ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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ステゴとジャーニー、おまけでゴルシ

 食後、少し落ち着いたところで伝票をお願いすると、提示された金額は目を疑うほどに安いものだった。

 

「……お門違いかもしれないけれど、おかみさん。これ、計算を間違えていないかい? あれだけの鯉のフルコースをいただいて、この値段じゃあ、ボクが申し訳なさすぎて胸焼けしてしまうよ」

 

 ボクが苦笑いしながら財布を取り出すと、おかみさんは「いいのよ」と、いたずらっぽくウインクした。

 

「さっきも言ったでしょ、まかないの残り物も入ってるし、仕込みのついでなんだから。それに、あんたのあの真っ白な顔をこれ以上見たくないだけよ。ほら、お釣りはいらないわよ」

 

 あまりに潔いその態度に、ボクの中のおじさん魂が「このまま帰るわけにはいかない」と騒ぎ出した。前世から世話になったら倍にして返すのが、一匹狼のライダーとしての流儀だ。

 

「……わかった。それなら、この代金は今のボクの全財産ということで受け取っておいて。その代わり、ボクの余った力(パワー)を、この店の役に立てさせてくれないか?」

 

 ボクはそう言うと、座敷から立ち上がり、まだ少し驚いているおかみさんを促して厨房の裏手へと回った。

 

「さて。どこから手をつけようか」

 

 まずは、隅の方で埃を被っていた、重くて動かせなかったという樫の木の古い棚。板前さんが数人がかりでもビクともしなかったという代物だが、ボクが腰を入れてぐいと持ち上げると、呆気ないほど簡単に宙に浮いた。

 

「うおっ!? まじかよ!」

 

 ちょうど仕込みに戻ってきた若い板前さんが、その光景を見て腰を抜かさんばかりに驚いている。

 

 ボクはそのまま棚を指定された場所へ移動させ、続けて山積みにされていた三十キロの米袋を三袋まとめて肩に担ぎ、パントマイムでもするように軽々と倉庫の棚へ。さらには、仕入れで届いたばかりの、水がたっぷり入った重い鯉の移送用ケースを、水面を揺らすこともなく静かに運び込んだ。

 

「……いやはや。話には聞いていたが、ウマ娘ってのは本当に力持ちなんだな。あんな細い腕で、俺たちが三人係でやる仕事を一人で終わらせちまった」

 

 板前さんが感心を通り越して、呆然としながら呟く。

 

「美味しい鯉のおかげで、エンジンの出力が上がっただけさ。おかげで良い腹ごなしになったよ」

 

 ボクは軽く汗を拭い、袖をまくり直して笑った。空腹で死にかけていたボクに、極上の料理と温かい場所をくれたこの店に、少しでも恩返しができたなら本望だ。

 

「よし。これで身も心も、そしてお腹も完璧に仕上がった」

 

 ボクはリュックのベルトをカチリと締め、活気を取り戻した厨房に向かって手を振った。

 

「ごちそうさま、おかみさん。板前さんも。本当に世話になったね。……それじゃあ、今度こそ、ボクの帰るべき場所へ向かうとしようか」

 

 佐久の爽やかな風を受けながら、ボクは今度こそ迷いのない足取りで、トレセン学園へと続く長い長い直線を駆け出した。

 

 

 佐久から国道299号へ。目指すは「武州街道」の難所、十国峠だ。

 

 かつてバイク乗りだったボクの魂が、この曲がりくねった細い峠道を放っておくはずがない。ウマ娘の身体にとっては、急勾配のヘアピンカーブすらも心地よいリズムを刻むためのアクセントでしかない。右へ左へと身体を傾け、路面の感触を足裏で確かめながら、ボクは鮮やかに峠を駆け抜けていく。

 

 長野と群馬の県境を越え、上野村の道の駅に滑り込んだ。

 

「さて、燃料補給といこうか」

 

