現在時刻は12時。昼休憩の時間だ。
少年はどうやって応援合戦から逃れるかを思考していた。
(……体調不良、ケガを作る、すべてをかなぐり捨てて逃走する)
選択肢を自分で作り、そして却下した。
今は愛と奈央とともに昼食をとっている。そこで、奈央の手にカメラがあることを視認したために逃走の計画を頭の中で立てていたのだが、それを愛が目ざとく察知した。
「今、何考えてるの?」
とは、愛の言葉である。
その時は何とかごまかしたのだが、少年が思考するたびにこのような反応を続けるので、少年はあきらめた。
普段から行動を共にすることが多い愛は、少年のことをよくわかっていたのだ。
そう。行動では受け入れつつも、本当は逃げる手立てを探っていることを見抜いていた。
その時は、戦々恐々としたものだ。
とはいえ、それはあまりにも過剰だ。普段のそれよりも察知能力に優れていた。
その理由を考えてみるも、それは明白だった。
どうにも、愛は少年の女装を好んでいる。その執念はもはや狂気的とまで言える……いや、それは過剰だろうか。……過剰ではないな。
だからこそ、その望みが叶わない可能性をできる限り除去するように動いているのだろう。
それに、奈央も同じようだった。関わる時間は少ないものの、人を見る目はある。
少年ごときの企みなど、見抜くことは造作もないだろう。
「はあ…」
何度目かもわからないため息を吐くが、そんなことをしていてもどうにもならないことはわかっている。
「楽しみにしてるわね」
「楽しみだな~」
二人はのんきに宣う。少年からすればたまったものではなかった。
「……好き勝手言いますね」
「だって面白いんだもの」
奈央の言葉に少年はうなだれた。
その間も、二人の箸は進んでいく。
奈央が愛に作ったお弁当は絶品で、あまり体験できないくらいの味を誇っているのだが、もったいないことに今の少年にはその味すらもあまり感じれなかった。
(……腹くくるか)
そして、本当にあきらめた。
「……んじゃ、着替えてきます。ご馳走様でした」
「行ってらっしゃい!あ、着替えたら一旦こっちに来てね!」
「……へいへい」
少年はもう開き直ることに決めた。どうせ大人になったらこの状況は笑い話になるのだ。
風野を潰すという武勇伝とともに、体育祭を乗り切ることに決めた。
―――
そして、時間は昼休憩終了数分前。
少年は愛の要望通りに女装した姿をさらけ出している。
ちなみに、制服は愛のものを借りている。
「……本気過ぎない?」
「一応、仕事だしな」
嫌がり、拒否していた姿が記憶に新しいが、少年の姿はあまりにも女子だった。
もはや、美少女転校生だといっても違和感はないようにすら思える。
髪はウィッグで整え、ナチュラルメイクを施している。自前の美貌からメイクの施しは少ないが、それでも相当の手間をかけている。
本当は楽しみにしていたのではないか?と愛が思ったのも無理はないだろう。
まあ、四宮関連で女装するときに嫌がっているのを確認しているため、楽しみにしていたことはあり得ないのだが。
奈央も、少年の女装の本気具合を見て感嘆していた。
あまりにも、女子過ぎたのだ。
ウィッグを付けた影響か、髪色は染髪前の白色。腰くらいまで長くなっていた。
なるほど確かにと、愛の評判も正しいものだったのだと認識したのだ。
同時に、これは手の入れようがあるなとも思った。上等な
少年はその視線を察して怖気だったのだが、それは奈央の知らないところだ。
それにしても、と。
愛は少年の女装姿に興奮し、幼子のようにはしゃぎまわっていたのだが、ふと我に返ったかのように落ち着いた。
年齢に見合わないと思ったのだろうか、と少年は思考したのだが、まじまじと見つめる愛を見て間違いだったと断じる。
「……じろじろ見るな」
値踏みするようなその視線に少しだけ落ち着きを失くし、少年はそっぽを向く。
普段なら、そのしぐさは特に何の魅力も感じるものはない普通のものだっただろう。
しかし、少年は今の自身の姿を正しく認識していないようだった。
正統派美少女となった彼の姿では、些細なしぐさでも十分に魅惑的に映るだろう。実際、周囲の男どもはヒソヒソと噂していた。
体育祭を見に来た他校の人だと噂している。
