ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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天皇賞・春―メジロの意地

 そして、季節は巡り。

 

 淀のターフを舞台にした春の最強ステイヤー決定戦、『天皇賞(春)』の日がやってきた。

 

 3200メートルという、途方もない長旅。下馬評の中心は、圧倒的なスタミナと末脚を誇るメジロブライトと、グランプリホースであるシルクジャスティスの二強だった。世間の空気は完全に「この二人のマッチレース」という熱気を帯びている。

 

 だが、先の菊花賞でフクキタルの神がかった末脚に肉薄し、ハナ差の2着に食い込んだボクもまた、決して侮れない「第三の矢」として、ファンやメディアから熱い注目と期待を集めていた。

 

「……サスペンションの可動域、よし。心肺機能のアイドリングも完璧。今日の君のエンジンは、今までで一番澄んだ音で鳴ってるよ」

 

 レース直前の控室。トレーナーがボクの脚の筋肉を丁寧にマッサージしながら、満足げに最終チェックの言葉を口にした。彼女のその「メカニック」としての太鼓判は、どんなお守りよりもボクの心を落ち着かせてくれる。

 

「ああ。3200メートルの長旅を走り抜くには、最高の仕上がりだ」

 

 ボクが軽く足首を回してターフの感触を確かめていると、コンコン、と控室のドアが控えめにノックされた。

 

「……ステゴさん。入ってもよろしいですか?」

 

 顔を出したのは、少し申し訳なさそうに眉を下げたマチカネフクキタルだった。彼女は今、勝負服ではなく、学園の制服姿だった。

 

 あの菊花賞の後、彼女は脚に怪我を負ってしまい、この春の大舞台への出走を断念せざるを得なくなってしまったのだ。彼女の無念さは、想像するに余りある。

 

「やあ、フクキタル。わざわざ来てくれたのかい」

 

 ボクがパイプ椅子から立ち上がって歩み寄ると、彼女はキュッと唇を結び、ボクの目を真っ直ぐに見つめてきた。あの菊花賞でボクを差し切った時の、凄まじい勝負師の瞳がそこにあった。

 

「ステゴさん。……世間は二強の対決だと騒いでいますが、私は、ステゴさんが一番強いって信じています」

 

 彼女は両手でお守りをギュッと胸に抱きしめ、少しだけ声を震わせながら、祈るように、けれど力強く宣言した。

 

「怪我で出られなくなった私の分まで……ここで、必ず勝ってください!」

 

 最大の好敵手からの、痛いほどに真っ直ぐで重いエール。彼女の運命の星が、今はボクの背中を強烈に後押ししてくれているのがわかった。

 

 ボクは少しだけ目を伏せ、かつて彼女と拳を合わせた菊花賞の夕暮れを思い出しながら、小さく息を吐いた。そして、再び顔を上げ、彼女のその強い思いを真正面から受け止めるように、力強く頷いた。

 

「ああ、任された」

 

 ボクは彼女の肩にポンと軽く手を置き、不敵に笑ってみせた。

 

「菊花賞の覇者の頼みとあっちゃあ、無様に負けるわけにはいかないからね。お前がターフに戻ってくるまで、この世代の『最強』の座は、ボクがきっちり温めておくさ」

 

「……はいっ!」

 

 ボクの答えを聞いて、フクキタルはパッと顔を輝かせ、満面の笑みで大きく頷いた。

 

「さあ、ステイゴールド! そろそろパドックの時間だよ!」

 

 後ろからトレーナーの明るい声が飛ぶ。ボクは首を鳴らし、ウマ娘としての、そして長旅を愛するおじさんとしての本能を極限まで高めながら、控室の扉へと向かった。

 

 待っていろ、メジロブライト。シルクジャスティス。

 

 誰よりも長く、泥臭い道を走り続けてきたこのエンジンの真価を、淀の3200メートルでたっぷりと見せつけてやろうじゃないか。

 

 

 カシャンッ!

 

 と、淀の静寂を切り裂いてゲートが開いた。

 

 3200メートルという途方もない長旅の始まり。スタートダッシュで焦る必要はどこにもない。ボクは深呼吸を一つして、周囲の気配とペースを冷静に測りながら、中団よりやや後方……お得意の「差し」の位置へとスムーズに滑り込んだ。

 

 長距離レースは、己の心肺機能(エンジン)との緻密な対話だ。いかに無駄な燃料を消費せず、最適な回転数を保ったまま最終コーナーまで脚を温存できるか。ターフを蹴るリズムを整えながら、集団の中で静かに息を潜める。

 

 やがて、最初のコーナーを回り、一周目のホームストレッチへと差し掛かった。

 

『――ワーーッ!!』

 

