ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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デビュー戦、そして

 ゲートが開く音と共に、十数人のウマ娘が一斉にターフへ飛び出した。

 

 ボクは周囲の熱狂に呑まれることなく、するりと集団の後方へポジションを下げた。まずは様子見だ。おじさんの経験則が「長旅の序盤はペースを乱すな」と告げているし、何より、前方を走るライバルたちの動きをじっくりと観察する余裕があった。

 

 ターフを蹴る足は、自分でも恐ろしいほどに十二分に動いている。

 

 風を切る音に混じって、前方を走る他のウマ娘たちの荒い呼吸や、焦りの混じった足音がはっきりと聞こえてきた。自転車狂のトレーナーと追い込んだあの狂気のトレーニングに比べれば、この程度のペース、ただの散歩道みたいなものだ。

 

 そして、勝負所の最終コーナー。

 

 インコースに殺到する集団を見ながら、ボクは冷静に足元のコンディションを分析した。前日の雨の影響か、それとも前のレースで荒らされたのか、コーナーの出口付近のバ場が少し悪く、ぬかるんでいる。

 

「……ふむ。だが、今のボクなら」

 

 小柄で軽量なボクの身体なら、この程度の悪路に足を取られることはない。それに、あの佐久の小料理屋で米袋を担ぎ、山道の酷道で、そしてトレーナーと共に鍛え上げた今のボクのパワーなら、強引に踏み切れる。

 

「いけるッ!」

 

 ボクは大外へ持ち出し、温存していたハイオク・エンジンを一気に全開にした。

 

「――っ!」

 

 直線に入り、先頭を走っていたウマ娘と完全に並ぶ。

 

 そこからは、互いの意地と意地がぶつかり合う、壮絶な叩き合いになった。火花が散るような並走。肺が焼け付くような熱。だが、不思議と苦しくはなかった。あの日本海の海岸線で、ロードバイクと意地を張り合った時のあの熱風が、ボクの背中を力強く押してくれている気がした。

 

「もらったァッ!」

 

 ゴールラインの直前。ほんの僅か、ボクの足が前へ出た。そのまま、歓声の壁を突き破るようにして、トップでゴール板を駆け抜ける。

 

 デビュー戦、勝利。

 

 スピードを落とし、ゆっくりと息を整えながらコースを回る。やがて、先ほどまで壮絶な叩き合いを演じていた2着のウマ娘が、肩で息をしながらボクの隣に並びかけてきた。

 

 ボクが自然な動作で右手を差し出すと、彼女も悔しさを飲み込み、力強くその手を握り返してきた。

 

「……やっぱり、アナタは速かったわね」

 

 彼女は息を切らしながらも、どこか清々しい顔で笑った。

 

「いつも不真面目で、フラフラとどこかへ行っちゃう不良生徒だったのに。ちょっとずるいわよ」

 

「ははっ、手厳しい皮肉だね」

 

 ボクは握手をしたまま、少しだけ照れくさそうに笑い、そして堂々と胸を張った。

 

「でもね。最近、とびきり腕のいい相棒ができてね。彼女のチューニングのおかげさ」

 

 それを聞いた彼女は、一瞬きょとんとした後、「ふふっ」と吹き出した。ボクもつられて笑い声を上げる。

 

 激闘の直後、ターフの上で互いの健闘を称え合い、笑い合う。

 

 それは、おじさんの魂がずっと求めていた、どこまでも純粋で熱い「旅の醍醐味」のワンシーンそのものだった。

 

 

 その日の夜。

 

 学園近くの賑やかな焼肉屋(もちろん、トレーナーの奢りだ)の個室で、ささやかな祝勝会が開かれていた。網の上で豪快に肉が焼ける音をBGMに、集まった面々がウーロン茶の入ったグラスを打ち合わせる。そこには専属メカニックであるトレーナーだけでなく、ゴルシとジャーニーの姿もあった。

