ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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甘えられるステゴ

 翌朝。

 

 ボクは、凄まじいホールド感と共に目を覚ました。

 

「……ふむ」

 

 視線を下げると、芦毛の長い髪がボクの胸元に散らばっている。ゴルシがボクの身体を立派な抱き枕に見立てて、両手両足をしっかりと絡みつかせて爆睡していた。

 

 ウマ娘の膂力で締め付けられているのだから普通なら息苦しいはずなのだが、体温が高くて意外と寝心地が良く、決して悪くない目覚めだった。

 

「……ゴルシ。そろそろ起きる時間だよ。離してくれないかな?」

 

「んあ……やーだ」

 

 むにゃむにゃと寝言のように呟き、彼女はさらにギュッとボクを抱きしめ直して、胸元に顔を擦り付けてきた。

 

 全く、どこの甘えん坊だ。

 

 ボクは小さく息を吐き、天井を見上げた。まあいい。おじさんの魂としては、朝くらいこんな風にのんびりと布団の中で過ごすのも嫌いじゃない。結局、ボクは彼女が満足して勝手に腕を解くまで、数十分ほどそのままされるがままになっていた。

 

 

「おはようございます、アネゴ。今朝は随分とゆっくりでしたね」

 

 すっかり日の高くなったトレーニングコースに顔を出すと、すでに準備運動を終えていたジャーニーが静かに声をかけてきた。

 

「やあ、おはよう。ちょっとね、立派な芦毛のトラップに捕まってしまって」

 

「トラップ……ああ、彼女ですか」

 

「そう。あいつもああ見えて、意外と甘えん坊でね。しっかり抱き枕にされて、数十分ほど身動きが取れなかったのさ」

 

 ボクが苦笑いしながら肩をすくめると、ジャーニーは「なるほど」と呆れたように小さくため息をついた。

 

「彼女なりに、アネゴがまたどこかへ消えてしまうのではないかと警戒しているのでしょう。……というより、私自身も少し気になっています」

 

 ジャーニーは手元のタオルを畳み、ボクの顔を真っ直ぐに見つめた。

 

「次は、どこか行かれるのですか?」

 

 その問いに、ボクはふと視線を上げ、抜けるような青空と遠くの雲を見つめた。

 

 燕三条の美しい刃物、日本海の潮風、二輪車との並走、そして静寂の美術館。前回の旅の記憶が、心地よい余韻となって胸の奥で燻っている。

 

 この学園での日常も最高だけれど、あの風の匂いを知ってしまった以上、ずっとこの場所に留まり続けることはできないだろう。

 

「そうだね」

 

 ボクは軽くアキレス腱を伸ばし、準備運動を始めながら、いつものように飄々と笑った。

 

「目的地は決めてないけど」

 

 それがいつになるかはわからない。明日かもしれないし、一ヶ月後かもしれない。けれど、風の吹くまま、気の向くまま。旅の空はいつでもボクを待っている。その確かな予感を胸に、ボクはトレセン学園のターフへと力強く足を踏み出した。

 

 

 それから、あっという間に一週間が過ぎた。

 

「……というわけで、ここの方程式にはこの公式を当てはめて……おや?」

 

 黒板に向かっていた数学の教師が、振り返りざまにチョークを取り落としそうになった。それもそのはずだ。いつもなら窓の外を眺めているか、そもそも席にすらいないはずの『黄金の我儘娘』ことステイゴールドが、頬杖をつきながらも真面目に黒板を見つめ、ノートを取っていたのだから。

 

 廊下ですれ違う生徒たちも、ボクの姿を見るなり目を丸くして二度見していく。

 

「えっ、ステイゴールドさん……?」

「ウソ、学園に居たんだ……」

「しかもちゃんと制服着て、授業に向かってる……明日は雪かしら」

 

 そんな失礼なヒソヒソ話が耳に届くけれど、ボクは気にする風でもなく、ただ飄々と廊下を歩いていた。

 

 ボクがこれほどまでに大人しく、真面目に学園生活を送っている理由。それは他でもない、ボクの中に同居している『おじさん』の魂が、この学園生活そのものを「非日常の旅」として大いに満喫していたからだ。

 

 考えてもみてほしい。

 

 酸いも甘いも噛み分けた中年の魂にとって、希望に満ち溢れたうら若きウマ娘たちが、ひたむきに学び、汗を流して切磋琢磨するこのトレセン学園という空間は、眩しすぎるほどの非日常だ。

 食堂に行けば栄養満点で美味しいご飯が山のように食べられ、放課後になれば最高のライバルたちとターフを駆け抜けることができる。

 

 山の中でのサバイバルも最高だけれど、おじさんの感性からすれば、このキラキラとした青春のど真ん中に身を置くこと自体が、一種の極上な「観光」であり「旅」のようなものだったのだ。

 

「いやあ、学園生活って本当に素晴らしいね」

 

 昼休み。

 