 清流で育った鮎の塩焼き。串を掴んで頭から齧り付くと、香ばしい皮とワタのほろ苦さが口の中に広がる。さらに、この辺りの名物である「いのぶた丼」を注文。豚の甘みとイノシシの力強い旨味が合わさった肉を、タレの染みた白米と一緒に豪快に掻き込む。

 

「……ふう。やっぱり、自分の足で走った後のメシは最高だね」

 

 山あいの清涼な空気を吸い込み、ボクはさらに南東へ。秩父の街へと入る頃には、今回の長旅の終わりが、いよいよ現実味を帯びてきていた。

 

 最後を締めくくるのは、やはり秩父名物の「わらじかつ」だ。どんぶりからはみ出すほど巨大なカツを想像して喉を鳴らしながら、お目当ての店の暖簾を潜ろうとした、その時だった。

 

「……アネゴ?」

 

 聞き覚えのある、落ち着いた、けれどどこか鋭い声が届いた。

 

 振り返ると、そこにはトレーニングウェア姿で、額に薄っすらと汗を浮かべたドリームジャーニーが立っていた。

 

「やあ、ジャーニー。奇遇だね。こんなところで何をしているんだい?」

 

「それはこちらのセリフですよ。……秩父の峠道は走り込みに最適ですからね。ちょうどトレーニングを終えて、食事にしようと思っていたところです」

 

 結局、ボクたちは並んでカウンターに座り、目の前に運ばれてきた巨大なわらじかつと対峙することになった。

 

 甘辛い醤油ダレを潜り、しっとりとした衣を纏った薄くて大きなカツ。ボクはそれを無造作に口に運び、無心で噛み締めた。サクサクという音、豚の脂の甘み。旅の終わりに相応しい、暴力的でいてどこか懐かしい味わいだ。

 

 ボクが隣で黙々と、けれど確かな勢いで丼を空にしていく様子を、ジャーニーは箸を止めてじっと見つめていた。

 

「……何か、ボクの顔にソースでもついているかい?」

 

「いえ。……そうではありませんが」

 

 ジャーニーは少し目を細め、ボクの横顔を、まるで未知の工芸品でも観察するかのような、思慮深い目で見つめている。

 

「アネゴ。何と言えばいいのでしょうか。……今のあなたは、その、非常に『落ち着いて』見える」

 

「そうかな? いつも通りのボクだと思うけれどね」

 

「いいえ。学園を出ていく前の、あの浮ついた、何かに追われているような危うさが消えている。代わりに、どこか遠くの山の頂でも眺めてきたような、あるいは深い谷の底を這いずってきたような……言葉にするのは難しいですが、以前とは明らかに『密度』が違う」

 

 ジャーニーはカツを一口運んでから、確信を込めた声で言った。

 

「アネゴ。この数日、何かありましたか?」

 

 その真っ直ぐな問いに、ボクは最後の一切れのカツを飲み込み、温かいお茶をすすって一息ついた。

 

 山の中で泥を食むようなサバイバル。

 見知らぬ人たちの、時にぶっきらぼうで、時に温かすぎるお節介。

 極限まで鍛え上げられた人間の脚力との並走。

 そして、光と影が織りなす圧倒的な美の世界。

 

「……そうだね」

 

 ボクはリュックのポケットにある、燕三条の職人が打ったナイフを軽く指先で撫でた。

 

「少しだけ、この身体と、この魂の使い道を……自分なりに再確認してきただけさ」

 

 ボクが飄々と、けれど少しだけ晴れやかな顔で笑うと、ジャーニーはそれ以上何も聞かず、ただ「左様ですか」と短く応えて、少しだけ満足げに自分の丼へと向き直った。

 

 秩父の夕暮れ。窓の外から聞こえる風の音は、もうすぐ帰るべき学園の足音のように、ボクの耳に心地よく響いていた。

 

 

 秩父からの帰り道。すっかり日の落ちた国道を、ボクたちはトレセン学園のある府中の方角へ向かって並走していた。

 

