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あの夜
終わったのは未来だった
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END
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春の終わりを思わせるような、穏やかな風が十三番隊隊舎を抜けていく。
その日ばかりは、普段静かな隊舎も妙に騒がしかった。
「おい!聞いたか!?」
「聞いたも何も、さっき本人たち見たぞ!」
「副隊長と三席だろ!?」
「正式に夫婦らしいぞ!」
廊下のあちらこちらで隊士たちが声を弾ませる。
十三番隊副隊長、志波海燕。
そして同隊三席、無類井馨。
長い年月を共に駆け抜けてきた二人は、その春、正式に夫婦となった。
もっとも、隊務中の名は変わらず"無類井"を使っている。
隊内外の混乱を避けるためでもあり、何より馨自身がそれを望んだからだ。
だが戸籍上――そして志波家においての彼女の名は、すでに"志波馨"へと変わっていた。
┈┈┈
「いやぁ〜〜めでたいなァ!!」
仙太郎が酒瓶を抱えながら豪快に笑えば、
「騒ぎすぎです仙太郎!!」
「隊長がお休みになれないでしょう!?」
清音が顔を真っ赤にして怒鳴る。
しかしその当の浮竹十四郎が、誰より感極まっていた。
「海燕……馨……」
簡易的とはいえ、志波家と十三番隊の者たちだけで開かれた小さな祝言。
そこには豪華な装飾も、貴族らしい大仰な儀式も無かった。
けれど。
だからこそ温かかった。
穏やかな灯りの中、
白い着物姿の馨が静かに頭を下げる。
その隣で海燕が照れ臭そうに笑いながら、
「……ま、そういうわけです」
などと頭を掻く。
その瞬間だった。
浮竹がふっと顔を歪めたかと思えば、
「……よかった、本当に……っ」
堪えきれなくなったように涙を零したのである。
「た、隊長!?」
海燕が慌てる。
馨も目を丸くしていた。
浮竹はそんな二人を、まるで弟妹を見るような優しい瞳で見つめると、そのまま静かに二人を抱き寄せた。
「……幸せになりなさい」
その声音は、どこまでも穏やかだった。
病に苦しみながらも、
仲間たちの未来を誰より願う男の声だった。
その光景を見ていたルキアも、思わず目元を緩める。
「……本当に、お似合いです」
彼女はそう呟いた。
誰よりも馨を慕い、
誰よりも海燕を尊敬していたルキアにとって、この結婚は心から嬉しいものだった。
夜が更ける頃には、隊士たちも酒を片手に騒ぎ始める。
「副隊長ォ!!奥さん取られないようにしてくださいよ!」
「うるせぇぞ仙太郎!」
「三席!!今ならまだ逃げられます!!」
「清音!!?」
笑い声が隊舎に響く。
その中心で、
馨は珍しく柔らかく笑っていた。
海燕の隣で。
浮竹やルキア、
十三番隊の仲間たちに囲まれながら。
まるで。
これから先も、
そんな日々が永遠に続くと信じているかのように――。
┈┈┈
だが。
その平穏の裏で、
尸魂界には再び、不穏な影が広がり始めていた。
数十年前。
瀞霊廷を揺るがせた"魂魄事件"
多くの死神が消え、
禁忌の研究と共に闇へ葬られたあの事件。
その名を知る者は少ない。
そして知る者の多くは、
今なおその記憶を口にしたがらなかった。
だが最近になって。
流魂街の各地区で、
妙な報告が相次ぐようになる。
"死体が見つかった"
"傍らには異型の仮面が落ちていた"
もしくは、残穢だけが残り死体も何もかもが消滅した状態か――
最初は誰も本気にはしなかった。
虚に襲われた遺体か。
あるいは流魂街特有の荒事か。
その程度の認識だった。
しかし。
報告は次第に増えていく。
しかも異様だった。
死体の顔には、
まるで白い面のようなものが張り付いている。
虚の仮面に似ているが、
どこか違う。
そして奇妙なことに、
直接的な外傷がほとんど存在しない。
争った形跡も、
斬られた痕も無い。
まるで。
"何かを試された後"のような死体。
ある者は恐怖に震え、
ある者は口を閉ざした。
瀞霊廷上層部もついに異常を認識し始める。
そして――。
十三番隊へ正式な調査命令が下された。
「流魂街西部、八十地区付近にて異変の痕跡多数確認」
隊舎内。
報告書を閉じた浮竹の表情は重い。
その場には海燕、馨、ルキアをはじめ、
主力隊士たちが集められていた。
「……隊長自ら出るんですか?」
海燕が問う。
浮竹は静かに頷いた。
「ただの事件ではない気がする」
その言葉に、
室内の空気がわずかに張り詰めた。
病により長時間の任務参加は少ない彼が、
自ら同行を決める。
それだけで異常性は十分伝わる。
「今回は少数精鋭で向かう」
浮竹はそう告げた。
副隊長・志波海燕。
三席・無類井馨。
そしてルキアを含めた実力者を含め計三十名。
まさに十三番隊の中核だった。
「二日間の調査任務になる予定だ。長引く可能性もある」
静かな説明。
だが。
誰もまだ知らない。
それが。
十三番隊にとって、そして志波馨という存在にとって――
"最後の任務になることを"
┈┈┈┈
翌日から始まる任務に備え、
十三番隊隊舎にはどこか張り詰めた空気が漂っていた。
流魂街西部。
しかも八十地区付近ともなれば、
ただの巡回任務とは訳が違う。
出発準備を終えた隊士たちが慌ただしく行き交う中、馨は一人、瀞霊廷中央部へ足を運んでいた。
技術開発局。
今回の任務に関する追加資料と、
現地観測用の簡易霊圧計測器を受け取るためである。
「相変わらず妙な建物ですね……」
無機質な通路を歩きながら、
馨は小さく呟いた。
"涅さんがいれば色々聞けたのに……"なんて呟く。
十二番隊と技術開発局は、
瀞霊廷の中でも独特な空気を持つ場所だ。
薬品の匂い。
奇妙な機械音。
どこからか聞こえる爆発音。
並の死神なら長居したくないと思うだろう。
そんな廊下を進んでいた、その時だった。
「……"おや"」
穏やかな声。
聞き慣れた声に、馨が視線を上げる。
そこに立っていたのは、
五番隊隊長――藍染惣右介だった。
白い羽織を纏ったその姿は、
以前よりもさらに落ち着いた空気を纏っている。
「藍染隊長」
馨は軽く会釈した。
藍染も柔らかく笑みを浮かべる。
「珍しい場所で会いますね」
「任務資料の受け取りです。藍染隊長は?」
「少し技術開発局に用がありまして」
そう答える声はいつも通り穏やかだった。
「((相変わらず、優しい雰囲気を纏う刀……))」
隊長へ昇格して以降、
彼と顔を合わせる機会は明らかに減っていた。
以前は副隊長と席官として
廊下や会議で顔を合わせることも多かった。
けれど今の藍染は五番隊隊長。
隊務も増え、
中央とのやり取りも多いのだろう。
実際、ここ最近まともに会話したのは数えるほどだ。
もっとも。
数回ほど。
"少し話がしたいんです"
そんな理由で呼び出されたことはあった。
彼の執務室で数十分語り合う。
用意してくれていた茶菓子もいつも好きなものばかりだった。
「任務とは?」
藍染が穏やかに問う。
「はい。明日から二日間、流魂街へ」
「……"例の事件"ですか?」
その言葉に、
馨の表情がわずかに真面目になる。
「はい。そうです」
短い沈黙。
藍染は静かに目を細めた。
「きな臭い話ですね」
「ええ。正直、嫌な感じはしています」
仮面姿の死体。
傷一つない遺体。
そして、
まるで何かを試したような異様さ。
魂魄事件を知る者間では、
既に"不気味すぎる"と噂になっていた。
だが藍染は、
それ以上深く触れようとはしなかった。
代わりに。
ふっと空気を変えるように微笑む。
「……そういえば、話は変わりますが」
「?」
「ご結婚、おめでとうございます」
穏やかな声音。
馨は少し目を瞬かせた後、
柔らかく笑った。
「ありがとうございます」
「昔からお二人の仲は見ていましたから」
藍染はどこか懐かしそうに言う。
「祝言のお写真も、京楽隊長から見せていただきました。後に、私の元にも届きましたよ。」
その瞬間。
馨の顔が少しだけ引きつった。
「……浮竹隊長が配っていたって噂、本当だったんですね」
思わず半笑いになる。
藍染は珍しく小さく肩を揺らした。
「ええ。かなり誇らしげでしたよ?"うちの子たちなんだ"とでも言いそうな勢いでした、と。」
その光景が容易に想像できてしまい、
馨は小さく額を押さえた。
「隊長らしいです……」
「はは。……兎にも角にも」
藍染は改めて馨を見る。
その視線は穏やかで、
けれどどこか深い。
「おめでとうございます」
静かな声だった。
「尸魂界中の男性達が、あなたの結婚に悔し涙を流しているでしょうね」
「……大袈裟です、隊長」
「いいえ。本当に」
さらりと言う藍染に、
馨は困ったように笑うしかない。
だが。
その会話の最中。
藍染の瞳だけが、妙に静かだった。
穏やかに微笑んでいるはずなのに。
その奥に、言葉にならない何かが沈んでいるような。
そんな感覚を、
馨はほんの一瞬だけ覚える。
だが次の瞬間には、
いつもの藍染惣右介に戻っていた。
「いけない」
藍染が時計代わりの懐中具を閉じる。
「立ち話は、つい長くなってしまいますね」
「ふふ、そうですね」
「では」
藍染は静かに横へ退く。
そのまま、
すれ違いざまに。
「――お気をつけて」
低く落ちた声。
そして。
「無類井三席」
その呼び方に、
馨は自然と振り返る。
藍染はもう歩き出していた。
白い羽織だけが、
静かな廊下の奥へ消えていく。
そして最後に。
彼は振り返ることなく、
