それから数時間。
中庭のテーブルには、何度もお代わりされた空のティーカップと、びっしりと文字が書き込まれたトレーナーのノートが置かれていた。
「……なるほど! 成長期の骨格の変化に合わせたメンタルの波のケアと、長期ローテーションにおける『休ませる勇気』! 私の理論には、その根本的な『ウマ娘としての生き物への理解』がすっぽり抜けてました!」
目から鱗が落ちたように、トレーナーは目を輝かせてノートを閉じた。
「本当に、本当にありがとうございました! さっそく、ステイゴールドのメニューを組み直してきます!」
バァン! と勢いよく立ち上がり、深々と直角に頭を下げるトレーナー。
「ふふっ、またいつでも聞きにいらっしゃいな」
「応援していますよ」
と笑顔で見送る二人に背を向け、彼女はやって来た時と同じように、嵐のような勢いで校舎の方へと駆け出していった。
その力強く、迷いのない背中が角を曲がって見えなくなるまで。マルゼンスキーとたづなさんは、穏やかな笑顔のままそれを見送っていた。
やがて、風が中庭を吹き抜けると、マルゼンスキーがふとティーカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ声のトーンを落として呟いた。
「……夢を叶えてプロの選手になって。それをあっさりと捨てて、ウマ娘のトレーナー、か」
彼女は、どこか眩しいものでも見るように目を細めた。
「いくら走りに魅せられたからって、普通はできることじゃないわ。今まで積み上げてきた人生のすべてを懸けるなんて……あの子、並大抵じゃないわね」
その言葉に、たづなさんも静かに頷き、手元のバインダーを胸に抱いた。
「ええ、その通りです」
たづなさんの瞳にもまた、あの猪突猛進な新人トレーナーへの深い敬意と、期待の色が浮かんでいた。
「地位も名誉も、自分の未来すらも投げ打ってでも、あのステイゴールドさんと共に走りたいと願う。……理屈や計算を超えた、純粋な情熱ですね。これからどれだけ長く苦しい時期があっても、きっとあのトレーナーさんなら、決して手を離すことはないでしょう」
「ふふっ。アタシたちもウカウカしてられないわね。これからのトゥインクル・シリーズ、すごく面白くなりそうじゃない」
静かに語り合う二人の頭上で、木漏れ日が優しく揺れる。型破りな「自転車バカ」の情熱は、相棒であるステイゴールドの心だけでなく、学園を知り尽くしたベテランたちの心にも、確かな熱と期待の火を灯していた。
■
たづなさんとマルゼンスキーからの金言を胸に、息巻いてトレーナー室へ戻ってきた相棒は、一晩でボクの新しいローテーションとメニューを組み上げた。
「――次の目標は、『天皇賞(春)』!」
翌朝。目の前にバンッ! と叩きつけられた真新しいスケジュール表には、誇らしげな文字でそう書き込まれていた。
「春の盾。3200メートルの長旅かい」
「そう! 色んなデータと先輩たちのアドバイスをすり合わせて、君の筋肉の質や骨格、そしてあの無尽蔵のスタミナと泥臭いコーナリングを分析した結果……君の身体は、間違いなく長距離(ステイヤー)向きだと結論づけた!」
トレーナーは自信満々に胸を張った。
「短距離の爆発力じゃなく、長く過酷な道を、誰よりも速い巡航速度で走り抜け、最後にハイオクを燃やし尽くす。……今の君のピーキーなエンジンなら、それが一番輝くはずだよ」
その言葉に、ボクの中のおじさんの魂が、心地よくぶるりと震えた。長距離ツーリング。果てしなく続く道を、ただひたすらに走り続ける泥臭い旅路。それは、ボクの奥底にある本能が最も求めているものだった。
「……ははっ。面白いね」
ボクはティーカップを置き、ニヤリと笑って立ち上がった。
「いいだろう。その途方もない長旅、ボクとあんたで最高速で駆け抜けてやろうじゃないか」
「うんっ! 任せて、最高のチューニングに仕上げるからね!」
力強く頷くトレーナー。
その顔には徹夜明けの少しばかりの疲労の色があったが、瞳の輝きは昨日よりもずっと力強く、澄んでいた。
「じゃあ、決まりだ。……それじゃあ、前祝いで軽く海でも見に行こうか」
「えっ、海?」
突然の提案に目を瞬かせるトレーナーに、ボクは軽く準備運動で肩を回しながらウインクした。
「ああ。行き先は茨城の海だ。新しい旅の始まりに、潮風を浴びてスッキリするのも悪くないだろう? それに、あんたも徹夜で凝り固まった身体をほぐしたいんじゃないかい?」
その言葉を聞いた瞬間、トレーナーの顔がパッと明るく輝いた。
「いいね!! ずっと頭をフル回転させてたから、ウズウズして身体を動かしたくてたまらなかったんだ!」
彼女はデスクの上の資料をバサッと放り投げ、壁に立てかけてあった愛車(ロードバイク)のハンドルを勢いよく掴んだ。
「ステイゴールド、置いていかれないでよ? 私のペダリング、昨日よりキレてるはずだからね!」
「は、言うねえ。なら、どっちが先に潮の匂いを嗅ぎつけるか勝負と行こうか!」
バンッ! と勢いよくトレーナー室の扉を開け放ち、ボクたちは青空の下へと飛び出した。
