ステゴのデビューへ向けて
ボクと新しいトレーナーの相性は、周囲が呆れるほど、そしてボク自身が笑ってしまうほどに完璧に噛み合っていた。
片や、プロの座をあっさりと捨ててウマ娘の走りに魅せられた「自転車バカ」。
片や、中身が放浪と二輪車を愛するおじさんである「旅バカ」。
この二人がタッグを組んで、大人しいトレーニングで収まるはずがなかった。
「ほらほらステイゴールド! ペース落ちてるよ! そんなんじゃ私に置いてかれるよ!」
「ハッ、言うね! そっちこそチェーンが千切れそうな音を出してるじゃないか!」
学園のトレーニングコース。ターフの脇に併設された舗装路を、最新鋭のロードバイクに跨ったトレーナーが、アスリート時代さながらの鬼気迫る前傾姿勢で爆走している。
ボクはターフを力強く蹴り、その横に並びかける。
ロードバイクのメカニカルなギアチェンジの音と、ウマ娘のターフを叩く足音。直線でボクが引き離せば、コーナーの立ち上がりで彼女が鋭く差し込んでくる。互いに不敵な笑みを浮かべながら、追いつき、追い越されを繰り返す。
あまりにも白熱したそのデッドヒートぶりに、見学していた他の生徒たちが、
「……あれ、今日ってトレーナーさんの特訓日だっけ?」
「どっちが鍛えられてるのか全然わからないわね」
とヒソヒソと囁き合っているほどだった。そして、異常なのは走ることだけじゃない。
「っしゃあ! 次、私の番ね! プレート付け替えて!」
「はいはい。……あんた、人間にしては本当にいい筋肉してるよ」
ウエイトルームに入れば、ボクたちは一つのスクワットラックを共有して筋力トレーニングに励んだ。当然、ウマ娘であるボクと人間の彼女とでは扱う重量のケタが違う。けれど、重りのプレートを素早く付け替えながら、互いのフォームを確認し、汗だくになって限界まで筋肉を追い込む姿勢は全く同じだ。インターバル中には、筋肉の付き方や体幹の使い方について、まるで熟練のメカニック同士のようにマニアックな議論を交わす。
そして、限界までエンジンとボディを酷使した後は、最高の燃料補給だ。
「おばちゃーん! こっち、特大の唐揚げ定食と、ご飯マンガ盛りで!」
「ボクは焼き魚定食に、豚汁と白米を特盛りで頼むよ」
学園の食堂のテーブルに、山のような炭水化物とタンパク質が並べられる。二人して「いただきます」と手を合わせるなり、無言で猛烈な勢いで飯を掻き込む。運動後の身体に染み渡る塩分とカロリーの暴力。おじさんの魂としてはカロリー計算も気になるところだけれど、これだけハードなトレーニングをこなしていれば、いくら食べても太る暇などない。
「ぷはーっ! 食った食った! やっぱ自分の足で走った後のメシは最高だね!」
「まったく同感さ。燃費の悪いスポーツカーには、これくらいガッツリしたハイオクが必要だからね」
空になった特大の丼を前に、二人して満足げにお腹をさすって笑い合う。そんな破天荒な日々を繰り返しているうちに、いつしかボクたちコンビは、トレセン学園の中でこんな風に認知され始めていた。
『――あの二人、どっちがウマ娘だかわからないわね』と。
「あっははは! 違いねえ! アネゴのトレーナー、そのうち自力でトゥインクル・シリーズに出走するんじゃねーの!?」
談話室でその噂を聞いたゴルシは腹を抱えて爆笑し、隣でお茶を飲んでいたジャーニーは、
「類は友を呼ぶ、とはまさにこのことですね」
と呆れ顔でため息をついていた。けれど、そのジャーニーの表情も、以前のような危うさを心配するものではなく、どこかホッとしたような穏やかなものだった。
