みを"ことん"と置くと、彼に目を向けた。
海燕はのっそりと座り直し、視線を馨に向ける。
「……あー……」
珍しく、ほんの少しだけ言葉を選ぶような間。
刹那、
「……俺の実家、来ねえ?」
馨が瞬きをする。
「実家?」
「志波家」
あまりにも自然に言われて、馨は一瞬理解が追いつかなかった。
海燕はそんな彼女を見ながら、少し照れ臭そうに頭を掻く。
「家族に会わせたいんだよ」
その言葉に。
馨の手が、ぴたりと止まる。
縁側に静かな沈黙が落ちた。
海燕は妙に落ち着かないのか、頬を指でかきながら視線をあちこちへ泳がせる。
「いや、別に大した意味とかじゃなくてな!?」
「……はい」
「お前いつも隊舎と任務ばっかだろ?たまには息抜きしろっていうか」
「はぁ……」
「あと空鶴たちも、前から会いたがってて……。あ!空鶴は俺の妹で…」
「知っていますよ。岩鷲さんのことも。」
「そ、そーだっけな?」
「何度も聞いてますよ。」
海燕は言葉を続けながら、少しだけ笑う。
馨は静かに彼を見る。
海燕は肩を竦めた。
「志波家って言っても、今はそこまで大層なもんじゃねぇし」
その声音には、どこか苦笑が混ざっていた。
"志波家"
かつて五大貴族の一つとして名を連ねた家。
だが。今の尸魂界で、
その権威はかなり薄れていた。
「ここ数十年で色々あってさ」
海燕がぽつりと呟く。
月の光がその横顔へ影を落とした。
「叔父貴は失踪したし」
その名を出した瞬間だけ、海燕の声が少し低くなる。
馨は静かに聞いていた。
海燕は続ける。
「昔ほど力もねぇし、今は結構没落気味」
苦笑する。
「まぁ、親父たちが自由すぎたのもあるけどな?」
「ふふ」
馨が小さく笑う。
海燕もつられるように笑った。
だがその後。少しだけ真面目な顔になる。
「今は、俺が当主代行みたいなことしてる」
その言葉には、思っていた以上の重みがあった。
海燕は普段、そういう苦労をほとんど見せない。
だからこそ。
馨は少しだけ目を細める。
海燕はすぐ、いつもの調子へ戻った。
「ま、だから全然堅苦しくねぇよ」
にっと笑う。
「むしろ騒がしいくらいだ」
その笑顔は、本当に志波家らしかった。
温かくて。
人間臭くて。
どこか安心する笑顔。
海燕はそのまま、馨の手を取り優しく握る。
「な?」
子供みたいな顔。
「いいだろ?」
ふたりの手は、
いつの間にか自然に重なっている。
昔は、指先が触れただけで互いに顔を赤くしていた。
視線が合うだけで鼓動が速くなり、少し距離が近づけば、
どうしていいかわからなくなっていた。
けれど今は違う。
恋人として、長い時間を共に生きてきた。
互いの温度も、呼吸も、沈黙の意味さえ知っている。
手を繋ぐことは当たり前になった。
寄り添うことも。
互いのぬくもりを求め、確かめ合う夜を重ねてきたことも――もう特別ではない。
それでも。
海燕がこうして触れてくれる度、馨の胸は今でも静かに温かくなる。
「……馨」
低く呼ばれ、
そちらを見る。
次の瞬間、
海燕の腕が優しく彼女を引き寄せた。
広い胸に包み込まれる。
安心する匂い。
慣れ親しんだ体温。
馨は抵抗することなく、
そっと彼の胸元に頬を寄せる。
海燕の顎が、
彼女の頭に軽く触れる。
「お前とこうしてんの、落ち着くな」
「……私もです」
静かな声で返すと、
海燕は小さく笑った。
夜風が、二人の髪を優しく揺らしていく。
遠くに見える隊舎の灯り。
穏やかで、満ち足りた時間。
まるでこの幸せが、
これから先もずっと続いていくかのように。