ただ一言だけ残した。
「……"また"」
それは、
ただの別れの挨拶だったのか。
それとも――
┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈┈
出立の日。
まだ朝靄の残る瀞霊廷は、
普段より静かだった。
十三番隊隊舎前。
既に任務へ向かう隊士たちが整列を終えている。
総勢、およそ三十名。
通常の巡回任務としては明らかに多い人数だった。
それだけ、今回の件が異常視されている証でもある。
隊士たちの表情にも、
どこか緊張が滲んでいた。
その先頭に立つのは、
副隊長――志波海燕。
そしてその隣には、
三席――無類井馨。
「全員揃ったな!」
海燕のよく通る声が朝の空気を裂く。
陣頭指揮をとるその姿は、
まさしく十三番隊副隊長だった。
隊士たちも背筋を伸ばす。
その少し後ろでは、
浮竹十四郎が穏やかに隊舎を見上げていた。
春の風が、
白い羽織を静かに揺らす。
「では、留守を頼んだよ。仙太郎、清音」
その言葉に。
「はいッ!!」
「お任せください!!」
二人が勢いよく頭を下げた。
仙太郎はいつも以上に真剣な顔をし、
清音も強く拳を握る。
「隊長たちも気をつけてください!」
「帰ってきたらちゃんと報告してくださいね!」
その声に、
海燕が笑う。
「なんだよお前ら、心配しすぎだろ」
「副隊長が一番心配なんですよ!!」
「失礼だな!?」
すかさず飛んできた清音の言葉に、
周囲の隊士たちから小さな笑いが漏れた。
張り詰めていた空気が、
ほんの少しだけ和らぐ。
そんな様子を見ながら、
馨は静かに目を細めていた。
そして。
「では、行こうか」
浮竹の穏やかな声。
その一言で、
空気が変わる。
隊士たちの表情が引き締まり、
全員の霊圧が静かに整っていく。
海燕が前へ出る。
その隣に、
自然な動作で馨も並んだ。
長年共に戦ってきた二人だからこその距離感。
言葉など必要無い。
海燕が軽く視線を向ければ、
馨も小さく頷く。
それだけで十分だった。
「行くぞ!!」
次の瞬間。
三十を超える死神たちの姿が、
一斉に跳んだ。
屋根を駆け、
朝焼けの瀞霊廷を越えていく。
先頭を走るのは、
志波海燕と無類井馨。
その背を追うように、
十三番隊の精鋭たちが続く。
目指す先は、
瀞霊廷から遥か離れた流魂街西部。
徐々に荒れ始める地帯。
霊子も淀み、
空気さえ重くなっていく場所。
そしてそこには。
まだ誰も知らない"異常"が、
静かに待ち受けていた。
┈┈┈┈┈
目的地へ到着した頃には、
空はすっかり夜に染まっていた。
流魂街西部。
八十地区近辺。
瀞霊廷とはまるで別世界だった。
崩れかけた長屋。
割れた石畳。
人気のない路地。
風が吹くたび、どこかで軋むような音が響く。
霊子も妙に重い。
まるで土地そのものが淀んでいるようだった。
長時間の移動に、
さすがの隊士たちにも疲労が見える。
「はぁ……っ、やっと着いた……」
「思ったより距離ありましたね……」
息を吐く隊士たちを見回しながら、
海燕が周囲の地形を確認する。
そして。
「よし!」
彼は近くの開けた場所へ踏み出した。
「今日はこの辺りに陣を作る!」
副隊長の声に、
隊士たちが一斉に動き始める。
「班ごとに分かれろ!」
「結界柱の設置急げ!」
「見回り組は後で編成する!」
疲労を押し殺しながらも、
十三番隊の隊士たちは手際よく動いていく。
簡易結界。
仮設天幕。
霊圧感知札。
荒れ果てた流魂街の一角に、
小さな前線基地が出来上がっていく。
その光景を少し離れた場所から見ながら、
馨は静かに膝をついていた。
「……隊長、少し失礼します」
柔らかな緑の光。
回道だった。
浮竹の胸元にそっと触れ、
霊圧を流し込んでいく。
長距離移動の負担。
慢性的な病。
少しでも身体を楽にしようとしているのだ。
浮竹は困ったように微笑む。
「悪いね、馨」
「いえ」
馨は小さく首を振った。
「むしろ隊長こそ、今回の任務に出てくださるなんて」
その言葉に、
浮竹は静かに夜空を見上げる。
「……今回は、さすがに心配だからね」
穏やかな声音だった。
だが、その目はどこか鋭い。
「嫌な予感がするんだ」
ぽつりと落ちた言葉。
周囲の風が、
わずかに冷たくなる。
「それに」
浮竹は少しだけ笑った。
「いつも皆に迷惑をかけているから」
その言葉に、
馨の手が止まる。
「そんなこと、ありません」
即答だった。
「隊長が居てくださるから、皆安心して戦えるんです」
静かな声。
けれど、そこに迷いは無い。
浮竹は少し目を細めた。
「……海燕といい、君といい。優しい子たちだね」
「副隊長は優しすぎます」
「はは……それは確かに」
小さな笑い声が、
夜の陣地に溶けていく。
その頃には、
隊士たちもようやく落ち着き始めていた。
焚き火の周囲では、
簡易的な食事が配られている。
干し飯。
保存用の汁物。
質素なものだが、
長距離移動後には十分ありがたい。
「見回り組、あとで交代なー!」
「先に休める奴は休んどけ!」
海燕の指示が飛ぶ。
隊士たちもそれぞれ疲れた身体を休め始めていた。
そんな中。
「ルキア、次の見回り行こう」
「はい!馨殿!」
ふたりは視線を合わせ頷く。
その刹那――
「馨!ルキア!きいつけろよ!」
「はい!海燕殿もお気をつけて!」
「またあとで」
「おう!」
海燕とは正反対の南側へ
互いに笑みを向けあい手を振るう。
「……」
馨は踵を返す海燕の後ろ姿を静かに見送る。別に何かある訳では無い、なんとなく、じっと見ていた。
「馨殿?」
「……うん。行こっか。」
そして二人は静かに陣を離れる。
夜の流魂街は静かだった。
静かすぎるほどに。
人の気配も薄い。
遠くで風が吹き抜ける音だけが響く。
やがて二人は、
半ば崩れ落ちた長屋の跡地へ辿り着いた。
柱は折れ、
屋根もほとんど残っていない。
かつて人が暮らしていた痕跡だけが、
そこに残されていた。
馨はその瓦礫の一部へ腰を下ろす。
ルキアも隣へ座った。
「……綺麗ですね」
ルキアがぽつりと呟く。
見上げた空には、
無数の星が広がっていた。
荒れ果てた流魂街には、
明かりが少ない。
だからこそ、
夜空だけは異様なほど綺麗だった。
馨は静かに空を見上げる。
その横顔は穏やかだった。
崩れかけた長屋の残骸に腰を下ろし、
馨とルキアは静かな夜空を見上げていた。
風は冷たい。
だが不思議と、
その時間は穏やかだった。
遠くでは隊士たちの話し声や、
焚き火の弾ける音が微かに聞こえる。
そんな中。
「……馨殿」
ぽつりと、
ルキアが口を開いた。
馨は隣に視線を向ける。
「どうしたの?」
するとルキアは少し迷った後、
小さく笑った。
「……"姉様"は」
その呼び方に、
馨も自然と目を細める。
二人きりの時だけ。
ルキアは時折、
馨を"姉様"と呼ぶ癖があった。
血の繋がりなど無い。
けれど。ルキアにとって馨は、
それほど大きな存在だった。
そして馨もまた、
そんなルキアを実の妹のように愛していた。
「姉様は……なぜ、そんなに強いのですか?」
静かな問いだった。
夜風が、
二人の黒髪を揺らす。
馨は少しだけ考えるように空を見上げる。
「……強い、か」
苦笑混じりの声。
「私は、自分を強いと思ったことはないよ」
「ですが!」
ルキアは思わず身を乗り出す。
「鬼道も、斬術も、判断力も……姉様は誰よりも優れているではありませんか!」
その瞳には、
憧れが宿っていた。
真っ直ぐで、
眩しいほどの尊敬。
馨はそんなルキアを見つめ、
少し困ったように笑う。
「私はね」
静かな声。
「守りたいものを見捨てられないだけ」
その言葉に、ルキアが目を瞬かせる。
馨は夜空を見上げたまま続けた。
「怖いよ?傷つくのも、失うのも」
それは、
彼女にしては珍しい弱音だった。
「でも」
次の瞬間。
その瞳が静かに細められる。
「それでも手を伸ばさなかった時の後悔の方が、もっと怖い」
風が吹く。
その横顔は穏やかなのに、どこか強かった。
「だから私は戦うの」
淡々としている。
だが、
そこには確かな覚悟があった。
「大切な人たちが笑っていられるなら、それでいい」
その言葉に、
ルキアは息を呑む。
やはり。
この人は美しい、と。
強さとは、
誰かを傷つけるためのものではなく。
誰かを守るためにあるのだと、
馨は自然に示してしまう。
だから皆、
彼女に惹かれる。
だから皆、
彼女の背中を追ってしまう。
「……私は」
ルキアは小さく拳を握った。
「姉様のようになりたいんです」
その声音は震えていた。
憧れ。
尊敬。
そして、
追いつきたいという願い。
馨はそんなルキアを見つめると、
ふっと優しく笑った。
「ルキアは、そのままで十分素敵だよ」
そっと頭を撫でる。
ルキアの肩が小さく跳ねた。
「か、馨殿……!」
「また敬語に戻った」
「い、今はその話ではありません!」
顔を赤くするルキアに、
馨は小さく笑う。
穏やかな空気だった。
戦地とは思えないほど。
――その時だった。
"ひゅう…………"
不意に風の音が変わる。
馨の表情が止まった。
「……?」
次の瞬間。
周囲に、
白い霧が広がり始める。
最初は薄かった。
だが異常な速度で濃くなっていく。
視界が霞む。
空気が重い。
そして。
「……っ」
馨の眉が僅かに寄った。
霊圧が読めない。
いや。
"探知できない"
周囲に居るはずの隊士たちの気配が、
霧の向こうへ溶けていく。
「なっ……なんでしょう、これは……」
ルキアが刀へ手をかける。
声に緊張が滲む。
「……おかしい」