その声量は、普通の人間であれば気づかないほどのものだ。
しかし、常人とはかけ離れた身体を持つ三人からすればそれはヒソヒソ話の域を優に超える。
「愛華、ちょっと来て」
「なんだ、何か用事でもあるのか?」
それを面白くないと思った愛は、この場からすぐに退避させようと動くが、自分に疎い愛華はその意をくみ取ることはなかった。
奈央はそれを非常に面白く思うが、言葉を言うことはない。
結局、その場を動くことはなく、男子高校生に話しかけられたことで愛の機嫌は急降下した。
少年は、愛のご機嫌撮りに奔走することになってしまった。
―――
そして、昼休憩は終わる。
休憩、という名目だったというのに、少年の体力は尽きてしまったかのような錯覚を覚える。もしかしたら錯覚ではないのかもしれないが。
そして、肉体的にだけでなく精神的にも疲れる事態が起こってしまう。
(大丈夫、大丈夫だ)
少年はそう己に言い聞かせる。
たった十五分。たったの十五分だけ役に徹していればいい。
それに、その十五分の内すべてが白組の時間であるわけではない。赤組の時間もある。
特に、赤組の団長である風野と副団長である子安は学校中での有名人だ。そのような有名人がいない白組よりも、有名人を有する赤組の方に多くの尺を取ることになるだろう。
少年はそう推測して安堵に至る。
と、思っていたのだが。
「「「えっもしかしてウチら、入れ替わってる~!?」」」
そう叫ぶのは、赤白すべての応援団全員。
そう、少年を含む全員だ。
赤組と白組の合同の応援合戦。
合戦という言葉をはき違えていないだろうか、と思う。
これではただの同盟だ。
「きゃああつばめせんぱーい!!」
「団長可愛いーー!!」
「待って待ってヤバイ!」
「風野くぅぅうん!」
(……損した)
少年は少し、いやかなり気を引き締めていたのだが、少年のその心意気を吹き飛ばすかの如く襲ってきた観客の歓声に思う。
真面目にやらなければよかった、と。
まあ、本人は比較的責任を持つような人間なのでどんな結果になると分かっていようとなんだかんだ真面目にやったのだろうが、それはそれとして思うところはある。
しかし、それはどうやら違ったらしい。
とはいえ、それは少年にとって朗報ではないのだが。
「待って何あの美少女!」
「ほんとだかわいい!キレイ!」
「あれ早坂君じゃない!?」
(うぐっ)
少年は自分の姿がばれてしまったことを嘆く。
そして、何故かカメラを持参し、挙句の果てには連射をしている奈央の姿を視認し、絶句した。
愛はどこから持ってきたのかわからない自作のうちわを両手に持って振っている。
そのうちわには、片方には『愛華!』と。もう片方には『ファンサして!』と書かれている。
(この野郎)
少年はそれを非常に厄介に思う。特に、ファンサの内容が定められていない点だ。ウインクして、などといった要望があればそれを機械的に行うだけでよかったのだが、自分で考えて行わなければならない。
まあ、実際は何もしないという選択肢もあるのだが。いつもとは違う非日常と風野への不満から正常な判断能力を少しだけ失っていたのだ。
故に、少年は一つの行動を起こす。
少年は目立つように少しだけ人から離れ、その直後に愛に見せつけるようにあるポーズをとった。
男にしては細い指を使い、ハートマークを作る。
細さを強調するために中指でハートの上部を、人差し指で下部を作った。
その際、瞳の片方を閉じ、ウインクしている。その時の表情はどこか余裕のある淑女を思わせ、妖艶な雰囲気を醸し出していた。
本当に男子高校生なのだろうか?と、大勢が思ってしまったのも無理ないだろう。
少年がファンサした直後、女性陣から事件性のある悲鳴が上がる。それによって大勢がぎょっとしたのだが、精々が倒れる人が出る程度であったために体育祭中止を求められることはなかった。
いやそもそも、人の美貌で倒れる方がおかしいのだが。
少年は己の行動を顧みて、言いようのない羞恥に悶えそうになったのだが、少年以上に悶えている愛の姿を視認したことで何とかその事態を避けることができた。
もしその姿を見ていなかったら途中で逃げ出していたことだろう。
「お、なかなか前向きにやるじゃないか。早坂!」
「……風野テメェ、騎馬戦で覚えとけよ」