┈┈┈┈
┈┈┈┈┈
そして、
次の非番の日。
瀞霊廷は珍しく穏やかな晴天だった。
空は高く、風も柔らかい。
そんな昼下がり。
瀞霊廷の街道を、
二つの影が並んで歩いていた。
今日はどちらも死覇装ではない。
任務でも、隊務でもない。
完全な"私服"だった。
海燕は、濃紺の着流しを気崩したように纏っている。
普段より少しだけラフな格好。
だが、
元々整った顔立ちもあって妙に似合っていた。
そしてその隣。
馨もまた、淡い橙色の着流し姿だった。
隊服とは違う柔らかな布地が、歩く度に静かに揺れる。
髪も今日はきっちりとまとめられていて、普段よりずっと年相応に見えた。
彼女の手には、丁寧に包まれた風呂敷。
中には手土産が入っている。
そして。
もう片方の手は。
自然な形で、海燕の手を握っていた。
指先が絡む。
それはもう、
どちらからともなく行う当たり前の動作になっていた。
最初はぎこちなかった。
触れるだけで緊張して。
視線が合うだけで落ち着かなくなって。
そんな頃もあったのに。
今では、こうして並んで歩くことが自然になっている。
"恋人同士"
その言葉が、ようやくしっくり来るほどに。
魂魄事件。
隊長格失踪。
崩れた尸魂界。
あの数年間で、
二人は色々なものを見てきた。
だからこそ。
隣にいることが、以前よりずっと大切に思えた。
海燕は繋いだ手を軽く揺らしながら、にやにやしている。
「なんか変な感じだな」
「何がですか?」
「お前が綺麗な色の服きて、手土産持ってんの」
馨が少し眉を寄せる。
「普通持っていくものでは?」
「いや、もっとこう……緊張して変になるかと思ってた」
「どういうことです?」
「最初のお前」
即答だった。
馨は少し言葉に詰まる。
海燕はけらけら笑った。
「いやマジで、最初全然喋んなかったよな」
「……」
「今じゃ鬼道で吹き飛ばされる仲なのに」
「それは海燕さんが悪いです」
「理不尽!」
そんな他愛ない会話をしながら、
二人は歩く。
その空気は、
穏やかだった。
┈┈
志波家へ続く道を歩きながら、
馨はどこか緊張していた。
隣を歩く海燕はそんな彼女を見て、
くつくつと笑う。
「そんな硬くなんなよ」
「……緊張します」
「平気平気。うちの連中、お前のこと絶対気に入るから」
「その自信はどこから来るんですか……」
そんな会話をしているうちに、
やがて見えてくる志波家の敷地。
だがそこにあったのは、
朽木家のような厳かな屋敷ではなかった。
巨大な砲台。
異様なほど大きな大砲が堂々と据えられ、
周囲には工具や資材、見たこともない機械のようなものまで並んでいる。
建物もどこか独特で、
普通の貴族屋敷とはまるで違う。
豪快で、
雑多で、
けれど妙な活気があった。
馨は思わず立ち止まる。
「……志波家、ですよね?」
「おう」
海燕は当然のように頷いた。
「なんか文句あっか?」
「いえ……思っていたのと違って……」
「ははっ!よく言われる」
海燕が笑ったその時だった。
「"兄貴ーーーッ!!"」
勢いよく飛び出してきた小さな影。
「おっと」
海燕が笑いながら受け止める。
抱きついてきたのは、まだ幼さの残る少年だった。
「久しぶりじゃねーか兄貴!」
「"岩鷲"、相変わらず元気だな」
海燕の弟――"志波岩鷲"
岩鷲はじたばたしながら叫ぶ。
その後ろでは、
巨大な猪――ボニーちゃんまでいる。
全力で兄に抱きついていた岩鷲は、
ふと隣に立つ馨へ目を向けた。
ぱちぱちと瞬きをする。
「……誰?」
まっすぐな問い。
