店じまいの手伝いを手際よく終え、約束通り店先の広めの軒下に陣取ったボクは、リュックを枕に寝転がる準備をしていた。
予感通り、空からはポツリポツリと冷たい雨粒が落ち始め、アスファルトを黒く染めている。庇(ひさし)の下で雨音を聞きながら過ごす夜も、なかなか風情があっていいものだ。
そんな風に夜の空気を楽しんでいると、背後の引き戸がガラリと開いた。
振り返ると、すっかり店を片付け終えたはずの親父さんが立っていた。その手には、折り畳まれた分厚い毛布と、小さなお盆が握られている。お盆の上には、ツヤツヤと輝く見事な刺身の盛り合わせと、湯気を立てるお椀が乗っていた。
「ほらよ」
親父さんはボクの傍らにドンとそれらを置き、毛布を無造作に押し付けてきた。
「夜風が冷えるからな。それと、まかないの余りだ。刺身と潮汁(うしおじる)。食い終わったら、容器は適当にそこの台にでも置いとけ」
「おや。軒下を借りるだけの契約だったはずだけど?」
「うるせえ。皿洗いの駄賃だ。ウマ娘の腹が、焼きおにぎり数個で足りるわけねえだろ」
ぶっきらぼうに言い捨てるその顔は、街灯の光の下でもわかるくらい、少し照れくさそうだった。この数日間の旅で出会ってきた人たちと同じだ。口ではなんだかんだ言いながら、結局のところ、見知らぬ旅人に優しさを分け与えずにはいられない性分なのだ。
「……ありがとう、親父さん。美味しくいただくよ」
ボクが素直に微笑んで礼を言うと、親父さんは「おう、風邪引くなよ」とだけ言い残し、逃げるようにそそくさと店の中へ戻っていった。
一人残された軒下で、ボクはさっそくお盆に向き合った。
まずは潮汁を一口すする。白身魚の骨から出た上品で濃厚な出汁と、ほんの少しの塩、それにネギの香り。夜の冷たい空気で冷えかけていた身体の芯に、じんわりと温かさが広がっていく。
刺身も、居酒屋の「余り物」なんてレベルじゃない。角の立った新鮮な身は、噛めば噛むほど魚の甘みが口の中に溶け出してくる。
「……本当に、ありがたいね」
雨音をBGMに、美味しい夜食をゆっくりと味わう。
孤独を愛する旅とはいえ、こうして行く先々で他人の温意に触れるたび、おじさんの魂とウマ娘の身体は、静かな充足感で満たされていく。これだから、アテのない旅はやめられない。
すっかり平らげた食器を親父さんの言った通りに重ねて置き、ボクは貰った毛布にくるまった。少し使い込まれた毛布は、分厚くて驚くほど温かかった。雨を弾くトタン屋根の音を心地よい子守唄代わりにしながら、ボクはゆっくりと深い眠りの底へと沈んでいった。
■
翌朝、雨はすっかり上がり、空気は洗われたように澄んでいた。
借りた毛布を綺麗に畳んで、昨晩の礼を記したメモを添えて店の前に置く。ボクは再び、日本海を右手に見ながら西へと駆け出した。
上越の街を抜ける頃には、太陽は中天に差し掛かっていた。ちょうど良い空腹感に誘われて、国道沿いの海鮮自慢の店へ滑り込む。
「いらっしゃい。……ほう、旅のウマ娘さんかい。珍しいね」
店主に勧められるまま、地元の旬が詰まった海鮮丼を注文する。分厚い刺身を頬張りながら、ボクはこれからのルートについて少し話を振ってみた。
「これから糸魚川の方へ行こうと思っているんだけど、おすすめの場所はあるかい?」
「糸魚川か。それなら『谷村美術館』は行っておいて間違いねえよ。建物そのものが芸術品みたいなもんだ。それと……」
「それと?」
「海岸で翡翠(ヒスイ)を探すのも面白いが、そう簡単には拾えねえよ。ま、運試し程度に思っておきな」
なるほど、翡翠の街か。かつてバイクで走った時も、そんな看板を見かけた記憶がある。おじさんの魂としては、希少な鉱石という響きには少しばかり心惹かれるものがあるけれど、まずはその美術館というのを見てみたいね。
店を出て、ボクは再び西への旅路を再開した。
上越から糸魚川へ続く道は、断崖絶壁と海に挟まれた、なかなかにスリリングなルートだ。かつて「親不知・子不知」と呼ばれた難所が近いせいか、風の通り道も荒々しい。けれど、今のボクの脚なら、その風すらも心地よい推進力に変えていける。
けれど、あまりに景色が良すぎて、ついつい足を止めて写真を撮ったり、波打ち際まで降りて風の音を聞いたりしてしまった。おかげで、糸魚川の市街地に到着する前に、空はすっかり燃えるような橙色に染まってしまった。
「……やれやれ。今日も目的地までは届かなかったか」
でも、後悔はない。ボクの旅に門限はないからね。
ちょうど能生(のう)のあたり、海に浮かぶ巨岩「弁天岩」が見えるあたりで、ボクは足を止めた。夕日に照らされて真っ赤に染まる鳥居と、それを結ぶ赤い橋。その幻想的な光景に、ボクはしばらく目を奪われていた。
