ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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菊花賞―秋の夜長

 そして迎えた、淀の3000メートル。

 

 クラシック三冠の最終戦にして、最も強いウマ娘が勝つと言われる『菊花賞』の大舞台。

 

 ゲートが開く直前、大歓声の地鳴りの中で、ボクは密かに胸の内で息を吐いた。

 

(……ここで獲れば、歴史が変わる)

 

 ボクの脳裏に沈殿している、泥臭く善戦し続けた「私」の記憶。勝ちきれなかったいくつもの世界の運命を、この手で、いやこの脚で完全に塗り替えることができるのだ。

 

「……ふぅっ!」

 

 ゲートが開き、ターフへと飛び出す。長距離の道のりは、さながら過酷な長旅だ。しかし、今のボクにはゴルシの無尽蔵のスタミナに食らいつき、ジャーニーの鋭い機動力を追いかけた、あの血の滲むような特訓の日々がある。

 

 道中、折り合いをつけながら息を潜め、勝負所の最終コーナーでスロットルを全開にする。

 

「いけぇぇぇ! ステイゴールドッ!!」

 

 コース脇からのトレーナーの絶叫。研ぎ澄ませたサスペンション理論と、空気を切り裂く前傾姿勢。ボクはインコースから滑るように集団を抜け出し、一気に先頭へと躍り出た。大歓声が、ボクの背中を押す爆風に変わる。

 

(もらった……!)

 

 そう確信した、その時だった。

 

「――シラオキ様ぁぁぁッ!!」

 

 凄まじい気迫と共に、外から猛烈な勢いで追いすがってくる影。マチカネフクキタルだ。スズカとの死闘で極限まで磨き上げられた、まさに神がかり的な末脚。

 

「くそっ、させるかァッ!」

 

 ボクも歯を食いしばり、残されたすべての燃料を爆発させる。肩がぶつかり合うような並走。火花が散るようなデッドヒート。互いの意地と意地、執念と執念が完全にぶつかり合い、どちらが一歩も譲らないまま、二人の影は重なるようにしてゴール板を駆け抜けた。

 

 

 レース後。

 

 ターフの中央で、息を整えながら電光掲示板の「写真判定」の文字を見つめる。肺が焼け焦げそうに熱い。すべてを出し切った。これで負けたら、もうどうしようもないというくらいに。

 

「ステゴさん!」

 

 横を見ると、肩で息をしながらも、マチカネフクキタルが満面の笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってきた。彼女の瞳には、一切の淀みも、悔いもない。ただ純粋に、全力をぶつけ合った好敵手への敬意だけが輝いていた。

 

「ステゴさんは、やっぱり強いです! 最高に熱いレースでした!」

 

 彼女の屈託のない笑顔に、ボクの中にあったヒリヒリとした緊張感がスッと解けていくのを感じた。

 

「ははっ……。まったく、お前も――」

 

『お前もだ』

 

 そう言いかけて、右手を差し出そうとした、まさにその瞬間だった。

 

『――1着、マチカネフクキタル!!』

 

 実況の絶叫と共に、電光掲示板の最上段に、フクキタルの名前が燦然と灯った。ほんの数センチ、いや数ミリの差。勝利の女神は、神がかった彼女の末脚に微笑んだのだ。

 

 ボクは、差し出しかけた右手をそっと下ろし、空を見上げて、ふっと短く息を吐いた。歴史を変えることは、またしてもお預けらしい。

 

「……ははっ。手が付けられない末脚だな、ほんと」

 

 負け惜しみでもなんでもない、心からの称賛。ボクは呆れたように笑い、そして、今度こそ真っ直ぐに彼女へと右手を差し出し、その勝利を祝福した。

 

 

 菊花賞の熱狂が嘘のように静まり返った、その日の夜。

 

 学園のトレーナー室で、ボクとトレーナーは温かいお茶を挟んで、静かに向かい合っていた。

 

 敗北の悔しさはある。けれど、不思議と悲壮感はなかった。すべてを出し切り、限界を超えた先で味わった敗北は、次なる旅への強烈な推進力にしかならないと、二人とも肌で理解していたからだ。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

 ボクは湯呑みを両手で包み込みながら、ぽつりと口を開いた。

 

「静岡の神社で話した、ボクの中のいくつもの記憶のことだけれど」

「うん」

「今のボクたちの戦績と重ね合わせた時、一番可能性が濃いだろうなっていう記憶があるんだ」

 

 ボクが静かにそう告げると、トレーナーは姿勢を正し、真っ直ぐにボクの目を見た。

 

