ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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 高尾を抜け、山梨へと続く長く険しい峠道。

 

 鬱蒼とした青葉に囲まれた急勾配のアスファルトを、ボクとトレーナーは並んで駆け上がっていた。

 

 延々と続く上り坂(ヒルクライム)は、ウマ娘にとってもロードバイクにとっても、心肺機能を極限まで追い込む過酷な特訓だ。コーナーの先を読み、重心を前傾に保ちながらひたすらに脚を回し続ける。

 

 だが、深いカーブをいくつも抜け、登りがさらにキツくなってきたあたりで、ロードバイクのペダルを立ち漕ぎで踏み込んでいたトレーナーが、ふと息を乱しながら怪訝な声を上げた。

 

「ねえ、ステイゴールド。……なんか今日、動き悪くない?」

「……」

 

 鋭い。ほんの僅かな重心のブレや踏み込みの甘さを、このメカニックは決して見逃さない。

 

 ボクはアスファルトを蹴る脚の力を少しだけ緩め、深く息を吐いた。誤魔化すつもりはなかった。すべてを打ち明け、受け入れてくれたこの相棒に対して、今さら隠し立てするようなことは何一つない。

 

「……ちょっと、記憶がノイズになっていてね」

「記憶?」

「スズカのことさ」

 

 ボクが短く告げると、トレーナーはギアを軽くしてペースを落とし、横からボクの顔を覗き込んできた。

 

「スズカって……あの? 最近、逃げですごく頭角を表しているっていう?」

「そう」

 

 ボクは静かに頷き、遥か先まで続く、曲がりくねった上り坂を見つめた。頭の奥で、あの日オルフェーヴルの黄金の尻尾を梳きながら感じた、あのひやりとした秋の気配がフラッシュバックする。

 

「……おじさんの記憶も、別世界で戦った『わたし』の記憶も、同じ結末を告げている」

 

 木漏れ日が風に揺れ、アスファルトに落ちた影が不規則に踊る。

 

「彼女がこの秋、取り返しのつかない『悲劇』を迎えるってことを……知っているんだ」

 

 その言葉に、トレーナーはハッと息を呑み、ブレーキを握り込んでロードバイクの動きを完全に止めた。ボクも立ち止まり、休憩のために水筒に入れてきた冷たい紅茶を口に含んだ。上質な茶葉の深い香りが広がっても、胸の奥にこびりついた冷たいしこりは少しも溶けてはくれない。

 

 ただ純粋に速さを求めて、誰にも追いつけない次元へと踏み込んでいく無垢な逃亡者。

 

 その脚が臨界点を超え、突然の静寂に包まれる、あの淀んだ空気の記憶。

 

 沈黙が落ちた。トレーナーはロードバイクのハンドルを強く握りしめたまま、何も言わず、ただ峠を吹き抜ける風の音だけが二人の間を通り過ぎていった。

 

 

「……本来なら、これから起きる未来や別の世界の結末なんて、誰かに語るべきことじゃない。それはルール違反みたいなものだからね。でも」

 

 ボクは水筒のフタをゆっくりと閉め、山梨の深く青い山々を吹き抜ける風に視線を向けた。喉を潤したはずの上質な紅茶の香りが、今はひどく冷たく、苦く感じられた。

 

「このままいけば、スズカは秋に故障する。……それも、取り返しのつかないほどの致命的なやつだ」

 

 断言したその言葉に、トレーナーは息を呑み、ロードバイクのハンドルを握る手にギュッと力を込めた。手袋越しの関節が白く浮き上がるのが見える。

 

「故障……? 確かに最近、逃げで頭角を現してきてるっていう噂は聞くけど、でも、そこまで……?」

 

「ああ。彼女は、もう誰も影すら踏めない。誰も追いつけないんだ」

 

 ボクは、脳裏に焼き付いている『記憶』の断片を一つ一つ言葉に変換していく。

 

「最近、彼女の担当トレーナーが変わっただろう? おそらくそれがトリガーだ。彼女の純粋すぎる『ただ走りたい』という本能と、新しいトレーナーの理念が完璧に噛み合ってしまった。その結果、彼女はレースの常識を根底から覆す走り方を手に入れる」

 

「常識を覆す走り方……?」

 

「『逃げて、さらにそこから差す』んだよ」

 

 元プロのアスリートであるトレーナーなら、その言葉がどれほど異常な矛盾を孕んでいるか、一瞬で理解したはずだ。スタートから全力で後続を引き離す「逃げ」を打ちながら、スタミナが枯渇するはずの最終盤で、まるで後方から追い込んできた(差してきた)かのような別次元の再加速を見せる。それは理論上、最も強い完全無欠のレース運びだ。

 

「……そんなバカな。生き物の心肺機能と脚力で、そんな出力の使い方ができるわけ……」

 

「やってのけるんだよ、彼女は。その果てしない孤独の逃亡の先に、秋の淀んだ空気が待ち受けているとも知らずにね」

 