「今日は、ここを寝床にしようか」
岩を望む静かな浜辺、適当な松の木の下にリュックを下ろす。慣れた手つきでバーナーに火をつけ、お湯を沸かし始めた時だった。
「おや、こんなところで何をしているんだい?」
振り返ると、手を繋いで夕暮れの散歩を楽しんでいたらしい、穏やかな雰囲気の老夫婦が立っていた。ボクの姿――黄金色の髪を夕日に輝かせ、一人でバーナーを見つめるウマ娘の少女――を見て、二人は不思議そうに、そして少し心配そうに目を細めている。
「やあ。こんばんは。ちょっと夕日が綺麗だったので、ここで夜を明かそうかと思ってね」
ボクがいつものように飄々と答えると、夫婦は顔を見合わせ、それから困ったように笑い合った。
「……野宿かい? こんなに風が冷たくなってきたのに」
「ええ。ボクは頑丈ですから。この景色を見ながら眠れるなら、最高の贅沢ですよ」
ボクは沸騰したお湯をカップに注ぎ、ふわりと立ち昇る紅茶の香りに目を細めた。新潟の旅も終盤。今夜もまた、新しい出会いの予感がしている。
■
「いくら頑丈だと言っても、こんな海風の冷たい日に、若い娘さんを外で寝かせるわけにはいかないよ。ほら、ウチに来なさいな」
穏やかな微笑みの中にある、有無を言わさぬ新潟県民特有のお節介な温かさ。この数日で、ボクもすっかりその気質を学習していた。
「……それじゃあ、今日もお言葉に甘えさせてもらおうかな」
バーナーの火を止め、道具をリュックにしまい直して立ち上がると、老夫婦は嬉しそうに頷いた。
案内されたのは、海沿いの道から少し入ったところにある一軒家だった。
間口が狭く、奥に向かってズラリと部屋が続く、いわゆる「鰻の寝床」のような独特の縦長の造りをした家だ。冬の厳しい雪や、海からの強風を凌ぐための、雪国や港町ならではの伝統的な建築様式らしい。機能的で理にかなったその構造に、ボクの中のおじさん魂はまたしても感心してしまった。
家の中に入ると、老夫婦と同居しているという娘さん夫婦とその子どもたちが、突然の珍客に目を丸くしながらも、温かく迎え入れてくれた。
「まあまあ、よくこんなところまで。お腹空いてるでしょう、すぐにご飯にするからね」
娘さんが手際よくちゃぶ台に並べてくれた夕食の主役は、大きなお椀から真っ赤な足がはみ出している豪快な「蟹汁」だった。
「この辺りは能生(のう)の漁港が近くてね。紅ズワイガニの蟹汁は、この辺りじゃポピュラーな家庭の味なんだよ」
おじいさんがニコニコと笑いながら教えてくれる。
さっそくお椀に口をつけると、味噌の風味を完全に凌駕するほどの、濃厚なカニの出汁が口いっぱいに広がった。
「……これは美味しいね。カニの旨味が信じられないくらい濃い」
殻に詰まった身を箸でつっぱり、ちゅうちゅうと吸いながら汁を飲む。野宿の冷たい夜風の代わりに、温かい家族の団欒の中で味わう極上のカニ汁。白米が面白いくらいに進み、ボクはウマ娘の特権とばかりに、おひつのご飯を綺麗に平らげてしまった。
食後は、これまた温かいお風呂をいただき、潮風で少しベタついた身体をさっぱりと洗い流す。通された奥の客間には、すでにふかふかの布団が敷かれていた。
「おやすみなさい、ステイゴールドちゃん」
「ああ、おやすみ。本当にありがとう」
障子を閉め、布団に潜り込む。波の音が遠くに聞こえる静かな和室。おじさんの魂は一人旅の野宿を愛しているけれど、こうして人の善意に包まれて清潔な布団で眠る夜の魅力も、決して否定できるものじゃない。
ボクは心地よい満腹感と疲労感に身を任せ、あっという間に深い眠りに落ちた。
■
翌朝。
ボクは誰よりも早く起き出し、すっかり恒例となった「宿代わりの力仕事」に取り掛かった。
ちょうど家の裏手にある古い納屋の整理や、冬に向けて積まれていた薪の移動、それに娘さんの旦那さんが苦労して運ぼうとしていた重い肥料袋の積み替えなどを、一手に引き受ける。
「いやあ……助かるけど、女の子にこんな重労働させちゃって本当にいいのかい?」
「これくらい、準備運動にもならないから気にしないで。美味しい蟹汁のエネルギーを少し消費しないと、身体が鈍ってしまうからね」
旦那さんが二人掛かりで引きずっていた荷物を、細腕のウマ娘が鼻歌交じりに軽々と肩に担いで運んでいく。その圧倒的な光景に、家族全員が呆気にとられ、やがて大笑いした。
心地よい朝の汗を流し、温かいお茶をご馳走になった後、ボクは再びリュックを背負った。
「それじゃあ、行くよ。本当に世話になったね」
「気をつけてな。良い旅を!」
家族全員に見送られながら、ボクは手を振り返す。
さあ、今日は糸魚川だ。教えてもらった美術館と、翡翠の海岸がボクを待っている。
足取りも軽く、ボクは朝の澄んだ空気の中へと駆け出した。