ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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オフサイドトラップ

 秋のターフに待ち受ける運命………。それに立ち向かうための第一歩として、ボクはまず行動を起こすこととした。

 

 放課後に向かったのは、静かな学園のラウンジだ。

 

 見回すと、窓際のソファに一人で腰掛け、春の陽気の中で静かに本を読んでいるウマ娘の姿があった。その脚には、痛々しくも真っ白な包帯がしっかりと巻かれている。

 度重なる『屈腱炎』という不治の怪我に苛まれながらも、決してターフを去ることなく走り続けている不屈のベテラン。オフサイドトラップだ。

 

「や」

 

 ボクが気楽な声で歩み寄ると、彼女は本からゆっくりと視線を上げ、少しばかり驚いたように目を瞬かせた。

 

「……おや。学園一の自由人が、私に何か用かい?」

 

 少しハスキーで、ボーイッシュな響きのある声。どこか血気盛んなウマ娘を思わせる口調だが、その響きには長年の苦労を乗り越えてきた者特有の、とても柔らかく穏やかな色気があった。

 

「いや」

 

 ボクは彼女の向かいの席に腰を下ろしながら、ラウンジに備え付けられているティーセットを引き寄せた。

 

「あんた、あの『屈腱炎』を何度も克服して走っているって聞いてね。……今日は、その折れない心の秘訣をちょっと聞きにきたんだ」

 

 そう言いながら、ボクは持参した茶葉の缶を開けた。

 

 選んだのは、蘭の花のような特有の甘い香りが特徴の、上質なキームン紅茶だ。ポットにお湯を注ぐと、ラウンジの静かな空間に、ふわりと深く落ち着く香りが広がっていく。

 

 コポコポと、カップに琥珀色の液体を注ぎ分ける。

 

 彼女は、ボクの手元の流れるような所作と、立ち上る湯気を、どこか面白そうに、そして心地よさそうに眺めていた。

 

「……いい香りだ。頂いても?」

 

 ふっと、彼女の口元に穏やかな笑みが浮かぶ。怪我と戦い続ける張り詰めた日々の中で、ほんの一息の休息を楽しむような、優しい顔だった。

 

「ああ、もちろん」

 

 ボクはソーサーごとカップを彼女の前に滑らせた。

 

「ボクの淹れる紅茶は、ウチの気難しい暴君でも大人しくなるくらいには絶品だと自負しているからね。遠慮なく味わってくれ」

 

「ははっ、そいつは頼もしい。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」

 

 オフサイドトラップは両手でカップを包み込むように持ち上げ、目を閉じてその豊かな香りをいっぱいに吸い込んだ。

 

「……ああ、本当にいい紅茶だ。身体の芯まで解れていくみたいだね」

 

 彼女がゆっくりと一口啜り、ホッと息をつく。窓から差し込む午後の柔らかい日差しの中で、静かで、とても穏やかな時間が流れ始めていた。

 

 

 カップの紅茶を一口飲み、オフサイドトラップはどこか遠くを見るような目で、ポツリと語り始めた。

 

「……私の同期は、あのナリタブライアンさ。クラシックも、その後の栄光も、全部あいつに持っていかれてな」

 

 自嘲気味な笑みが、彼女の口元に浮かぶ。

 

「その後も、私にこれといった見せ場はない。マヤノトップガンだの、メジロブライトだの……いつだって、下の世代の天才たちに話題は掻っ攫われっぱなしなんだよな。私なんて、怪我と復帰を繰り返してるだけの、ただのロートルさ」

 

 自虐風味に紡がれる、幾度もの挫折を味わってきた者特有の諦観の響き。しかし、ボクは真っ直ぐに彼女の目を見据えて言った。

 

「でも、あんたは走ることを辞めていないんだな」

 

 その言葉に、オフサイドトラップは少しだけ目を丸くし、やがてカップの中の琥珀色の水面を見つめながら、照れくさそうに笑った。

 