馨は即座に立ち上がった。
「結界の霊圧も感じない……?」
結界の自然消滅
何も感じ取れない。
まるで、
空間そのものが切り離されたように。
霧はさらに深くなる。
視界は数メートル先すら怪しい。
「ルキア」
馨の声音が変わる。
完全に戦闘時のそれだった。
「大丈夫。私から離れないで」
「は、はい!」
ルキアも緊張した様子で頷く。
その瞬間――
「――"がァァァァァッ!!!"」
隊士の絶叫が、
すぐ近くから響いた。
「((大きな音が聞こえる!場所は――))」
鋭い金属音が、
霧の奥から響き渡った。
それはただ刀がぶつかった音ではない。
殺気と恐怖が混じった、
戦場の音だった。
「っ!!」
馨の表情が変わる。
反射的に立ち上がると、彼女は即座にルキアの手首を掴んだ。
「ルキア、行くよ!」
「は、はい!」
次の瞬間、二人の姿が霧の中へ消える。
瞬歩。
湿った地面を蹴り、
崩れた建物の屋根を飛び越えながら陣営中央へ向かう。
だが異常だった。
視界が悪すぎる。
霧が濃いだけではない。
霊圧探知が機能しないのだ。
隊士たちの位置が掴めない。
結界の感覚も消えている。
「こんなこと……」
馨の眉間に皺が寄る。
あり得ない。
十三番隊が展開した結界。
しかも浮竹と自分が確認した上位式。
自然に崩壊するはずがない。
なのに。
霊圧そのものが、
霧に呑まれていく。
まるで空間自体が、
何かに侵食されているような感覚。
その間にも。
「た、助け――!!」
「近づくなァァァ!!」
悲鳴が近づいてくる。
馨はさらに速度を上げた。
そして。
陣営中央へ飛び込んだ瞬間――
「……なっ……」
ルキアが息を呑んだ。
そこはもう、
任務陣地ではなかった。
地獄だった。
焚き火は蹴散らされ、
食器や荷物が地面へ散乱している。
隊士たちは完全に混乱し、
何人かは刀を抜いたまま後退していた。
そしてその中心。
「ア゛アアアアアアアアアッ!!!」
一人の隊士が、
狂ったように刀を振り回していた。
白目を剥き、
口から泡を吹いている。
霊圧が異常だった。
死神の霊圧と、
虚の霊圧が混ざり合っている。
不安定に。
歪に。
膨れ上がっている。
「落ち着いてください!!」
別の隊士が必死に呼びかける。
しかし、暴走した隊士は、
それに反応するように絶叫した。
「■■■■アアアアッ!!!」
次の瞬間。
横薙ぎに振るわれた刀が、
隊士の肩を裂いた。
「ぐぁぁっ!!」
鮮血が飛ぶ。
「"下がれ!!"」
馨の声が響く。
その瞬間、彼女はもう前へ出ていた。
だが異常はそれだけではなかった。
「っ……!」
ルキアがさらに奥を見る。
そこには。
地面へ倒れ込みながら、
苦しげに喉を掻きむしる隊士の姿。
「が……ぁ……っ……!!」
顔半分が、
白い"仮面"に覆われていた。
まるで骨のような質感。
虚の面。だが完全ではない。
顔へ張り付くように、
内側から侵食している。
「■■……ァ……」
意味を成さない言葉。
いや、
既に言語能力そのものが崩壊していた。
霊圧が乱れている。
虚。
死神。
その境界が、無理矢理混ぜ合わされているような。
異様すぎる光景だった。
「な、なんだこれは……」
隊士たちの顔から血の気が引いていく。
誰も見たことがない。
誰も理解できない。
その時だった。
暴走していた隊士が、
再び刀を振り上げる。
狙いは近くに居た若い隊士。
恐怖で足が止まっている。
間に合わない。
だが。
「――"縛道の七十三"」
低く鋭い声が、
霧の中を裂いた。
瞬間。
馨の周囲に巨大な霊子陣が展開される。
淡い蒼白の光。
幾何学模様の鬼道式が、
空中へ幾重にも重なった。
「"倒山晶"」
空間そのものが砕けるような轟音。
次の瞬間、
無数の巨大な光杭が出現した。
それは槍のように空中を駆け、
暴走した隊士の四肢を貫く。
「ガァァァアアアッ!!?」
地面へ叩きつけられる隊士。
さらに。
追加の光杭が霊圧ごと身体を固定する。
完全拘束。
通常の死神なら、
指一本動かせない上位縛道。
だが。
「っ……!?」
馨の表情が変わる。
止まらない。
拘束されたはずの隊士が、
無理矢理身体を起こそうとしていた。
筋肉が軋む。
骨が鳴る。
あり得ない力。
さらに。
顔面の皮膚が、
白く変色し始める。
「仮面が……広がってる……」
ルキアの声が震えた。
ぱき……ぱき……
骨が形成されるような音。
白い面が、
顔を覆おうとしている。
その異様さに、
隊士たちが後ずさる。
「近づくな!!」
「霊圧が異常だ!!」
混乱。
恐怖。
その空気を切り裂くように、
別の隊士が絶叫した。
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
顔半分を仮面に覆われた隊士が、
突然立ち上がったのだ。
あり得ない動きだった。
目が合っていない。
焦点が存在しない。
なのに。
霊圧だけが、
異様なほど膨れ上がっている。
「■■■■■■ッ!!!」
咆哮。
その瞬間、
周囲の空気が震えた。
「総員下がれ!!」
聞き慣れた穏やかな声。
だがそこには、
隊長としての圧があった。
浮竹十四郎。
白い羽織を翻しながら、
霧の奥から現れる。
その霊圧だけで、
場の空気が一瞬変わった。
「馨!」
「はい、隊長!」
言葉はそれだけ。
二人は即座に理解する。
浮竹が前へ出る。
双魚理が静かに抜き放たれ、
周囲へ霊圧が広がった。
その霊圧は荒々しくない。
だが深い。
大海のような圧力。
暴走隊士たちの動きが、
僅かに鈍る。
その隙を逃さず、
馨が再び鬼道を展開した。
「"縛道の七十九"――」
空間へ、
巨大な光輪が浮かび上がる。
幾重にも重なる高位鬼道式。
霊圧制御は極限。
「"九曜縛"」
九つの巨大な光輪が、
暴走した二人を包み込んだ。
重圧。
拘束。
霊圧封鎖。
すべてを同時に行う上位縛道。
「ガァァアアアアアアッ!!!」
咆哮。
仮面が軋む。
白い霊子が、霧の中へ飛び散る。
それでもなお、
二人は暴れ続ける。
「押さえ込め……!」
馨の額に汗が滲む。
霊圧を上げる。
さらに。
浮竹の霊圧が重なる。
二人の力で、
ようやく暴走が止まり始めた。
――だが。
その時だった。
「……え?」
誰かが呟く。
拘束されていた隊士の顔。
その白い仮面に、
一本の亀裂が走った。
ぱき。
嫌な音だった。
次の瞬間。
仮面が砕け散る。
そして。
隊士の身体から、
突然すべての霊圧が消えた。
糸が切れた人形のように、
その身体が崩れ落ちる。
静寂。
誰も動けない。
誰も、
理解できなかった。
ただ。
死体の顔に残った、
白い仮面の破片だけが――
この異常が現実だと、
冷たく告げていた。
拘束されていた隊士の身体が、
ゆっくりと崩れ落ちる。
どさり、と
重たい音だった。
だがその音以上に、
場を支配したのは"静寂"だった。
誰も動けない。
誰も、
今起きた現象を理解できない。
「……死、んだ……?」
隊士の一人が、
掠れた声で呟く。
その声すら、
霧の中へ吸い込まれていく。
地面へ倒れ伏した隊士の顔には、
砕けた白い仮面の残骸。
まるで骨のような、
虚の面。
だが虚ではない。
死神でもない。
そのどちらでもない、
何かだった。
馨はその場へ膝をついたまま、
動かなかった。
いや、
動けなかった。
指先に残る感覚。
崩壊していった魂魄。
回道を流し込んだ瞬間、
霊圧そのものが壊れていった異様な感覚。
あんなもの、
見たことがない。
「馨……」
浮竹が静かに声を掛ける。
だが。
馨の意識は別の場所へ向いていた。
「……あれ……」
ぽつりと、
小さな声が零れる。
そして次の瞬間。
彼女の顔色が変わった。
「海燕殿は?」
ルキアが顔を上げる。
馨はゆっくり立ち上がると、
霧の奥を見つめた。
探る。
霊圧を。
だが。何も掴めない。
「……副隊長の霊圧が、ない……」
その声音には、
隠しきれない焦りが滲んでいた。
普段の馨なら、
決してここまで感情を露わにしない。
だが今は違う。
「そんな……」
ルキアも周囲を見る。
確かに居ない。
海燕姿が。普通なら。
こんな異常事態が起きれば、
誰より先に飛び込んでくる男だ。
隊士が傷つけば、
自分の身を顧みず前へ出る。
馬鹿みたいに真っ直ぐで、
誰より熱くて。
十三番隊の誰もが、
その背中を信じている。
そんな男が。
まだ現れない。
あり得なかった。
「おかしい……」
馨が低く呟く。
霧はさらに深くなる。
視界が白く閉ざされていく。
霊圧探知も不可。
結界の感覚も完全に消えている。
何も読めない。
どこに誰がいるのか、
全く分からない。
それが何より恐ろしかった。
「……浮竹隊長」
馨が振り返る。
その瞳には、
明らかな焦燥があった。
「副隊長を探します」
「待ちなさい、馨」
浮竹がすぐに制止する。
「単独行動は危険だ」
「ですが……!」
珍しく、
馨が食い下がった。
浮竹もそれに気づく。
彼女がここまで取り乱すのは、
本当に珍しい。
それほどまでに、
志波海燕という存在は大きい。
「……私も行く」
浮竹が前へ出ようとしたその時だった。
ぶわり――
霧が、さらに濃くなる。
まるで生き物のように。
白い靄が、
周囲を覆い尽くしていく。
空気が重い。
息苦しい。
嫌な予感だけが、
際限なく膨れ上がっていった。
┈┈┈
その頃。
深い霧の中を、
一人の男が歩いていた。
「……チッ」
志波海燕。
斬魄刀を握る手に、
自然と力が入る。
静かすぎた。
隊士たちの声が聞こえない。
霊圧も探れない。
視界も数メートル先が限界。
異常だ。完全に。
