「そういえば、おじさんの記憶にある『あの四つ足の動物』の刺身って、この世界にあるのかな」
赤提灯の暖簾をくぐりながらふとそんな疑問がよぎったが、カウンター席について壁のメニュー札を眺め、すぐに自己完結した。
そりゃあそうだよな。この世界にはそもそも、あの動物自体が存在しないのだ。当然、それを食べる文化もあるはずがない。
その代わりというべきか、品書きには「会津牛の刺身」という文字が堂々と掲げられていた。
「なるほど、この世界ではこうなるのか」
歴史の辻褄合わせというか、食文化の妙というか。なんだか面白く感じてそれを注文すると、小ぶりな皿に美しいサシの入った赤身が盛られてやってきた。傍らには、前世の記憶にあるのと同じ、ニンニクの効いた赤い辛味噌が添えられている。
醤油に辛味噌を溶き、肉にたっぷりと絡めて口に運ぶ。
「……美味いね」
牛の力強い旨味と甘みが、ピリッとした辛味噌の風味でキリッと引き締まる。前世で慣れ親しんだあっさりとした赤身の味とは違うが、これはこれで一つの立派な完成品だった。ウマ娘の身体は基礎代謝が高いのか、歩き回って消費したエネルギーが、上質なタンパク質を急速に欲しているのがわかる。
ボクは白米を頼むのも忘れ、出された刺身をあっという間に平らげてしまった。
「いい食べっぷりだな、嬢ちゃん」
空になった皿を見て、カウンター越しに店主の親父さんが嬉しそうに笑いかけてきた。
「美味しいよ。長旅の身体に沁みる味だ」
「そいつは良かった。こんな時間だが、今日はどっかこの辺りで宿は取ってんのかい?」
親父さんが布巾で手を拭きながら尋ねてくる。ボクは出されたお茶をすすりながら、淡々と答えた。
「いや、適当にその辺の木の下で野宿でもしようかと」
この丈夫な身体なら、雨さえ降らなければどこでも快適に眠れる。前世のツーリングでも、道の駅のベンチやバス停で夜を明かしたことは何度もあるしね。
しかし、その答えを聞いた親父さんは目を丸くし、次いで呆れたように顔をしかめた。
「バカ言っちゃいけねえ。いくら頑丈なウマ娘だって言っても、こんな見目麗しい小娘がその辺で寝転がってたら、危なっかしくてこの街の連中が放っておかねえよ。……どうせ宿のあてもねえんだろ? まったく、うちの二階の空き部屋を使っていきな。飯代だけで泊めてやるからよ」
「……いいのかい?」
「客をその辺の道端で寝かせるような真似したら、俺の寝覚めが悪くなる。いいから泊まってけ」
半ば強引だけれど、その世話焼きな言葉の裏にある確かな善意が、ボクには痛いほどよくわかった。前世でも、こういう田舎町の食堂やガソリンスタンドのおやじさんには、何度か同じように助けられた記憶がある。
「……それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
ボクは小さく息を吐き、口角を上げて頷いた。
一人の静かな野宿も悪くないけれど、こういう偶然の出会いや人情に身を任せるのも、また旅の醍醐味だ。それに、布団で眠れるならそれに越したことはないからね。
■
「タダで泊めてもらうのも悪いからね。少し手伝うよ」
そう申し出て、ボクは店じまいの片付けを手伝うことにした。
洗い物を手際よくこなし、厨房の隅にある酒瓶の詰まったケースや、スープを煮込んでいた巨大な寸胴鍋を運ぶ。前世のボクなら「よっこいしょ」と腰を労りながら持ち上げていたような重さだけれど、今のボクなら片手でひょいと持ち上がる。細腕のウマ娘がビールケースを軽々と積み上げていくのを見て、親父さんは目を丸くして呆気にとられていた。
「いやはや……ウマ娘の腕力ってのは、話には聞いてたがでたらめだな」
「これでも、走る以外に取り柄のない身体だからね。役に立ってよかったよ」
そんなこんなで店がすっかり片付いた頃、親父さんがカウンターの隅に二つの皿をことりと置いた。
「ほら、手伝ってもらった礼だ。食ってきな」
出されたのは、先ほどの会津牛の刺身の追加と、湯気を立てる熱々のモツ煮込みだった。ありがたく頂戴して、まずはモツ煮を一口。トロトロに煮込まれたモツと、味噌の深いコクが、夜の冷え切った空気に染み渡る。
「……美味しいね。すごくいい味だ」
ボクが素直に感想を口にすると、親父さんは頭を掻きながら「そりゃどうも。ただの余り物だがね」と、少し照れくさそうに視線を逸らした。そういう不器用な職人気質、嫌いじゃない。
温かいお茶をすすりながら、夜も更けた静かな店内でぽつりぽつりと雑談を交わす。
「で、嬢ちゃん。明日は何処に向かうつもりなんだ?」
「さあね。特に決めていないんだ。風の吹くまま、気の向くままさ。明日の気分次第でどこへでも行くよ」
ボクがそう答えると、親父さんは「気ままなもんだな」と苦笑いして、ふと何かを思いついたように手をポンと叩いた。
「じゃあ、只見のほうに行ってみな」
「只見?」
「ああ。肉繋がりってわけじゃねえが、あそこは羊が美味いんだ。ジンギスカンもいいし、焼き肉もいける。知り合いがやってる店があるから、嬢ちゃんが行くって話をひとつ通しておいてやるよ」
明日の宛てが、思いがけない人情によって一つ決まった。
前世のバイク旅でも、こうやって地元の人に教えてもらった道や店が、一番の思い出になることが多かったっけ。ウマ娘になっても、そういう旅の醍醐味は変わらないらしい。
「羊か。それは楽しみだな」
ボクは残りのモツ煮を綺麗に平らげながら、ふふっと笑みをこぼした。
「そりゃあ有難いね。じゃあ、明日は西へ向かって走ろうか」