「ハッハッハッ!そういえば代打はお前だったな!かかってこい!」
女装をしているとはいえ、コソコソ話なら男の口調でも問題ない。だからこそ少年は風野とそのままの口調で話していた。
もはや、ドッキリの仕掛人が余裕綽々で感想を聞き、それに悪態をつくターゲットの状況にしか見えない。タメ口を使う少年に、風野はどこ吹く風で答える。
(これだから、ちょっと毒が抜けるんだよな)
もはや風野に対する殺意の類はない。不満程度の軽いものはあるが、それでも毒はすでに抜かれている。
それはそれとして、ある程度の筋を通していかなければ自分を主張することもできない。それは、よくないことだ。
だから、騎馬戦で手を抜くことはない。
その決意を改めて固め、少年は受難を乗り越えた。
―――
応援演目を終え、少年は愛と奈央のもとに戻る。
主に、奈央が写真に残したことへの文句を言いに来たのだ。
「写真はあとで消しといてくださいね」
「ええっ、嫌よ」
「……わかりました。そしたら厳選したものだけを残してください」
少年は、妥協することでもくろみ通りに進めようとしたが、どうせたくさん残るだろうと推測していた。
どれほど厳選するのか指定していないから当然ではある。
まあ別に構わない。少年は早坂家に家を借りている身であるから、ある程度は機嫌を取っておく必要がある。そう思えば必要経費みたいなものだろう。
「すっごい可愛かったよ!」
「……そか」
嬉しくないよと言おうと思ったが、その言葉は愛を不用意にしょげさせるので言わなかった。
代わりと言っていいのかは不明だが、フンスフンスと喜びを体で表現する愛の姿を目に焼き付けた。庇護欲が掻き立てられるとでもいえばいいのだろうか。少年は心に刺さるような感覚を感じた。
まるで小学生くらいの子供が学校で起こった面白いことを自慢するのを聞く親のような、そんなことを考えた。少年はその親の気持ちにもその子供の気持ちにもなったことがないので憶測にすぎないのだが。
「……なんか失礼なこと考えてた?」
「いいや、何も?」
ぎくりと体をこわばらせることは何とか避けることができたが、愛は少年の顔を疑わし気な瞳で見つめる。少年はだんだん居心地が悪くなった。
「年相応でかわいらしいと思っただけだ。今は仕事を考えなくていいからな」
「……」
愛は顔を赤らめる――ことはなく、己に置かれた状況に意外そうな顔をした。今改めて自覚したのだろう。
「……そだね、愛華といるときは忘れられる」
「いい傾向なんじゃないか?オレと同じような人間を複数作れると尚良い」
「それ、無理じゃない?」
「…かもしれないな」
少年は言葉を切る。この先は、言う必要のない言葉だから。
(それが出来れば、あるいは……)
少年は、早坂 愛に隠し事をしている。
それは、あの夏祭りの日に明言したこと。
「すべてを晒すまで、待っててほしい」と、少年は言った。
少年は常々考えていた。
その隠し事を晒した時、どうやって生きていこうかと。
何度考えても、一つの答えしか出てこなかった。それはどう考えても最善ではない。
しかし、最善は『ただの理想』だ。『現実的な理想』ではない。
それを現実的にするには、相応の運、あるいは覚悟が必要になるだろう。
また、覚悟を以てそれを「実現可能なもの」にした場合。
それは、人生を投げ出すことと同義だ。
では、出てきた答えに沿って生きていく他ない。
すべてを晒した際に、愛へ返答をする約束だった。
(そうなれば、愛は……)
少年はそう思考する。
そんな余裕は、少年にあるのだろうか。
他人の心配ではなく、自分の心配をするべきではないのだろうか。
仮に、すべてを知った第三者がこの思考を覗き見れば、真っ先にそのような考えが浮かんでくる。
(……文化祭。あるいは、修学旅行。あるいは、進学……)
あまりに多くの時間を置いたら、少年は決断できなくなってしまう。
歩んできた日常が、底なし沼のように足を沈めるからだ。
だから、リミットは進学時。
そこが、少年と愛のボーダーラインだと断定した。
(…おいおい決めればいい)
そうして少年は先送りにする。
それは、ただの逃避だ。
いずれ決断する時が来る。
しかし、今は。そう、今だけでも――
(――この幸せな時間が、少しでも――)