「まあ、似た者同士ってやつさ。おかげで、毎日が退屈しないよ」
ボクは淹れたての紅茶をすすりながら、ふっと窓の外を見やった。
おじさんの魂が引き寄せた、型破りな「自転車バカ」との出会い。トレセン学園という名の長く熱い旅は、最高の相棒を得たことで、いよいよ最高速のギアへと入ろうとしていた。
■
週末になれば、ボクたちの「遠征」が始まる。
目的地は、府中から片道およそ百数十キロ。一般の人間からすれば絶句するような距離だが、極限まで鍛え上げた「二つのエンジン」にとっては、格好の日帰りツーリングコースでしかない。
「ほらステイゴールド、私の後ろに入れ! 風除けになってあげるよ!」
「助かるよ、トレーナー。それじゃあ次はボクが前に出るから、あんたはしっかり張り付いてなよ!」
アスファルトの上を、細いタイヤが高速で転がる「コォォォー」という独特のロードノイズ。それと並走するように、ボクの蹄がリズム良く路面を叩く。空力を計算し、数センチの距離で前後を入れ替え、互いのスリップストリームを利用しながら爆走するその姿。
偶然その様子を見かけたジャーニーやオルフェからは、
「……あの二人の阿吽の呼吸だけは、悔しいけれど認めざるを得ない」
と、呆れを通り越した称賛の言葉を贈られるほどだった。
ちなみに今日の目的地は、茨城県・大洗。潮の香りが色濃くなってきた頃、ボクたちは目的の食事処へと滑り込んだ。
「ふう……いい汗をかいたね。さあ、燃料補給といこうか」
目の前に運ばれてきたのは、大洗名物・あんこう鍋。どろりと濃厚なあん肝が溶け出した味噌仕立てのスープに、プルプルの身と野菜がたっぷりと入っている。さらに、大粒の牡蠣フライも追加した。
「……っ、たまらないね」
サクサクの衣を噛み締めると、中から海のミルクがじゅわっと溢れ出す。熱々のあんこう鍋をハフハフと頬張り、濃厚な出汁を喉に流し込む。冷えた身体に、この脂と滋味が染み渡る感覚。おじさんの魂が、歓喜で震える。
「ねえ、ステイゴールド」
鍋を突っついていたトレーナーが、ふと箸を止めてこちらを見た。
「なんだい、トレーナー。言っておくけど、ボクの牡蠣をくれっていうのはお断りだよ?」
「違うって。そんな食い意地の張った話じゃないよ」
彼女は苦笑いしながら、湯気の向こうで、あの海岸線で見せたのと同じ、真剣で、けれど最高にワクワクしている勝負師の瞳でボクを射抜いた。
「デビュー、来月ね」
「……おや」
ボクは箸を止めた。あまりにもあっけらかんとした、けれど重みのある宣告。
「いよいよかい」
「そう。君の今のコンディション、私のチューニング……すべてが完璧に仕上がった。来月のレースで、学園中の度肝を抜いてやるんだから。準備はいい?」
ボクは最後の一切れの牡蠣フライをゆっくりと咀嚼し、お茶を飲み干した。
ボクの走りを信じ、プロとしてのキャリアを捨ててまで隣に立ってくれた彼女。その情熱と技術を、ボクはアスリートとして、そして一人の表現者として、心の底から信頼し切っている。
「愚問だね。ボクが誰だと思っているんだい?」
ボクは不敵に笑い、テーブル越しに彼女と視線をぶつけ合わせた。
「最高の舞台を用意しておくれ。ボクとあんたで、見たこともないような風を巻き起こしてやろうじゃないか」
「……あはは! そう来なくっちゃ!」
大洗の潮騒と、鍋の煮える音。現実逃避から始まったこの奇妙な旅は、いつしか「頂点」へと続く一本の道に繋がっていた。
おじさんの魂を宿した異端のウマ娘と、自転車を愛しすぎた型破りなトレーナー。この凸凹コンビがターフに刻む物語は、ここからがいよいよ本番だ。
