ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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はじめてのトレーニング

 旅から戻った翌朝、ボクは久しぶりにトレセン学園のトレーニングコースに立っていた。

 

「……さて、慣らし運転といこうか」

 

 軽くストレッチを済ませ、ゆっくりと走り出す。周囲を見渡せば、日本中から集まった選りすぐりのウマ娘たちが、しのぎを削り合っている。その光景は、数日前までボクがいた静かな山々や寂れた海岸線とは、全くの別世界だ。

 

 ターフを叩く蹄鉄の音、激しい呼吸、そして空間を切り裂くような圧倒的な速度。

 

「うん……。やっぱり、ここはレベルが違うね」

 

 おじさんの魂が、その「極限までチューニングされたマシーン」たちの競演に思わず唸る。けれど、驚いたのはそれだけじゃなかった。

 

 ボクが少しずつギアを上げ、本格的な走りに移行した瞬間。

 

「……っ、軽いな」

 

 身体が、面白いように反応するのだ。

 

 連日の長距離移動と野宿、そして各地で摂取した滋味あふれる食事。それらが、ウマ娘としての強靭な肉体と、旅を経て研ぎ澄まされた精神に、完璧なまでに噛み合っていた。山道で鍛えた足腰は、ターフの反発を無駄なく推進力に変え、冷たい川風に晒された肺は、どれだけ追い込んでも悲鳴を上げない。

 

 自分が「最高のエンジン」を積んでいることを、改めて突きつけられるような感覚。このポテンシャルを解放する快感に、ボクの中の「ウマ娘の本能」が歓喜に震えていた。

 

 そんなボクの走りを、コース脇から見つめる視線があった。

 

「……おいおい、何の冗談だ? 時計を気にしながら真面目にメニューをこなしてやがる」

 

 ナカヤマフェスタが、信じられないものを見るような目で、手元のストップウォッチを止めた。

 

「ふん。旅とやらで、少しは牙の研ぎ方を変えてきたか」

 

 隣で腕を組むオルフェーヴルが、不敵な、けれどどこか楽しげな笑みを浮かべる。彼女の鋭い感性は、ボクの中に宿る「密度の変化」を、暴君らしい傲岸さで見抜いているようだった。

 

 そして、ドリームジャーニー。彼女だけは、複雑な表情を浮かべながら、ボクのフォームを一心に見つめていた。

 

 練習あがり。汗を拭い、息を整えているボクの元へ、ジャーニーが歩み寄ってきた。

 

「アネゴ。お疲れ様です」

 

「やあ、ジャーニー。久しぶりの本格的なトレーニングだったけれど、なかなかいい刺激になったよ」

 

「見ていればわかります。以前のあなたとは、走りの質が……いえ、存在の在り方そのものが違いますね。迷いがない」

 

 彼女は少し視線を落とし、それから決心したようにボクの目を見た。

 

「……アネゴ。実はお話ししたいことが、いえ、相談したいことがあるのです」

 

「おや。あの冷静な君が、そんな神妙な顔をして。ボクに答えられることなら、いくらでも聞くよ」

 

 ボクがいつものように飄々と答えると、ジャーニーは少しだけ表情を和らげ、けれど真剣な声音で続けた。

 

「ここでは少し、人目が多すぎます。もしよろしければ……今夜、夕飯をご一緒させていただけませんか? 昨夜の続きを、もう少し、踏み込んで伺いたいのです」

 

 その申し出に、ボクの中のおじさんの魂が、少しだけ苦笑した。どうやら彼女は、昨夜の告白を単なる「冗談」や「奇行」として片付けるつもりはないらしい。一人のウマ娘として、そして「おじさん」の秘密を共有する唯一の理解者として、ボクと正面から向き合おうとしている。

 

「……わかった。いい店を知っているんだ。君に、ゆっくりと語るに相応しい場所がね」

 

 ボクはリュックの肩紐を握り直し、隣を歩くジャーニーの頭を、昨日と同じように軽く撫でた。

 

「行こうか。旅の話の続きは、美味しいご飯の後で、じっくりとね」

 

 