 中庭のベンチで、食堂の特製弁当(ウマ娘サイズの大盛り)を平らげながらボクがしみじみとそう呟くと、隣でお茶を飲んでいたジャーニーが、静かにため息をついた。

 

「……周囲の先生方や生徒たちが、本気で戸惑っていますよ。アネゴが真面目に授業を受け、無断欠席もせず、毎日トレーニングに顔を出している。学園の七不思議が一つ増えたとまで言われています」

 

「失礼な話だね。ボクだって、やる時はやる生徒だというのに」

 

「どの口が言うのですか。……正直なところ、私も三日もすれば、またふらりとどこかへ消えてしまうのではないかと思っていました」

 

 ジャーニーは少しだけ意地悪く目を細めた。しかし、その直後、彼女は手元のティーカップを膝に置き、ふわりと花が綻ぶような、とても柔らかく、穏やかな微笑みを浮かべた。

 

「ですが……」

 

 春の陽光が、彼女の艶やかな髪をキラキラと照らしている。

 

「朝、コースに出ればアネゴが走っていて、昼になればこうして一緒にお茶を飲める。……いついなくなるか分からないという危うさもアネゴの魅力ですが、こうして毎日、当たり前のように一緒に居られるのは……やはり、とても嬉しいものです」

 

 照れ隠しなのか、少しだけ視線を逸らして語るその姿は、ターフで見せる鋭い勝負師の顔ではなく、年相応の可愛らしい妹分の顔だった。

 

「……そうかい。ジャーニーにそこまで喜んでもらえるなら、この『学園生活という名の旅』も、もう少し長く楽しんでみる価値がありそうだね」

 

 ボクが笑って彼女の頭を軽く撫でると、ジャーニーは「子供扱いしないでください」と小さく文句を言いながらも、決してその手を払いのけようとはしなかった。

 

 心地よい春の風が、中庭を吹き抜けていく。

 

 次の目的地はまだ決まっていないけれど、今はこの穏やかな日差しの下で、大切な後輩たちと過ごす時間という名の「旅」を、心ゆくまで楽しむとしよう。

 

 

「そういえば」

 

 心地よい風に吹かれながら、ボクはふと思い出したように言葉を継いだ。

 

「ジャーニー。今晩、一緒に寝るかい?」

 

「……ブッ!?」

 

 その瞬間、優雅に紅茶を飲んでいたジャーニーが、盛大にむせた。

 

 いつもなら絶対に立てないような音を出して咳き込み、ハンカチで口元を押さえながら、信じられないものを見るような目でボクを凝視してくる。その色白の頬は、あっという間に耳の先まで真っ赤に染まっていた。

 

「なっ、ななな、何を突然……!? アネゴ、頭でも打ったのですか!? それとも、中のおじさんの変なスイッチでも入ったのでは!?」

 

 普段の冷静沈着な姿はどこへやら。すっかり動揺して早口になるジャーニーを見て、ボクは思わず苦笑した。

 

「いやいや、変な意味じゃないよ。……いやね、今朝ゴルシに言われたんだ。『オメー、まだ学園に居るつもりなら、いつも迷惑かけてるジャーニーに少しは恩返ししろ!』ってね」

 

「あのゴールドシップが……?」

 

「そう。でも、ボクのこの不器用な頭と、おじさんの枯れた発想じゃあ、どうやって君に恩返しすればいいか分からなくてね。……一緒に添い寝して、ゆっくり話を聞いてあげるくらいしか思いつかなかったのさ」

 

 ボクが頭を掻きながら正直に白状すると、ジャーニーはほうっと一つ、大きなため息を吐いた。赤くなった頬を冷ますように、パタパタと手で顔の横を仰いでいる。

 

「……全く。心臓が止まるかと思いましたよ。アネゴのそういう無自覚なところ、本当にどうにかした方がいいのでは……」

 

 呆れたように文句を言いながらも、ジャーニーは姿勢を正し、コホンと一つ小さく咳払いをした。

 

「お気持ちは嬉しいですが、お気遣いなく。私としては、こうして学園で夕食をご一緒していただけるだけで、十二分に……」

 

 そこで、彼女の言葉がピタリと止まった。

 

 視線をスッと落とし、膝の上でギュッと手を握りしめている。数秒の葛藤。ウマ娘としての理性と、ただのアネゴを慕う妹分としての素直な感情が、彼女の中で激しく戦っているのが目に見えるようだった。

 

 やがて、ジャーニーはゆっくりと顔を上げ、ほんの少しだけ上目遣いでボクを見た。

 

「……いえ。やっぱり、お願いします」

 

 消え入りそうなほど小さな、けれどはっきりとした声だった。そのいじらしい様子がおかしくて、そしてとてつもなく愛おしくて、ボクはたまらず相好を崩した。

 

「ああ、喜んで。ボクのベッドは少し狭いかもしれないけれど、野宿に比べれば極上の寝心地を約束するよ」

 