 メインスタンドから降り注ぐ、地鳴りのような大歓声。それがターフを揺らし、鼓膜をビリビリと震わせる。だが、その圧倒的な轟音の波の中にあっても、あのよく通る「専属メカニック」の声だけは、不思議とボクの耳にハッキリと届いた。

 

「いけぇーっ! ステイゴールドッ!! リズム良いよ、その調子!!」

 

 ふと、スタンドの最前列へと目配せをする。

 

 そこには、柵から身を乗り出すようにして拳を突き上げているトレーナーの姿があった。そして彼女の周りには、ボクの泥臭い特訓に付き合ってくれたジャーニー、退屈そうにしながらも鋭い視線を送るオルフェーヴル、大声でヤジのような声援を飛ばしているゴルシの姿。

 

 さらに、両手で祈るようにお守りを握りしめているフクキタルや、静かに、けれど熱を帯びた瞳でターフを見つめるスズカもいる。視線を少し横にズラせば、フェノーメノやナカヤマフェスタといった、一癖も二癖もある面々までがこちらに注目しているのが見えた。

 

「……ははっ」

 

 ボクは走りながら、思わず口角を吊り上げた。

 

「こりゃあ、カッコ悪いところは見せられないか」

 

 胸の奥のシリンダーに、熱い火花が散った。こんなにも規格外で、愛すべき連中がこぞって見守ってくれているのだ。長旅を愛するおじさんの魂としても、ここで無様な走りを晒すわけにはいかない。ボクは気合を入れ直し、ターフを掴む脚にグッと力を込めた。

 

 スタンド前を通り過ぎ、レースは中盤戦。1コーナーから2コーナーを抜け、いよいよ淀の平坦な向正面(むこうじょうめん)へと入る手前のことだ。

 

 前方を走るメジロブライトとシルクジャスティスの気配、そして集団全体の僅かなペースの淀み。風の抵抗と、周囲のウマ娘たちの呼吸音を分析したボクは、脳内のギアをカチリと一段階切り替えた。

 

(……ここだな)

 

 ボクはほんの少しだけ、しかし明確な意志を持って、ターフを踏み込む軌道を変えた。

 

 インコースでじっと息を潜めていた位置取り(ポジション)から、斜め前方のわずかなスペースへと滑り込み、勝負所へ向けていつでもスロットルを全開にできる「外側の特等席」へと、密かに、そして静かに位置取りを変えたのだった。

 

 

 向正面の半ば。息を潜めてターフを蹴りながら、ボクの脳裏をよぎっていたのは、この天皇賞春、最大のライバルであるメジロブライトの『豪快な末脚』の記憶だった。

 

 彼女の無尽蔵のスタミナと、そこから繰り出される後半の爆発力は、まさに規格外の一言に尽きる。通常のセオリー通りに最終直線の入り口まで脚を溜め合っていたら、最後は彼女の持つ圧倒的なストライドに確実に飲み込まれてしまうだろう。

 

(……先の展開がわかっているなんて、正直に言えばズルみたいなものさ)

 

 ボクは自嘲気味に胸の内で呟く。

 

(だが、知識だけで勝てるほど、このターフも勝負の世界も甘くない)

 

 相手の最大の武器がわかっているなら、それを無力化するための最善手を打つだけだ。あの豪快な末脚が完全に火を噴く前に、誰よりも早く抜け出して、そのまま力技でゴール板まで押し切る他はない。

 

 そのためには、セオリーを度外視したタイミングでスロットルを開ける必要がある。

 

 ボクはターフを掴む脚にグッと力を込めながら、スタンドでヤジを飛ばしている破天荒な芦毛の後輩の顔を思い浮かべた。

 

(――ゴルシ。お前の十八番、少し借りるよ!)

 

 淀の最大の難所、3コーナーの坂の登り。普通ならここで息を入れ、下り坂まで体力を温存すべきこのタイミングで……ボクは一気にアクセルを踏み込んだ。

 

「――っ!?」

 

 周囲のウマ娘たちが、信じられないものを見るように息を呑む気配が伝わってくる。

 

 常識外れの早仕掛け。淀の坂を駆け上がりながらの、超ロングスパートだ。

 

 ボクは特訓で培った『空力姿勢』で風の壁を切り裂きながら、外から猛烈な勢いで馬群をまくっていく。ゴルシとの死闘の併走で身につけた限界突破のスタミナが、ここで最高の出力を叩き出していた。

 

 一気に坂を下り、4コーナーへと差し掛かる手前。ボクは先頭集団を完全に捕らえ、堂々の二番手へと躍り出た。

 

「……ステイゴールドさま!?」

 

 後方で虎視眈々と機を伺っていたメジロブライトが、ボクの無謀とも思える早仕掛けに驚きの声を上げた。3200メートルの長距離戦で、これほど早くから全開で脚を使えば、最後にスタミナが切れて失速するのが絶対的な理屈だ。

 

 しかし、彼女は一瞬目を丸くしたものの、すぐにその優雅で力強い走りのリズムを取り戻した。

 

(驚きましたが……私の末脚なら、必ず捕らえられますわ!)