 案内したのは、府中駅から少し離れた路地裏にある、落ち着いた佇まいの小料理屋だった。学生同士でワイワイと騒ぐような店ではなく、静かに美味しい和食と空間を楽しむような、まさに「おじさん好み」の隠れ家だ。

 

 通された個室で、出汁の香りが上品に漂う季節の御膳を前にしても、ジャーニーの表情はやはりどこか硬かった。

 

「……美味しいです。アネゴがこういう店を知っていること自体が、もう十分な証左なのかもしれませんが」

 

 お造りを一切れ口に運び、小さく息を吐く。

 

「それでも……やはり、その『おじさん』の記憶が同居しているという話には、どうにも納得がいきません。いくらなんでも、非現実的すぎます」

 

「そう言われてもね。本当に急に、なんだよ。ある日突然、気づいたら頭の中に前世の記憶があって、こうなっていた」

 

 ボクは熱燗……の代わりに頼んだ温かいお茶をすすりながら、あっけらかんと肩をすくめた。

 

「雷に打たれたようなものさ。だから、ボク自身も最初は戸惑ったけれど、今となってはこの二つの視点が混ざり合っている状態が、ひどく快適でね」

 

 ボクが焼き魚を綺麗に箸でほぐしながら言うと、ジャーニーは少しの間沈黙し、手元の湯呑みをじっと見つめた。そして、一つ覚悟を決めたように、鋭い、けれどどこか探るような視線をこちらへ向けた。

 

「……では、少しセンシティブな話題に踏み込ませて頂きます」

 

「おや、なんだい?」

 

「アネゴの半分が『大人の男性』の精神であるならば。このトレセン学園という、若いウマ娘ばかりが集まるいわば『女の園』に身を置くにあたって……その、男性としての視点や、いかがわしい感情を抱くことはあるのでしょうか?」

 

 ジャーニーの問いは、理路整然としながらも、核心を突く鋭さを持っていた。確かに、中身が中年男性であるならば、周りはうら若き乙女ばかり。警戒されても無理はない。

 

 ボクは箸を置き、少しだけ真面目な顔を作った。

 

「まあ、ゼロかと言われれば嘘になるかな。男性としての感覚は確かにあるからね」

 

「……ッ」

 

「でもね」

 

 身を硬くしたジャーニーを安心させるように、ボクはふっと柔らかく微笑んだ。

 

「主導権というか、ボクのベースになっているのは、あくまで元の『ステイゴールド』の方がずっと大きいんだ。おじさんの部分は、あくまでスパイスやフィルターのようなものさ」

 

「フィルター、ですか」

 

「そう。学園の子たちを見て、純粋に『綺麗な子だな』とか『可愛いな』と思うことはあるよ。でも、それは道端に咲く美しい花や、燕三条の美しいナイフ、手入れの行き届いた二輪車を愛でるような……そういう静かな感嘆に近い。それ以上の、下世話な感情や欲求に繋がることはないよ」

 

 ボクはジャーニーの目を真っ直ぐに見つめ、優しく、けれどきっぱりと言い切った。

 

「本当に、それ以上のものはないよ。だから、変に警戒しなくていい。ボクは今まで通り、君の知るステイゴールドさ。……わかってくれるかい、ジャーニー?」

 

 静かな個室の中に、ボクの言葉がゆっくりと染み込んでいく。

 

 数秒の沈黙の後。ジャーニーは、探るような鋭い視線をゆっくりと解き、小さく息を吐き出した。

 

「……信じましょう。アネゴの目を見れば、嘘を吐いていないことくらいはわかります」

 

「ははっ、それは良かった」

 

「ただし」

 

 ジャーニーは再び箸を持ち、少しだけ口角を上げてみせた。

 

「その『おじさん』としての渋い審美眼や趣味の良さは、大いに利用させてもらいます。このお店のお料理も素晴らしいですし、何より……今のアネゴが淹れる紅茶は、格別ですからね」

 

「お安い御用さ。これからは、美味い飯屋の開拓と、お茶汲みはお任せあれ、だ」

 

