ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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気づくステゴ。

 翌朝、姫川の心地よいせせらぎと、草の匂いを含んだ朝の空気で目を覚ました。

 

 露を持った草をかき分けて土手に上がり、大きく伸びをする。身体の調子はすこぶる良い。連日の山歩きや並走、そして何よりあちこちでご馳走になった美味しいご飯のおかげで、ウマ娘のエンジンは絶好調に仕上がっている。

 

「さて、今日はどうしようか」

 

 バーナーでお湯を沸かし、朝の紅茶をすすりながら、ボクはふと冷静になって自分の状況を振り返ってみた。

 

 そもそも、ボクはなぜこんなアテのない旅をしているのか。

 

 なんだかんだと理由をつけてフラリとトレセン学園を抜け出してきたわけだけれど、よくよく考えてみれば、その根本的な原因や悩み(それが何だったかすら、この楽しすぎる道中で薄れかけているけれど)は、実は何一つとして解決していないのだ。

 

「……やれやれ。現実逃避もここまでくると立派なものだね」

 

 自分でも呆れて、思わず苦笑いが漏れる。自由気ままな放浪は最高だけれど、帰る場所があるからこそ「旅」は輝く。そろそろ潮時かもしれない。

 

「よし。一度、トレセン学園に帰ろうか」

 

 そうと決まれば話は早い。ボクはリュックを背負い直すと、日本海に背を向け、姫川沿いを南下するルート――つまり、長野の山々を越えて関東へ戻る道――へと足を向けた。

 

 

 ただ、まっすぐ帰るだけじゃあ味気ない。

 

 帰路の道中、ボクは糸魚川を南下するなら絶対に見ておきたかった場所へと立ち寄った。フォッサマグナパークと、小滝川ヒスイ峡(翡翠峡)だ。

 

「……これは凄い。日本列島がここで真っ二つに割れているわけか」

 

 フォッサマグナパークで露出した巨大な断層を前に、ボクは感嘆の息を漏らした。

 

 東日本と西日本を分かつ、数千万年という途方もない時間をかけて形成された地球の巨大な裂け目。燕三条の精緻な職人技も、原子力発電所の巨大な人工構造物も素晴らしかったけれど、地球という「星そのもののダイナミズム」を目の当たりにすると、自分の存在がちっぽけな部品の一つに思えてくる。おじさんの魂を揺さぶる、圧倒的なスケール感だった。

 

 そこからさらに山深くへ入り、切り立った渓谷の底にあるヒスイ峡へ。エメラルドグリーンに澄み切った清流の中に、昨日海岸で探していたような小石ではなく、何トンもあるような巨大な翡翠の原石がゴロゴロと転がっていた。

 

「ははっ、こりゃあスケールが違いすぎる。昨日、海岸でちまちま小石をひっくり返していたのが馬鹿らしくなってくるね」

 

 天然記念物だから当然持ち帰ることはできないけれど、ただこの手付かずの自然と巨大な宝石の原石を眺めているだけで十分だった。冷たい渓谷の風が、火照った身体を心地よく冷ましてくれる。

 

 

 フォッサマグナと翡翠の渓谷を堪能し、さらに山道を駆け上がっていくうちに、日はまた西の空へと傾き始めた。長野との県境にほど近い、深い深い山の中だ。

 

「よし、今日の寝床はこの辺りにしよう」

 

 ボクは登山道から少し外れた、少し開けた平らなスペースを見つけて足を止めた。

 

 初日の只見へ向かう酷道でのサバイバルを思い出すような、人工物の光も音も一切届かない、正真正銘の深い森の中。

 

 手早く枯れ枝を集めて小さな焚き火を起こす。パチパチと爆ぜる乾いた木の音と、オレンジ色の炎の揺らぎ。リュックに残っていたわずかな保存食をかじりながら、ボクは炎越しに暗闇の森を見つめた。

 

「色んなことがあったねぇ……」

 

 見知らぬ人たちの温かいお節介、美味しいご飯、職人の技、二輪車との勝負、そして圧倒的な自然。ただの現実逃避で始まった旅は、おじさんの魂とウマ娘の身体の両方に、これ以上ないほどの栄養を与えてくれた。

 

「明日には長野を抜けて、一気に学園まで走るとしようか」

 

 トレセン学園に帰ったら、また色々と面倒なこと(主に無断外泊の説教など)が待っているだろう。けれど、今のボクなら、それすらも笑って受け流せそうな気がしていた。

 