願うくらいは、許されるだろう。
―――
応援合戦は終わり、そして2年の競技である棒引きも終了した。
結果は少年たち白組の圧勝。特に、少年の活躍が目覚ましかった。
少年の気迫はすさまじく、まるで殺人でも犯すのではないだろうかと思うほど。
その理由として、風野との会話がある。
『団長と副団長は競技も衣装でやってもらうからな!』
『は?』
『おいおい、何もお前だけが女装するわけじゃないんだぞ?俺だってするんだからな!』
『黙れよ発案者。その中でオレだけが二年なんだよ、棒引きのときどうすんだ』
『大丈夫、きっと何とかなる!』
『シバくぞテメェ』
というわけで、少年は女装姿を強要されていた。もちろん、会話内容から分かるように競技中でさえだ。
一度消失した殺意が再燃した感覚を覚えてしまった。
競技中の時に懸念したのは制服が汚れてしまうことだったが、少年の身体能力と立ち回りのうまさによって汚れ一つも見えない。
借りものであるため、汚さないことに精神をすり減らしたが、なんとかその難題をこなすことができた。
なぜか愛が少年の学ランを着て男装を始めた点を除き、特に面白いことも起きなかった。
「いや、どこからオレの服持ってきた」
「ママに取ってきてもらった!」
「カメラの時か…」
少年はダブルピースをして己の所業を誇る奈央の姿を想像しながら額に手を当てた。
どうにも、少年の周りには少年の意思に反して動く人物が多すぎる。
だが、愛が新鮮な体験をできた喜びをかみしめているのを見て、少年がとやかく言うことはなかった。
丈が合っていないせいだろう、萌え袖になっていることが愛のかわいらしさを底上げしているため、少年にとって眼福であったことも理由の一つだ。
とはいえ、袖を鼻にあてて匂いをかぐのはやめてほしいと思っているのだが。切実に。
本人にやめるように懇願しても聞く耳を持たなかった。
まあ、棒引きの時に男装して少年の羞恥を和らげてくれたのでその褒美だと思えばいいとしたのだろう。少年はツッコむことをやめた。
愛が奈央に男装姿を撮られているのを横目に、少年は次の種目の準備を進める。
そう、代理として出る騎馬戦だ。
「オレが騎手をやっていいんですか?」
少年は組む予定である騎馬のチームと打ち合わせを行っている。当日急に少年が補欠としての参加を決めたため連携の類をざっくりと決める必要があるためだ。
その際、組む予定の3年は少年に騎手を任せる旨を伝えたのだ。
「ああ。棒引きの時も思ったが、お前が一番身体能力が高いからな…それに、風野を倒すんだろ?」
そう言ってにやりと笑う3年生を見て、少年は疑念で思考を埋める。今の笑みは少年の思想に賛同するものだと判断できた。しかし、その理由がわからない。
風野はいわゆるウェイ系にカテゴリーされる人間だが、「ノリがきつい」という評価にはさらされていない。
偏に彼の人望が為すものであろう。
とはいえ、そんな彼でも恨みを買うことはある、ということだろうか。
少年は風野を倒したい。そして、3年は白組の勝利のために風野を打倒したい。
この利害の一致がこの状況を招いたのだ。
「マジ感謝します。代打とはいえ、全力で行かせてもらいますよ」
「ああ、頼んだぜ!」
そして、少年を騎手として騎馬を組んでいく。
少年たちの騎馬は驚くほど安定していた。この瞬間までに練習の類は一切行っていなかったのだが、少年の体幹の強さによって完璧な騎馬が作られていた。
土台となる3年生も素晴らしく、完璧な態勢だった。
風野を倒すことは、現実的になったと見ていいだろう。
だが、万が一というものがある。その万が一を潰すために少年は行動を開始した。
具体的には、白組の3年生すべてにお願いをするというものだ。
「自分が跳び乗っても大丈夫かどうかテストさせてもらえませんか?」
多くの3年生は、「彼は何を言っているのだろうか」と思ったことだろう。
まず、騎馬戦において騎馬を解くことはご法度にも等しい。いやそもそも、飛び乗る、とはどういうことだろうかと考えた人が多いだろう。
それを、少年は実践してみせることで示した。
少年が騎馬から騎馬へと跳び移る。跳び乗る先は、騎手の背中の上だ。
