そして、季節はめぐり、秋。
次なる目標として定めた『京都新聞杯』のパドックで、ボクは思わず天を仰ぎ、小さく息を吐いた。
「……参ったな」
視線の先には、周囲に圧倒的な気迫を放っているウマ娘――マチカネフクキタルの姿があった。
ボクの奥底にある『記憶』が告げていた。今の彼女は、ちょっとやそっとの小細工では絶対に止められない「最強の時期」に突入していると。何かに取り憑かれたかのような、あるいは神がかったような彼女のピークの走りは、どんな理屈もデータも粉砕してしまうほどの爆発力を秘めている。
すると、こちらからの視線に気がついたフクキタルが、ツカツカと真っ直ぐに歩み寄ってきた。普段のどこかコミカルで慌ただしい彼女とは違う、凄みすら感じさせる真剣な瞳。
「負けませんよ、ステゴさん!」
彼女は力強く宣戦布告をしてきた。星の導きか、それとも彼女自身の絶好調の波がそう言わせているのか。その言葉には、一切の迷いがなかった。
ボクは少しだけ目を伏せ、内なるおじさんの顔を引っ込めて、熱く燃えるウマ娘としての『私』の顔を前に出した。
「ああ。私も負けないよ」
堂々と啖呵を切り返す。相手がどれだけ神がかった強さを持っていようが関係ない。ボクの背中には、人生のすべてを懸けてボクをチューニングしてくれた最高の相棒がついているのだから。
■
しかし。
勝負の世界は、どこまでも残酷で、だからこそ美しい。
「いっけぇぇぇ! ステイゴールドッ!!」
最終コーナー。トレーナーと特訓したあの「二輪車のサスペンションと空力」の理論を完璧に体現し、ボクはインから一気にバ群を抜け出した。ターフを掴み、空気を滑るように切り裂いて、先頭に踊り出る。脚は残っている。完璧な立ち上がりだった。
(もらった……!)
そう確信した、残り100メートル。突如として、背後から凄まじい風切り音が迫ってきた。
「――っ!?」
横目で捉えたのは、文字通り「飛ぶ」ような驚異的な末脚で外から襲いかかってきたマチカネフクキタルの姿だった。神がかった、という表現すら生ぬるい。全身のバネを限界まで弾けさせ、ただひたすらに前だけを見て突っ込んでくる無敵の走り。
「くっ、あああああッ!!」
ボクも歯を食いしばり、最後のハイオクを燃やし尽くして踏ん張る。だが、その絶対的な勢いの差は如何ともし難かった。
残り50メートル。
ボクの横を、フクキタルが弾丸のようにすり抜けていく。背中を追いかけ、手を伸ばし、けれどあと一歩だけ届かないまま、ボクは2着でゴール板を駆け抜けた。
■
レース後。
夕暮れが迫る控室で、ボクは首にタオルをかけ、スポーツドリンクのボトルを握りしめながら、パイプ椅子に深く腰掛けていた。完全に力を出し切った。作戦も、チューニングも完璧だった。
それでも、負けた。
「……悪い、トレーナー」
ボクは顔を上げず、ぽつりと呟いた。
「踏ん張れなかった。あんたの作戦は完璧だったのに」
おじさんの諦観ではなく、勝負師としての純粋な悔しさが胸をチクチクと刺す。すると、頭上からポン、と優しい手で頭を撫でられた。
「謝ることなんてないよ」
顔を上げると、そこにはいつものように、あっけらかんとした太陽のような笑顔を浮かべるトレーナーが立っていた。
「今回は、フクキタルが強かった。それだけ」
彼女の言葉には、慰めも、言い訳もなかった。ただ純粋に、相手の強さを認め、自分の相棒の走りを肯定するプロフェッショナルの響きがあった。
「あの状況で完璧に抜け出した君のコーナリング、最高に痺れたよ。私たちのやってきたことは絶対に間違ってない」
トレーナーはしゃがみ込み、ボクの目の高さに視線を合わせた。その爛々とした瞳の奥には、敗北の悔しさよりも、次なる闘いへの強烈な飢えが燃え上がっていた。
「でも、次は譲らない。……次の『菊花賞』は、もらいに行くよ。ステゴ」
迷いのない、力強い勝利への宣言。その熱に当てられて、ボクの中の悔しさも、あっという間に次への燃料として燃え上がり始めた。
「……ああ。言ってくれるね」
ボクはタオルで顔の汗を乱暴に拭い、ニヤリと不敵に笑って右手の拳を前に出した。
「もらうさ。ボクたち二人でね」
コツン、と。ウマ娘の拳と、二輪車ダコのある人間の拳が、静かに、けれど力強くぶつかり合う。
最強の好敵手の存在が、ボクたちのエンジンをさらに熱くさせる。おじさんの魂と規格外のトレーナーの、長くて泥臭い旅路。
最大の舞台である『菊花賞』に向けた本当の戦いが、今、幕を開けた。
■
菊花賞に向けた猛特訓が続く、ある日の夜。
学園の寮の自室で、ボクがベッドに寝転がって二輪車の雑誌をパラパラと捲っていると、向かいのベッドで謎の知恵の輪と格闘していたゴルシが、ふと手を止めてこちらを見た。
「……そういやアネゴ。最近、ふらっとどっかへ旅しないなー」
どこか退屈そうに、けれど少しだけ探るような声色でゴルシが言う。確かに、以前のボクなら、レースで負けた後や息が詰まった時には、ふらりと当てもなく一人で長距離を走りに行っていたものだ。