 

「まずはデビュー戦勝利、本当に一安心です。……アネゴが途中でコースを外れて、どこかへ旅立ってしまわないか少しだけヒヤヒヤしていましたが」

 

 ジャーニーがグラスを傾けながら、ホッとしたような溜息を吐く。

 

「本当本当! ま、アタシはハナからステゴが勝つって信じてたけどな!」

 

 ゴルシは山盛りのカルビを白米と一緒に掻き込みながら、得意げにふんぞり返った。すると、ジャーニーがグラスを置き、少しだけ意地悪く目を細める。

 

「あら。でも最後の直線、珍しく大声で叫んでらっしゃいましたよね? 周りの観客が驚くほどの声量で」

 

「……ッ! う、うっせぇよジャーニー! 焼肉食うのに集中しろや!」

 

 図星を突かれたゴルシは顔を真っ赤にしてそっぽを向き、慌てて網の上の肉をひっくり返し始めた。相変わらずの二人のやり取りがおかしくて、ボクはたまらず声を上げて笑った。

 

「はははっ! ゴルシもジャーニーも、本当にありがとう。君たちが応援してくれていた声、ターフの上までしっかり届いていたよ」

 

 ボクがそう告げると、二人は少し照れくさそうに、けれど嬉しそうに微笑んだ。網の上の火が落ち着き、個室の中に一瞬の静寂が落ちる。ボクは手元のグラスをテーブルに置き、それから、真っ直ぐに二人の顔を見据えた。

 

「でもね。ここからだ」

 

 いつも飄々としている『おじさん』の声音ではない。口から出たのはターフの熱を知り、勝利の味を知り、ウマ娘としての本能を完全に目覚めさせた、一人の勝負師としての声だ。

 

「可愛い後輩たちに、いつまでもカッコ悪いところは見せられないからね。……時間がかかっても」

 

 ボクは、自らの胸に手を当てた。そこにあるのは、風を愛するおじさんの魂と完璧に一つに溶け合った、熱く誇り高い黄金の闘争心。

 

「『私』は必ず、G1を獲って凱旋してみせるよ」

 

 あえて使った「私」という一人称。それは、ステイゴールドというウマ娘としての、確固たる決意の表明だった。

 

 その力強い宣言を聞いて、ゴルシはニヤリと笑って親指を立て、ジャーニーは深く、敬意を込めて頷いた。

 

 そして、テーブルの端。ジョッキを片手に腕を組んでいたトレーナーは、何も言わずに、ただ底知れぬ期待と最高の相棒への信頼を浮かべた顔で、満足そうに深く頷いていた。

 

 どこまでも続く長い旅路。

 

 時に寄り道をしながら、時に泥臭く、けれど誰よりも熱く最高速で駆け抜ける『私』たちの旅は、今、本当の意味で幕を開けたのだ。

 

 

 あの熱狂のデビュー戦から、季節は少しずつ進んでいった。

 

『ステイゴールドが、今日も真面目に学園のコースで汗を流している』

 

 最初は学園の七不思議のように扱われていたその光景も、数ヶ月が経つ頃にはすっかりトレセン学園の「当たり前の日常」として定着し始めていた。

 

 相変わらず気の向くままにふらりと短い旅に出ることはあるけれど、必ず指定された時間にはトレーニングに戻ってくる。あの自転車狂のトレーナーと、限界までエンジンを追い込む充実した日々。

 

 おじさんの魂にとっても、ウマ娘としての本能にとっても、それは最高に楽しく、やり甲斐のある「旅」の続きだった。

 

 ……ただ、勝負の世界はそう甘くはない。

 

 デビュー戦の勝利の後、ボクたちは勇んで次のレースへと駒を進めた。

 

 仕上がりは悪くなかった。身体も軽く、トレーナーの立てた作戦も完璧に近かったはずだ。けれど、いざコースに出てみると、あと一歩、本当にあと数センチが届かない。

 