「……ベッドメイキングは私がやりますから。アネゴは大人しく待っていてください」

 

 少しだけツンとした態度を取り繕うジャーニーだったけれど、その耳は嬉しそうにピコピコと動いていた。

 

 ゴルシのお節介には、たまには感謝しないといけないね。

 

 ボクは残っていたお弁当を綺麗に平らげ、今夜の「特別でささやかな旅」の予定に、静かに胸を弾ませた。

 

 

 そして迎えた夜。約束通り、少しばかり緊張した面持ちのジャーニーがボクの部屋のドアをノックした。

 

「いらっしゃい、ジャーニー。開いてるよ」

 

 ボクが声をかけると、ドアが静かに開き、パジャマ姿の彼女が控えめに入ってくる。

すると、部屋の奥でゴルシが、自分の枕と愛読書の漫画を数冊小脇に抱えて立ち上がった。

 

「おっ、主役の登場だな! じゃ、アタシは今日はこの部屋を明け渡してやるよ。今から暴君の部屋にでも強襲をかけて、夜通しカードゲームでもしてくるわ!」

 

「おや、ゴルシ。もしかして気を利かせてくれたのかい?」

 

「バーカ、お前らが狭苦しいベッドで縮こまってんのを見るのが忍びないだけだっつーの! たまには水入らずで積もる話でもしろや。……あ、ジャーニー、ステゴの寝相が悪かったら遠慮なく蹴っ飛ばしていいからな!」

 

 ニシシと笑ってウインクを残し、ゴルシは嵐のように部屋を出て行った。相変わらず騒がしいけれど、本当に周りがよく見えているというか、勘の働くいいヤツだ。

 

「……オルフェが可哀想な気もしますが、彼女の厚意には感謝しておきましょう」

 

 ジャーニーは少しだけ肩の力を抜き、ふっと小さな笑みをこぼした。

 

 

 消灯時間を迎え、部屋の明かりを落とす。ゴルシのベッドを借りようかとも思ったけれど、せっかくの「添い寝」の誘いだ。ボクたちは一つのベッドに、少しだけ肩を寄せ合うようにして潜り込んだ。

 

 窓から差し込む薄明かりの中、シーツの擦れる微かな音だけが響く。

 

「……狭くないかい? ボクがもう少し壁側に寄ろうか」

 

「いえ。このままで大丈夫です」

 

 ジャーニーはボクのパジャマの袖を少しだけ摘み、ふるふると首を横に振った。

 

 ウマ娘の体温は高く、布団の中はすぐにポカポカと心地よい熱で満たされていく。ボクは仰向けのまま、ジャーニーがリラックスできるように、一定のリズムで彼女の背中をポンポンと軽く叩き始めた。

 

「……なんだか、不思議な気分です」

 

 暗闇の中、ジャーニーがぽつりと呟いた。

 

「ボクが大人しく君の隣で寝ているのが?」

 

「それもあります。でも……こうしてアネゴの心臓の音を聞いて、温もりを感じていると……あの『おじさん』という存在すらも、とても自然なものに思えてくるのです」

 

「ははっ、それは何よりだ。中身が誰であれ、ボクが君を可愛い妹分だと思っていることに変わりはないからね」

 

「妹分、ですか。……まあ、今はそれで良しとしておきましょう」

 

 ジャーニーは少しだけ不満げに口を尖らせたものの、すぐに心地よさそうに目を細めた。

 

 それからは、本当に他愛のない雑談の時間だった。

 

 今日のトレーニングでのタイムの話。最近食堂のメニューに新しく加わったデザートの話。気まぐれなオルフェーヴルや、相変わらずマイペースなナカヤマフェスタたちのこと。なんてことのない学園の日常が、夜の静寂に溶けていく。

 

「そういえば、今度のお休みは……」

 

 ジャーニーの言葉が、少しずつゆっくりになり、やがて途切れた。トントンと叩いていたボクの手に伝わる彼女の呼吸が、深く、規則的なものに変わっていく。

 

「ジャーニー?」

 

 小声で呼んでみるが、返事はない。

 

 ボクの袖を握る小さな手は、安心しきったように力が抜けていた。ターフの上で見せる鋭く計算し尽くされた姿とはまるで違う、無防備で、年相応のあどけない寝顔だ。

 

「……おやすみ、ジャーニー。良い夢を」

 

 ボクは彼女が風邪を引かないように掛け布団を肩まで引き上げ直すと、自分もゆっくりと目を閉じた。

 

 一人で野宿をする夜の孤独と自由も素晴らしい。

 

 ……けれど、誰かの温もりを感じながら、他愛のない会話の中で微睡んでいく夜も、それに負けないくらい極上だ。

 

 おじさんの魂とウマ娘の身体。

 

 二つの視点が交差するこの不思議な「旅」は、どうやらまだまだ終わりそうにない。ボクは胸元から聞こえる穏やかな寝息を子守唄に、深い、静かな眠りの底へと沈んでいった。

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