「どこ行ったんだよ、皆……」
低く吐き捨てる。
その瞬間。
"ざり"――
霧の奥で、
何かが動いた。
海燕が即座に刀を構える。
「誰だ」
返答はない。
代わりに。ゆっくりと、
人影が霧の中から浮かび上がってくる。
黒い死覇装。
細身の体躯。
そして。
「……馨?」
海燕の表情が変わった。
現れたのは、無類井馨だった。
長い黒髪。
見慣れた瞳。
手には刀。
その姿は、どこから見ても馨本人。
霊圧も間違いなく馨だった。
「無事か!?」
海燕がすぐに駆け寄る。
安堵が滲んでいた。
「お前探したんだぞ!」
馨は静かに頷く。
「"はい"」
落ち着いた声。
いつも通りの声音。
「みんなは!?隊長は無事なのか!?」
海燕が矢継ぎ早に尋ねる。
馨はゆっくり答えた。
「……みんな避難済みです。重傷者はいますが、浮竹隊長が抑えています」
その瞬間。
海燕の肩から、
ふっと力が抜けた。
「……っ……なんだ……そうか……」
心底安心したように笑う。
「よかっ――」
""どすっ""
鈍い音だった。
時間が止まる。
「……え」
熱かった。
左腹部。
視線を落とす。
そこには。
刃が深く突き刺さっていた。
深々と。
肉を裂き、
腹部を貫いている。
「が……ッ……!!」
血が込み上げる。
口から熱い液体が溢れ、
地面へ滴った。
視界が揺れる。
痛みが遅れて襲ってくる。
「っ……ぁ……!」
海燕がよろめく。
刺したのは、馨だった。
馨が。
自分へ。
刀を突き立てていた。
「っ!?」
理解が追いつかない。
なぜ。
どうして。
「……馨……?」
震える声。
だが。
その瞬間だった。
「((……馨……?))」
違和感が走る。
目の前の"馨"から漂う空気。
視線。
表情。
霊圧や気配は同じなのに、
何かが、決定的に違う。
「……"お前"……」
海燕が血を吐きながら笑う。
苦しげに。
だがその目は死んでいない。
「"馨じゃ……ねえ、な"……」
普通なら気づけない。
"""完全催眠――鏡花水月"""
認識そのものを書き換える、
絶対の幻覚。
だが海燕は、
本能で察した。
"これは違う"と。
すると。
目の前の馨が、静かに笑った。
「……ッ……」
ぞくり、と。
背筋が冷える笑み。
馨が絶対にしない顔。
そして。
「……"流石です"」
声音が変わる。
低く。
穏やかで。
どこまでも冷たい。
「"志波副隊長"」
その瞬間。
目の前の存在が、
馨ではないと確信する。
霧の奥で。
"馨"の顔をした何者かが、
静かに微笑んでいた。
┈┈┈┈┈┈
┈┈┈┈
「総員、陣形を崩すな!!」
浮竹の声が、霧の中へ鋭く響き渡る。
普段の穏やかな声音ではない。
隊長としての、
絶対に崩れない芯を持った声だった。
混乱しかけていた隊士たちが、
その声に僅かに我を取り戻す。
「負傷者を中央へ!」
「単独行動は禁止だ!」
「視界が悪い、必ず二人以上で動け!」
浮竹自身も刀を構えたまま、
周囲の霊圧を探り続けている。
だが。
やはり感知できない。
霧が、
すべてを遮断している。
結界も死んでいる。
こんな異常、
普通ではあり得ない。
「隊長!!右側の結界杭が反応しません!!」
「左側もです!!」
隊士たちの焦った声。
浮竹の表情がさらに険しくなる。
その少し前方。
馨はルキアの隣へ立っていた。
刀へ静かに手を添え、
霧の奥を睨んでいる。
その姿は、
異様なほど落ち着いていた。
だが。
長年彼女を見てきたルキアには分かる。
今の馨は、
極限まで集中している。
呼吸。
霊圧。
視線。
すべてが戦闘態勢だった。
「ルキア」
「……はい」
「絶対に、隊列から離れないで」
静かな声。
けれどそこには、
有無を言わせぬ圧があった。
ルキアも小さく頷く。
その瞬間だった。
「――ぎゃぁぁぁぁぁッ!!!」
絶叫。
背後から、
同時に。重い音。
誰かが倒れる音。
「なっ……!?」
隊士たちが振り返る。
だが次の瞬間。
「ぐぁっ!!」
「ぁぁぁああッ!!」
悲鳴が連続した。
一人。
また一人。
隊士たちが、
何かに斬り伏せられるように倒れていく。
だが見えない。
霧が深すぎる。
「何がいる!!?」
「敵はどこだ!!」
恐怖が一気に広がる。
その時にはもう、
馨は動いていた。
「ルキア!浮竹隊長をお願い!」
「馨殿!!」
ルキアの声を背に、
馨が霧の中へ飛び込む。
速い。
瞬歩。
白い霧を裂きながら、
悲鳴の中心へ一直線に駆ける。
そして。
刀と刀がぶつかり合う音が轟く。
激しい火花。
馨の刀が、突如霧の中から振るわれた斬撃を受け止めた。
「っ……!!」
重い。
異常な力。
馨の足元が、
地面を削りながら後退する。
「((……待って……この刀……!))」
それは刀身が大きく湾曲していた。
槍と薙刀の中間のような長柄武器、先端が渦を描くように捻れた独特の刃の形――
次の瞬間。
霧の向こうから、
ゆっくりと"それ"が現れた。
「……え……」
馨の瞳が揺れる。
見慣れた斬魄刀。
水を纏う刀身。
""捩花""
そして。
「……"海燕さん"……?」
現れた男を見た瞬間、
周囲の隊士たちが息を呑んだ。
志波海燕。
だが。
それはもう、彼らの知る副隊長ではなかった。
顔の半分以上が、
白い仮面に覆われている。
仮面から除く瞳は白目と黒目が反転し、不気味な雰囲気をまとう。
骨のような質感。
虚の面。
さらに仮面は頭部へまで侵食し、
不気味な角のような突起すら形成していた。
霊圧も異常だった。
死神の霊圧と、
虚の霊圧が完全に混ざり合っている。
重い。
禍々しい。
息をするだけで、
肌が粟立つほどの霊圧。
「そ……んな……」
ルキアの顔から血の気が引く。
隊士たちも凍りついていた。
他の隊士たちは、
虚化の途中で死んだ。
仮面が形成されきる前に、
魂魄そのものが崩壊した。
だが。
海燕は違った。
副隊長格の霊圧。
強靭な魂魄。
その強さゆえに。
彼だけが、
"完全な虚化"へ到達してしまった。
「■■■■■■■■ッ――!!!」
咆哮。
空気が震える。
次の瞬間。
海燕が消えた。
速い。
副隊長としての実力に、
虚の身体能力が上乗せされている。
「馨殿!!」
ルキアが叫ぶ。
だが馨は動かなかった。
いや。
動けなかった。
目の前の存在が、
"敵"として認識できない。
その一瞬の躊躇を。
虚化した海燕は逃さない。
「うぐっ!!!」
再び捩花が振るわれる。
凄まじい水圧を伴った斬撃。
馨は咄嗟に受け止める。
衝撃で足元が砕けた。
「っ……!!」
重い。
異常なほど。
しかも。
海燕の瞳には、
もう理性が残っていなかった。
虚ろだった。
獣のように。
ただ目の前の存在を、壊そうとしている。
「副隊長!!」
隊士の一人が叫ぶ。
その瞬間。
海燕の首が、
ぎり、と動いた。
仮面越しの視線が、
隊士へ向く。
殺気。
隊士の背筋が凍る。
まずい。
馨は即座に理解した。
次の瞬間。
海燕の姿が消える。
「危ないッ!!」
馨が叫ぶ。
そして自ら飛び込んだ。
「((なんて力!いつもの倍以上違う!))」
捩花の斬撃が、
隊士の居た場所を粉砕する。
建物の残骸が吹き飛び、
霧の中へ瓦礫が舞った。
「ぐっ……!」
馨がそのまま海燕の刀を受け止める。
顔が近い。
白い仮面。
歪んだ呼吸音。
虚の霊圧。
それなのに。
目の前の男は。
間違いなく、志波海燕だった。
「馨!」
「っ隊長!隊士を連れて下がってください!」
ここで大将がやられる訳にはいかない。その一心で必死だった。
馨は必死に次の一手を考える。彼の捩花を受けながら――
刹那――
"ギチ――ッ"と骨の鳴るような音を立て、海燕だったものがこちらを向く。
その瞬間、地面が爆ぜた。
「っ!!」
凄まじい速度。
馨は咄嗟に後方へ瞬歩する。
だが遅い。
伸ばされた腕が肩を掠め、死覇装が裂ける。
そのまま地面に叩きつけられ。激突した衝撃で肺の空気が吐き出された。
「が……っ……!」
痛みより先に、涙が込み上げる。
違う。これは敵じゃない。
この霊圧を、馨は知っている。
笑いながら自分の名を呼ぶ声も。
不器用に頭を撫でる手も。
"隣に来い"と言ったあの日の顔も。
全部、知っている。
だからこそ――斬れなかった。
再び海燕が迫る。
虚閃にも似た霊圧が口元へ収束していく。
周囲の隊士たちが悲鳴を上げた。
「副隊長!!」
「逃げろォ!!」
だが馨だけは動かなかった。
「((……止めなければならない!))」
理性を失い、白い仮面に侵されていく海燕の姿を前に、馨は荒れる呼吸を無理やり押し殺した。
霊圧が暴風のように吹き荒れる。
虚化した海燕は、もはや仲間の声すら届いていなかった。
「……っ、海燕さん……!」
返事はない。
あるのは獣のような咆哮だけ。
白い仮面の奥で揺れる瞳が、かつての優しい彼のものとは思えないほど濁っていた。
「((このままだと全滅する……))」
馨は震える指で斬魄刀を握り直す。
既に限界は近かった。
それでも止めるのは、自分でなければならなかった。
海燕が再び地面を蹴る。
轟音。
一瞬で距離を詰めた拳が、馨の頬を掠めた。
避け切れなかった衝撃だけで身体が吹き飛び、大木に叩きつけられる。
「か……っ、ぁ……!」
肺から空気が抜ける。
視界が明滅する中、それでも馨は立ち上がった。
血の滲む唇を拭い、正面を見据える。
目の前にいるのは化け物ではない。
自分が守りたい人だ。
「……ごめんなさい」
掠れた声で呟き、馨は右手を前へ突き出した。
霊圧が空気を震わせる。
刹那、馨は離れた場所で見守る浮竹に視線をやる。馨か纏う膨大な霊圧の量に浮竹は大きく目を見開く。
