「それにしても、あの登り坂の踏み込みはただの素人じゃないと思っていたけれど……」
魚の市場通りに立ち込める、磯と醤油の焦げる香ばしい匂いの中。イカの丸焼きの串を齧りながらボクが尋ねると、彼女はあっさりととんでもない経歴を口にした。
なんと彼女、競輪界ではトップクラス、ウマ娘のレースで言えば「G1級」に相当するS級の実力を持つ、現役バリバリのトップレーサーだったらしい。
「……マジで?」
「マジマジ! いやー、でも本当に楽しかったな。私、いつかウマ娘さんと全力で並走してみたいって、ずっと一つの夢だったんだよねー!」
あっけらかんと笑う彼女の横顔には、頂点を極める勝負師特有の気負いみたいなものは微塵もない。ただ純粋に「走ること」を愛している、根っからの自転車乗りの顔だった。
「だから、その夢が叶った記念ってことで、今日は私が全部奢るよ! 遠慮しないで思いっきり食べてー!」
ポンと胸を叩く彼女の気っぷの良さに、ボクは思わず目を丸くした。けれど、せっかくのトップレーサーの厚意だ。ここで変に遠慮して財布の心配をするなんて、それこそ野暮というものだろう。ボクはふっと肩の力を抜いて、口角を上げた。
「……じゃあ、遠慮なく」
そこからはもう、食べ歩きという名の快進撃だった。
まずは屋台に並ぶ、大ぶりのホタテやサザエの壺焼き。醤油がふつふつと泡立ち、貝の旨味が凝縮された汁ごと一気に飲み込む。続いて、脂が滴る鮭のハラス焼きに、カニの出汁がこれでもかと出た熱々の番屋汁。さらには新鮮な生牡蠣をちゅるりと平らげ、特大のエビの塩焼きにまで手を伸ばす。
かつてのおじさんの胃袋なら、この半分もいかずに悲鳴を上げていただろうボリュームの応酬。しかし、ウマ娘の身体――それに先ほどの山越えでカロリーを使い果たした空っぽのタンク――は、ブラックホールのように次々と海の幸を呑み込んでいった。
「はははっ、すっごい食べるね! 昨日の競輪終わりの打ち上げでも、そんなに食べる選手いなかったよ! 見てて気持ちいいくらい!」
「なんせ、エンジンが大きくて燃費が悪い身体だからね。それに、海沿いの空気と一緒に食べる海鮮は格別だ」
ボクがツブ貝の串をリズミカルに空にしながら答えると、彼女はお腹を抱えて豪快に笑った。
自転車とウマ娘。走るフィールドもエンジンの構造も違うけれど、風を切って走ることに魅入られた者同士、不思議と話のテンポが合う。お互いのトレーニング方法や、風向きの読み方、コーナリングでの体重移動の感覚など、マニアックな話題で盛り上がりながら、ボクたちは市場通りを端から端まで食べ尽くす勢いで歩き回った。
一人きりの孤独な旅を愛するおじさんの魂も、今日ばかりはこういう賑やかさを心地よく感じていた。
「いやあ、食った食った!」
「ごちそうさま。本当に美味しかったよ」
両手に串や空き容器を抱え、満足げに笑い合う。新潟の爽やかな海風が、お腹いっぱいになったボクたちの間を、どこまでも優しく吹き抜けていった。
■
市場通りの端っこが見えてきた頃、満足げにお腹をさすりながら彼女がふと尋ねてきた。
「そういえば、ウマ娘さんは旅の途中なの?」
「まあね。アテのない旅さ。風の吹くまま、気の向くまま。どこへ行くかは決めていないんだ」
「いいねぇ、そういうの! 今日はどこかに泊まるの?」
「野宿だねー。適当な木の下か、見晴らしのいいベンチでも見つけて寝るよ」
「えっ、野宿!? ……まあ、さっきの走りを見たら、野生のクマが出ても返り討ちにできそうだけどさ」
彼女は呆れたように笑いながらも、昨日までの人たちのように変に引き止めたり、過剰なお節介を焼いたりすることはなかった。このサバサバした距離感は、自らの肉体を頼りに生きるアスリートらしくてとても心地いい。
商店街が途切れる場所で、彼女はロードバイクのハンドルに手をかけた。
「じゃあ、私はそろそろ練習に戻るね。……あ、そうだ。連絡先、交換しとこ!」
「オッケー」
差し出されたスマホに、ボクも自分の端末を合わせる。画面に連絡先が追加されたのを確認して、ボクは改めて名乗った。
「ボクはステイゴールド。一応、中央のトレセン学園所属さ」
「ステイゴールド! うん、いい名前! あ、じゃあいつテレビで見てもいいように、しっかり覚えておくよ!」
「ありがとう。まあ、気長に待っていてよ」
「うん! それじゃ、良い旅を!」
彼女はニカッと笑ってペダルを踏み込み、あっという間に風と同化して走り去っていった。その力強い後ろ姿に軽く手を振ってから、ボクも踵を返す。
さて。時刻は次第に夕暮れ時へと向かっていた。
日本海を右手に眺めながら、ボクは海岸線沿いの国道を南下するルートを取った。潮の香りを孕んだ海風が心地よく、寄せては返す波の音が一定のリズムを刻んでいる。
二輪のエンジン音を響かせて走る海岸線も最高だけれど、自分の足で波音を直接聞きながら走るこの静かな時間も、言葉にできないほど素晴らしい。