人間一人分の重さがダイレクトに乗っかるため、騎馬は多少よろけたが、少年の配慮と技術によってよろけは最小限にすんだ。
少年が跳び乗った後に落ちなかったため、周囲からは拍手が巻き起こる。
「……ちなみに、これはルール的にありなのか?」
「ケガさせない、という前提のもと、校長からは許可を取っています。もちろん、ケガさせたら相応の罰則があると思いますが、校長はオレのことを信用してくれてるので。あとは皆さんの信用次第ですね」
白組団長が問うと、少年は飄々と答えた。ルール上の問題はないらしい。
そして、少年の言葉で団長はメンバーの方を向く。少年を信用できるのか問うためだ。
さすがに全員が信用してくれるわけではなかったが、少数の人間は信用してくれた。
騎馬から騎馬へ跳び乗るという行為を面白がった男がほとんどだ。
少年が跳び乗ることができるようになった騎馬は、自分のものを含めて4つ。
「問題なさそうですね」
少年は許可を得た騎馬にテストをしてみた。そのどれもに然したる問題はなく、十分に使えそうだ。
さすがに、跳び乗るときは一声かけるようにした。不意に跳び乗って崩してしまうのは本意ではないからだ。
そして、準備は終わり、出番がやってくる。
少年は女装した自分の姿に再び絶望しながら、迫りくる戦に武者震いする。
「ぜってぇぶっ潰す」
「せめて倒すに留めろ」
副団長のツッコミを流し、少年は牙を研ぎ続ける。
その瞳には、風野以外の騎馬は映っていないのかと錯覚する程だ。
そして、開戦のゴングが鳴り響く。
『さあ、始まりました!秀智院体育祭の名物騎馬戦!本来は3年生でのみ行うこの種目ですが、人数の関係上2年生の『早坂 愛華』君が参戦しております!しかも何を狂ったのか女装した姿!』
「ちょっと待てや、実況!オイ風野!説明くらいしとけ!」
実況の発言に引っかかった少年は、その原因が風野にあることを即座に看破して彼を非難する。
風野は『テヘッ!』とでも言うかのようなしぐさをして、その上ウインクして舌を出す。
(――ほんとに潰そう)
少年は最後の一歩手前のブレーキがぶっ壊れることを認識し、後ろから不意を突いてきた騎馬を返り討ちにする。
「噓だろ!?」
「ナイス!」
右手につかんだ赤色のハチマキを首に軽く巻き、己の戦績を誇示しながら少年は戦場を見渡す。
白組はおおむね劣勢で、少年が跳び乗るための騎馬の数がすでに半分になっていた。
そうしている間にも、もう一つ落ちる。これで使えるものは一つだけだ。
最後の一つが二つの騎馬に囲まれていることを確認し、少年は行動を移した。
「行きます!」
相手が少年の言葉を認識したことを確認し、少年は細心の注意を払って飛び移る。
そして、背後を取っていた騎馬のハチマキに手を伸ばす。不意を突かれた騎手に抵抗するすべはなく、流れるようにハチマキが少年の手に渡る。
「そんなんありかよ!?」
「アリアリ!」
少年の騎馬がそういう。相手は納得したくなかったようだが、学校側が何も言わなかったので追及もできずに撃沈する。
そして、着地した騎馬もハチマキを奪えたようで、少年が元の騎馬に戻ることもできた。
「案外うまくいったな!」
「ですね」
騎馬の称えを聞き流し、少年は再び辺りを見渡す。
まあ、そりゃ女装して美少女になった年下の男が突然目の前に現れたら不意も突かれるだろう。
白組の劣勢は時間を経るごとに大きくなっていき、残りは2つの騎馬のみ……ああ、たった今少年の騎馬のみになってしまった。
対して赤組の騎馬は3。その中には当然のごとく風野率いる大将騎馬が残っている。
1対3。少年ならば覆せなくはない数だが、それでも苦しい戦いには違いないだろう。
少年は息を大げさに吐き出し、頬を軽くぺちぺちとたたくことで活を入れなおす。
「もらった!」
少年が両手を頬を叩くのに使っているのを見て、好機だと判断したのだろう。少年の右から手が伸びてくる。
しかし、少年はその魔の手に気付いていた。向かってくる手をいなし、態勢を多少崩してから安全にハチマキを奪い返した。
「な……」
「ゴチっす」
片手で謝罪のしぐさをしながら少年はそう宣う。
今の行動は相手の行動を誘導するためのものだったのだ。ニヒルな笑みがそれを示している。
「くっそー!」
打ち倒した騎馬の悔恨の声を後ろに聞きながら、少年は前を向く。