馨は眉を顰め苦しそうに目を細めた。
"ここから先のことは、どうか目を瞑っていてくれ"と言わんばかりに――
「"縛道の九十九――禁"」
瞬間。
眩い霊子の帯が海燕の全身へ絡みついた。
黒い帯のような拘束具が幾重にも巻き付き、無数の鋲が肉を裂くように突き刺さる。
「ギャアアアアアアアア!!!」
拘束された海燕が凄まじい力で暴れる。
地面が割れ、帯が軋む。
普通の死神なら、それだけで完全に動きを封じられるはずだった。
だが。
「っ……まだ……!」
虚化した海燕は、その拘束を力任せに引き千切ろうとしていた。
鋲が弾け飛ぶ。
帯が裂ける。
「((……この力を持っても効かない!?))」
馨の顔色がさらに青ざめた。
上位鬼道の維持は、それだけで膨大な霊力を喰う。
まして相手は隊長格に迫る霊圧を持つ海燕。暴走した今、その消耗は想像を絶していた。
それでも馨は両足を踏み締める。
逃がさない。
絶対に。
「"縛道の九十九、第二番――卍禁"」
空気が、変わった。
重く。
冷たく。
息すら詰まるほどの圧力。
霊子が空中に巨大な陣を描き出す。
「"初曲――止繃!"」
巨大な白布が虚空から現れた。
まるで棺を包む経帷子のように、それは海燕の身体へ幾重にも巻き付き、その四肢を強引に締め上げる。
海燕が吼える。
布が裂ける。
それでも次々と新たな布が絡みつき、巨体を地へ押し伏せた。
馨の額から汗が滴る。
呼吸が乱れる。
「はぁ……っ、は……ぁ……!」
視界が揺れる。
霊力が急速に削れていく感覚に、膝が震えた。
だが、まだ終われない。
まだ押さえ込めていない。
海燕の霊圧が再び膨れ上がる。
布が軋み、裂け始めた瞬間――
「"弐曲――百連閂!!"」
無数の鉄串が出現した。
空を埋め尽くすほどの黒鉄。
それらが一斉に海燕へ降り注ぐ。
轟音と共に、数十本の鉄串が海燕の身体を地面ごと貫いた。
肩。
腕。
脚。
胴。
巨大な杭が次々と突き刺さり、地面へ完全に縫い留めていく。
海燕が絶叫する。
霊圧が爆発する。
その余波だけで周囲の瓦礫が吹き飛び、馨の身体も後方へ弾かれた。
「っ……ぁ……!」
地面へ膝をつく。
喉の奥から血の味が込み上げた。
限界だった。
九十九番台鬼道。
それも第二番まで重ねた負荷は、想像以上に身体を蝕む。
腕が痺れる。
指先の感覚が消えていく。
それでも、
それでも海燕はまだ動こうとしていた。
鉄串を軋ませながら、なお立ち上がろうとしている。
その姿に、馨の瞳が震える。
「……いや……」
こんなの嫌だ。
あなたを傷付けたいわけじゃない。
でも。
止めないと。
「……ッぐ……」
涙を堪えるように唇を噛み締め、馨は最後の霊力を振り絞った。
両手を重ねる。
空間そのものが軋み始める。
「""終曲――""」
低く、掠れた声。
「""卍禁太封""」
天が鳴動した、次の瞬間。
巨大な碑石が、空から現れる。
卍の紋様が刻まれた漆黒の巨石。
それは圧倒的な質量と霊圧を纏いながら、海燕へ向けて落下した。
激しい轟音が鳴り響く
世界が揺れた。
衝撃で地面が陥没する。
爆風が吹き荒れ、瓦礫が宙を舞う。
碑石は海燕を完全に押し潰し、その霊圧を地の底へ封じ込めた。
静寂。
荒れ狂っていた霊圧が、ようやく止まる。
馨はその場に立っていられなかった。
「……っ、は……ぁ……っ……」
鬼道を維持したまま、膝から崩れ落ちる。
息が出来ない。
肺が痛い。
視界の端が黒く染まっていく。
それでも馨は、震える瞳で碑石を見つめた。
「……海燕、さん……」
掠れたその声だけが、崩壊した空間へ静かに落ちた。
轟音が、ようやく止んだ。
周辺の木々は塵となり、
蚊帳は砕け、陥没した地面。
その中心に、卍の紋様が刻まれた巨大な碑石だけが、異様な存在感を放っていた。
漂う霊圧は重い。
まるで空気そのものが沈み込んでいるかのようだった。
誰も、すぐには声を出せなかった。
「……な……」
一人の隊士が、呆然と呟く。
「い、今の……鬼道、か……?」
声が震えていた。
理解が追いついていない。
それも当然だった。
鬼道とは、本来ここまでの規模ではない。
まして九十九番台――それは多くの死神にとって、存在だけが語られる伝説に近い領域。
しかも。
「縛道の……九十九……?」
「そんなもの、実在したのかよ……」
「いや、それより……第二番まで……」
隊士たちの顔から血の気が引いていく。
あれほど暴走していた海燕を、真正面から押さえ込んだ。
しかも一人で。
並の副隊長格ですら成立させることが困難な高位鬼道を、連続で。
空気がざわめく。
恐怖にも似た畏れが広がっていく。
そして。
その場で最も強く衝撃を受けていたのは――浮竹十四郎だった。
「…………」
浮竹は息を呑んだまま、碑石を見つめていた。
否。
その向こう側。
膝をつき、荒い呼吸を繰り返している馨を。
白い指先は痙攣し、
鬼道を維持するためか、なお微かに霊圧が揺れている。
顔色は死人のように青白い。
今にも倒れそうだった。
だが浮竹の脳裏を支配していたのは、彼女の消耗ではない。
あの術。
あまりにも異質だった。
「……縛道九十九……卍禁……」
浮竹が低く呟く。
その声音には、隠しきれない驚愕が滲んでいた。
護廷十三隊隊長である彼ですら、実戦で目にしたことなどない。
資料でしか知らぬ領域。
しかも――
「第二番まで使った、だと……?」
浮竹の表情がわずかに強張る。
普通ではない。
あれは最早、"高位鬼道"などという言葉で済ませていい術ではなかった。
禁術に近い。
いや、下手をすれば既に禁術の領域だ。
霊圧。
拘束力。
破壊規模。
そして何より――術式の重さ。
あれほどの鬼道を扱えば、術者自身にも凄まじい負荷が返る。
実際、馨の霊圧は今、急激に乱れていた。
「無茶を……」
浮竹は思わず一歩踏み出す。
だが、その足が止まった。
馨がまだ術を解いていない。
「はぁ……はぁ……ッ……たいちょ……」
碑石へ向ける視線は鋭い。
「まだ……近づかないで……、ください、」
海燕を完全に封じ切るまで気を抜いていなかった。
その姿に、浮竹は一瞬言葉を失う。
いつも静かで、
控えめで、
必要以上に自分を語らない少女。
隊士たちからは"鬼道に秀でた三席"程度にしか思われていなかった存在。
だが違う。
これはそんな次元ではない。
「((……この子は一体……何者なんだ……))」
浮竹の脳裏に、過去の記憶がよぎる。
総隊長が彼女を気に掛けていた理由。
鬼道衆との異様な繋がり。
そして、頑ななまでに昇進を拒み続けていた理由。
――隠していたのか。
浮竹は目を細める。
「君は……そんな力を……」
隊士たちもまた、馨を見る目が変わっていた。
恐れ。
畏怖。
理解不能なものを見る視線。
「あの無類井三席が……」
「いや、あれ本当に三席レベルか……?」
「隊長格でもおかしくねえぞ……」
「違う……あんなの、隊長格でも……」
誰かが、言葉を途中で止める。
軽々しく口にしてはいけない。
そんな空気があった。
九十九番台。
それを扱える存在など、護廷十三隊全体でも何人いるのか。
まして第二番まで発動し、なお成立させるなど。
沈黙の中。
浮竹だけが静かに理解していた。
――彼女はずっと、自分の力を隠していたのだと。
そして。
その力を使わざるを得ないほど、海燕を止めたかったのだと。
「…………馨」
浮竹の声は、ひどく静かだった。
その瞳には驚愕だけではない。
痛みのような感情が、深く滲んでいた。
「――っ……」
卍禁太封の霊圧が、
ようやく安定する。
巨大な黒杭。
幾重にも巻き付く拘束布。
その中心で、
虚化した海燕が苦しげに暴れていた。
ズ……ン……
ズズ…………
大地そのものを軋ませるような、
重苦しい霊圧。
だが。
止まっている。
辛うじて。
馨はそれを確認した瞬間、
全身から力が抜けた。
「……は、ぁ……っ」
手から刀が零れ落ちる。
乾いた音を立て、地面へ転がった。
次の瞬間。
どさり――
馨はその場で膝を着いたまま、地面に手をつく。
「馨殿!!」
ルキアが真っ先に駆け寄った。
続いて隊士たちも集まる。
だが誰もすぐには触れられない。
馨の霊圧が、
異様なほど乱れていたからだ。
「は……っ……ぁ……っ……」
呼吸が荒い。
肩が大きく上下している。
額からは大量の汗。
白い肌を、汗が伝い落ちていく。
鬼道の反動だけではない。
隊長格ですら扱えない九十九番台を、
しかも連続使用。
さらに、
虚化した海燕を抑え込むほどの霊圧制御。
消耗が尋常ではなかった。
馨は地面へ手をついたまま、
必死に呼吸を整えようとしている。
指先が震えていた。
「馨殿……!」
ルキアが肩へ触れようとする。
だが。
「……だい、じょうぶ……」
馨がかすれた声で呟く。
意識は半ば朦朧としていた。
視界が霞む。
耳鳴りが酷い。
身体の奥が、
焼けるように熱かった。
それでも。
「……ひとまず……拘束、できた……」
安堵したように、
小さく笑おうとする。
その姿に、
隊士たちが息を呑む。
誰よりも消耗しているはずなのに。
真っ先に気にするのは、
仲間の安全。
だから皆、
彼女を信頼していた。
「無類井三席……」
「すげぇ……」
九十九番台鬼道。
しかも詠唱破棄。
隊士たちの目には、もはや畏怖すら浮かんでいた。
だが。
その時だった。
「"……え?"」
抜けたルキアの声。
馨の顔を見て震え始める。
「…ね、ッ………姉様……?」
その声に、
周囲も馨を見る。
そして。
全員の顔色が変わった。
「……っ!?」
馨の右目。
その瞳が、変色していた。
黒目と白目が、
