それから、数ヶ月の月日が流れた。
ボクは時折、息抜き程度の短いツーリング(という名のランニング旅)に出かけつつも、基本的には学園に留まり、真面目にトレーニングと「専属メカニック」――つまり、トレーナー探しに打ち込んでいた。
「うーん……やっぱり、どうもしっくりこないね」
ある日の放課後。
談話室で、山のように積まれたトレーナーのプロフィール資料や、これまでの面談記録をパラパラと捲りながら、ボクは深くため息をついた。
熱血指導を売りにする情熱的なトレーナーもいた。
最新のスポーツ科学を駆使する理論派のトレーナーもいた。
決して彼らが無能なわけではない。むしろ優秀な部類なのだろう。けれど、熱血派の「気合と根性で乗り切れ!」という指導は、おじさんの枯れた精神には少々暑苦しすぎるし、理論派の「データがすべて」というスタンスは、行き当たりばったりの旅を愛するボクの直感とはどうにも噛み合わない。
「この特殊なピーキー・エンジンを任せられるだけの、腕のいいメカニックはなかなか見つからないものだね」
ボクが肩をすくめて紅茶をすすっていると、向かいの席で同じように資料に目を通していたジャーニーが、ふと一枚の書類で手を止めた。
「……アネゴ。一人、ひどく毛色の違う新人トレーナーの資料が混ざっていますよ」
「おや、どんな風にだい?」
「数日前に学園の赴任試験をパスしたばかりの、女性の新人らしいのですが……経歴が異色すぎます。元々は、人力の二輪車競技におけるトッププロのアスリートだったそうです。それが数ヶ月前、突如として現役を引退し、猛勉強の末に特例の早さでトレーナー試験に合格したと」
「……二輪車の、プロアスリート?」
その単語に、ボクの中の「おじさん」のアンテナがピクリと反応した。
「ええ。引退の理由がまた突拍子もないんです。なんでも、『数ヶ月前に海岸線の道で、見知らぬウマ娘と並走して完敗した。あの圧倒的なエンジンと走りの美しさに魅せられ、どうしても自分が彼女の走りをチューニングしたくなった』と……」
ジャーニーが呆れたように資料を読み上げる声を聴きながら。ボクの脳裏に、数ヶ月前のあの日本海沿いの寂れた海岸線での記憶が、鮮やかにフラッシュバックした。
潮の香り。照りつける太陽。ボクの横に並びかけてきた、あの流線型のヘルメットと、鋼のように鍛え上げられた人間の脚。
そして、互いに限界までペダルとターフを蹴り合い、最後に交わしたあの不敵な笑みとサムズアップ。
「――っ、はははっ!」
ボクはたまらず、声を上げて笑い出してしまった。
「ア、アネゴ?」
「いやあ、まさか……まさか、あの時の彼女が、わざわざプロの座を捨ててまで、ボクを追ってこの学園に乗り込んでくるなんてね!」
驚くジャーニーの手から資料をひったくるようにして受け取り、そこに添付された顔写真を見る。ヘルメットとサングラスを外したその素顔は、凛とした意志の強さを感じさせる、美しい大人の女性のものだった。間違いなく、あの海岸線でボクの魂を熱くさせてくれた「好敵手」だ。
「知っているのですか、アネゴ?」
「ああ、よーく知っているとも。数ヶ月前の旅で、ボクのこのウマ娘の身体と、おじさんの魂の両方を本気で熱くさせてくれた、最高の『人間』さ」
ボクは資料をテーブルに置き、立ち上がって思い切り伸びをした。ここ数ヶ月、ずっとくすぶっていた心のエンジンに、一気に極上のハイオク燃料が注ぎ込まれたような気分だった。
熱血だけでも、理論だけでもない。
自らの肉体を極限までチューニングし、風と一つになる喜びを知っている「プロフェッショナル」の同類。彼女になら、ボクのこの複雑で面倒くさい心と身体を預けてもいい。いや、彼女じゃなきゃダメだ。
