トレセン学園に戻るなり、トレーナーは文字通り寝食を忘れて新しいトレーニングメニューの構築に没頭した。
スズキ歴史館で閃いた「アクティブサスペンション」の荷重移動と、カウルの空力抵抗を減らす前傾姿勢の理論。それをウマ娘の身体操作に落とし込んだ狂気のメニューは、ボクのピーキーなエンジンに見事に噛み合った。
「いけてる! ステイゴールド、その姿勢のままコーナーの立ち上がりで一気に解放して!」
ターフを蹴り、風を滑るように切り裂く。ゴール板を駆け抜けたボクのタイムを見て、手元のストップウォッチを握りしめていたトレーナーが「よしっ!」とガッツポーズを決めた。タイムは、以前の限界をはっきりと超えていた。
「ふう……」
息を整えながらコース脇へ戻り、タオルで汗を拭っていると、一部始終を見学していたジャーニーが静かに歩み寄ってきた。
「お疲れ様です、アネゴ。……驚きました。コーナーからの加速が、まるで別の生き物のように滑らかで鋭かった。それに、アネゴ自身の纏う空気も……」
ジャーニーはボクの顔をじっと見つめ、少しだけ首を傾げた。
「何か、良いことがありましたか?」
その鋭い観察眼に、ボクは思わず苦笑した。相変わらず、この妹分はボクの変化によく気がつく。
「まぁね」
ボクはスポーツドリンクのボトルを受け取りながら、少し離れたところでタブレットに猛烈な勢いでデータを打ち込んでいるトレーナーの背中に視線をやった。
「トレーナーと、少し近づけたかな」
「近づけた……?」
ジャーニーは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐにハッとしたように目を見開いた。彼女の視線が、ボクとトレーナーを交互に行き来する。
「もしや……アネゴ。話したのですか? その……アネゴの中にいる、『おじさん』のことを」
周りに他の生徒がいないことを確認して、ジャーニーが声を潜めて尋ねてきた。ボクはボトルを置き、誤魔化すことなく、静かに頷いた。
「ああ。旅行先の、駿河の海を見下ろす神社でね。ボクの中にある面倒な部品のこと、全部打ち明けてきたよ」
「彼女は……信じたのですか?」
「どうだろうね。でも、あの大バカなメカニックは、それすらも丸ごと受け入れて、ボクを速くするための燃料に変えてみせた。今日タイムが縮まったのもそのおかげさ」
ボクは首にかけたタオルの端を握り、ふっと息を吐き出して笑った。
「いつまでも、隠しておくもんじゃないでしょ。これから一緒に、誰も見たことのない極上の景色を見に行こうっていうんだ」
あの浜松の街で交わした、力強い握手の感触を思い出す。
「最高の相棒には、やっぱり『信頼』が大切だもんな」
ボクが真っ直ぐにそう語ると、ジャーニーは少しの間だけ驚いたように目を丸くし……やがて、心底安堵したような、とても穏やかで美しい微笑みを浮かべた。
「ええ。本当に……その通りだと思います」
秘密を共有する危うい旅路から、すべてを懸けて頂点を目指す、光の差す王道へ。
ボクの中にいるおじさんの魂も、ステイゴールドとしての本能も、今はただ一つの目標に向かって完璧に同期している。心地よい疲労感と、さらなる高みへの確かな手応えを感じながら、ボクはジャーニーと共に、残暑の熱い風が吹くターフをゆっくりと歩き出した。
■
ある日のこと。いつものようにトレーナーのロードバイクと並走して、広く開けた河川敷のサイクリングロードを流していた時のことだ。
「ねえ、そういえばさ、ステイゴールド」
心地よいペースでペダルを回しながら、トレーナーがふと思い出したように口を開いた。
「この前の静岡の神社で……『四つ足の動物だった記憶もある』って言ってたよね?」
「ん? ああ。言ったね」
「それも、レースをしてたの?」
「まぁね。ここのターフでのレースとは、かなり勝手が違うけれど」
ボクが答えながら風を切っていると、トレーナーは不思議そうに首を傾げた。無理もない。この世界には、そもそもボクの記憶にあるような『あの動物』が存在しないのだから。
「でもさ、動物ならレースなんて出来ないんじゃないの? ルールとかコース取りとか、どうやってたんだろ、それ?」