 ウマ娘が二人、夜の街道を一定のペースで駆け抜ける。心地よい風を切りながら走っていると、隣を走るジャーニーが、意を決したように口を開いた。

 

「……アネゴ。先程は上手く誤魔化されてしまいましたが、やはり腑に落ちません」

 

「おや、まだその話を引っ張るのかい?」

 

「ええ。走りそのものから伝わってくるんです。フォームやスピードの話ではありません。以前のあなたとは違う、何か決定的な『異物』が根底に混ざっているような……そんな感覚が拭えません。話せる範囲で構いません、どうか説明して頂けませんか?」

 

 その横顔は、いつになく真剣だった。彼女の観察眼と直感は、並のウマ娘の比ではない。ボクが適当な嘘でごまかしきれる相手ではないことは、道中の並走だけでも十分に理解できていた。

 

「……参ったね。君の目は本当に誤魔化せない」

 

 ボクは小さく息を吐き、ペースを落とした。

 

「ちょうどいい。少し、あそこの河川敷で休憩しようか」

 

 街道から外れ、街灯の光が届かない静かな河川敷の土手へと降りる。川面を撫でてきた夜風が、火照った身体を心地よく冷ましてくれた。ボクは手頃な草の上にどっかりと腰を下ろし、ジャーニーも少し距離を空けて隣に立った。

 

 暗闇の中、遠くの街の明かりをぼんやりと眺めながら、ボクは頭を掻いた。

 

「さて、どこから話したものか……。控えめに言っても、荒唐無稽で突拍子もない話になるんだけれど」

 

「構いません。アネゴの言葉なら、真摯に受け止めます」

 

 ジャーニーは姿勢を正し、ボクの次の言葉を静かに待っている。ボクは少しだけ沈黙し、それから、なんてことのない世間話でもするように、極めてラフな口調でそれを口にした。

 

「ボクはステイゴールドさ。君の知るアネゴであり、中央のトレセン学園で走るウマ娘だ。彼女としての記憶も、性格も、走ることへの本能も、全部ここにある」

 

 ボクは自分の胸をトントンと軽く叩いた。

 

「でもね。それに加えて……なんか、もう一人居てね」

 

「……もう一人、ですか?」

 

「そう。機械と鉄を愛して、二輪車での気ままな一人旅を好む、ちょっとくたびれた『おじさん』の魂が、なぜかこの身体に同居しているんだよ」

 

 川のせせらぎだけが、静かに流れていく。数秒の完全な沈黙の後。

 

「……はい?」

 

 いつもは冷静沈着で、どんな事態にも動じないあのジャーニーの口から、ひどく間の抜けた声が漏れた。

 

「ボクの中には、前世というか、別の世界で生きていた人間の記憶があるんだ。だから、ウマ娘としての激しい本能とは別に、燕三条の美しい金物に感動したり、川沿いで野宿してお茶を飲んだりすることに無上の喜びを感じる『おじさん』としての自我がある。この数日間の旅は、半分はそのおじさんの趣味みたいなものだったのさ」

 

 ボクが事も無げにスラスラと説明を続けると、ジャーニーは完全にフリーズしていた。

 

 目を丸く見開き、口をわずかに半開きにしたまま、ボクの顔とボクの身体を交互に見つめている。

 

「お、おじさん……? アネゴの中に、おじさんが……? 魂が、同居……?」

 

「そう。だから、君が感じた『異物』っていうのは、きっとそのおじさんの成分だね。ウマ娘の闘争心の中に、すっかり丸くなった中年の落ち着きが混ざっているわけだから、そりゃあ違和感もあるだろうさ」

 

 ボクがからかうように笑いかけると、ジャーニーはふらりと後ずさり、両手で自分のこめかみを強く押さえた。

 