「ジャーニー。ボクのトレーナー探しは、どうやら今日で終わりのようだ」
ボクは窓の外、広大なトレセン学園のターフを見下ろしながら、ニヤリと笑みを作った。
「さあ、ご挨拶に行こうか。……ボクの『専属メカニック』の元へね」
■
ボクは手元の資料に書かれた面会室の扉を、ノックもそこそこに勢いよく開け放った。
そこには、見覚えのある女性が立っていた。
ジャージ姿からスーツに着替えてはいるものの、服の上からでもわかる鍛え上げられた下半身と、体幹の強さを感じさせるスッと伸びた背筋。そして何より、あの日本海の酷道でボクと限界まで競り合った、勝負師特有の爛々とした瞳はあの日のままだ。
「やあ」
ボクが片手を上げて短く声をかけると、彼女はパッと花が咲くような、あの海岸線で見せたのと同じ太陽のような笑顔を向けた。
「久しぶり! いやあ、本当に君の方から来てくれるなんて嬉しいよ!」
彼女はスーツの袖を少しまくり上げながら、ボクの元へツカツカと大股で歩み寄ってきた。
「君のあの走りに、すっかり惚れ込んじゃってさ! 競輪、やめちゃった!」
あっけらかんと、まるでお昼ご飯のメニューでも変えたかのような軽さで、とんでもないことを言い放つ。プロのアスリートとして頂点を極め、人生のすべてを懸けてきたであろう二輪車の競技を、たまたま道端で並走した一人のウマ娘のために投げ打ったというのだ。
「……ははっ。あんた、自由すぎだろう」
ボクはたまらず、お腹を抱えて笑ってしまった。ボクの中の「おじさん」も、ウマ娘としての本能も、目の前にいるこの型破りすぎる大人の女性に対して、これ以上ないほどの親愛の情を抱いていた。
地位も名誉もあっさりと捨て去り、ただ純粋な「速さ」と「走り」の魅力に取り憑かれて、風の吹くままにここまでやってきた。そんな無軌道で無鉄砲な人間が、ボクの専属メカニックに向いていないはずがない。
「褒め言葉として受け取っておくよ。で?」
ボクは笑い涙を指先で拭い、姿勢を正して彼女を真っ直ぐに見据えた。
「わざわざプロの座を捨ててまで、この学園に乗り込んできたんだ。……当然、このボクをスカウトする気なんだろうね?」
すると、彼女はニッと犬歯を見せて不敵に笑い、ボクの目の前に力強く右手を差し出した。
「当たり前でしょ! そのために必死こいて資格取ったからねー! 君のあの規格外のエンジンを最高にチューニングできるのは、世界中探したって私しかいないよ!」
自信に満ち溢れた、心地よいまでの宣言。ボクは迷うことなく、その差し出された手を力強く握り返した。
「言ったね。なら、ボクの面倒くさい身体と、もっと面倒くさい魂の舵取り……あんたに任せるとしようか」
ガッチリと交わされた握手。彼女の手は、二輪車のハンドルを握り続けてきた証である硬いマメがあり、ボクの知る職人たちと同じような、熱くて頼もしい「プロフェッショナル」の温度がした。
「よろしく頼むよ、トレーナー」
「任せて!一緒に最高の風を切りに行こう、ステイゴールド!」
こうして、ただの現実逃避から始まった行き当たりばったりの長旅は、最高の相棒との出会いというこれ以上ない結末を迎え、ボクたちは新たなスタートラインへと立つことになった。
この少しばかりネジの飛んだ元アスリートのトレーナーと、中身が『おじさん』なウマ娘のコンビが、今後トレセン学園やターフでどんな旋風を巻き起こすことになるのか……。
それはまた、別のお話だ。
彼らの旅を覗くのはここで〆。これからはどうなるのでしょうね。