ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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ステゴになったけど結局ステゴ。

 目覚めると、ボクは少女になっていた。

 

 頭にはふさふさとした獣の耳があり、腰からは立派な尻尾が生えている。鏡に映るその姿は、世間一般で「ウマ娘」と呼ばれる存在だった。名前は、ステイゴールド、らしい。

 

 正直なところ、最初はあんまりいい気はしなかった。

 

 つい昨日まで、ボクはどこにでもいる中年のバイク乗りだったんだ。週末になれば愛車に跨り、オイルと排気ガスの匂いに包まれながら、あてもなくツーリングに出かけるのが生きがいの、ただの「おじさん」だった。

 

 それが突然、こんな小柄な少女の体に入れ替わってしまったのだから。毎朝ヒゲを剃る手間が省けたのは少しだけ評価できるけれど、どうしても落ち着かない。服のサイズも合わないし、何より重心が高くなったような、低くなったような、奇妙な感覚があった。

 

「……まいったね。これじゃあ、大型二輪に乗るには少し足が届かないかもしれない」

 

 ボクは自分の細い腕と脚を眺めながら、淡々と独り言をつぶやいた。でも、そのささやかな不満が完全に消え去るのに、そう時間はかからなかった。気分転換に外に出て、軽く歩いてみようと思ったのがきっかけだ。

 

 少しだけ駆け足になった瞬間、景色が弾けた。

 

 ヒュンッ、と風が耳を撫でる。いや、撫でるどころじゃない。風を切り裂いている。時速40キロ、50キロ、いや、60キロは軽く超えているかもしれない。しかも、心臓は全く苦しくない。息も上がらない。

 

 かつての愛車、あの鉄の馬のシート越しに感じていた振動と風圧を、ボクは今、生身の体で感じていた。

 

「……信じられないな。これが、この身体の標準スペックなのかい」

 

 立ち止まり、自分の両脚を見下ろす。華奢に見えるこの脚には、エンジンのピストンを凌駕するような、想像を絶するパワーが秘められている。

 

 ガソリンは不要。厄介なキャブレターの調整も、オイル交換もいらない。必要なのは、人より少し多めのご飯と水くらいだ。それに、どれだけ走ってもまったく底が見えないこの無尽蔵の体力。

 

 ふと、頭の中に極めて合理的な一つの考えが浮かんだ。

 

 この足があれば、どこへでも行けるんじゃないか?

 

 休日のひどい渋滞に巻き込まれてクラッチを握る手が痛くなることもないし、見知らぬ山道でガソリンスタンドの場所を気にしてヒヤヒヤしながらルートを選ぶ必要もない。道なき道だって、この強靭な脚なら踏み越えていける。

 

「そうか……旅し放題、というわけだ」

 

 気がつくと、ボクの口元には自然と笑みが浮かんでいた。おじさんだった頃のボクの魂は、この黄金色の髪を持つ少女の体と、意外なほど完璧に噛み合おうとしている。今のボクは、自分の足でどこまでも走れる、最強の旅人だ。

 

 ボクは踵を返し、家……寮に向かって歩き出した。荷造りをしなくちゃいけない。大きなシートバッグはもう必要ない。必要最低限の着替えと、少しのお金。あとは、出先で美味しいコーヒーを淹れるためのコンパクトなバーナーとミルがあれば十分だ。

 

「さあ、出発しようか。まだ走ったことのない道が、ボクを待っているからね」

 

 吹き抜ける風が、光を受けて黄金色に輝くボクの髪を優しく揺らしていた。

 

 

 部屋に戻り、ベッドに腰を下ろして、ボクはもう一度自分自身と向き合ってみた。

 

 目を閉じると、頭の中にある二つの異なる記憶が、静かに、そして確実に混ざり合っていくのがわかる。ツーリング先の寂れた食堂で啜ったラーメンの味、冷たい雨に打たれながら走った夜の国道。それらは間違いなく、バイク乗りだった「おじさん」としてのボクの記憶だ。

 

 でも、それと同時に、色鮮やかな別の景色も頭に浮かび上がってくる。芝生の匂い、学園の賑やかな喧騒、誰かに悪戯を仕掛けて笑い転げたこと。それは、この身体の元の持ち主である「ステイゴールド」というウマ娘の記憶だった。

 

「なるほど。ボクは今、完全なハイブリッドというわけだ」

 

 彼女の記憶を辿っていくと、なんだか無性に走り出したくてうずうずしている自分がいることに気づく。どうやら元の彼女も、じっとしているのが苦手な、生粋の自由人だったらしい。そこはボクと気が合いそうだ。

 

 ただ、少しだけ決定的な違いもあった。元の彼女は、良くも悪くも賑やかなことが好きだったみたいだけれど……ボクの芯にある「おじさん」の気質は、どこまでも孤独を愛している。

 

 誰かと群れるよりも、一人きりで風の音を聞く時間が好きだった。

 

 気の向くままにルートを変え、名もなき景色を独り占めする。誰にも干渉されない静寂な孤独感こそが、旅の最高のスパイスだったんだ。

 

「へぇ……」

 

 ボクは小さく、納得のいく呟きを漏らした。

 

 活力を満て余すウマ娘の身体と、孤独な旅を愛するおじさんの魂。相反するようでいて、これが不思議なほど心地よく馴染んでいる。今のボクなら、誰のペースに合わせることもなく、ただひたすらに、静かな自由を謳歌できる気がした。

 

 目を開け、窓の外を見る。空は澄んでいて、絶好の旅日和だ。

 