「……待ってください。思考が、処理が追いつきません。アネゴが、おじさん? おじさんが、アネゴ? つまり、私が今まで慕っていたアネゴの半分は……中年の、男性……?」

 

 普段の理路整然とした彼女からは想像もつかないほど、完全に混乱の極みに達している。そのあまりにも人間らしい、年相応の女の子のような反応がおかしくて、ボクはたまらず声を上げて笑ってしまった。

 

「はははっ! いやあ、あのジャーニーにここまで隙だらけの顔をさせられるなんてね。おじさん冥利、いや、アネゴ冥利に尽きるよ」

 

「わ、笑い事ではありません! これは、その、学園の根幹を揺るがすというか、私のアイデンティティにも関わる重大な……っ!」

 

 顔を真っ赤にして抗議しようとするジャーニーを、ボクは笑い涙を拭いながら手で制した。

 

「冗談じゃないよ、本当のことさ。でも、安心していいよ。ボクが君を大切に思う気持ちも、ターフを駆け抜けたいという渇望も、決して嘘じゃない。ただ、少しばかり趣味の幅が広がって、図太くなっただけさ」

 

 ボクは立ち上がり、草を払ってジャーニーに向き直った。

 

「さあ、納得がいかないなら、走りながらゆっくり聞くよ。……府中までは、まだ少し距離があるからね」

 

 完全に呆然としている妹分を促し、ボクは夜の河川敷を後にした。誰にも言えなかった秘密を打ち明けたせいか、リュックの重さも、これまでの旅の疲労もすっかり消え去り、足取りはどこまでも軽かった。

 

 

 隣を走るジャーニーから、何度となく胡乱(うろん)な視線を向けられながらも、ボクたちは夜の府中に辿り着いた。

 

「アネゴ……いえ、アネゴ。やはり、その……」

 

「まだ言うのかい? 府中に入ってから、もうずっとそんな調子じゃないか。ほら、もう寮に着くよ」

 

 未だに「慕っていたアネゴの中身の半分が、渋い趣味のおじさん」という事実を脳内で処理しきれていないジャーニーを宥めつつ、寮に到着したボクは、彼女を引き連れたまま、自分の部屋のドアを開けた。

 

「ただいま。……おや」

 

 部屋に入ると、ベッドの上に見慣れた芦毛のウマ娘が寝転がっていた。ゴルシだ。

 

 いつもなら、ドアを開けた瞬間にプロレス技を仕掛けてきたり、謎のテンションで絡んできたりするはずの彼女が、今日は雑誌から目を離すこともなく、ひどく素っ気ない態度だった。

 

「やあ、ゴルシ。久しぶり」

 

 ボクが声をかけると、彼女は雑誌のページをめくる手を止めずに、ボソリと呟いた。

 

「……おー」

 

 あまりにも力のない返事だ。ボクはリュックを床に置き、彼女のベッドの脇に立った。

 

「どうしたんだい? いつもならもっと騒がしいのに」

 

「別にー? アタシに一言も相談せずに、勝手に面白そうなサバイバル旅に出た薄情なヤツのことなんて、ぜーんぜん気にしてねえしー? 心配なんか、これっぽっちもしてなかったしー?」

 

 口を尖らせ、わざとらしくそっぽを向くゴルシ。その頭の耳は、ペタンと不機嫌そうに伏せられている。どうやら、完全に拗ねてしまっているらしい。ボクに置いていかれたことが不服だったのか、それとも連絡もよこさずにフラフラしていたことを心配してくれていたのか。

 

「……ははっ。仕方ないな」

 

 ボクは思わず目を細め、そっぽを向いているゴルシの頭にポンと手を乗せた。そして、その柔らかい芦毛の髪を、宥めるように優しく撫でてやる。

 

「むっ……」

 

 ゴルシは一瞬だけ抵抗するように肩を揺らしたけれど、すぐに大人しくなり、されるがままに目を細めた。本当に、手のかかる可愛い後輩たちだ。おじさんの魂が、こういう時に妙な包容力を発揮してしまうのは許してほしい。