「それは……ここから『6年の間、まともな勝ち星がない』という記憶だ。ひたすらに泥臭く、あと一歩が届かないまま、負けて、負けて、それでも走り続けるという……果てしなく長く苦しい旅の記憶さ」

 

 室内が、シンと静まり返る。

 

 アスリートにとって、「勝てない」という期間がどれほどの苦痛と絶望を伴うものか、元プロである彼女なら痛いほどわかるはずだ。

 

「ただ……」

 

 ボクは湯呑みから視線を上げ、悪戯っぽく、けれど強い意志を持って口角を上げた。

 

「その記憶が、最後にどんな結末を迎えるか。それだけは、あんたには教えないでおくよ」

 

 あらかじめ用意された結末をなぞるだけの道程など、旅とは呼べない。ボクがそう告げると、トレーナーは一瞬だけ目を丸くし……やがて、吹き出すように笑い声を上げた。

 

「あっははは! なあんだ、そんなことか!」

 

 彼女はちっとも不安がる様子もなく、むしろ最高に楽しそうに笑い飛ばした。

 

「構わないよ、結末なんて! だって、私は君の『走る姿』そのものに惚れ込んで、今ここに居るんだから!」

 

 彼女は身を乗り出し、あの海岸線で見せたのと同じ、爛々とした勝負師の瞳でボクを射抜いた。

 

「この先、何年勝てなくても関係ない。君がその脚を止めず、この旅を諦めないって言うなら……私はいつだって、ステイゴールドの隣を走り続ける。最高速で、何度でも背中を押してあげる。それだけだよ」

 

 理屈も打算もない、ただひたすらに前だけを向いた無敵の宣言。プロの座を投げ打ってまでボクの隣を選んだ、この型破りな「自転車バカ」に、迷いや後退の二文字は存在しないらしい。

 

「……ははっ。あんた、やっぱり良いな」

 

 ボクはたまらず声を上げて笑い、心底呆れたように、そして最大の親愛を込めてそう言った。すると、トレーナーは得意げに胸を張り、ニシシと犬歯を見せて笑った。

 

「そりゃあね! 私は二輪車と同じで、前にしか進めない女ですからね!」

 

 そして、彼女は少しだけ冗談めかした口調で、ボクの顔を覗き込んできた。

 

「で? ……ステゴの中にいる『おじさん』は、今の状況について何か言ってる?」

 

 ウマ娘としてのボクではなく、その奥底に同居している、ちょっと枯れていて、二輪車と放浪を愛するあの魂に宛てた問いかけ。ボクは目を閉じ、自分の内側にあるその声に耳を傾け……やがて、ゆっくりと目を開けて不敵に笑った。

 

「そりゃあもちろん」

 

 ボクは湯呑みを置き、最高の相棒に向けて言い放った。

 

「『こいつは最高に面白い旅になるだろう』って、ワクワクしてるよ」

 

 たとえこの先、6年の長いトンネルが待っていようとも。いや、長くて困難な道程であればあるほど、おじさんの魂は、そしてステイゴールドの闘争心は熱く燃え上がるのだ。

 

「あはは! よし、言質は取った! じゃあ、明日は早起きしてさっそく特訓メニューの組み直しだよ、ステイゴールド!」

 

「お手柔らかに頼むよ、専属メカニック」

 

 窓の外には、秋の夜空がどこまでも広がっている。いくつもの記憶と魂を乗せた異端のウマ娘と、最強で最高の大バカトレーナー。

 

 二人の果てしなく泥臭く、そして誰も見たことのない景色を目指す『旅』は、決して止まることなく、明日へ向けて再び加速していくのだった。

 

 

「うーん……ダメだ。やっぱり、根本的なデータとノウハウが圧倒的に足りない……!」

 

 翌朝のトレーナー室。

 

 気合十分にスケジュールの組み直しに取り掛かった相棒だったけれど、机の上に山積みにされた資料やタブレットを前に、彼女は頭を抱えて唸り声を上げていた。

 

 無理もない。

 

 彼女の自転車競技における「人間」の身体操作や空気力学の知識は、間違いなく超一流だ。けれど、ここはウマ娘たちのレースの世界。長期間にわたる過酷なローテーションや、ウマ娘特有のメンタルケア、成長曲線の見極めといった「絶対的な経験則」において、彼女は正真正銘の『新人』なのだ。

 