海燕は迷いなく笑った。
「俺の大切な人だ」
その言葉に、
馨の肩がぴくりと揺れる。
岩鷲は""へえーーっ!!""と声を上げ、
興味津々で馨を見上げた。
「兄貴の彼女!?」
「声でけえよ」
「すげぇ綺麗!」
「だからでけえって」
海燕が岩鷲の頭をぐしゃぐしゃ撫でる。
その兄弟のやり取りに、
馨は少しだけ頬を緩めた。
そして三人は建物の入口へ向かう。
すると。
「遅ぇぞ兄貴ーー!!」
入口に仁王立ちしていた人物が、
大声で叫んだ。
長い髪を揺らし、
腕を組んで立つ女性。
海燕によく似た目元。
だが彼以上に豪快で、
火薬みたいな勢いを纏っている。
"志波空鶴"だった。
馨はすぐに姿勢を正す。
「初めまして。無類井馨と申します」
深々と頭を下げ、
丁寧に風呂敷包みを差し出す。
「本日はお招きいただき――」
その瞬間だった。
「うおおおおっ!!」
「……!?」
突然、空鶴が勢いよく抱きついてきた。
「えっ」
完全に固まる馨。
大きな胸が馨の体に容赦なく当てられると、何故か恥ずかしささえ感じるほどに。
「兄貴が世話になってるな!!」
明るく笑う顔が、
驚くほど海燕に似ていた。
「待ってたんだよ!兄貴がやっと連れてきてくれるって!」
ぎゅうぎゅう抱き締められながら、
馨は助けを求めるように海燕を見る。
当の本人は腹を抱えて笑っていた。
「っ、海燕さん……!」
「悪ぃ悪ぃ、空鶴こういうやつなんだよ」
「楽しみにしてたんだぞ!?兄貴、ウチに顔出す度にずーっと馨の話ばっかしてたからな!」
「おい空鶴」
「"馨がさ〜、馨がな〜"って!」
「おい」
海燕の額に青筋が浮かぶ。
岩鷲は横で転げ回って笑っていた。
騒がしくて、
遠慮がなくて、
でも不思議と温かい。
馨は目を丸くしたまま、
その空気の中に立ち尽くす。
――これが、海燕が育った場所。
そう思った瞬間。
胸の奥が、
じんわりと温かくなった。
戦いも。
不穏も。
全部忘れてしまいそうなほどに。
く。
┈┈
昼食は、
志波家らしく賑やかだった。
大きな卓を囲み、
次々と料理が並べられていく。
「ほら馨!これうまいぞ!」
「兄貴それさっきから三回目!」
「岩鷲うるせえ!」
「海燕さん!それ空鶴さんのお皿です!」
「細けぇこと気にすんな!」
騒がしい。
けれど、
不思議と嫌ではない。
馨は最初こそ圧倒されていたが、
気づけば自然と笑っていた。
岩鷲が箸を落とせば拾い、
空鶴が豪快に笑えばつられて目を細める。
そして何より。
「海燕さん、汁こぼれてます」
「げっ」
「もう……」
呆れながら布で拭うその動作が、
あまりにも自然だった。
空鶴はその様子を黙って見ていた。
笑顔を浮かべながら。
最初は、
見定めるつもりだった。
本当に兄に相応しい女なのか。
海燕は優しくて、
真っ直ぐで、
その分どこか危うい。
だからこそ、
隣に立つ人間がどんな奴かは、
家族として気になっていた。
だが。
そんなことを考える時間は、すぐになくなった。
馨は気取らない。
貴族らしい綺麗な所作を持ちながら、
偉ぶることもない。
岩鷲にも自然に目線を合わせ、
空鶴の豪快さにも戸惑いながら笑う。
それ以上に。
海燕へ向ける目が、
とても柔らかかった。
無鉄砲な兄を止める時は止める。
呆れながら支え、
危なっかしければ手を伸ばす。
それなのに、
海燕を見つめる瞳には、
ちゃんと愛情がある。
そして何より――
"兄が、ずっと幸せそうだった"
それが空鶴には何より大きかった。
海燕は昔から、
家族の前では笑う男だった。