今やトレセン学園の周辺でも、そして関東近郊の街道でもすっかり「当たり前」の光景になりつつある、最新鋭のロードバイクとウマ娘の異端コンビ。
「っしゃああ! 行くよステゴ!!」
「遅れるなよ、トレーナー!!」
互いに不敵な笑みを交わし合い、ボクたちは春の天皇賞という次なる大舞台……果てしなく続く新しい旅の道標へ向けて、疾風のように茨城の海へと駆け出していった。
■
天皇賞・春という遥か長大な道のりへ向け、ボクとトレーナーの泥臭くも熱を帯びた特訓の日々が本格的に始動した頃。トレセン学園のターフや廊下では、ある一つの噂が春のつむじ風のように駆け巡っていた。
「最近、サイレンススズカの走りが桁違いに伸びている」――と。
もともと『異次元の逃げ』と称されるほどの圧倒的なスピードを持っていた彼女だが、ここ最近のタイムの縮み方と走りの鋭さは、周囲のウマ娘たちが思わず足を止めて見入ってしまうほどの凄みを生み出しているらしい。
気になったボクは、先の菊花賞で死闘を演じた最大の好敵手であり、彼女と直接併走して叩き合っていたマチカネフクキタルの元へと足を運んでみた。
「スズカさんですか? ……はい。確かに、本当に凄いんですよ!」
トレーニング終わりの息を弾ませたまま、フクキタルは興奮気味に身を乗り出してきた。
「スズカさんの後ろを走っていると、なんていうか……まるで別の次元、音の無い世界に引きずり込まれるような感覚になるんです。どんなに追いすがっても、背中がどんどん遠ざかっていく。シラオキ様でさえ『今の彼女の脚には、どんな星の導きも追いつけない』と仰っているくらいで……!」
あの神がかった末脚を持つフクキタルに、そこまで言わせるほどの圧倒的な孤独な逃げ。
事の重大さを察したボクは、さらに別の視点からの確証を得るため、今度は学園の奥で我が物顔に寛いでいたもう一人の身内……暴君にして王を名乗る後輩、オルフェーヴルの元へと向かった。
豪奢なソファに深く腰掛け、退屈そうに窓の外を眺めていたオルフェーヴルは、ボクの問いかけに一度だけ視線を向け、鼻で短く笑った。
「サイレンススズカか。……ふん、貴様も気になっているようだな。確かに、今のヤツの研ぎ澄まされ方は異常だ。あの誰も踏み込めない領域の逃げ……認めよう。この絶対なる『王』たる余を以てしても、今のヤツを捕らえるのは容易ではなく、手こずるだろうと断言できる」
自尊心の塊であり、他者の実力をおいそれと認めることのないオルフェーヴルが、明確に「手こずる」とまで評した。その事実が、サイレンススズカという才能がいよいよ完全なる覚醒の時を迎えつつあることを如実に物語っていた。
「なるほどね。オルにそこまで言わせるなら、本物だ。……貴重な意見、感謝するよ。お礼と言っては何だけれど、少し尻尾の手入れでもさせてくれないかい?」
ボクは傍らに置いてあった上質な櫛を手に取り、彼女の背後へと回った。
オルフェーヴルの黄金色に輝く艶やかな尻尾を手に取り、毛並みに沿ってゆっくりと、丁寧に櫛を入れていく。ウマ娘にとって尻尾の手入れを他者に任せるのは信頼の証だが、ボクの慣れた手つきに、彼女は拒絶するでもなく身を任せた。
「……ふむ。悪くない。そのまま続けよ」
何度か櫛を通すうち、オルフェーヴルは気位の高い猫のように喉の奥を鳴らすような気配を見せ、心地よさそうに目を細めてソファに深くもたれかかった。
サラサラと、黄金の糸を梳くような静かな音が室内に響く。その単調で心地よいリズムの中で、ボクの思考はゆっくりと、自分自身の奥底へと沈んでいった。
『あのオルフェーヴルにすら手こずると言わせるほどの、極限まで研ぎ澄まされた逃げ』
『誰にも影を踏ませず、ただ一人で先頭を駆け抜けていく、無敵の姿』
ボクの脳裏に沈殿している、無数の『並行世界』や『かつての闘い』の記憶。
そこにあった光景の断片が、ふっとパズルのピースのように組み合わさっていく。
絶好調の波に乗り、異次元のスピードを手に入れた稀代の逃げウマ娘。彼女のその圧倒的な輝きがピークに達する「時期」。そして、その先に待ち受けている、あのあまりにも唐突で、静寂に包まれたターフの情景――。
「……」
尻尾に櫛を入れるボクの手が、ほんの一瞬だけ、ピタリと止まった。
記憶の中にある、あの悲劇。
絶対的なスピードの代償として、彼女の脚が限界を超えてしまう、あの運命の分岐点。それがいつ訪れるのか、ボクの中の『おじさんの魂』と『ウマ娘としての本能』が、完全に時期を弾き出していた。
(……ああ。つまり、今年の『秋』か)
ボクは誰にも聞こえないほどの小さな声で、胸の内でそう呟いた。
「どうした。手が止まっているぞ」
不満げにこちらを振り返ったオルフェーヴルの声で、ボクはハッと我に返った。
「ああ、悪い悪い。少し考え事をしていてね」
ボクは何事もなかったかのように微笑み、再びゆっくりと黄金の尻尾に櫛を入れ始めた。窓の外には、春の暖かな日差しが降り注いでいる。
しかし、ボクの胸の奥には、やがて来るであろう「秋の気配」が、ひやりとした冷たい手触りを持って静かに居座り始めていた。