「……そりゃあ、好きだからな。走ることが」

 

 そして、彼女は包帯の巻かれた自分の脚を、愛おしむようにそっと撫でた。

 

「それに、ウチのトレーナーが言ってきかないんだ。『お前は絶対にG1を獲れる器だ!あきらめるな!』ってな。何度も脚を壊して、ろくに結果も出せてない私にだよ? ……そんなバカみたいに真っ直ぐな期待を受けたんなら、そりゃあお前、前を向いて走るしかないだろう?」

 

「……なるほど。強いわけだ」

 

 その静かで熱い執念と、彼女のトレーナーへの深い信頼。ボクとボクの相棒がそうであるように、彼女たちもまた、決して諦めない泥臭い『旅』を続けているのだと理解した。

 

 ボクは空になった彼女のカップに、二杯目の紅茶を静かに注ぎながら、ふと声を潜めて告げた。

 

「一つ、予言をしておこう」

 

「予言?」

 

「ああ。天皇賞・秋……あんたと私は、あのターフでぶつかることになるだろう」

 

 突然の宣戦布告めいた言葉に、オフサイドトラップは驚いたように目を瞬かせた。

 

「へえ? まだ天皇賞・春も終わってないのに、ずいぶんと気が早いじゃないか」

 

「もちろんさ。そしてその時、最も強い、誰にも追いつけないような奴が先頭を切って逃げているはずだ。……そうなった時」

 

 ボクは立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出して、彼女の耳元へと顔を寄せた。そして、周囲の誰の耳にも届かない、彼女にしか聞こえないほどの極小の囁き声で、ある『言葉』を落とした。

 

 ――秋の淀んだ空気を切り裂くための、残酷で、けれど抗うための言葉。

 

「――――ッ!?」

 

 その瞬間。オフサイドトラップの顔から穏やかな笑みが完全に消え失せた。

 

 バンッ! とテーブルを叩き、彼女が勢いよく立ち上がる。さっきまでの柔らかな雰囲気は鳴りを潜め、歴戦の闘争心を剥き出しにした猛獣のような鋭い眼光で、ボクを力強く睨みつけた。

 

「……お前、私を舐めてんのか?」

 

 ドスを効かせた、低く震える声。無理もない。彼女のような誇り高いアスリートにとって、ボクの囁いた言葉は、ある意味で最大の侮辱にも聞こえかねないものだったからだ。

 

 しかし、ボクは一切ひるむことなく、静かに首を振った。

 

「舐めてなんかないさ。ボクは至って本気だ。……彼女の圧倒的な逃げと活躍を、これから注意深く見ていればいい」

 

 ボクはティーセットの横に、茶葉の入った缶をそっと置いた。

 

「もし、ボクの予言の意味に納得がいったら……また、私のところに紅茶を飲みにきてくれ」

 

 それだけを言い残し、ボクは背を向けた。背中にオフサイドトラップの鋭い視線と、戸惑いの気配を感じながら、ボクは静かなラウンジを後にした。

 

 ―――種は蒔いた。

 

 悲劇を塗り替え、歴史を変えるためには、あの不屈のベテランの執念が絶対に必要になる。秋へ向けた途方もない歯車が、ボクとトレーナー、そして周囲の運命を巻き込みながら、ゆっくりと、しかし確実に回り始めていた。

 

 

 ラウンジを後にして、夕暮れ時の学園の中庭へと続く渡り廊下を歩いていた時のことだ。

 

「おっ、ステゴじゃん」

 

 ちょうどトレーニングを終えたばかりなのだろう。首にタオルを巻き、ジャージ姿でスポーツドリンクのボトルを呷っているゴルシと鉢合わせた。

 

「やあ、ゴルシ。今日もいい汗をかいているね」

 

「へっ、バッチリに決まってんだろ! アタシの無尽蔵のスタミナは、毎日限界突破してっからな!」

 

