ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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勝利の小旅行

 阿寒湖特別での勝利から数日後。

 

 いつものようにトレーニングを終え、トレーナー室で一息ついていた時のことだ。

 

「ねえ、トレーナー。今回の勝利記念に、少し旅行に行かないかい?」

「……旅行?」

 

 パイプ椅子に深く腰掛け、スポーツドリンクを傾けながらボクが提案すると、タブレットで次走のデータと睨み合っていたトレーナーがピタリと手を止めた。

 

「いや、気持ちはわかるけど……勝ったばかりだし、今はしっかり休養を取って、次のレースに向けたローテーションを固める時期じゃないかな? ステゴの脚に負担をかけるわけにもいかないし」

 

 プロアスリートとしての経験がある彼女らしい、もっともな意見だ。けれど、今回ばかりはボクも引くつもりはなかった。

 

「もちろん、無茶なスケジュールにするつもりはないよ。美味しいものを食べて、綺麗な景色を見るだけの、純粋な『観光』さ」

 

 ボクは空になったボトルを机に置き、少しだけ声を潜めた。

 

「それに……ちょっと、あんたに話しておきたいこともあるしね」

「私に、話?」

 

 トレーナーが不思議そうに首を傾げる。

 

「そう。学園の壁の中じゃあ、どうにも窮屈で話しづらい内容でね。……ボクという、ひどくピーキーなマシンの『根幹』に関わることだよ」

 

 ボクが意味深にそう告げると、彼女はタブレットを机に置き、腕を組んで少しの間考え込んだ。彼女の勝負師としての直感が、ボクの言葉の裏にある「ただごとではない気配」を嗅ぎ取ったのだろう。数秒の沈黙の後、彼女は観念したように息を吐き、ニッと笑った。

 

「……わかった。ステゴがそこまで言うなら、ただのワガママじゃないんだろうね。専属メカニックとして、相棒のメンテナンス旅行に付き合うのも仕事のうちだ」

 

「助かるよ。話のわかる大人で良かった」

 

「それで、どこに行くつもり? 君のことだから、またとんでもない山奥とか、サバイバルみたいな場所じゃないでしょうね?」

 

 警戒するトレーナーに、ボクはふふっと笑って首を横に振った。

 

「安心していいよ。今回はちゃんと文明の利器を頼るし、美味しいご飯も約束する。……行き先は、静岡方面さ」

 

「静岡? 海沿いに出るのね。いいじゃない」

 

「ああ。綺麗な茶畑があって、海産物も美味い。それに、海沿いの道は風を切りながら走るには最高のロケーションだからね」

 

 ボクの中のおじさんの魂が、久しぶりの遠出の予感に小さく歓声を上げているのがわかった。学園での生活も、ターフでの熱い勝負も素晴らしいけれど、やはり時々は知らない土地の空気を吸わなければ、この錆びついた心はすぐに窮屈になってしまう。

 

 それに、ボクが勝ちきれなかった数戦で、彼女がどれだけ自分を責め、無理をしてデータを集めていたかを知っている。この旅行は、ボクからのささやかな「慰労」でもあるのだ。

 

「よし、決まりだ。スケジュールの調整と宿の手配はこっちでやっておくから、あんたは美味しいものを食べる胃袋の準備だけしておいてくれ」

 

「ふふっ、期待してるよ、ステイゴールド」

 

 こうして、ウマ娘とトレーナーという肩書きを少しだけ横に置き、ボクたちは勝利の余韻を連れて、静岡方面への短い旅に出ることになった。

 

 

「さて、着いたね」

 

 新幹線を降り静岡駅の改札を抜けたところで、ボクは大きく伸びをした。

 

 隣では、大きな輪行袋(自転車を分解して収納する専用のバッグ)を抱えたトレーナーが、ウズウズした様子で足踏みをしている。

 

「よしっ、手早く組み立てちゃうね! ステゴ、準備運動はバッチリ?」

「もちろんさ。いつでもいけるよ」

 

 駅前の広場の隅で、あっという間に最新鋭のロードバイクを組み上げたトレーナー。

 