ボクは未来の勝利の味を予感しながら、もう一度、熱々のスープを口へと運んだ。
■
そしてついに、デビュー戦の日がやってきた。
大歓声が渦巻くレース場の地下通路。出番を待つゲート裏の薄暗い空間で、ボクは今までにない感覚に襲われていた。
「……ふうっ、……ふぅっ」
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく早鐘を打っている。手のひらにはじっとりと嫌な汗をかき、自慢の強靭な脚が、まるで錆びついたサスペンションのようにガクガクと震えていた。
緊張だ。それも、尋常ではないレベルの舞台恐怖症。
原因はわかっている。ここで「おじさん」の悪いところが出てしまったのだ。
前世のおじさんは、決して何万もの群衆からスポットライトを浴びるような人間じゃなかった。巨大な倉庫の片隅で黙々と作業をこなし、機械や荷物と向き合う……いわば、巨大な社会というエンジンの、名もなき裏方の歯車の一つだったのだ。
だから、自分が「主役」として表舞台に立ち、無数の視線と期待を一身に背負うという極限のプレッシャーに、中年の小市民な魂が完全に悲鳴を上げてしまっていた。
(……まいったね。こんなところでエンストとは。やっぱりボクには、気ままな一人旅がお似合いだったんじゃ……)
逃げ出したい。そんな弱音が脳裏をよぎった、その瞬間だった。
『――何、ビビってんのさ』
内面の奥深くから、もう一つの意志が、フツフツと熱を帯びて湧き上がってくるのを感じた。それは、おじさんの魂に覆い隠されていた、ウマ娘としての『本来のステイゴールド』の闘争心。
『何万人が見ていようが関係ない。私たちはただ、誰よりも速くあのターフを駆け抜けるだけじゃないか』
荒々しく、けれどどこまでも純粋で自由な彼女の意志が、震えるおじさんの魂を力強く抱きしめるように、語りかけてくる。
『知らない道に飛び込むのは、いつだって怖い。……旅の始まりは不安ばかり。でも、あんたも知っているだろう?』
彼女の言葉に、これまでの記憶がフラッシュバックする。
右も左もわからないまま飛び込んだ酷道。途方に暮れた野宿の夜。けれど、その不安を乗り越えてペダルを、ターフを蹴り出した時の、あの風と一体になる極上の快感を。
『――走り始めたら、案外、楽しいって』
「……っ」
その言葉が胸の奥にストンと落ちた瞬間。震えていた脚からスッと余計な力が抜け、代わりに、ターフを焦がすほどの熱い血が全身の血管を駆け巡り始めた。
そうだ。これは「試練」なんかじゃない。ボクと彼女と、そして最高のトレーナーが共に作り上げた、最高速で駆け抜けるための「新しい旅」の始まりなのだ。
「……そうだね。あんたの言う通りだ」
ボクは小さく息を吐き、パチン、と両手で自分の頬を叩いた。目を開けると、心臓の音は小さくなり、背筋がすっと伸びる。
「おや、いい顔になったじゃない」
振り返ると、ロードバイク用のサングラスを頭に乗せたトレーナーが、ニヤリと笑って立っていた。彼女はボクの背中を、バァン! と遠慮のない力で叩いた。
「エンジンは完璧に温まってる。あとはコースに出て、君の最高の走りを見せつけてやるだけだよ。いっておいで、ステイゴールド!」
「ああ、任せておきな。誰の背中も拝むつもりはないよ」
ボクは不敵な笑みを返し、光の差し込むターフへと続く短いトンネルを歩き出した。
大歓声が、まるでボクの旅立ちを祝福するファンファーレのように響いている。
ここに来て、ウマ娘の闘争心と、おじさんの図太さが、今度こそ完璧に一つに溶け合っていた。
「さあ、見たこともない景色を探しに行こうか」