逆転している。
まるで。
"虚の眼"
ぞくり、と。
その場の空気が凍った。
「な……」
隊士の一人が後退する。
「そんな……」
ルキアの顔から血の気が引く。
馨自身も、
異変に気づいた。
「……え……?」
視界がおかしい。
右側だけ、
世界が滲んで見える。
耳鳴り。
吐き気。
そして。
身体の奥から、
何かが這い上がってくる。
「――っ、ぁ……!!」
突然、
馨が胸を押さえた。
苦しい。
息ができない。
霊圧が乱れる。
「うっ……」
いや。
混ざっている。
"虚の霊圧が"
「馨殿!!?」
ルキアが慌てて支える。
だが。
馨の身体から溢れ始めた霊圧に、
隊士たちが恐怖で後退した。
「これ……まさか……」
「虚化……?」
「副隊長と……同じ?」
あり得ない。
だが。
目の前の現象は、
先程の隊士たちと酷似していた。
違うのは。
馨がまだ、理性を保っていることだけ。
「ぁ……っ……」
馨が苦しげに息を吐く。
爪が地面を掻く。
その瞬間だった。
""ミシ……""
嫌な音。
全員が振り返る。
卍禁太封。
海燕を拘束していた黒杭に、
亀裂が入っていた。
「……っ!!」
馨の顔が青ざめる。
鬼道が乱れている。
自分の霊圧が不安定になったせいで、
拘束式そのものが崩れ始めていた。
""ミシ……ミシミシ……""
巨大な布帯が、
少しずつ裂けていく。
そして。
封印の中心から。
「■■■■■■■■■ッ!!」
低い咆哮が響いた。
ぞわり、と。
隊士たちの背筋が凍る。
次の瞬間。
とてつもない轟音と共に黒杭が、内側から吹き飛んだ。
「((……まずいっ……))」
卍禁太封が、
内側から軋んでいく。
""ミシ……ッ……""
巨大な黒杭に走る亀裂。
霊圧で編まれた拘束布が、
少しずつ裂け始めている。
「そんな……」
隊士の一人が、
青ざめた顔で後退する。
あり得ない。
九十九番台鬼道。
それも、
無類井馨が放った卍禁太封。
本来なら、
隊長格ですら容易に破れない絶対拘束。
それが。
今、壊れようとしていた。
「■■■■■■■■ッ……」
拘束の中心。
虚化した海燕が、
低い唸り声を漏らす。
その霊圧はさらに膨れ上がっていた。
暴走している。
鬼道の拘束すら、
力で食い破ろうとしている。
「っ……!」
浮竹の顔が強張る。
そして同時に。
その視線が、ゆっくりと馨へ向いた。
「……馨……」
そこに居たのは、
もう"いつもの彼女"ではなかった。
馨の右目。
黒目と白目は完全に反転し、
異形の瞳へ変わっている。
さらに。
白い骨のようなものが、
浮かび上がり始めていた。
"ぱき……"
"ぱき、ぱき……"
嫌な音を立てながら、
仮面が形成されていく。
顔の半分を覆うように。
「ぁ……っ……!!」
馨が激しく息を吐く。
肩を震わせ、地面を掻く指先が血に滲む。
苦しい。
身体の奥へ、
何かが入り込んでくる。
熱い。
冷たい。
壊れそうだった。
「馨殿!!」
ルキアが叫ぶ。
だが。
その声を聞いた瞬間、
周囲の隊士たちが一斉に後退した。
恐怖だった。
つい先程まで、
仲間だった存在。
誰よりも頼れる存在。
その馨が、
今まさに虚化している。
「下がれ!!」
「近づくな!!」
隊士たちの声が震えている。
恐れている。
馨を。
その現実が、
ルキアの胸を締め付けた。
「違う……!」
ルキアが叫ぶ。
「姉様は……!!」
だが言葉が続かない。
目の前の光景が、
あまりにも現実離れしていた。
そして。
「■■■■■■■ッ!!!!!」
ついに。
卍禁太封の黒杭が、
完全に吹き飛んだ。
「ッ……う……」
霊圧の爆風。
隊士たちが吹き飛ばされる。
拘束の中心から、
ゆっくりと海燕が立ち上がる。
白い仮面。
異形の霊圧。
完全虚化。
その姿に、絶望が場を支配した。
「……くっ!…」
浮竹が、
ゆっくり双魚理を構える。
その表情は苦しかった。
震えていた。
だが、隊長として
決断しなければならない。
中核戦力二名が虚化。
しかも制御不能。
このままでは、隊士全滅もあり得る。
「…………」
浮竹は静かに息を吐く。
覚悟を決めるように。
「……総員、下がりなさい」
低い声だった。
隊士たちが息を呑む。
「隊長……」
「ここから先は――」
言葉が詰まる。
苦しい。
辛い。
認めたくない。
それでも。
護廷十三隊隊長として、
彼は選ばなければならなかった。
「……私がやる」
双魚理の霊圧が静かに膨れ上がる。
その瞬間。
「――""待って""」
掠れた声。
全員が振り返る。
馨だった。
ゆらり、と。
彼女がゆっくり立ち上がる。
足元はふらついている。
呼吸も荒い。
顔の半分は、既に白い仮面に覆われていた。
それでも。
その瞳だけは、まだ死んでいなかった。
「姉様…!」
ルキアが涙声で馨を呼ぶ。
馨はゆっくり、浮竹とルキアへ振り返る。
その姿は痛々しかった。
今にも壊れそうなのに。
それでも。
彼女は、確かに"自分"を保っていた。
「……まだ」
呼吸が乱れる。
仮面が軋む。
それでも。
馨は静かに言った。
「まだ……私です」
その言葉に、場が静まり返る。
「大丈夫……ですから……」
苦しげに微笑もうとする。
「ね……?」
その姿に、
ルキアの目から涙が零れ落ちた。
だが。
その瞬間だった。
┈┈
"やはり、君は美しい"
"素晴らしい――"
霧の奥で。
誰にも見えない場所で。
何者かが、
静かに目を細める。
「――""砕けろ""」
┈┈
刹那
「ッ!?」
空間そのものが、砕けたような轟音。
完全虚化した海燕と、
仮面を纏った馨の刃が激突する。
凄まじい衝撃波。
周囲の地面がめくれ上がり、
崩れた建物が吹き飛ぶ。
「ぐぁっ!!」
「伏せろォ!!」
隊士たちは、
もはや近づくことすら出来なかった。
ただ身を隠し、
吹き荒れる霊圧の暴風へ耐えるしかない。
異常だった。
隊長格を遥かに超える規模の霊圧衝突。
白い霧すら、
二人の霊圧に引き裂かれていく。
「■■■■■■■■ッ!!!」
海燕が咆哮する。
完全に虚だった。
理性は無い。
ただ本能だけで暴れ、
目の前の存在を破壊しようとしている。
その一撃を。
馨が正面から受け止める。
「ぅ……ぐ!!!」
火花。
水圧。
霊圧。
全てが爆発する。
「っ……!!」
馨の足元が砕けた。
だが下がらない。
絶対に。
彼女の瞳には、もう迷いが無かった。
「馨!!」
浮竹が叫ぶ。
だが。
その声を聞きながら、
浮竹は理解してしまっていた。
――もう、自分は入れない。
今あそこへ入れば、
隊士たちごと巻き込まれる。
そして何より。
馨が、戦っている。
意識を保ったまま。
自分を失わず。
海燕を止めようとしている。
「…………」
浮竹は双魚理を握り締める。
苦しげに。
悔しげに。
だが。
隊長として、判断する。
「……皆、下がれ」
低い声だった。
「今は……馨を信じるしかない」
その言葉に、
隊士たちが息を呑む。
誰も反論できなかった。
目の前の戦いは、
もう自分たちの領域ではない。
虚と。
虚を超えようとしている存在の、
戦いだった。
「■■■■■■ッ!!!」
海燕が再び消える。
速い。
瞬歩などではない。
本能だけで空間を裂くような動き。
次の瞬間。
馨の背後へ回り込み、
捩花が振り下ろされる。
「!?」
馨は咄嗟に受け流す。
だが衝撃だけで、
周囲の建物が崩壊した。
「はぁっ……!!」
息が荒い。
限界が近い。
分かっていた。
このままでは、
自分も壊れる。
仮面がまた広がり始めている。
右頬。
顎。
白い骨が、少しずつ侵食していく。
それでも。
馨は戦い続けた。
「海燕さん……!!」
叫ぶ。
届かないと分かっていても。
「お願い……戻って……!!」
返るのは、
咆哮だけ。
そして次の瞬間。
海燕の口元へ、
異様な霊圧が集まり始める。
「っ……!!」
馨の顔色が変わる。
赤黒い光。
凝縮されていく霊圧。
虚特有の技。
――虚閃。
「まずい……!!」
あれが放たれれば。
後方にいる隊士たちは、
跡形も無く消し飛ぶ。
浮竹ですら、
守り切れるか分からない。
だから。
馨は即座に動いた。
海燕へ斬りかかる。
わざと。さらに遠くへ誘導するように。
「こっちです!!」
激突。
轟音。
霊圧。
二人の姿が、
霧の奥へ消えていく。
隊士たちから、
どんどん離れていく。
「馨殿……!」
皆を守るために、
一人で海燕を引き受けたのだと。
┈┈┈
轟音が、遠くで響き続ける。
霧の外――。
虚化した海燕と、それを追った馨の霊圧が、夜空の遥か向こうでぶつかり合っている。
浮竹達の周りには重苦しい沈黙が落ちていた。
負傷した隊士たち。
崩れた地面。
未だ残る、異様な虚の気配。
その中心で、浮竹は静かに目を伏せていた。
「……海燕」
掠れた声だった。
ルキアもまた、胸を押さえるようにして立ち尽くしている。
つい先程まで、確かにそこにいたのだ。
海燕を止めるため、
誰よりも苦しそうな顔で、
それでも一歩前へ出た馨の姿が。
――なのに。
「……?」
ふと。
誰かが、小さく息を呑んだ。
「……なんだ?」
視線が、
ゆっくりと前へ向く。
馨が消えた方向――
暗闇の先。
そこに。
――立っていた。
「……馨、殿……?」
ルキアの声が震える。
そこには、
血飛沫を浴びた馨がいた。
隊服は赤黒く染まり、
その手には刀。
ぽたり。
ぽたり、と。
刃先から血が落ちていく。
「な……」
だが、ありえない。
ありえないのだ。
つい先程、
彼女は海燕を追って消えた。
この場にいるはずがない。
なのに。
"それ"は、
確かに馨の姿をしていた。