そこにいた騎馬は、1つのみだった。風野のものだ。
「さあ、一騎討ちと行こうじゃないか!」
「シバいてさらし首だ」
「穏便にな!穏便に!」
少年の過激な発言に騎馬は総勢でツッコむ。あまりにも過激な発言であったためだ。
少年と風野の戦いが本格化する。
少年の鋭い手を風野は間一髪でいなす。その表情には苦悶の表情が見て取れた。
二人の間には隔絶とした身体能力の差がある。もちろん、少年の方が格上だ。
しかしそれは恥ずべきことではない。体育会系である風野とはいえ、天賦の才と諸事情により鍛えられた少年の身体能力にかなう方がおかしいのだから。
しかし、それは少年に付け入る隙がないことと同義ではない。
精神面において、今の少年は脆いといっていいだろう。まるで質の悪いガラス細工のようだ。
風野は少年の魔の手をぎりぎりでつかむ。二人の手がそれぞれ握られ、力比べをするような構図となった。
今は少しだけ均衡しているが、それも時間の問題だ。少なくとも、もうすでに押し込まれかけている。
このままでは負けてしまうだろう。
スポーツマンシップには反してしまうだろうが、勝つために、そして目の前にいる強敵に敬意を払うために風野は行動を移した。
「その女装、随分と似合っているじゃないか!まるで本当の女子のようだな、愛華ちゃん!」
――それが禁忌だということを、風野は知らなかった。
「―――あ?」
低く、平坦で、それでいてどこか怯えたような少年の声を認識するのと同時に、風野は自身の体に走る信号に意識を向けた。
「――っつ!」
少年の手によって風野の掌は握りつぶされる。ミシ、と鳴ってはいけない音が響いた。
両手が歪んでいるのを見て、騎馬も、視力のいい観客席の者も、異常を感じ取った。
それに対して一瞬遅れて、少年は事態を認識する。
「―――っ!」
そして、弾かれるかのように手を離した。
体は後ろに傾いて、今にも崩れそうだ。幸い、騎馬が優秀だったために落下することはなかったが、それでも、大きな隙が出来た。
「今度こそもらったぜ!」
そして、挟み撃ちの状態を取っていたもう一つの騎馬によって少年のハチマキが奪われる。
少年がそれを認識したのは遅かった。まるで、自分の体に起こったことが理解できないかのように。
今の状況を、理解したくないかのように。
「あ…」
思わず、といった具合に零れ落ちた少年の声。
その手は、今は頭にないハチマキを探していた。
周りの喧騒は聞こえなかった。
無双していた少年をあっけなく敗北させたことによる赤組への称えも、吠えるかのような実況の大きな声も、ハチマキを取った赤組の雄たけびも。
少年には、何一つ聞こえなかった。
聞こえるのは、耳鳴りだけ。
冷や水を浴びたかのように冷たい頭で、ひとまずやるべきことを考えた。
「先輩…すみませんでした…。その、け、ケガは…ないですか」
らしくもなくたどたどしい声。風野はその異常性に踏み込むことを考えたが、少年の精神状態を考慮してやめた。
「ああ、問題ない!鍛えてるからな、これくらいじゃ何ともないさ!それよりもすまん!かなり煽るようなことを言った、本当にすまん!」
それは、当事者にとっては強がりだと分かった。自分の持つ力をよく知っているからこその思考。
もちろん、風野の気遣いにも気づく。同時に、「なぜ自分はこんなにも感情的になっていたのだろうか」という疑問に満たされた。
いや、その理由はわかっているのだ。同時に、風野に怒るのは筋違いだということも、よくわかっている。
しかしそれでも、少年の中ではそれだけで片づけられなかったのだ。
後になって、それがどれほど愚かだったのかよくわかる。
「……問題ないです…し、それなら、よかったです」
それだけ言って、気分がすぐれないと断ってからその場を後にする。
今はとにかく、一人になりたかった。
―――
愛華の異常性を感じて、私は居ても立っても居られなかった。
すぐに彼の姿を探そうと歩き回る。制服を返しにこちらに来る可能性も捨てきれなかったけど、彼の切羽詰まった表情と雰囲気を見ると、そんな余裕もなさそうだった。
各教室、生徒会室、保健室、移動教室で使う教室など、学校の中にはいなかった。更衣室も少しだけ人の気配を探ってみたけど、いないようだった。あるいはもう着替えを済ませたのかもしれないけれど。