 彼女がピチッとしたサイクルジャージにヘルメット姿でロードバイクに跨り、その真横に普段着にランニングシューズというラフな格好のウマ娘が並んで立つ。通りがかった駅員さんや一般の観光客が「……なんだあの奇妙な組み合わせは?」と目を丸くして見ているのがわかった。

 

「それじゃあ、まずは海沿いを目指して……出発!」

 

 トレーナーのペダルを踏み込む合図と共に、ボクたちはアスファルトを蹴って走り出した。市街地を抜け、潮の香りが色濃くなってきたところで、最初の目的地である久能山東照宮の石段の下へと到着した。

 

「ふう。ここから先は、流石に二輪車じゃ無理だね」

 

 1000段以上あるという長い石段。

 

 自転車を安全な場所に地球ロック(固定)したトレーナーと共に、ボクたちは息を弾ませながらその石段を駆け上がっていった。極限まで鍛え上げられたボクたちの脚なら、こんな階段はちょっとしたウォームアップにすぎない。

 

 やがて、色鮮やかで荘厳な極彩色の御社殿が目の前に現れた。

 

「……見事なものだね」

 

 ボクは少しだけ目を細め、静かに手を合わせた。

 

「ボクの実家は北関東の方だから、日光の東照宮なら庭みたいなものだけれど……。あちらの煌びやかな御社殿のルーツが、この駿河の海を見下ろす場所にあったとはね。なんだか、ひどく感慨深いよ」

 

「へえ、実家あっちなんだ。なら、家康公に縁があるね」

 

 トレーナーが隣で手を合わせながら、感心したように頷く。夏の海風が、御社殿の木々をざわめかせて通り抜けていった。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

 ボクは、風に揺れる木々の葉を見上げながら、ポツリと口を開いた。

 

「この間、ボクというピーキーなマシンの『根幹』に関わる話があると言っただろう?」

「うん。聞いてるよ」

「ボクにはね、記憶があるんだ」

 

 ボクが静かにそう告げると、トレーナーは不思議そうに首を傾げた。

 

「記憶?」

 

「ああ。このウマ娘としてのステイゴールドの記憶とは別に……別の世界で生きていた人間の記憶がね。しかも、一つじゃない。いくつもの記憶が、この頭の中で同居しているんだ」

 

 それは、ジャーニーたちにも話した「バイク好きでちょっと枯れたおじさん」の記憶だけではない。時には銀河の歴史を紡ぐ軍人のように、時には紅茶を優雅に嗜む人間のように、幾つもの「顔」と「人生」の破片が、ボクという存在の奥底に静かに沈殿している。

 

 荒唐無稽すぎるカミングアウトだったことだろう。けれど、トレーナーは驚いて声を上げることもなく、ただ真っ直ぐにボクの目を見つめ返していた。

 

 

 色鮮やかな彫刻が施された社殿を見上げながら、ボクはゆっくりと口を開いた。

 

「まず、『ステイゴールド』としての私、だな。色んな世界というか……並行世界のようなものかもしれない」

 

 ボクは視線を社殿から、はるか眼下に広がる駿河の海へと移した。

 

「四つ足の獣のような姿で、ただひたすらに前を向いて走っていたような記憶もあったし。このウマ娘として、かつて別のトレーナーと共に、あの『黄金世代』の連中と泥臭く競い合った記憶もある」

 

「記憶……?」

 

 トレーナーは、まるで狐につままれたような顔で目を瞬かせた。無理もない。科学的なトレーニングと己の肉体を信条とする彼女にとって、輪廻転生や並行世界のような話は、あまりにも現実離れしているだろう。

 

「ああ。で、あとは更に一人……『人間の男』の記憶もある。実家が北関東にあって、二輪車と自由を愛する、ちょっと枯れたおじさんの記憶がね」

 

 ボクは自嘲気味に笑って、自分の胸のあたりをトントンと軽く叩いた。

 

「本来のウマ娘である『私』自身には何の関係もないただの人間の記憶なんだけれど、これがなかなかに厄介でね。物事の考え方とか、妙に渋い嗜好とか、すっかりそのおじさんの影響を受けてしまっているんだ」

 