「姉、様?」
ルキアが一歩後ずさる。
その瞬間。
目の前で、隊士の身体が斬り裂かれた。
鮮血。
悲鳴。
床を転がる腕。
「ぁ――――」
誰かの喉が潰れたような声。
馨が、斬っている。
無表情のまま。
まるで感情など存在しないように。
次々と。
仲間を。
「三席…!」
隊士が飛び出そうとする。
だが浮竹が腕を掴んだ。
その顔が、異様なほど険しい。
「待て」
低い声。
だがその瞳には、
明確な動揺が浮かんでいた。
浮竹の脳裏にも、
確かに見えていた。
馨が。
隊士を。
躊躇なく、斬り伏せる姿が。
「そんな……
馨殿が……?」
ルキアの声が掠れる。
目の前の光景が、
理解できない。
理解したくない。
なのに、
五感が"現実"だと告げてくる。
血の臭い。
肉の裂ける音。
地面を濡らす赤。
あまりにも鮮明だった。
「違う……」
浮竹が呟く。
「……違う……!」
だが。
目の前では、
また隊士が斬り伏せられる。
現実感が無い。
なのに、あまりにも鮮明だった。
悲鳴も。
血飛沫も。
肉を断つ音も。
全部。
「っ……ぁ……」
急に、ルキアの視界が歪んだ。
立っていられない。
地面が傾く。
呼吸が浅い。
何かに、意識を引きずり込まれていく。
「……っ!」
浮竹の声も、
どこか遠い。
まるで水の中から聞こえるみたいだった。
世界が歪む。
景色が溶ける。
目の前で人が死んでいるのに、
現実味だけが抜け落ちていく。
夢だ。
いや、違う。
夢じゃない。
だが、現実とも思えない。
「な……ん……だ、これ…は…」
ルキアが震える。
その瞬間。
"馨"がこちらを向いた。
血塗れの顔。
感情の無い瞳。
その目が、
真っ直ぐルキアを見た。
ぞわり、と総毛立つ。
「――っ!!」
瞬間。
ルキアの意識が、唐突に暗転した。
崩れ落ちる身体。
その横で。
浮竹もまた、ゆっくりと膝をつく。
視界が霞む。
頭が割れるように痛い。
何かが、脳へ直接入り込んでくる感覚。
現実と幻覚の境界が、
ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられていく。
「((これは……))」
浮竹の瞳が揺れる。
「((夢か?))」
違う。
「((現実……?))」
分からない。
もう、何も。
遠くで、"誰かの悲鳴が響いた"
それすら本物なのか、
判断できなかった。
┈┈
┈┈
気づけば。
二人だけだった。
霧の奥。
崩れた流魂街の更地。
静かな夜。
そこへ響くのは、
刃のぶつかる音だけ。
「ッ!!」
捩花を受け止めながら、
馨は息を切らす。
限界だった。
身体が重い。
視界も霞む。
仮面の侵食も止まらない。
それでも。
目の前にいるのは、志波海燕だった。
自分が愛した人。
自分へ笑いかけてくれた人。
家族になった人。
脳裏に、過去が流れる。
初めて出会った日。
鬱陶しいほど話しかけてきた男。
無愛想だった自分へ、
何度も笑いかけてきた人。
十三番隊の日々。
縁側。
くだらない会話。
志波家。
繋いだ手。
祝言の日。
浮竹の涙。
――幸せだった。
本当に。幸せだった。
「っ……ぁ……」
馨の目から、
大粒の涙が零れる。
受け止めた捩花が震える。
「海燕さん…!…」
声が震える。
その瞬間。
馨の顔を覆っていた仮面が、
少しずつ崩れ始めた。
ぱき。
ぱき、と。
白い骨が剥がれ落ちていく。
侵食を、理性で押さえ込んでいる。
戻っていく。
無類井馨へ。
だが。
海燕は違った。
仮面は完全に定着し、
もう人の姿へ戻らない。
怪物だった。
「■■■■■■ッ!!!」
咆哮。
海燕が再び斬りかかる。
馨はその刃を受け止めながら、
涙を流し続ける。
「お願い……お願い!……」
黒紫の霊圧が渦を巻き、
瓦礫が浮き上がる。
「海燕さん!」
虚化した志波海燕は、
もはや原型を保っていなかった。
白い骨の仮面。
異様に伸びた腕。
虚の咆哮と、
死神の霊圧が混ざり合った、
醜くも悲しい姿。
その爪が振るわれるたび、
地面が砕ける。
「くっ……!」
馨は瞬歩で飛び退いた。
直後、
背後の木々が吹き飛ぶ。
砂煙。
霊子の嵐。
息を乱しながら、
馨は刀を構え直した。
「……海燕さん……!」
呼んでも、
返事はない。
あるのは、
獣のような唸り声だけ。
虚化した海燕が突進する。
「((速いッ……速すぎる!))」
隊長格に届くほどの霊圧を持つ馨ですら、
反応が遅れるほどに。
「っ……!!」
刃と爪がぶつかる。
衝撃で地面が陥没した。
馨の腕が痺れる。
押し返せない。
海燕の力が、
あまりにも強い。
「ぁ……がァァァァァッ!!」
咆哮。
仮面の奥から、
聞き覚えのある声が混じる。
その瞬間。
馨の動きが止まった。
「うぁぁっ!!!」
馨の肩が裂ける。
血飛沫が辺りに広がっていた。
「っ……!」
吹き飛ばされ、
地面を転がる。
痛みより先に、
胸が締め付けられた。
「((……斬れないっ……))」
どうしても。
目の前にいるのが、
"敵"に見えない。
脳裏に浮かぶのは、
笑っていた海燕ばかりだった。
""馨""
""お前、また無茶しただろ""
""隣、来いよ""
""――好きだ""
全部、
昨日のことみたいだった。
「うっ……うぅっ……」
なのに。
目の前にいるのは、
化け物になった海燕。
「……いや……」
馨の声が震える。
刀を握る手が、
どうしても動かない。
海燕が再び迫る。
その爪が、
馨の喉元へ伸び――
ぴたり、と止まった。
「…ッ…?」
馨が目を見開く。
虚の仮面が、
微かに軋んだ。
その奥。
血走った瞳が、
ほんの一瞬だけ、
"海燕"に戻る。
「……"か"……」
掠れた声。
喉が潰れたような、
苦しげな音。
「……"お……れを"……」
馨の呼吸が止まる。
海燕の身体が、
痙攣するように震えていた。
虚と、死神としての意識が、
中で食い合っている。
「……"殺せ"……」
その言葉に、
馨の瞳が揺れた。
「……嫌です…!…」
即答だった。
涙が滲む。
「そんなの……できるわけ……」
海燕の仮面の奥から、
苦しげな笑い声が漏れる。
「"は……っ……
ほんっと……お前……"」
言葉の途中で、
再び虚の咆哮が混ざる。
身体が暴れる。
自我が崩れていく。
それでも。
海燕は、
無理矢理、
腕を広げた。
まるで。
抱き締めるみたいに。
「"もう……いい……"」
声が掠れる。
「"頼むから……
おマえの……テで……オわらせろ……"」
馨の瞳から、
涙が落ちた。
「嫌です……!」
叫ぶ。
「私は……あなたを助けたい……!」
「……"わ、りい"」
静かな声だった。
諦めではない。
理解してしまった声。
海燕自身が、
誰より分かっていた。
もう戻れないと。
次の瞬間。
海燕が、自ら馨の刀へ身体を押し付けた。
「――っ!!」
ぶつり、と。
肉を裂く感触。
温かい血が、馨の手に流れ込む。
「ぁ……ぁぁ!!」
時間が止まった。
馨の瞳が、ゆっくり見開かれる。
海燕の身体を、
刀が貫いていた。
「……ぁ……」
震える声。
海燕は、
虚の仮面越しに、
どこか穏やかに笑っていた。
「"……やっと……止まれる……"」
「ぁ……あ……っ」
馨の目から、
大粒の涙が溢れ落ちる。
止まらない。
呼吸が乱れる。
胸が壊れそうに痛い。
それでも。
「((……トドメを……刺さないとっ……!))」
彼女は震える手に、
さらに力を込めた。
ぐ、っと。
刀を、
さらに深く押し込む。
「が……ぁッ――!!」
海燕の身体が仰け反る。
大量の血液が、馨の頬へ飛び散った。
「うぁ……」
その瞬間。
馨の中で、
何かが完全に壊れた。
「うぁああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
悲鳴だった。
魂が裂ける音だった。
戦いの叫びなんかじゃない。
愛した人を、
自分の手で殺してしまった女の叫び。
「ごめんなさいッ!!!」
泣き叫ぶ。
声が枯れるほど。
「ごめんなさいッ!!ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいッ!!!!!」
涙が止まらない。
視界が滲む。
呼吸もできない。
それでも。
馨は刀を握り締めたまま、
海燕へしがみつくように座り込む。
「嫌っ……!!」
嗚咽。
喉が震える。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
海燕の血が、
地面を赤く染めていく。
その時だった。
ぱき。
白い仮面に、
一本の亀裂が走る。
ぱき……ぱき……
ゆっくり。
静かに。
海燕の顔を覆っていた仮面が、
音を立てながら崩れ始めた。
頬から。
額から。
口元から。
白い骨片が、
ぼろぼろと剥がれ落ちていく。
同時に。
馨の顔に残っていた仮面も、
静かに砕け散った。
虚の霊圧が、
少しずつ消えていく。
残されたのは。
怪物ではない。
志波海燕と、無類井馨。
ただ、二人だけだった。
「……っ……」
馨はその身体を抱き止めた。
「海燕さん!!」
抱き締める。
必死に。
離れたら、本当に消えてしまいそうで。
「いや……いや……っ」
馨の涙が、止まらない。
海燕の血と、
自分の涙が混ざり合っていく。
「お願い……っ」
声が震える。
「死なないで……!!」
必死に傷口を押さえる。
両手で。何度も。
だが。血は止まらない。
指の隙間から、
命が流れ落ちていく。
「嫌だ……っ」
回道を使おうとする。
だが霊圧が乱れすぎて、術式が崩壊する。
「なんで……っ」
涙で前が見えない。