「でも、なんで故障なんか……? 彼女のフォームは洗練されているし、無理なローテーションを組まされているわけでもないはずなのに」

 

 トレーナーの問いに、ボクは首を横に振った。

 

「さぁね。絶対的な理由なんて、誰にもわからない。運命だったとしか言いようのない偶然かもしれない。……ただ、記憶の中のひとつの説として言われているのは、『速すぎた』ということだ」

 

 ボクはターフを蹴る自分の脚に視線を落とし、低く、重い声で紡いだ。

 

「他を圧倒するほどの絶対的なスピードに、彼女自身の肉体が、脚の骨と腱が、耐えきれなかった。……限界を超えた未知の速度域に踏み込んだ結果、自らの速さで自らを壊してしまったんだ」

 

 沈黙が落ちた。山林の木々が風にざわめく音だけが、不気味に響き渡る。

 

 自転車競技という、時に時速70キロを超えるスピードの中で生身の体を晒してきたトレーナーにとって、「速さの代償としての崩壊」という言葉は、決して絵空事などではなかったはずだ。

 

 彼女は俯き、ヘルメットの鍔の影で表情を見せなかった。重く、息苦しい空気が二人の間を支配する。このまま、逃れられない運命の重圧に押し潰されてしまうのではないか。そうボクが危惧した、次の瞬間だった。

 

「……じゃあ、春の天皇賞の後は、そのまま直行で『秋』も走るの決定ね」

 

「……トレーナー?」

 

 突然、何でもないことのように言い放たれた言葉。顔を上げた彼女の瞳には、絶望や悲壮感など微塵もなかった。そこにあったのは、煌々と燃え盛るような、勝負師とメカニックの鋭い光だ。

 

「え、だって。君がその記憶を持っていて、私に話してくれた。なら、君が同じレースに立ち向かって、その脚で走るしかないでしょ」

 

 彼女はロードバイクを支えたまま、真っ直ぐにボクを指差した。

 

「悲劇の結末を知っているなら、私たちが最高のチューニングで限界を超えて、真っ向から彼女の前に立ち塞がればいい。……スズカのエンジンが臨界点を突破して自壊する前に、私たちが並び掛けて、その暴走を止めるしかない。……でしょう?」

 

「――――」

 

 あまりにも無茶苦茶で、あまりにも真っ直ぐな論理。歴史や運命といった巨大な濁流を前にして、この規格外の相棒は「じゃあ私たちがもっと速く走って、物理的に止めてやろう」と、当然のように笑ってみせたのだ。

 

 自分がどれほど途方もない大役をボクに背負わせようとしているのか、分かっているのかいないのか。けれど、そのあっけらかんとした太陽のような強さが、ボクの胸の奥にこびりついていた冷たいしこりを、一瞬にして熱い血潮へと変えていった。

 

「……ははっ」

 

 ボクはたまらず吹き出し、腹の底から笑い声を上げた。

 

「違いない。あんたの言う通りだ。他人の故障を指をくわえて眺めているなんて、おじさんの趣味じゃないし、この最高のエンジンの無駄遣いってもんだ」

 

 ボクはターフシューズの底でアスファルトを強く踏み鳴らし、力強く頷いた。

 

「そうだな。春の後は、脇目も振らず………。一緒に秋を走りに行こう、トレーナー」

 

 その答えを聞いて、トレーナーは「よしっ!」と満足げに笑い、再びロードバイクのペダルに足をかけた。

 

 再び峠を登り始めるための準備をしながら、ボクの脳裏には、ふと『あの秋』の情景が鮮明にフラッシュバックしていた。異次元の逃亡者がターフに崩れ落ち、大歓声が悲鳴へと変わった、あの悪夢のようなレース。

 

 ―――しかし、その記憶の先頭で、誰よりも先にゴール板を駆け抜け、1着を飾った勝者がいた。

 

 脚の腱が部分的に断裂し、炎症を起こす『屈腱炎』という、ウマ娘――いや、競走馬にとって致命的とも言える怪我を三度も繰り返し、その度に地獄の底から這い上がってきた不屈のベテラン。

 

 あの絶望と静寂に包まれたターフで、決して折れることのない執念を見せつけ、血の滲むような歳月をかけて栄冠を掴み取った、不撓不屈の存在。

 

(……オフサイドトラップ)

 

 その名ウマ娘の名前を、ボクは心の中で静かに反芻した。

 

 あのベテランが示したように、決して諦めない執念だけが、絶望的な運命を覆す唯一の鍵となる。

 

「さあ、そうと決まったらモタモタしてる暇はないよステイゴールド! もっと心肺機能に負荷をかけて、秋までに極限のスタミナを作るよ!」

 

「ああ、上等だ。あんたこそ、立ち漕ぎ(ダンシング)で遅れを取るんじゃないよ!」

 

 悲劇を塗り替えるための、新たな宣戦布告。

 

 山梨の険しい峠道を、ボクたちは風を切り裂きながら、さらなる高みと、春、そして運命の秋のターフへと向けて猛烈なスピードで駆け上がっていった。

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