純粋な疑問符を浮かべるトレーナーに、ボクは少しだけ可笑しくなって肩をすくめた。
「ああ、いや。動物たちが勝手に走るわけじゃないんだ。……その獣の背中に人間が乗って、コントロールしながら走るのさ」
「……えっ!? 人間が、動物の背中に乗ってレースを!?」
トレーナーは驚きのあまり、危うくロードバイクのハンドルを取られそうになっていた。
「信じられないかい? でも、事実さ。乗り手である人間が手綱を握り、重心の移動と脚の合図で獣を操る。人と獣が完全に息を合わせて勝利を目指す……それがボクの記憶にある、もう一つのレースの形だよ」
「へえええーっ!!」
トレーナーの目が、一気に好奇心でギラギラと輝き始めた。
「それってどういう理屈なの!? 走る獣の背中の上で、人間はどうやってバランスを取るの!? 乗り手の重心移動はどうやって推進力に変換されるの!? 空気抵抗は!?」
「ストップ、ストップ。そんなに矢継ぎ早に聞かれても、走りながらじゃ説明しきれないよ」
圧倒的な熱量で食いついてくる「元自転車バカ」の相棒を苦笑しながら制止しつつ、ボクはふと、ちょっとした悪戯心を思いついた。知識や理屈で語るより、この手合いは身体で体感させてやるのが手っ取り早い。
「……そんなに興味があるなら」
ボクは少しだけ走るペースを落とし、ロードバイクと完全にスピードを同調させてから、トレーナーに向かってニヤリと笑いかけた。
「今から、ボクの背中に乗ってみるかい?」
「えっ?」
「百聞は一見にしかず、だ。ウマ娘の筋力なら、人間の大人一人を背負って走るくらい、造作もないことだしね。『あの日』の乗り手の真似事くらいなら、させてあげられるよ」
ボクが背中を向けるような仕草をしてそう告げると、トレーナーはパチクリと目を瞬かせた。そして次の瞬間、彼女の顔には、新しいおもちゃを与えられた子供のような、最高にワクワクした笑みが浮かんでいた。
■
トレーナーは安全な柵の近くにロードバイクを立てかけると、少しおっかなびっくりといった様子で、ボクの背中に乗ってきた。肩車とおんぶの中間のような形で、しっかりとボクの首元に腕を回し、背中にぴったりと体重を預けてくる。
「……ほんとに重くない? 私、これでも結構筋肉あるし、体重もそこそこ……」
「軽いよ。ウマ娘のパワーと足腰を甘く見ないことだね。荷物としても、米俵一つ分にも満たないくらいさ」
ボクが笑ってそう答えると、トレーナーは「米俵って」と呆れながらも、安心したように背中へ身を任せた。
「じゃあ、振り落とされないようにしっかり掴まってな。……軽く行こうか!」
ボクはグッとターフを踏みしめ、河川敷の直線を一気に蹴り出した。
――その瞬間だった。
『行けぇぇぇーーっ!!』
突如として、脳の奥底から鼓膜を突き破るような「地鳴り」が響き渡った。視界がぐにゃりと歪み、眼の前ののどかな河川敷の風景が、全く別の光景へと塗り替えられる。
巨大なスタンド。空を揺るがすような何万という大歓声。
四つ足の獣たちが荒々しい息遣いと共にひしめき合い、ターフの泥を跳ね上げながら極限の速度で駆け抜けていく、あの「ココではない場所」のレース場。
そして何より、背中から伝わってくる「人間の重み」と、ボクの意志と同期して手綱を操る、あの乗り手の確かな熱。
「――っ!?」
あまりにも鮮烈で、まるで今まさにその場にいるかのようなリアルなフラッシュバックに、ボクは思わず息を呑み、急ブレーキをかけるようにしてターフに両足を踏ん張って立ち止まった。
ザザッ! と土煙が上がり、風がピタリと止む。
「……はぁっ、……ふぅっ」
心臓が早鐘を打っている。おじさんの記憶がフラッシュバックすることは今までにもあった。けれど、今のビジョンはそれとは明らかに違う、脳に直接流れ込んでくるような強烈な「共有」の感覚だった。
そして、異変を感じたのはボクだけではなかった。
「……えっ……? なに、今の……」
ボクの背中に乗ったまま、トレーナーが呆然と呟く声が頭上から降ってきた。
ゆっくりと振り返り見上げると、彼女は驚きのあまり目を丸くし、さっきまでボクが見ていたのと同じ「虚空」を見つめたまま、固く息を呑んでいた。