「なんで止まらないの……!!」
瞳から溢れ出る涙。
それは徐々に量を増していく――
刹那、しとしとと冷たい雫が涙のようにおちてきた。
「…………ッ」
雨だった。
まるで空そのものが、声を上げて泣いているような――そんな雨だった。
轟々と降り注ぐ雨粒が、崩れた地面を激しく叩きつける。
砕けた瓦礫の隙間に溜まった水は赤黒く濁り、流れきれなかった血を静かに攫っていった。
馨は、その場から動けなかった。
肩で息をするたび、濡れた髪が頬に張り付き、視界を遮る。けれど拭う気力すら残っていない。
ただ、腕の中で力なく倒れる彼を見つめていた。
――その時。
海燕の瞳が、ゆっくり揺れた。
虚ではない。
怪物でもない。
いつもの、優しい瞳。
「……"か、おる"……」
掠れた声。
馨の身体が止まる。
「……っ」
海燕の視線が、
ゆっくり馨を見つめる。
愛おしむように。
優しく。
「"か……る"……」
何度も。
何度も。
その名前を呼ぶ。
馨の涙がさらに溢れた。
「いや……っ」
首を振る。
「喋らないで……!!」
震える声。
「お願いだから……っ」
海燕は苦しそうに息を吐きながら、
ゆっくり腕を持ち上げる。
震える手。
血まみれの手。
それでも。
その手は、優しく馨の頭へ触れた。
濡れた黒髪を、ゆっくり撫でる。
まるでいつもみたいに。
優しく。
愛おしそうに。
「"だい……じょうぶ、だ"……」
「違う!!」
馨が叫ぶ。
「違うッ!!!」
泣きながら、何度も首を振る。
「私がッ!!」
嗚咽。
息ができない。
「私が海燕さんを斬ったんです!!」
雨の中、馨の叫びだけが響く。
「私がッ!!私がぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
完全に、
壊れかけていた。
自分を責めることしかできない。
狂ったように泣き叫ぶ馨を見て、海燕の表情が歪む。
本当は。
全部分かっていた。
"霧の中で、自分を刺した存在"
あの違和感。
あの声。
犯人が誰なのか。
全部。
全部。
伝えなければならない。
馨を守るために。
だが、目の前で、壊れていく馨を見て。
海燕が最後に選んだのは、
真実ではなかった。
「……"ちがう"…ッ…」
掠れた声。
馨が顔を上げる。
海燕は必死に息を繋ぎながら、
なおも馨の頭を撫で続ける。
「……"お前じゃ、ない"……」
涙が混じる。
血が混じる。
それでも海燕は笑おうとした。
「……"お前は……悪く、ない"……」
「いや……っ」
馨は更に絶望する。
「いやぁぁぁぁぁ……っ」
海燕は、そんな馨を見つめた。
最後まで。
愛おしそうに。
「……"かおる"……」
優しい声だった。
雨音の中でも、はっきり聞こえるほど。
「…"か、おる"……」
海燕の声は、もうほとんど掠れていた。
雨音に混じれば、
簡単に掻き消えてしまいそうなほど弱い。
それでも。
馨には、はっきり聞こえていた。
震える手が、
まだ馨の頭を撫でている。
血まみれの指。
冷たくなり始めた掌。
それでも海燕は、
最後まで優しかった。
「――"あいしてる"」
その言葉に馨の呼吸が止まる。
涙が零れる。
ぼろぼろと止まらない。
「……っ」
海燕はそんな馨を見つめながら、
小さく笑った。
本当に、
いつも通りの笑顔だった。
戦いの時の顔でも。
副隊長の顔でもない。
志波海燕として、馨へ向ける笑顔。
その笑みに。馨の胸がぐしゃりと潰れた。
そして。
海燕は最後の力を振り絞るように、
ゆっくり身体を離した。
「……海燕、さん……?」
馨が涙に濡れた顔を上げる。
海燕は何かを言おうとして、
少しだけ口を動かす。
けれど。
もう声にはならない。
それでも。
彼は、最後まで笑っていた。
安心させるように。
泣くなと言うように。
"生きろ"と言うように。
「……ぁ……」
そして次の瞬間。
""がくり""と。
海燕の首が、静かに落ちた。
「――――」
雨音だけが響く。
海燕の身体から、
霊圧が消えていく。
ゆっくり。
静かに。
まるで灯火が消えるみたいに。
だがしかし、
その身体は、消えなかった。
通常、虚化が極限まで進行した魂魄は、崩壊し、肉体ごと霊子へ還ることもある。
だが海燕は違った。
馨が最後の瞬間、虚の侵食ごと心臓を断ち切った。
完全な虚へ堕ち切る前に。
"志波海燕"として死なせたのだ。
だから彼の身体は、
消えなかった。
怪物ではなく。
十三番隊副隊長、
志波海燕として――
そこに残った。
「……かい、えん……さん?」
馨が呟く。
反応はない。
「……海燕さん?」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
「……海燕さん」
壊れた機械みたいに。
何度も。
何度も。
その名前を呼ぶ。
だが。
海燕はもう動かない。
「……はぁ……あっ……」
ゆっくりと倒れていく身体。
馨は慌てて、その身体へ覆い被さるように抱きついた。
地面に仰向けに倒れる彼。
顔は胸元に耳を当てたまま、雨に打たれながらしがみつく。
「いや……」
震える声。
「いや……」
両手で必死に抱き締める。
離したら、
本当に終わってしまう気がして。
「いやぁぁぁぁぁ……」
涙が止まらない。
息もできない。
胸が痛い。
壊れそうだった。
「海燕さんッ!!」
叫ぶ。
何度も。
何度も。
「起きてください!!お願いだから!!」
身体を揺する。
返事はない。
「嫌だッ!!」
雨が激しく降り注ぐ。
黒髪も、
死覇装も、
全部濡れていく。
海燕の血が、
雨に流されていく。
赤い水が、
地面を伝って消えていく。
それがまるで。
海燕そのものが、
世界から消えていくみたいで。
馨は完全に壊れた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
悲鳴。
絶叫。
魂が裂ける音。
その叫びは、
雨音すら掻き消した。
かつて誰よりも眩しく笑ったその人は、今はもう動かない。
雨が、彼の身体を打つ。
泥に沈んだ指先。
閉じられた瞼。
その全てを、容赦なく濡らしていく。
馨の握る斬魄刀から、雫が落ちた。
雨なのか。
涙なのか。
もう、自分でも分からなかった。
――ぽたり。
頬を伝った水が顎先から零れ落ち、海燕の手の甲へ落ちる。
冷たい。
あまりにも、冷たかった。
「……っ……」
声を出そうとして、喉が震える。
けれど音にならない。
叫びたかった。
名前を呼びたかった。
違う、と。
こんな終わり方を望んだわけじゃない、と。
けれど、最後に彼自身が差し出したのだ。
"殺せ"
あの掠れた声が、まだ耳の奥に残っている。
虚化に侵されながらも、最後の最後で海燕は海燕のままだった。
だからこそ、馨は斬れなかった。
「……うっ、うぁぁぁぁっ……あぁぁぁ」
愛していたから。
愛していたからこそ、
最後の一撃だけは、どうしても躊躇ってしまった。
雨脚がさらに強まる。
空が裂けたような雷鳴が遠くで響き、一瞬だけ世界が白く染まった。
「――ッ……」
その刹那。
海燕の横顔が見えた気がした。
穏やかに笑っているような、
いつもの、あの顔。
「……なんで……」
掠れた声が零れる。
「なんで……あなたは最後まで……」
"優しいんですか"
続くはずだった言葉は、崩れるように消えた。
体から力が抜ける。
泥水を跳ねながら、その場に崩れ落ちた馨は、震える手でそっと海燕の頬に触れた。
冷たい。
もう、体温が無い。
雨だけが、止まない。
まるで世界そのものが、
この結末を悼んでいるかのように。
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"――いかないで"
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「ッ!?」
どれくらい時間が経ったのか。
馨には分からなかった。
ただ。
海燕を抱き締め続けていた。
冷たくなっていく身体を、必死に。
必死に。
「((……いかないで――))」
刹那
"空気が変わる"
複数の気配。
「!?」
黒装束の人影が、
雨の中へ現れた。
二番隊。隠密機動。
無音で感情すら見せず。
彼らは、既に任務として動いていた。
「対象確認」
「志波副隊長、死亡」
「無類井三席、生存確認」
冷たい声。
まるで、ただの処理作業。
「……やめ……」
馨が海燕へしがみつく。
だが、隠密機動は容赦しない。
複数人で、馨と海燕の身体を引き剥がし始めた。
「いやッ!!」
馨が叫ぶ。
必死に手を伸ばす。
「離して!!」
爪が地面を掻く。
泥と血が混ざる。
それでも、馨は抵抗した。
泣き叫びながら。
「触らないでッ!!」
だが、限界だった。
霊圧も。
精神も。
身体も。
全部。
限界だった。
「対象、制圧します」
次の瞬間。
隠密機動の一人が、
馨の首元へ術を打ち込む。
「んっ!?……」
霊圧封鎖。
意識遮断術。
「っ……」
馨の身体から、
一気に力が抜けた。
視界が揺れる。
雨音が遠くなる。
それでも。
馨は最後まで、
海燕へ手を伸ばしていた。
「……いや……」
掠れた声。
「海燕、さん……」
遠ざかっていく。
海燕の身体が。
誰かに運ばれていく。
「……まって……」
涙で滲む視界。
雨。
血。
黒い空。
その中心に。
動かない海燕だけが見えた。
「……いや……」
最後の最後まで。
目を閉じる瞬間まで。
馨は、
海燕の亡骸を見つめ続けていた。
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