 他の先輩トレーナーたちにも頭を下げて回ったようだが、返ってくるのは「スタミナの基礎練習を繰り返せ」「標準的なメニューをこなせ」といった、ありきたりな回答ばかり。ボクという、おじさんの魂が混ざった規格外でピーキーなエンジンを扱うには、一般的な整備マニュアルなんて何の役にも立たない。

 

「このままじゃジリ貧だ……。私のチューニングが頭打ちになっちゃう……」

 

 ギリギリと歯を食いしばるトレーナー。

 

 ボクはソファで淹れたての紅茶をすすりながら、その様子を静かに見守っていた。壁にぶつかるのは当然だ。でも、この大バカなメカニックが、ここで折れるようなタマじゃないことは、ボクが一番よく知っている。

 

「……よし!」

 

 パンッ! と両手で自分の頬を力強く叩き、トレーナーは勢いよく立ち上がった。

 

「ステイゴールド、ちょっと出かけてくる!」

 

「おや、どこへ行くんだい? 先輩たちへの聞き込みなら、もう限界じゃないのかな」

 

「普通の整備士(トレーナー)に聞いてダメなら、伝説級のスーパーカーに乗ってるベテランに直接聞きに行くしかないでしょ! ダメで元々、当たって砕けろだ!」

 

そう言い残し、彼女は嵐のように部屋を飛び出していった。

 

 

 トレーナーが向かったのは、学園の中庭。

 

 彼女が目をつけたのは、学園のあらゆる事情に通じている理事長秘書のたづなさんと、そして……圧倒的なカリスマ性と実力を持ち、現在も第一線で輝き続ける伝説的なウマ娘、マルゼンスキーの二人だった。

 

「――というわけで! 基礎的なマニュアルじゃどうにもならない、超ピーキーで最高に面白いエンジンのチューニングについて、お二人の知恵を貸していただきたいんです!」

 

 中庭のベンチでお茶を飲んで談笑していた二人の前に、トレーナーは勢いよく飛び込み、深々と頭を下げた。

 

 突然の新人トレーナーの突撃に、たづなさんは目を丸くし、マルゼンスキーは持っていたティーカップを置いて、面白そうに目を細めた。

 

「あらあら。新人さんがそんなに慌てて、どうしたの?」

 

「それに『エンジン』って……なんだかウマ娘の指導っていうより、クルマの整備士みたいな言い回しね。アタシ、そういうスピード狂みたいな言葉のチョイス、嫌いじゃないわよ」

 

 マルゼンスキーがクスクスと笑うと、トレーナーは顔を上げ、真剣な表情で食い下がった。

 

「私、元々は人力の二輪車でプロをやってまして! なので、空気抵抗やサスペンションの理論なんかは教えられるんですが……ウマ娘特有の長期間のメンテナンスや、成長期のメンタルコントロールといった『歴史』と『経験』が圧倒的に足りないんです!」

 

 彼女は隠すことなく自分の無知をさらけ出し、真っ直ぐに二人の目を見た。

 

「私の担当は、最高のポテンシャルを秘めた素晴らしいウマ娘です。彼女を絶対に勝たせたい。だから……長年この学園を見てきたたづなさんと、最高の走りを知り尽くしているマルゼンスキーさんに、教えを乞いに来ました!」

 

 その必死で、なりふり構わない姿。プライドを捨ててでも相棒のために頭を下げる彼女を見て、たづなさんはふっと優しく、そしてどこか頼もしそうに微笑んだ。

 

「……ふふっ。新人トレーナーさんがぶつかる『経験の壁』ですね。でも、そこまで担当のウマ娘さんを想い、自分から教えを乞うことができる情熱は、何よりの才能ですよ」

 

「ええ、同感ね」

 

 マルゼンスキーも立ち上がり、トレーナーの肩をポンと叩いた。

 

「アタシの愛車(スーパーカー)も、メンテナンスにはすっごく手間がかかるの。でも、手間がかかる子ほど、完璧に仕上がった時の走りは最高に痺れるのよね! アナタのその熱意、気に入ったわ」

 

「マルゼンスキーさん、たづなさん……!」

 

「ただし!」

 

 マルゼンスキーはビシッと指を突き立て、不敵に笑った。

 

「アタシの走りの美学は、ちょっとやそっとじゃ理解できないわよ? 覚悟してついてきなさい、新人メカニックさん!」

 

「はいっ!!」

 

 こうして。

 

 行き詰まりを見せていたボクたちの旅路に、学園の「伝説」という名の、これ以上ない強力なアドバイザーが加わることになったのだった。

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