背中越しの体温。重なる視界………。まさか。
ボクは少しだけ声を落とし、確信を持って尋ねた。
「……あんた、もしかして何か見えたのか?」
その問いに、トレーナーはハッとしてボクと視線を合わせ、それから、信じられないものを見てしまったとでもいうように、ゆっくりと、深く頷いた。
「うん……」
彼女はボクの肩を掴む手に少しだけ力を込め、震える声で言葉を紡いだ。
「あなたがいっぱい……ううん、あなたが走る、でも、ココではない場所。四本の足で、背中に人を乗せて……すごい熱気と、歓声の中で……」
それは間違いなく、ボクの中に眠っていたあの動物たちのレースの記憶だった。
「……やっぱりか」
ボクは小さく息を吐き出した。理屈なんてわからない。ただ、ボクの「記憶」と彼女の「乗り手としての才能」が、背中を合わせたこの物理的な接触をトリガーにして、一瞬だけ完全にリンクしてしまったのだろう。
おじさんの魂、ウマ娘としての闘争心、そして、ボクのすべてを「チューニングする」と誓ってくれた、この大バカで規格外なメカニック。ボクたちが交わした絆は、どうやらボクが思っていた以上に、深く、奇妙なところで繋がり始めているらしかった。
■
「……本当に、あったんだね」
背中の上で、トレーナーがぽつりとこぼした。その声には先ほどのパニックはすっかり消え去り、代わりに深い納得の響きがあった。
「静岡の神社で君が言っていた、いくつもの記憶。ただの比喩や夢物語なんかじゃない。君は本当に、あの熱狂の中で、誰かを背負って走っていたんだ」
「ああ。これでようやく、完全に信じてくれたかい?」
「疑ってたわけじゃないけど、あんな風に直接見せられちゃったら、もう認めるしかないよ」
彼女はボクの首元に回した腕をキュッと引き締め、ポンと額を押し当ててきた。ボクという存在の奥底にある「得体の知れないもの」を、恐れるどころか丸ごと受け入れてくれた、温かい感触だった。
そして、数秒の静かな余韻の後。
「――それはそうとして!」
「……おや?」
突然、背中の上のトレーナーがパッと顔を上げ、元気いっぱいの声を上げた。
「もっと走って、ステイゴールド! 今の加速、最高に気持ちよかった! ロードバイクで風を切り裂くのとは全く違う、生き物としての圧倒的な推進力っていうかさ! もっと体感させて!」
「……ははっ! あんたって人は、本当にブレないな」
常人なら、異世界のビジョンなんてものを見せられたら混乱して腰を抜かしてもおかしくない。それなのに、この大バカなメカニックは、
「それよりもっと走らせろ」
と来たもんだ。おじさんが感傷に浸る隙間なんて、一秒たりとも与えてくれないらしい。
「しっかり捕まっていなよ! 舌を噛んでも知らないからな!」
ボクは再びターフを蹴り上げ、新秋の陽気が心地よい河川敷を猛スピードで駆け出した。
今度は、フラッシュバックは起きなかった。
幻の歓声も、見知らぬターフの匂いもしない。ただ純粋に、青空の下で風を切る音だけが二人の耳を通り抜けていく。
「あはははっ! すごい、すごいよステイゴールド! 風の壁をぶち抜いてるみたい!」
ウマ娘の強靭な脚力が生み出す強烈な加速とGに耐えながら、背中の上のトレーナーは最高に楽しそうに口角を上げて笑っている。
「ほらほら! 姿勢が高いよ乗り手さん! もっと重心を低く、ボクの動きに合わせて!」
「こう!? わっ、視界が全然違う! 気持ちいい!」
人間を背負って走るという、この世界ではあり得ないはずの奇妙な光景。本来なら誰かを背負うような身体の構造をしていないはずなのに、背中から伝わってくる相棒の熱と、共に風と一体になるこの感覚は、ひどく自然で、決して悪くなかった。
「あはははっ! いいぞ、そのまま!」
ボクはまんざらでもない心地よさを感じながら、背中の相棒の無邪気な声に応えるように、大きな笑い声を上げて河川敷の直線を駆け抜けていった。
ボクの記憶のすべてを共有し、受け入れてくれた相棒と、こうして同じ風を感じて走る。
この最高にイカれた「二人三脚」の旅は、ここからますます面白くなっていきそうだ。