 二戦目、三戦目と、掲示板には載るものの「勝ちきれない」もどかしいレースが続いた。気づけば春を過ぎ、夏も過ぎたころ。

 

 迎えたレースは、『阿寒湖特別』。

 

「……ふうっ」

 

 北の大地の冷涼な空気を肺いっぱいに吸い込み、ボクは芝を蹴った。

 

 『阿寒湖』という旅情をそそる名前に、おじさんの魂が少しだけ疼いたけれど、今は観光気分の入る隙間はない。これ以上、あのメカニックに悔しい顔をさせるわけにはいかないのだ。

 

 道中は中団でじっと息を潜め、勝負所で一気にスロットルを開放する。

 

 泥臭く、執念深く、前の背中を追い詰める。ゴール前での熾烈な競り合いの末、ボクはハナ差でトップに踊り出た。

 

「――っしゃあ!!」

 

 ゴール板を駆け抜けた瞬間、コース脇からトレーナーの張り裂けんばかりの叫び声が聞こえた。

 

 デビュー戦以来の、待ちに待った勝利だった。

 

 

 レース後。

 

 夕暮れ時の控室で、すっかり静かになった空間の中、トレーナーはスポーツドリンクのボトルをボクに手渡しながら、深く、本当に深く息を吐き出した。

 

「……良かった。本当に、一安心だよ」

 

 いつもは豪快に笑う彼女が、パイプ椅子に深く腰掛け、少しだけ疲れたように天井を見上げている。

 

「勝たせてあげられなくて、ごめん」

 

 元プロアスリートとしての自信に満ち溢れていた彼女の口から漏れた、初めての弱音。

 

「君のその脚とエンジンなら、クラシック前には絶対に勝たせてあげられる。クラシック……ダービーに挑戦できるって信じてたのに……私のチューニングと、レースの組み立ての知識が、まだ全然足りないや」

 

 彼女は情熱でここまで突っ走ってきたけれど、トレーナーとしてはまだ「新人」なのだ。ボクが勝ちきれなかった数戦、彼女は夜を徹してデータと睨み合い、自分の指導を責め続けていたのだろう。

 

「……そんなことないさ」

 

 ボクはスポーツドリンクで喉を潤し、手にしたタオルを首にかけながら、静かに告げた。

 

「あの競り合いで最後に踏み切れたのは、間違いなくあんたが組んでくれたハードなメニューのおかげだ。あんたのチューニングは間違ってない。ボクが保証するよ」

 

 ボクが真っ直ぐに見つめてそう言うと、彼女は少しだけ目を見開き、それから

 

「……ありがと。本当に、君には助けられてばかりだね」」

 

 と、照れくさそうに鼻の頭を擦った。

 

「お互い様さ。……それに」

 

 ボクは自分の掌をじっと見つめた。ただの現実逃避だった気ままな一人旅。それがいつの間にか、こんなにも熱く、誰かと情熱を共有する旅に変わっている。

 

 彼女がボクの才能を信じて、自分の人生のレールを切り替えてまで隣に立ってくれたこと。その真っ直ぐな期待が、心地よい「重圧」となって、ボクの背中を押している。

 

(……やれやれ。おじさんの気ままな一人旅のつもりだったんだけれどね)

 

 誰かの夢を背負い、誰かと共に勝利を分かち合う。その責任の重さは、決して嫌なものではなかった。むしろ、このピーキーなエンジンをさらに熱く燃やすための、最高のスパイスだ。

 

「さあ、学園へ帰ろうか、トレーナー。次の旅の計画……いや、レースの作戦を練らなきゃいけないからね」

 

 ボクが手を差し出すと、トレーナーはいつもの太陽のような笑顔を取り戻し、その手を力強く握り返して立ち上がった。

 

 二人三脚の泥臭い旅は、まだ始まったばかりだ。

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