ならばと、校舎の外でかつ、人目を避けられる場所に向かって歩いてみる。いや、もしかしたら駆け足になっていたのかもしれない。自分の息遣いが運動しているときのそれだった。
探し始めて数分。私は愛華を見つけた。着替えは済ませていたらしく、体操着にパーカーを着ていた。フードだってかぶっている。
思えば、体育祭に限らず、彼はずっと長袖だった気がする。それに、制服を貸した時も、彼は似た素材の生地を使って裾を伸ばしていた。わざわざ生地を買ってまでだ。今気にすることではないだろうが、ふとそんなことを考えた。
彼は、校舎裏で座り込んで…いや、うずくまっていた。
愛華のこんな姿は、初めて見た。
「愛華!」
近づきながら呼び掛けてみるが、愛華に反応はない。
声が小さかったのだろうか、いや、それはさすがにないはずだ。私にしては相当大きな声を出した。愛華の友人には、それほど大きな声を出す人はいないから、この声は確実に聞こえているはず。
なら、聞こえていても認識できていないのだろうか。それほど、集中しているのだろうか。
そう思い、愛華の顔を少し覗き込んでみる。
焦点の合わない愛華の瞳を見て、私は事態の異常性を小さく見積もっていたことを察した。
あまりにもおかしい。言っては悪いが、たかが騎馬戦程度でこのような状況になるものだろうか。
「…愛華?」
もう一度、呼び掛けてみる。近づいたから、声量は二段階くらい落とした。
返答はない。
「――やっぱり、なのか」
返答はなかったが、愛華は独り言を言っているようだった。あまりにも小さい声量だったので、その内容は聞き取れなかった。
ただ、独り言はまだ終わっていないらしい。私はその内容を聞き逃さないように耳を澄ませた。
「やっぱりオレは、同じ…なのか?あの人が言ったように、同じ……――いや、違う。違うはずだ、でも、でも……!」
――あの人、とは誰だろうか。
ぐちゃぐちゃの感情を出す愛華は、見ていてとてもつらかった。私は耳を澄ましたことを早くも後悔する。
「愛華!」
さっきよりも大きな声でもう一度名前を呼ぶ。愛華の反応はまだなかった。
「やっぱ、ダメなのか。オレは、心の奥底では、あの人と、あの人たちと同じ――醜いナニカ?……嫌だ、嫌だ。だって、だってそれが本当だったら、本当だったら……!」
「愛華!」
独り言を遮って、名前を呼ぶのと同時に彼の顔を私の顔に無理やり向けさせる。独り言の内容は、さっきよりも声が小さかったから聞こえなかった。
驚いたような、事態を呑み込めていない愛華を珍しく思いつつ、私は彼が意識をこちらに向けたことを確認した。
「あ……い…?」
「……大丈夫?愛華?」
彼は焦点を合わせ、私のことを見てくれた。
その直後、私を邪魔者扱いするかのように手で払いのけた。
思わず、びくりと体を震わせてしまう。
「――っ!!」
愛華は泣きそうな、それでいて悟ったかのような表情を見せた。何故かはわからないが、そう思ったのだ。
「……ひ、一人にさせてくれ。今は、頼む。今は、ダメなんだ」
「ヤダよ」
愛華の懇願に、私は耳を貸さなかった。ここで彼の言うとおりにしてしまったら、彼は壊れてしまうように感じてならなかった。
「…たの、頼む。お前を、巻き込みたくないんだ。迷惑をかけたくないんだ」
「わかってる。でも、嫌だ」
そう言いながら、私は愛華を抱きしめた。右手で背中をトントンと軽くたたき、左手で彼の頭を優しくなでる。
彼を落ち着けるための行動だった。
だけど――彼は、それを拒んだ。
「え……」
自惚れているつもりはないが、私がどんな行動をしようとも、彼は私を受け入れてくれると思っていた。少なくとも、過去に経験している抱擁を拒まれるとは思っていなかった。
事実を受け入れられないながらも、私は自分の手から彼の顔に視線を移す。
「だ、ダメ…だ……ダメなんだ」
彼は立ち上がり、千鳥足ながらもこの場を離れようとした。
「……ごめん」
私は、彼を追いかける気にはなれなかった。
体育祭は赤組が勝ったらしい。空に上がる赤い風船で分かった。
でも、私にはどうでもよかった。
私と愛華との間にできてしまった、大きくて深い溝が、私の胸をこれでもかと締め付けた。