 ボクは立ち上がり、軽くアキレス腱を伸ばした。この新しい身体の性能を、そしてボクの中に息づく静かな放浪癖を試すには、少しばかり距離が必要だ。

 

 北へ向かって駆けていく道がいい。県境の山を越えて、少しずつ空気が涼しくなっていくあの感覚を、ヘルメットやシールド越しではなく、直接肌で味わってみたい。

 

「じゃあ、試しに走ろうか。まずは福島にでも」

 

 ボクは誰に言うでもなく呟くと、必要最低限の荷物が入ったリュックを背負い、軽やかにドアを開けた。

 

 

 学園の敷地を抜けようと並木道を歩いていると、前方から見知った顔と鉢合わせた。

 

 小柄で、どこか飄々とした佇まい。頭の中で混ざり合った記憶が、彼女の名前をすぐに教えてくれた。「ドリームジャーニー」だ。

 

「おや、アネゴ? どちらへ?」

 

 ジャーニーは足を止め、少しばかり面白がるような、探るような目でボクを見た。記憶の中の彼女――かつてのステイゴールドなら、ここでニヤリと笑って突拍子もない悪戯を仕掛けるか、何か騒ぎの種になるような返しをしていたんだろう。ジャーニーも、おそらくそういう反応を予想して声をかけたはずだ。

 

 けれど、生憎と今のボクはそういう気分じゃなかった。ボクは立ち止まることなく、ただ淡々と答えた。

 

「やあ。ちょっと福島までね」

 

「……福島? ちょっと、ですか?」

 

 ジャーニーが微かに目を丸くするのがわかった。無理もない。ここから福島までは、それなりの距離がある。ふらっと近所のコンビニにでも行くようなテンションで口にする地名ではないからね。

 

「うん。少し風の匂いが嗅ぎたくてね。この足なら、日帰りでどれくらい行けるか試してみようと思って」

 

「アネゴ……今日はなんだか、雰囲気が違いますね。妙に静かというか……」

 

 訝しむジャーニーに、ボクは小さく肩をすくめた。

 

「そうかい? ボクはいつも通りだよ。ただ、今日は誰のペースにも合わせず、一人で淡々と走りたい気分なだけさ」

 

 彼女は少しの間ボクの顔を見つめていたけれど、やがて小さく息を吐いて口角を上げた。

 

「……はあ。相変わらず、思い立ったら一直線なところは変わりませんか。まあ、気をつけて。道中のお土産、期待してますからね」

 

「荷物にならなくて、気が向いたらね。じゃあ、行ってくるよ」

 

 ボクは軽く手をひらひらと振って、ジャーニーの横を通り過ぎた。背中に彼女の視線を感じたけれど、振り返りはしなかった。

 

 今のボクの興味は、ただ目の前に続くアスファルトの道と、その先に待っているだろう見知らぬ景色にだけ向いている。誰かとつるむのも悪くないけれど、エンジン音の代わりに自分の心地よい足音だけを聞きながら進む孤独な時間は、何にも代えがたい。

 

 ゲートを抜け、幹線道路に出る。ボクは小さく息を吸い込み、ふくらはぎに軽く力を込めた。

 

 さあ、旅の始まりだ。

 

 

 残されたドリームジャーニーは、遠ざかる小さな背中をじっと見つめていた。

 

 いつものアネゴなら、あんな風に静かに立ち去ることはない。必ず何かひと騒動の種を撒いていくか、ニヤリと不敵な笑みを残していくはずだ。それに……。

 

「……ボク?」

 

 ジャーニーは小さく呟いた。先ほどのやり取りの中で、アネゴは確かに自分のことをそう呼んだ。彼女がそんな一人称を使うなど、まったく記憶にない。単なる気まぐれか、それとも。

 

 飄々とした態度の裏側に、まるで別人のような得体の知れない何かを感じ取ったジャーニーの瞳が、スッと細められる。

 

「……少し、注視しておくとしましょうか」

 

 その呟きは冷たく、どこまでも鋭い観察者の響きを帯びていた。

 

 

 一方、そんな後輩の鋭い疑念などつゆ知らず。ボクは北へと続く国道沿いを、ひたすらに快調にすっ飛ばしていた。

 

「ああ、これこれ。この風を切る感じ!」

 

 思わず、弾むような声が漏れる。時速60キロ巡航。かつて愛したバイクのシートの上で感じていたスピードの領域に、今、生身の体で到達している。

 

 ヘルメットの分厚いシールド越しではない、直接肌を叩く風。股ぐらから立ち昇るエンジンの排熱も、クラッチを握る左手の疲労もない。ただ、自分の足がアスファルトを蹴るリズミカルな感触だけが、足裏から脳へと心地よく伝わってくる。

 

 息はまったく上がらないし、汗ばむことすら心地いい。ギアチェンジの必要もない。ただ「もう少し速く」と意識するだけで、景色はさらに勢いよく後ろへと飛び去っていく。

 

「最高だね」

 

 渋滞に苛立つこともなければ、対向車の動向に神経をすり減らすこともない。ただ純粋に、風景を切り裂いて「移動する」という行為の結晶がここにある。ウマ娘という存在のポテンシャルには、ただただ感心するしかない。

 

「さて、このペースなら県境を越えるのもあっという間だ。……せっかくだし、お昼は喜多方まで足を伸ばしてラーメンでも啜るとしようか」

 

 頭の中の地図を広げながら、ボクは口元に自然な笑みを浮かべる。どこまでも続く真っ直ぐな道を、ボクはただひたすらに、自由な風となって駆け抜けていった。

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