 すっかり毒気の抜けたジャーニーの顔を見て、ボクもホッと胸を撫で下ろした。どうやら、ボクのこの奇妙な二重生活は、彼女という優秀な理解者を得たことで、思っていたよりもずっと楽しいものになりそうだ。

 

「さあ、冷めないうちに食べてしまおう。この出汁巻き卵は、なかなかの絶品だよ」

 

 ボクが小鉢を勧めると、ジャーニーは「いただきます」と、今日一番の穏やかな顔で頷いた。

 

 

 ジャーニーとの静かで有意義な夕食を終え、すっかり夜も更けた頃。

 

 ボクが寮の部屋のドアを開けると、ベッドの上で奇妙なポーズのまま漫画を読んでいたゴルシが、ギョッとしたように顔を上げた。

 

「……ゲッ! また顔を見るなんて、今回は長くねーか!?」

 

 まるで珍獣でも見るかのような、失礼極まりない第一声である。

 

「やあ、ただいま。ボクの部屋なんだから、帰ってきて当然だろう?」

 

「いやいやいや! ステゴが二日連続で大人しく学園のベッドで寝るなんて、明日は槍でも降るんじゃねーの!? アタシ、ヘルメット被って寝た方がいいか!?」

 

 大袈裟に両手で頭を覆うゴルシ。呆れつつも、ボクは部屋着に着替えながら苦笑いを浮かべた。

 

「ひどい言われようだね。ボクだって、たまにはゆっくり自分のベッドで寝たい夜くらいあるさ」

 

「だってよぉ……」

 

 ゴルシは漫画を放り投げ、ペタンと耳を伏せてベッドにうつ伏せになった。

 

「お前、いっつもフラッと帰ってきたと思ったら、次の日にはもうどっか行っちまうからよー。どうせ今日も、夜風に吹かれてどっかの山にでも消えちまうのかと思ってたぜ」

 

 ぶすっとした声。先ほどの驚きは照れ隠しで、その実、またすぐにボクがいなくなってしまうんじゃないかと、彼女なりに寂しがっていたらしい。全く、素直じゃない可愛い後輩だ。こういう拗ね方を見せられると、おじさんの魂としてはどうにも罪悪感を刺激されてしまう。

 

「……仕方ないな」

 

 ボクは小さく息を吐くと、自分のベッドには向かわず、そのままゴルシのベッドの端に腰を下ろした。そして、彼女が被っていた掛け布団の端をめくり、するりとその中に潜り込んだ。

 

「うおっ!? な、なんだよ!」

 

「いつもすぐいなくなるお詫びさ。今日はここで、君が眠るまで監視されておいてあげるよ」

 

 ボクが隣に横たわり、至極真面目な顔でそう言うと、ゴルシは目を白黒させた。

 

「はぁ!? いや、監視って……ってか狭えよ! アタシのパーソナルスペースが!」

 

「ウマ娘が二人も入れば、そりゃあ狭いだろうね。でも、野宿の時の寝袋に比べれば、ふかふかで天国みたいだ」

 

 ボクが気にせず目を閉じると、ゴルシはしばらく「うー、あー」と戸惑ったような声を上げていたけれど。

 

「……しゃーねーなー! 今日だけは特別に、このアタシのベッドを半分貸してやるぜ! 感謝しろよな!」

 

 結局、照れ隠しのように鼻息を荒くして、ボクの背中にポンと腕を回してきた。

 

 ジャーニーとの会話で「女性に対するいかがわしい感情はない」と断言したばかりだけれど、こうして気心の知れた後輩と狭い布団で身を寄せ合うのは、なんとも微笑ましく、家族のような温かさがある。

 

「ああ、感謝するよ。……おやすみ、ゴルシ」

 

「おう、おやすみ。……夜中に抜け出したら、朝イチでドロップキックかますからな」

 

 背中越しに聞こえるゴルシの寝息が、少しずつ静かで規則的なリズムに変わっていく。

久しぶりのトレセン学園での夜。

 

 誰かの温もりを感じながら眠るのも、たまには悪くない。ボクは心地よい窮屈さを感じながら、深く、静かな眠りへと落ちていった。

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