 

「ご機嫌斜めな君たちに、とっておきの一杯を淹れてあげよう。少し待っていておくれ」

 

 ボクはゴルシの頭から手を離すと、部屋の備え付けの小さなキッチンに向かい、お湯を沸かし始めた。

 

 リュックから取り出したのは、今回の旅に持参していたお気に入りの茶葉だ。上質なダージリンのセカンドフラッシュ。お湯は完全に沸騰させず、ボコボコと大きな泡が出始めた瞬間に火を止める。茶葉が最もよく開く、絶妙な温度と空気の量だ。

 

 あらかじめ温めておいた丸いティーポットに茶葉を入れ、勢いよくお湯を注ぐ。

 

 ポットの中で茶葉が上下に舞う「ジャンピング」をしっかりと確認してから、蓋をして砂時計をひっくり返した。

 

 静かな部屋の中に、マスカットにも似たダージリン特有の甘く爽やかな香りが、ふわりと広がり始める。拗ねていたゴルシも、未だに混乱気味のジャーニーも、その芳醇な香りに釣られるようにして、自然とテーブルの周りに集まってきた。

 

「はい、お待たせ」

 

 頃合いを見て、三つのティーカップに琥珀色の紅茶を注ぎ分ける。最後の一滴「ゴールデンドロップ」までしっかりと注ぎきり、ボクは二人の前にカップを差し出した。

 

「……いただきます」

 

 ジャーニーが一口すすると、その張り詰めていた表情が、お茶の温かさと深い香りに包まれてふっと和らいだ。ゴルシも無言でカップを両手で包み込み、フンスと鼻息を鳴らして香りを堪能している。

 

「さて。どこから話そうか」

 

 ボクは自分のカップを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。

 

「最初はね、只見に向かう途中でとんでもない獣道に入り込んでしまってね。二日ほど、サワガニと野草だけで飢えを凌ぐ羽目になったのさ」

 

「はぁ!? サワガニ!? お前、何やってんだよ!」

 

 ゴルシが目を丸くして身を乗り出してくる。

 

「でもね、そこを抜けたら、温かい蕎麦処の店主が風呂を貸してくれてね。燕三条じゃあ、惚れ惚れするような美しい金物を打つ職人夫婦の工場で、たらふく海の幸をご馳走になったんだ」

 

 ボクは紅茶の香りに乗せて、この数日間の濃密な記憶を語り始めた。

 

 エンジンのない二輪車に乗った、鋼のような脚を持つ人間のレーサーと海まで並走したこと。光と影が織りなす、ため息が出るほど美しい曲線でできた美術館のこと。川の土手で星を見ながら野宿した夜のこと。ガス欠で倒れそうになったボクを助けてくれた、佐久の鯉料理屋の女将さんのこと。

 

「色んな人に助けられて、色んな美しいものを見てきたよ。……本当に、面白くて最高の旅だった」

 

 ボクが静かにそう締めくくると、ゴルシはすっかり拗ねていたことも忘れたように、目をキラキラと輝かせていた。

 

「なんだよそれ! めちゃくちゃ面白そうじゃねえか! 次は絶対にアタシも連れてけよな!」

 

「ああ、約束するよ」

 

 ボクが笑って頷くと、向かいの席で静かに話を聞いていたジャーニーが、カップをコトリとソーサーに置いた。

 

「……なるほど。確かに、あの危うげだったアネゴが、これほどまでに落ち着いた『密度』のある顔をして帰ってくるわけです」

 

 ジャーニーは少しだけ呆れたように、けれどどこかホッとしたような、とても柔らかい微笑みを浮かべた。

 

「上質な紅茶の淹れ方といい、その飄々とした語り口といい……。どうやら私は、アネゴの中にいるというその『おじさん』とやらとも、上手くやっていけそうな気がしてきました」

 

「おや、それは光栄だね」

 