 海から吹き上げる風が、ボクの髪を大きく揺らす。

 

「言葉も通じない獣のような闘争心も、黄金世代と戦い抜いたウマ娘としての誇りも、宇都宮のおじさんの枯れた感性も。……今の『ボク』は、その色んなものがごちゃ混ぜになって、ここに立っているんだよ」

 

 理解を強要するつもりはない。ただ、これからボクの「専属メカニック」として共に頂点を目指す彼女には、ボクというマシンの構造がいかに複雑で、いかに奇妙な部品で成り立っているかという「事実」だけは、伝えておきたかったのだ。

 

 ボクが淡々と語り終えると、トレーナーは口元に手を当てたまま、じっと静かにボクの瞳の奥を見つめ返していた。

 

 

「じゃあ、ほかの世界線では、すごく活躍したこともある、ってこと?」

 

 真剣な顔で耳を傾けていたトレーナーが、少しだけ首を傾げて尋ねてきた。

 

「まぁね。記憶の上では、だけど。ずっと泥臭く負け続けた世界もあるし、無敗のまま頂点に立ち続けた世界もある。ただ……」

 

 そこで、ボクは言葉を区切った。潮風が二人の間を吹き抜けていく。

 

「……ただ?」

 

 続きを促す彼女の顔を見て、ボクはたまらず、ニヤリと悪戯っぽく口角を上げた。

 

「あんたには、初めて会った。どの記憶を探しても、あんたの姿はないんだよ」

 

「えっ」

 

「まさか、旅先でたまたま出くわして並走したからって、仕事を辞めてまでここまで追ってくるなんてね。プロの競輪選手って言ったら、それなりにお金も稼げるだろうし、何より並大抵の努力じゃ届かない、あんた自身の『夢』だったはずだ」

 

 ボクは社殿の鮮やかな彫刻から視線を戻し、目の前に立つ彼女の、勝負師特有の爛々とした瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「その夢をあっさり捨てて、ウマ娘のトレーナーなんて未知の世界に飛び込んでくる。……そんな突き抜けた大バカ、他のどの世界にも、どんな記憶の中にもいなかったよ」

 

 呆れと、そして最大限の敬意と親愛を込めて笑いかけると。

 

 ぽかん、と。トレーナーは一瞬だけ、本当に間の抜けた顔をして瞬きをした。自分が「大バカ」と言われたこと、そしてボクがどれだけ呆れているのかを、頭の中で処理しているようだった。

 

 そして、次の瞬間。

 

「――っ、あははははっ!!」

 

 境内の静寂を打ち破るような、太陽みたいにカラッとした大音量の笑い声が響き渡った。彼女はお腹を抱え、涙目になりながら笑っている。

 

「いやあ、確かに! 傍から見たらどう考えても大バカだよね、私!」

「自覚があったのかい」

「あるある! 競輪界の先輩たちからも『頭おかしくなったのか』って散々怒られたしね!」

 

 彼女はひとしきり笑い転げた後、目元を拭いながら、まるで子供が宝物を自慢するような、無邪気で誇らしげな笑顔をボクに向けた。

 

「でも、あはは! 仕方ないじゃない!」

 

 彼女はボクの肩を、バァンと遠慮のない力で叩いた。

 

「だって、一目惚れしちゃったんだからね! あの海岸線で、君のその規格外の走りにさ!」

 

 理屈も、並行世界も、前世の記憶も関係ない。ただ純粋に「速さ」に魅了され、魂が惹かれ合ったという、どこまでもシンプルで強烈な事実。

 

 そのあっけらかんとした眩しい笑顔を見ていると、ボクの中にあった「自分は何者なのか」という複雑な感傷すら、なんだかひどく些細でちっぽけなものに思えてきた。

 

「……ははっ、敵わないな。あんたみたいな最高の大バカに見初められたのは、きっと、この世界にいる『私』だけの特権なんだろうね」

 

「そうだよ! 私という最強のメカニックがついているんだから、他のどの世界のステイゴールドよりも、君を速くしてあげる! 約束する!」

 