 焚き火の温かさに包まれながら、ボクは静かな山の中で目を閉じた。帰路に向けた、最後の野宿の夜だった。

 

 

「明日には一気に学園まで走る」

 

 昨晩の焚き火の前では、確かにそう心に誓ったはずだった。

 

 はずだったのだけれど……白馬村から山越えのルートに入った途端、香ばしい粉の焼ける匂いにあっさりと足が止まってしまった。

 

「いや、素通りするのは流石に勿体ないだろう。長野と言えばこれだからね」

 

 言い訳をごまかすように立ち寄ったのは、有名なおやきの店『いろは堂』だ。

 

 こんがりと焼けた表面に、もっちりとした生地。中には野沢菜や切り干し大根、かぼちゃといった具材がぎっしりと詰まっている。おじさんの魂をホッとさせる素朴な郷土の味でありながら、炭水化物と具材の栄養が詰まったおやきは、ウマ娘の行動食としてもこれ以上ないほど優秀だ。

 

 店先で熱々のおやきを全種類制覇する勢いで平らげ、すっかり満足したボクは、その足で山を一気に下り、今度は長野の善光寺へと向かった。

 

「立派なものだね」

 

 高くそびえる本堂を見上げながら、静かに手を合わせる。長野まで来て善光寺をお参りせずに帰るなんて、旅人としては片手落ちというものだ。寄り道ばかりでちっとも学園に近づいていない気もするけれど、これも旅の醍醐味である。

 

 すっかり長野観光を満喫した後、「よし、今度こそ」と気合を入れ直し、ボクは南の佐久市へ向けて一気にペースを上げた。千曲川沿いを抜け、浅間山を遠目に望みながら、自慢の脚でアスファルトを蹴り続ける。

 

 しかし、ウマ娘の脚力をもってしても、寄り道で消費した時間までは取り戻せなかった。佐久市に差し掛かる頃には、西の空に沈んだ太陽と入れ替わるように、夜の帳(とばり)がすっかり下りてしまっていた。

 

 そして、さらに厄介な問題が一つ。

 

「……ううーん」

 

 ボクは足を止め、自分のお腹に手を当てて低く唸った。

 

 ―――限界だ。

 

 昼間にいろは堂で腹一杯おやきを詰め込んだはずなのに、ウマ娘の燃費の悪さは容赦がない。長距離をハイスペースで飛ばし続けたせいで、タンクの中身は完全に空っぽになっていた。

 

「やっぱり、気合を入れるとカロリーの消費も激しくなるね……」

 

 時刻は夜。今から手頃な食堂を探す気力すら、残されたエマージェンシー・タンクの残量では少し厳しい。暗い夜道をフラフラと歩きながら寝床を探していると、小高い丘のようになっている開けた場所に行き当たった。

 

『城山公園』

 

 入り口の看板にはそう書かれている。

 

「……ふむ」

 

 ボクは周囲を見渡した。市街地に近い公園とはいえ、丘の上にあるためか適度に木々が茂っており、夜になれば人目もほとんどない。東屋や手頃なベンチもあり、雨露を凌ぐのには十分すぎる環境だ。

 

「仕方ない。今日のところはここをキャンプ地とするか」

 

 空腹で鳴り続ける腹の虫をなだめながら、ボクは公園の奥、少し奥まった静かなスペースにリュックを下ろした。バーナーでお湯を沸かそうにも、肝心の食料が心許ない。リュックの底に転がっていた、いつ買ったかも忘れたような飴玉を口に放り込み、温かい紅茶だけで無理やり胃袋をごまかす。

 

 美味しい海鮮や蟹汁が続いた数日前とは大違いの、なんともひもじい夜だ。けれど、暗い公園のベンチに寝転がり、夜空を見上げていると、不思議と笑いが込み上げてきた。

 

「ははっ……行き当たりばったりにも程があるね」

 

 豪華な食事にありつける日もあれば、飴玉一つで飢えを凌ぐ日もある。これぞサバイバル、これぞ野宿旅だ。

 

 ボクは空腹を抱えたまま、このひどく人間臭くて泥臭い夜の空気ごと楽しむように、静かに目を閉じた。

 

 

 翌朝。目覚めたボクを待っていたのは、爽やかな朝の空気ではなく、圧倒的な「ガス欠」のサインだった。

 

「……こいつは、思った以上にキツいね」

 