けれど馨といる時の笑顔は、
もっと自然で、
肩の力が抜けていて。
"安心している顔"だった。
空鶴は酒を煽りながら、
ふっと笑う。
「((ああ、……この人なら))」
馨の笑顔を横目に
「((兄貴の隣に、志波家の人間として迎えたい。))」
心の底から、そう思った。
┈┈┈
昼過ぎには、
岩鷲が馨にまとわりつき始めていた。
「馨!兄貴の昔話してやる!」
「おい待て岩鷲」
「昔、兄貴な!大砲暴発させて――」
「空鶴お前も止めろ!」
「言ってやれ岩鷲!!」
「海燕さん……」
馨は肩を震わせながら笑う。
こんな風に、
誰かと笑い合う時間を。
"家族"の中に混ざる時間を。
いつから忘れていたのだろう。
┈┈┈┈
帰る前。
海燕はふいに立ち上がった。
「馨。ちょっと付き合え」
「……?」
連れて行かれたのは、
敷地の奥。
騒がしかった志波家の空気とは違う、
穏やかな空間。
そこにあったのは、志波家の墓だった。
馨は静かに目を見開く。
海燕は夕陽を背に、
小さく笑った。
静かな場所だった。
夕陽が、二人を優しく包み込む。
さっきまで聞こえていた岩鷲の騒ぎ声も、
空鶴の豪快な笑い声も、
ここまでは届かない。
風が吹くたび、
木々がさわりと揺れる。
その音だけが、
二人の間を静かに流れていた。
馨は墓石へ静かに視線を向ける。
海燕がここへ自分を連れてきた意味を、
なんとなく理解していた。
「……ここ」
海燕がぽつりと口を開く。
「家族以外、入れたことねえんだ」
夕陽が彼の横顔を照らす。
普段みたいな軽い笑顔ではない。
「ここに他人連れてきたの、お前が初めて」
橙色の光が、彼の横顔を照らす。
風が静かに吹き抜け、木々が揺れた。
海燕は墓を見つめながら、しばらく黙っていた。
そして。
「……"結婚しようぜ"」
穏やかな声だった。
けれど、そこには迷いがなかった。
馨の瞳が揺れる。
海燕は少し困ったように笑う。
「ほんとは、ずっと前から考えてた」
「……」
「でもよ。色々ありすぎただろ。」
戦いも、
責任も、
守るものも。
色んなことがありすぎて、
気づけば数十年が過ぎていた。
「タイミング、見失ってたんだよな」
海燕は苦笑する。
「けど今なら言える」
海燕はゆっくり馨を見る。
夕陽に照らされた彼女の顔が、
あまりにも綺麗だった。
「……でも今なら言える。落ち着いた今だからこそ、ちゃんと伝えてぇ」
彼はそっと、
馨の手を握った。
大きく、
温かな手。
「俺はこれから先も、お前と生きていきたい。」
真剣な眼差し
「志波馨になってくれ」
けれど、
張り詰めてもいない。
ただ静かに、
大切なものを見つめる顔だった。
「…空鶴も岩鷲も」
海燕は小さく笑う。
「みんな、お前のこと気に入ってたろ」
「……皆さん、優しかったです。温かかったです。」
馨も自然と頬を緩めた。
賑やかで、
騒がしくて、
遠慮がなくて。
でも、
温かかった。
あんな風に誰かの輪の中へ入れてもらえたことが、嬉しかったのだ。
「お前さ」
海燕がふいにこちらを見る。
「今日、ずっと笑ってた」
「……そうですか?」
「ああ」
海燕は目を細める。
「なんか、嬉しかった」
その声は、ひどく優しかった。
馨は少しだけ視線を落とす。
握られていた手に、そっと力を返した。
海燕はその小さな反応に笑って、
それからゆっくり息を吐く。
まるで、ずっと胸の中にしまっていた言葉を、ようやく取り出すように。
橙色の光が、
二人の影を長く伸ばした。
馨の瞳が静かに揺れる。