 ニカッと笑うゴルシと並んで歩きながら、自然と他愛のない雑談が始まった。

 

 話題は、あの熱く煮え滾るような死闘だった菊花賞のこと。あの時、ボクとトレーナーの特訓に付き合って限界までプレッシャーをかけてくれたのは、他でもない彼女だった。

 そして話は、次にボクたちが挑もうとしている『天皇賞・春』……3200メートルの過酷な長旅のことへと移っていった。

 

「しっかし、春の天皇賞かー。アネゴのあのスタミナと泥臭さなら、間違いなくドンピシャだぜ。菊花賞でフクキタルに見せつけたあの根性、今度は一番前でゴール板に叩き込んでやれよな!」

 

「ああ、もちろんさ。あの悔しさは、次の勝利のための最高のチューニングだったって証明してみせるよ。お前たちに手伝ってもらった恩返しも兼ねてね」

 

 ボクが笑ってそう返した、その時だった。ふと、隣を歩いていたゴルシの足取りが止まったのだ。

 

「……ゴルシ?」

 

 ボクも足を止めて振り返ると、彼女はいつもの破天荒で飄々とした表情をスッと消し、ひどく真剣で、射抜くような鋭い黄金色の瞳でボクをじっと見つめていた。

 

 夕暮れの風が、二人の間を静かに通り抜ける。

 

「……ステゴ」

 

 彼女は、ボクという存在の奥底に直接触れるような、低く静かな声で口を開いた。

 

「なんかオメー。……抱えてねぇか?」

 

「――っ」

 

 その鋭すぎる直感に、ボクは思わず息を呑んだ。

 

 言葉の端々に滲み出ていた焦りなのか、それとも、先ほどオフサイドトラップに囁いてきたあの『呪いのような予言』の残り香を嗅ぎ取られたのか。普段は奇行ばかり目立ち、周囲を振り回してばかりいる後輩だが、ことボクのこととなると、彼女は恐ろしいほどに勘が働く。

 

 誤魔化しや建前など、彼女のこの真っ直ぐな黄金の瞳には一切通用しない。ボクは図星を突かれたように、一瞬だけ言葉に詰まってしまった。

 

 

「……ゴルシ。お前って、本当に勘が鋭いな」

 

 ボクは観念したように息を吐き、渡り廊下の壁に背中を預けた。夕暮れの赤い陽光が、彼女の長くて美しい芦毛の髪と、底知れない黄金色の瞳を鮮やかに染め上げている。

 

 いつもは奇声を発して暴れ回ったり、意味不明なルーティンで周囲を煙に巻いたりしているくせに、こういう時の彼女の直感は、恐ろしいほどに本質を射抜いてくる。

 

「へっ。伊達にステゴと同室やってねーっつうの」

 

 ゴルシはスポーツドリンクのボトルを弄りながら、ニヤリと片方の口角を上げた。

 

「毎日同じ部屋で息して、同じ飯食ってんだ。夜中に変な寝返り打ってるとか、最近やたらと遠くを見るような目をしてるとか、そういう微細なチューニングの狂いには、嫌でも気付いちまうんだよ。……で?」

 

 彼女は一歩だけボクに近づき、声のトーンをさらに一段階落とした。

 

「なんだよ。……アタシには言えねーことか?」

 

 その真っ直ぐで不純物のない問いかけに、ボクの奥底にある『おじさんの魂』が激しく揺れ動いた。

 

(……言えるわけが、ない)

 

 脳裏に過るのは、取り返しのつかない悲劇へ向かって加速し続けるサイレンススズカの無垢な背中。トレーナーにはすべてを打ち明けた。彼女は元自転車プロという「外側」の人間であり、ボクのエンジンを管理する特例のメカニックだからこそ、あの狂気じみた運命への反逆劇を共有することができた。

 

 しかし、ゴルシは違う。

 