 

 その気迫が、背後からヒリヒリと伝わってくる。

 

 彼女の瞳には、己のスタミナと末脚に対する絶対的な自信が揺るぎなく宿っていた。ボクの奇襲に惑わされて自分のペースを乱すような、ヤワな相手ではない。メジロブライトは自らの走りを信じ、最終直線の勝負へ向けて、そのまま静かに、そして確実に牙を研ぎ続けていた。

 

 

 淀の第4コーナーを回り、いよいよ最後の直線。

 

 ボクの脳裏の奥底にこびりついていた『記憶』——あともう一歩が届かず、誰かの背中を見送るしかなかった敗北の歴史。だが、今のボクはその重苦しい運命のレールを、自らの脚で完全に脱線させていた。

 

「いけええええッ!!」

 

 大歓声を切り裂くように、ボクはぽっかりと空いた最内(イン)のコースへ一気に車体を滑り込ませた。ロスを極限まで削ぎ落とした最短距離。そのままの勢いで、淀の長く平坦な直線へと、堂々たる先頭で躍り出る。

 

「ふぅぅぅぅ……ッ!」

 

 肺の奥底で燃え盛る酸素を吐き出し、スロットルを限界まで捻り上げる。

 

 レッドゾーンに突入したエンジンは悲鳴を上げているはずなのに、ゴルシとの地獄の特訓で鍛え上げられた無尽蔵のスタミナが、ボクの脚を容赦なく前へと駆動させ続けていた。

 

 いける。このまま誰にも影を踏ませず、ゴール板まで駆け抜けられる——!

 

 そう確信しかけた、次の瞬間だった。

 

「――っ!?」

 

 背後から、ターフが爆発するような凄まじい足音が迫ってきた。それは、優雅でたおやかな普段の彼女からは想像もつかない、まるで重戦車のような圧倒的な質量を持った加速。

 

 メジロブライトだ。

 

 ボクの超ロングスパートという奇策に対しても一切のパニックを起こさず、自らの末脚を信じて極限まで脚を溜めていた彼女の、本当の『豪快な末脚』が、ついに完全に火を噴いたのだ。

 

「いかせませんわ……ッ!!」

 

 凄まじい気迫の波が、背後からボクの身体を飲み込もうと襲いかかってくる。ただでさえ3000メートル以上を走り抜いてきた限界の肉体に、そのプレッシャーはあまりにも重かった。視界がブレて、脚の回転がほんの一瞬、その重圧に屈して鈍りそうになる。

 

(……くそっ、飲まれる……!)

 

 心が折れかけ、無意識にスロットルを戻しそうになった、まさにその時。

 

『―――踏ん張れ、ステイゴールドォォォォッ!!』

 

 地鳴りのような歓声のすべてをぶち抜いて、あの「専属メカニック」の鼓膜を劈くような絶叫が、真っ直ぐにボクの耳へと届いた。

 

「――ッ!」

 

 その声が、冷えかけたシリンダーに再び強烈な火花を散らした。そうだ。ボクは一人で走っているんじゃない。あの規格外の自転車バカが、徹夜で組み上げてくれた最高のチューニングが、ボクのこの脚には宿っているのだ。

 

 ボクはグッと奥歯を噛み締め、緩みかけた重心を再び深く沈み込ませた。

 

 ターフを削り取るほどの力で、強く、強く地面を踏み締める。トレーナーの理論と、おじさんの意地、そしてステイゴールドの本能。そのすべてを両脚に叩き込み、迫り来るメジロという気迫の波を真っ向から押し返す。

 

「はぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

 ボクの再加速に、スタンドの歓声がさらに一段階跳ね上がる。だが、迫り来るメジロブライトもまた、決して折れることはなかった。

 

「退きません……! メジロの、誇りにかけて!!」

 

 彼女の瞳に、名門メジロ家を背負う者としての強烈な執念が燃え上がる。こうなればただのスタミナ勝負ではない。魂と魂の削り合い。意地と意地の張り合いだ。

 

 彼女はさらに深くターフを踏み込み、限界を超えたはずの末脚から、もう一段階上の爆発的な加速を引きずり出してきた。

 

 残り200メートル。

 

 最内を死守し、意地とチューニングのすべてで粘り込むボク。

 

 外から、名門の誇りを懸けた圧倒的な推進力で襲いかかるメジロブライト。

 

 互いの肩が触れ合わんばかりの距離で並び掛けた二人の息遣いが、淀の直線で激しく火花を散らす。

 

 絶対に譲れない春の盾を懸けた、極限のデッドヒート。ゴール板は、もう目の前まで迫っていた。

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