やがて、小高い丘の上に整備された見晴らしの良い公園が見えてきた。入り口の看板には「椎谷夕日ヶ丘公園」とある。
「……うん、今日はここにしようか」
名前の通り、眼下に広がる日本海と、そこへ沈みゆく巨大な夕日が特等席で見渡せる絶好のロケーションだった。ボクは芝生が広がる手頃なスペースにリュックを下ろし、本日の野宿ポイントと定めた。
海鮮で満たされた胃袋を休めるように、バーナーを取り出して食後の紅茶を淹れる準備を始める。
シュゴーッという小さな燃焼音が響く中、日本海に沈む真っ赤な太陽が、波間を燃えるような黄金色に染め上げていく。その壮大で静寂な景色を独り占めしながら、ボクはゆっくりと息を吐いた。
「今日も、なかなか面白い一日だったね」
温かいカップを両手で包み込み、ボクは誰にともなく、静かな波音に向かってそう呟いた。
■
翌朝、穏やかな波の音で目を覚ましたボクは、日本海を右手に見ながらさらに南へと足を進めた。
海岸線を快調に走っていると、やがて巨大な建造物の群れが視界に飛び込んできた。原子力発電所だ。ちょうど見学ツアーの受付をしているところだったので、ボクはふらりとそれに参加してみることにした。
「……ほう。これは壮観だね」
厳重なセキュリティを抜けた先にある、途方もなく巨大なタービン建屋や、複雑に張り巡らされた分厚い配管の数々。昨日見た燕三条の職人技が「個人の極致」だとしたら、こちらは「人類の叡智と工業の結晶」だ。発電の仕組み自体も興味深いけれど、純粋にこの圧倒的なスケールの機械設備を眺めているだけで、おじさんの魂はひどく満たされた。人間の作り出すものというのは、本当に奥が深くて面白い。
すっかり感心して施設を後にした頃には、太陽は再び西の海へと傾き始めていた。
「さて、上越の街まではもう少し距離があるけれど……今日はこの辺りにしておくか」
切りよく旅の歩みを止めたボクは、街道沿いにポツンと明かりを灯していた赤提灯の居酒屋へと足を踏み入れた。
ガラガラと引き戸を開けると、カウンターの中で焼き鳥を焼いていた店主と目が合った。彼はこちらの姿――見慣れないウマ娘の少女――を見るなり、一瞬だけ「なんだ?」と怪訝な顔をした。無理もない。どう見ても未成年が一人でふらりと立ち入るような店ではないからね。
「やあ。お酒じゃなくて、ご飯だけなんだけど。いいかい?」
ボクがひらひらと手を振ってそう言うと、店主は少し拍子抜けしたように顔のシワを緩め、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「なんだ、メシか。いいとも、空いてる席に座りな」
気持ちよく迎え入れられたボクは、カウンターの隅に陣取り、ウーロン茶と大ぶりの焼き鳥の盛り合わせ、それに焼きおにぎりをいくつか注文した。
甘辛いタレの焦げる匂いが食欲をそそる。炭火で香ばしく焼かれた鶏肉を串から外し、白米がぎっしり詰まった焼きおにぎりと一緒に頬張る。これぞ大衆酒場の味だ。昨日の豪華な海鮮も良かったけれど、こういう気取らないB級グルメも旅の夜にはたまらない。
「いい食べっぷりだな。ウマ娘の嬢ちゃん、一人旅かい?」
ボクが次々と皿を空にしていくのを見て、店主がカウンター越しに話しかけてきた。
「まあね。あてのない気ままな旅さ」
「へえ。で、今日はどこに泊まるんだ? この辺りじゃ、めぼしい宿は上越の市街地まで行かねえとないぞ」
「宿? 取ってないよ。いつも通り、野宿だね」
ボクがウーロン茶をすすりながらあっさりと答えると、店主は呆れたように笑った。
「野宿ぅ? ウマ娘ってのは、みんなそんな面白い旅をしてるのかい?」
「いや、ボクが少し変わり者なだけだと思うよ」
前世の記憶と今の身体が混ざり合ったハイブリッドだからこその気質だ。他のウマ娘がどうなのかは、正直ボクもよく知らないしね。
最後の一つになった焼きおにぎりを齧りながら、ボクはふと、外の空気が少し湿り気を帯びていたことを思い出した。風向きからして、夜半には少しパラッと来るかもしれない。完全な青空野宿は少しばかり面倒そうだ。
「そうだ、親父さん」
「ん?」
「食後の腹ごなしに、閉店後の片付けと洗い物を手伝うから……今夜、ここの軒下を貸してもらえないかい? ちょうど雨を凌げそうな、いい庇があったからね」
昨日や一昨日のように「部屋に泊めてくれ」という厚かましいお願いではない。ただの雨宿りのスペースの交渉だ。ボクのその飄々とした提案に、店主は少し目を丸くしてから、可笑しそうに肩を揺らした。
「軒下? 洗い物と引き換えに軒下って、なんだそりゃ。……まあ、構わんけどな。風邪引いても知らねえぞ?」
「ありがとう。ウマ娘は頑丈だから、その辺は心配無用さ」
交渉成立だ。
ボクは残りのウーロン茶を飲み干し、さて、と軽く腕まくりをした。美味しいご飯と、屋根のある寝床。今日もまた、完璧な夜の締めくくりになりそうだね。