 ボクが肩をすくめると、三人の間に、とても穏やかで温かい空気が流れた。外の世界の風に吹かれて帰ってきたこの小さな部屋は、美味しい紅茶の香りと、大切な後輩たちの体温で満ちている。

 

「さて、明日からはまた、騒がしい日常の始まりだ」

 

ボクは残りの紅茶を飲み干し、窓の外に広がる府中の夜空に向かって、静かに気合を入れ直した。

 

 

 翌日。

 

 学園の食堂で朝食を摂っていると、向かいの席で山盛りのご飯をかき込んでいたゴルシが、ふと思い出したように箸を止めた。

 

「そういやさ、昨日ジャーニーに言ってた『おじさん』って、結局なんだよ?」

 

 口の周りにご飯粒をつけながら、不思議そうに首を傾げる。昨夜のティータイムの時はすっかり拗ねから回復して旅の話に夢中になっていた彼女だけれど、頭の片隅にはあの単語がしっかり引っかかっていたらしい。

 

「ああ、あれかい。……まあ、なんて言うか。ボクの中に、別の世界で生きていたバイク好きの『おじさん』の記憶が同居してるんだよ。最近流行りの、いわゆる『転生』? みたいなものかな」

 

 食後の緑茶をすすりながら、ボクは昨夜ジャーニーにしたのと同じように、極めてあっけらかんと真実を告げた。

 

 するとゴルシは、持っていた箸をテーブルにパーンと置き、呆れたように目を半開きにした。

 

「アニメじゃねーんだから! なんだよその深夜放送枠みたいな設定! アタシをからかってんのか?」

 

「いやいや、大真面目さ。現に、この数日の渋すぎる野宿旅のルート選びは、半分くらいそのおじさんの趣味だしね」

 

 ボクが苦笑しながら答えると、ゴルシは腕を組んで「うーむ」と大袈裟に唸り始めた。

そして、ボクの顔をまじまじと見つめ、数秒の沈黙の後――。

 

「……まぁ、ステゴならあるか」

 

 いとも簡単に、ストンと納得してしまった。

 

「おや。いいのかい、そんなにあっさりと受け入れて。昨日のジャーニーなんて、アイデンティティが揺らぐとか言って頭を抱えていたのに」

 

「だってよぉ、お前、昔から妙に達観してるっていうか、時々中身が干物になったジジイみたいに枯れてる時があったろ? 縁側で茶ァすすってるのが似合うっていうかさ。中身がおっさんだって言われた方が、むしろ色々と辻褄が合うぜ」

 

「ジジイじゃなくて、おじさんなんだけどね。まあ、話が早くて助かるよ」

 

 ゴルシのこの柔軟すぎる適応力というか、スルースキルには本当に恐れ入る。再び箸を持ち、何事もなかったかのように山盛りのご飯に向かい始めた彼女を見ていると、ボクの中のおじさん魂も思わずクスリと笑ってしまった。

 

「しかし、おじさんの記憶持ちねぇ……」

 

 モグモグと口を動かしながら、ゴルシがニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「ってことは、今度からアタシがなんかイタズラしても、『しょうがねえなぁ』って感じで、おじさん特有の広ーい心で許してくれるってわけだ?」

 

「それとこれとは話が別だよ。あんまり調子に乗ると、おじさんの大人の説教が火を噴くからね」

 

 ボクがピシャリと釘を刺すと、ゴルシは「ちぇっ」と大袈裟に肩をすくめた。

 

 騒がしくて、マイペースで、けれどどこか憎めない。荒唐無稽な秘密を打ち明けても、結局のところボクたちの関係性は何も変わらないのだ。

 

「さあ、早く食べ終えてしまおう。今日からまた、みっちりトレーニングが待っているからね」

 

 ボクはすっかり空になった湯呑みを置き、いつもの騒がしい日常へ向けて、小さく、けれど確かな気合の息を吐いた。

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