 駿河の海を見下ろす東照宮。数奇な運命と記憶を背負ったウマ娘と、全てを捨てて彼女を選んだトレーナーは、青空の下で腹の底から笑い合った。

 

 ボクは色々混ざってここにいる。

 

 けれど、隣にこの最高にイカれた相棒がいる「今のボク」が、一番面白くて、一番速い。その確信だけが、心地よい熱となって胸の奥で静かに燃え上がっていた。

 

 

 久能山東照宮を後にし、海沿いの風を切りながらボクたちが向かったのは、世界遺産にも登録されている名勝、三保松原だった。

 

 何万本もの古い松の木が連なる緑のトンネルを抜け、波打ち際へと出る。ザパーン、と心地よい波の音が響く。白波が寄せる広大な砂浜の向こう、海の果てには、富士山が雄大にそびえ立っていた。

 

 自転車を降りたトレーナーが、ヘルメットを脱いで海風をいっぱいに吸い込み、感嘆の声を上げた。

 

「わあ……っ! すごい絶景 浮世絵で見たまんまだね!」

 

 ボクも松の古木に寄りかかり、目を細めてその景色を眺めた。おじさんの記憶の中にある、テレビの画面や旅行雑誌のグラビアで何度も見た景色。けれど、こうして自分の足で立ち、肌で潮風を感じながら見るそれは、全く次元の違うものだった。

 

「……ステゴは、ここ、見たことあるの?」

 

 海を見つめていたトレーナーが、ふと振り返って尋ねてきた。

 

「ああ、記憶ではね。知識としてなら、この松の生い立ちから富士山の標高まで、それなりに語れるくらいには知っているよ」

 

 ボクは砂浜を一歩踏みしめ、寄せては返す波の音に耳を澄ませた。

 

「でも、やっぱり『生』は迫力が違う。海風のベタつく感触も、波の音の重さも、松の葉が擦れる匂いも。……この圧倒的なスケール感は、ここに来て、自分の五感で触れてみなければ絶対にわからないものだね」

 

 ボクがしみじみとそう語ると、トレーナーは少しの間ボクの顔を見つめ、やがてふわりと柔らかく微笑んだ。

 

「じゃあ……」

 

 彼女は、自分の愛車であるロードバイクのサドルをポンと叩いた。

 

「いくつも記憶があったとしても、色んなことを知っていたとしても。私と君でこれから挑む『トゥインクル・シリーズ』は、君にとって、まだ見たことのない『新しい旅』になる……よね?」

 

 その言葉に、ボクは一切の迷いなく、即答した。

 

「そりゃあそうさ」

 

 ボクは松の木から背中を離し、ニヤリと笑って彼女に歩み寄った。

 

「何かで見た、何処かで聞いた、本で読んだ。でも……、旅は始まってすらいないだろ?」

 

 己の足でターフを蹴り、肺を焼き切りそうなほど呼吸を繋ぎ、隣を走るライバルたちと熱い火花を散らす。そこで初めて得られる「極上の景色」を知ってしまったのだ。

 

「ボクたちの本当の旅は、これからだよ」

 

 ボクが力強く断言すると、トレーナーは嬉しそうに

 

「……うんっ!」

 

 と大きく頷いた。そして、互いの胸の奥で燃える同じ熱を確認するように、広大な海と富士山を前にして、二人して大きな声で笑い合った。

 

「さあ、そうと決まれば腹ごしらえだ! うかうかしてると日が暮れちゃうよ!」

「おや、もう行くのかい? どこへ?」

「決まってるでしょ! さらに西へ、浜松方面だよ! 浜名湖のウナギと、浜松餃子が私たちを待ってる!」

 

「……ははっ、本当にあんたは、色んな意味で燃費の悪いメカニックだな」

 

 呆れながらも、ボクの中のおじさんの魂は、これから味わうであろう絶品のウナギの想像に大いに歓喜していた。

 

「じゃ、先導する。遅れるなよ、トレーナー!」

「誰にモノを言ってるの!」

「上等ッ!」

 

 ボクたちは再びアスファルトを蹴り、駿河の海風を背に受けながら、次なる目的地である浜松の街へと向けて、爆速で駆け出していった。

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