海燕は少し照れ臭そうに頭を掻いた。
「心配せずとも、結婚するからってお前を縛るつもりはねえ。」
低く、穏やかな声。
「お前が今後、俺より上に行こうが、どんな立場になろうが――お前と一緒にいることは変わらねえ」
迷いのない言葉だった。
海燕は昔から、馨の強さを知っている。
その才能も、
覚悟も。
だからこそ、
"自分の隣に閉じ込める"ような真似はしたくなかった。
けれど。
海燕は少しだけ視線を逸らし、
照れたように笑う。
「……まあ、正直に言うとな」
「?」
「お前を、俺のもんにしてぇ」
馨の呼吸が、ほんの僅か止まる。
海燕は困ったように笑った。
「名前もそうだ」
「名前?」
「無類井馨じゃなくて、志波馨だって」
「……」
「"俺の妻"だって」
夕陽の中、
彼はまっすぐに彼女を見る。
「そういう、正式な"何か"が欲しい」
それは独占欲だった。
けれど、
決して重たいだけのものじゃない。
愛しているから。
失いたくないから。
ずっと隣にいてほしいから。
海燕はそっと、
馨の頬に触れる。
「……駄目か?」
普段なら絶対に見せないような、
少し不安そうな顔。
その表情を見た瞬間。
馨の胸が、
どうしようもなく熱くなった。
橙色の空。
長く伸びる影。
並ぶ墓石たちは、
まるで静かに二人を見守っているようだった。
風が吹く。
さわり、と木々が揺れる。
枝葉が擦れ合う音は、
どこか優しく、
穏やかで。
まるで志波の先祖たちが、
海燕の言葉を聞いて、
喜んでいるかのようだった。
頬へ触れる海燕の手は、
大きくて温かい。
馨はその手を見つめる。
ずっと隣にいてくれた手。
自分を支え、
守り、引っ張ってくれた人。
不器用で、真っ直ぐで、
誰より優しい人。
馨はゆっくりと、
自分の手を重ねた。
そして。
頬へ触れていた海燕の手に、
そっと擦り寄る。
甘えるようなその仕草に、
海燕の目が微かに揺れた。
「……馨」
呼ばれて顔を上げる。
その瞬間だった。
"ぽろり"と。
馨の瞳から、透明な雫が零れ落ちた。
海燕は目を見開く。
――涙。
それも、こんな風に穏やかな涙を。
「ッ……」
もしかすると、
初めて見たかもしれなかった。
強くて、
滅多に弱音を吐かず、
何でも一人で抱え込む彼女。
泣く時ですら、
誰にも見せまいとする人だった。
そんな馨が今、
自分の前で涙を流している。
夕陽を映したその涙は、
ひどく綺麗だった。
海燕の胸が、
ぎゅう、と締め付けられる。
愛しい。
守りたい。
幸せにしたい。
色んな感情が一気に押し寄せて、
うまく息が出来なくなる。
馨は涙ぐみながら、
小さく笑った。
「……はい」
声が震えている。
それでも、ちゃんと海燕を見つめ返した。
「私を……」
夕風が、二人の髪を優しく揺らす。
木々たちが、
祝福するようにざわめいていた。
「"妻にしてください"」
その言葉を聞いた瞬間。
海燕は堪えるように目を伏せ、
それからたまらず笑った。
「……は、……ははっ……」
嬉しそうに。
泣きそうなほど優しく。
そして次の瞬間、
強く、けれど壊れ物みたいに大切に、
馨を抱き締めた。
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幸せとは、
壊れる直前が最も美しい。
あまりにも、
穏やかすぎるほどに。
――まるで世界が、
二人に最後の優しさを与えるように。
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