 彼女は、これからこのターフで頂点を目指し、純粋な闘争心で駆け抜けていくべき『現役のウマ娘』なのだ。

 

 別の世界の記憶。未来に起こる悲劇の結末。そんな理不尽で呪いのような知識を、この純白の愛すべき後輩に背負わせる権利なんて、ボクにはない。彼女のその真っ直ぐで自由な軌道を、ボクの抱える泥臭い運命の鎖で縛り付けてはいけない。

 

 けれど、嘘をついて誤魔化すことも、この黄金の瞳の前ではひどく不誠実に思えた。

 

 言えない。でも、誤魔化したくもない。ボクが言葉を探して沈黙の底に沈みかけた、その時だった。

 

「……ま、いいや」

 

 ふいっと、ゴルシがあっさりと視線を外した。

 

「えっ……」

 

「なんだよその顔。今にも世界中の不幸を一人で背負い込みそうな、湿っぽくて面倒くせえ顔しやがって。オメーにはそういう顔は似合わねーんだよ」

 

 彼女はいつものガサツで乱暴な手つきで、ボクの頭をガシガシと撫で回した。いや、撫でるというよりは、ボクの頭の中に溜まっていた重苦しい空気を物理的に掻き回して、外へ追い出そうとしているような、そんな乱暴で優しい手つきだった。

 

「言いたくねーなら、無理には聞かねぇーって。アタシだって、ステゴの腹の中を無理矢理こじ開けて覗き込むような悪趣味は持ち合わせちゃいねーよ」

 

 ゴルシはボクの頭から手を離すと、夕日に向かって大きく伸びをした。

 

「その代わりだ」

 

 彼女は背中を向けたまま、ヒラヒラと手を振った。

 

「オメーが抱え込んでるその面倒くせえもんが、全部片付いてスッキリ解決したら……その時は、特盛の焼きそばパンとイチゴミルク奢れよな。アタシが朝まで、たっぷり愚痴ぐらい聞いてやらー」

 

「……ゴルシ」

 

 その言葉の奥にある、底なしの包容力と絶対的な信頼。何も聞かない。けれど、お前が帰ってくる場所はちゃんとここにある。そう宣言してくれたのだ。いつもは破天荒でめちゃくちゃな暴れん坊のくせに、どうしてこの後輩は、こうも不器用で、たまらなく格好良いのだろうか。

 

 気がつけば、ボクの胸の中にこびりついていた冷たい重圧は、夕暮れの風と共にすっかりどこかへ吹き飛んでいた。

 

「……ふふっ。ああ、わかった」

 

 ボクは壁から背中を離し、その頼もしい背中へ向かって、心底からの笑顔を向けた。

 

「約束するよ。全部片付いたら、学園の購買の焼きそばパン、全部買い占めてお前のベッドに山積みにしてやる。……その時は、ボクの長くて泥臭い自慢話に、嫌って言うほど付き合ってもらうからね」

 

「へへっ、上等だ! 楽しみにしてるぜ、ステイゴールド」

 

 ゴルシは振り向きざまにニカッと笑うと、再びいつものような大股で、ズンズンと寮の方へ向かって歩き出した。

 

 その背中を見送りながら、ボクは自分の両手を軽く握り込んだ。最高のメカニックであるトレーナーが横にいて、振り返れば、こうして帰る場所で待っていてくれる最高の仲間たちがいる。

 

(……これなら、どんな過酷な旅路だって、絶対に走り抜いてみせるさ)

 

 秋のターフに潜む暗い運命。それに抗うための孤独な戦いは、もはや孤独ではなかった。

 

 ウマ娘・ステイゴールドと、その奥底に眠るおじさんの魂は、これ以上ないほどの温かい燃料を胸に注ぎ込まれ、次なる大舞台である『天皇賞・春』へ向けて、静かに、そして力強くエンジンの回転数を上げていった。

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