 公園のベンチから立ち上がろうとしただけで、視界がぐらりと揺れた。ウマ娘の身体は基礎代謝が恐ろしく高い。昨日の夕方におやきを食べてから、長距離を激走した挙句に飴玉一つで夜を明かしたのだ。タンクは完全にすっからかん、一歩足を踏み出すたびに膝が笑う始末だった。

 

 ふらふらと幽鬼のような足取りで丘を下り、なんとか、最寄りの中込という駅前まで辿り着く。何か手頃な朝飯はないかと霞む目で通りを見渡していると、ふと『鯉料理』と書かれた看板が目に飛び込んできた。

 

 佐久の鯉。前世の知識が、それがこの土地の名物であることを教えてくれる。冷たく綺麗な水で育った鯉は泥臭さがなく、極上の味わいだと聞いたことがある。

 

「……よし。ここにしよう」

 

 とはいえ、時刻はまだ早朝。当然ながら店のシャッターは半分閉まったままだ。ボクは開店時間まで待とうと、店先の隅にへたり込むようにして座り込んだ。

 

 どれくらいそうしていただろうか。仕込みのためにやってきたらしい、かっぽう着姿のおかみさんが、

 

「あら、どうしたのこんな所で」

 

 と声をかけてきた。

 

 ボクは顔を上げ、力なく笑おうとした。その瞬間、おかみさんの顔色が一変した。

 

「ちょっと、あんた顔が真っ白じゃないの! ええっ、血の気がないっていうか、白すぎておかしいわよ!? 具合悪いの!?」

 

 どうやら、今のボクは余程ひどい顔をしているらしい。

 

「いやぁ……昨日の夜から、何も食べてなくてね。ただの燃料切れさ」

 

 ボクが掠れた声でそう言うと、おかみさんは呆然とした後、信じられないものを見るような顔になった。

 

「何バカなこと言ってんの! ウマ娘の女の子が、昨日の夜から何も食べてないなんて死んじゃうわよ! いいから、特別に開けてあげるから中に入りなさい!」

 

「……いや、営業前に迷惑じゃ」

 

「いいから!!」

 

 凄まじい剣幕に押し切られ、ボクは半ば引きずられるようにして店内の座敷へと運び込まれた。すぐさま温かいお茶が出され、厨房の奥から何やら慌ただしい音が聞こえ始める。そして数十分後、目の前のテーブルに並べられたのは、見事な鯉料理の数々だった。

 

「とりあえず、すぐ出せるものを並べたから! さあ、遠慮しないで食べなさい!」

 

「……いただきます」

 

 まずは、湯気を立てる『鯉こく』の椀を両手で持ち上げ、汁をすする。

 

「……っ!」

 

 信州味噌でじっくりと煮込まれた鯉の濃厚な旨味と、溶け出した脂のコク。それが空っぽの胃袋に流れ込んだ瞬間、全身の細胞が歓喜の声を上げた。骨まで柔らかく煮込まれた鯉の身は、口の中でほろりと崩れる。

 

 続いて『あらい』。冷水でキュッと締められた切り身を、特製の酢味噌にくぐらせて口に運ぶ。コリコリとした歯ごたえと、川魚特有の全く臭みのない上品な甘み。そこに酢味噌の酸味が加わり、箸が止まらなくなる。

 

 さらに、揚げたての『鯉のフライ』。サクサクの衣の中に閉じ込められた白身は驚くほどふっくらとしていて、ソースとの相性も抜群だ。

 

「美味しい……。本当に、美味しいね」

 

 無心で料理を平らげ、白米をかき込む。胃袋に食べ物が収まっていくにつれて、真っ白だった視界に色が戻り、指先まで温かい血が巡っていくのがはっきりとわかった。ガス欠でエンスト寸前だったウマ娘の強靭なエンジンが、最高級の燃料を得て再び力強く鼓動を始める。

 

「ふう、良かった。少し顔色に赤みが戻ってきたわね。……それにしても、いい食いっぷりだこと」

 

 空になった器の山を見て、おかみさんがホッとしたように、そして少し呆れたように笑った。

 

「本当に助かったよ、おかみさん。おかげで命拾いした。このご恩と鯉の味は、一生忘れないよ」

 

 ボクが心からの感謝を伝えると、おかみさんは「大袈裟ねえ」と照れくさそうに笑いながら、食後の新しいお茶を淹れてくれた。

 

 豪華な海鮮もいいけれど、こういう土地に根付いた滋味あふれる料理と、人の温かさ。これこそが、旅の醍醐味だ。ボクは温かいお茶をすすりながら、満ち足りたお腹をさすって小さく息を吐いた。

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