「ん? ああ、そういえばそうだね」
ボクは雑誌を閉じ、天井の蛍光灯を見上げた。
「まぁ、最近はレースが……というか、ウチのトレーナーが面白くてね。彼女と一緒に無茶なメニューをこなして、ああでもないこうでもないとチューニングを繰り返している日々が、今は一番の『旅』みたいなもんさ」
一人で知らない土地へ行くのも悪くない。けれど、あの規格外の自転車バカと共に未知の速度(けしき)を目指して試行錯誤する泥臭い道のりは、それ以上にボクのおじさん魂をワクワクさせてくれるのだ。
ボクがそう笑って答えると、ゴルシは知恵の輪をベッドに放り投げ、あぐらをかいた膝に肘を突いて、少しだけバツが悪そうにそっぽを向いた。
「……ま。アタシとしちゃあ、アネゴが学園にちゃんと居てくれるのはうれしいけ、ど」
いつもは破天荒で素直じゃない彼女の口から飛び出した、らしくない本音。頬が少しだけ赤くなっているのを見て、ボクはたまらなく愛おしくなり、ベッドから身を起こして彼女の隣に歩み寄った。
「おや」
「な、なんだよ」
ボクはポンと手を伸ばし、照れ隠しでジロリと睨んでくるゴルシの頭を、ワシャワシャと優しく撫で回した。
「可愛い奴め」
「っ! や、やめろや! 子供扱いすんじゃねー!」
ギャーギャーと騒ぎながらも、本気でボクの手を払いのけようとはしないゴルシを見て、ボクは声を上げて笑った。
最高の相棒と、こんな風に慕ってくれる可愛い後輩たち。
ただの現実逃避だったおじさんの気ままな一人旅は、いつの間にかこんなにも賑やかで、居心地の良いものになっていた。この温かい「帰る場所」があるからこそ、ボクは次の大舞台で、誰よりも速く、誰よりも鋭く駆け抜けることができるのだ。
■
「なりふり構っていられるような相手じゃないからね。……ゴルシ、ジャーニー。ボクの特訓に付き合ってくれないか」
翌日からのトレーニング。ボクはプライドも何もかもを投げ打って、可愛い後輩たちに頭を下げた。
「あのフクキタルの神がかった末脚を封じるには、もっと圧倒的なプレッシャーの中で限界を引き出す必要がある。お前たちの力を貸してほしい」
ボクが頼み込むと、ゴルシはニカッと歯を見せて笑い、ジャーニーは静かに、けれど熱い闘志を秘めた瞳で頷いた。
「へっ! 言われるまでもねーよ! アタシの無尽蔵のスタミナで、ステゴの尻に火をつけてやるから覚悟しな!」
「喜んでお付き合いしますよ、アネゴ。私の小回り機動が、アネゴのコーナリングの良き指標になれば」
かくして、トレセン学園のターフに、異様な光景が展開されることになった。
前方をジャーニーが鋭いコーナリングで塞ぎ、後方からはゴルシが規格外のスタミナで怒涛のプレッシャーをかけてくる。その間に挟まれながら、ボクはトレーナーの指示のもと、新しい空力姿勢とサスペンション理論を極限まで叩き込んでいく。
「ステイゴールド! もっと姿勢を低く! ゴルシのプレッシャーをエンジンの回転数に変えて!」
「言われなくてもッ……!」
息も絶え絶えになるような、文字通りの死闘の特訓。しかし、その強烈な熱量は、トレセン学園の空気を確実に震わせていた。
そして、その熱に最も強く当てられたのは、他でもない。最大のライバルであるマチカネフクキタルだった。
『――シラオキ様も仰っています。今のステゴさんに勝つには、私自身もさらに限界を超えなければならないと……!』
コースの反対側。
ボクたちの鬼気迫る特訓を目にしたフクキタルは、ただ水晶玉に祈るだけでなく、自らの脚をさらに研ぎ澄ます行動に出た。
彼女が併走の相手に選んだのは、学園最速の逃げを誇るサイレンススズカだった。
「スズカさん! 私と、全力で併走をお願いします!」
「……ええ。いいわよ、フクキタルさん」
スズカの異次元のスピード。それに必死に食らいつき、あの驚異的な末脚をさらに磨き上げようとするフクキタルの姿は、まさに鬼気迫るものがあった。
ボクたちの熱がフクキタルに延焼し、その炎がさらにボクたちの闘争心を煽る。
「……ははっ、最高じゃないか。どいつもこいつと、イカれてる」
夕暮れ時のターフ。
汗だくになって膝に手をつきながら、遠くでスズカと叩き合っているフクキタルを見て、ボクは思わず笑みをこぼした。おじさんの枯れた魂なんて、とっくの昔にどこかへ吹き飛んでしまった。今はただ、純粋なウマ娘としての闘争心と、このヒリヒリとするような勝負の気配がたまらなく心地よかった。
「ステイゴールド、水。……いい顔になってきたね」
トレーナーがスポーツドリンクのボトルを差し出しながら、ニヤリと笑う。
「ああ。最高のエンジンと、最高のメカニック、そして最高のライバルが揃っているんだ。これ以上ないくらいに仕上がっているよ」
秋の深まりとともに、木々の葉が色づき始める。
淀のターフを舞台にした、一生に一度の大勝負。極限まで熱を帯びた空気の中で、いよいよ『菊花賞』の足音が、すぐそこまで迫っていた。