ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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決着―新たな縁

 残り200メートル、すなわち最後のワンハロン。

 

 淀のターフは、もはや悲鳴のような大歓声に包まれていた。いや、極限まで集中力を高めたボクの耳には、その喧騒すらも遠いノイズとして退けられ、ただ隣を並走するメジロブライトの荒々しい呼吸と、ターフを削り取る互いの足音だけが異常なほど鮮明に響いていた。

 

「あああああッ!!」

「はぁぁぁぁぁッ!!」

 

 互いの意地とプライドが、火花を散らして激突する。

 

 もはや作戦も、駆け引きも、ペース配分も存在しない。3000メートル以上を走り抜き、とうに空っぽになっているはずの燃料タンクの底を叩き割り、魂そのものを燃やして加速する領域。

 

(……すさまじいな、メジロブライト……!)

 

 並んで駆け抜けながら、ボクは肌が粟立つような戦慄と、同時にどうしようもない歓喜を覚えていた。

 

 ステイヤーとしての無尽蔵のスタミナと、長く良い脚を使う豪快な末脚。それが彼女の持ち味だった。しかし、今の彼女は違う。ボクという特異なエンジンの早仕掛けに完全に食らいついている。

 

 今までの彼女であれば、この終盤、スピードが足らずに追いつけなかったはずなのだ。そのためにボクは、タイミングを計り、トレーナーと共に練り上げ、あのタイミングで早仕掛けをした。

 

 だが、メジロブライトは限界を超えた先で、さらにギアを跳ね上げて見せたのだ。そしてそれは、ボク自身にも言えることだった。

 

 おじさんの泥臭い魂と、規格外のメカニックであるトレーナーが組み上げた脚というサスペンション。それが、メジロブライトという強大なライバルの引力に引っ張られ、今までどうしても超えられなかった出力の壁をいとも容易く突き破っていく。

 

 ライバルが限界を引き上げ、その限界に引っ張られて自らもまた未知の領域へと足を踏み入れる。苦しい。肺が焼け焦げそうだ。全身の筋肉が断裂しそうなほど悲鳴を上げている。

 

 なのに、たまらなく心地良い。お互いのエンジンの共鳴が、淀の直線を一つの完璧な芸術へと昇華させていく。

 

 満ち満ちていく、突き抜けるような全能感。

 

「いっけええええええッ!!」

 

 二つの影が完全に重なり合い、全く同じタイミングで、弾丸のようにゴール板を駆け抜けた。

 

 

 レース直後。

 

 ターフの端で荒い息を整えながら、ボクは電光掲示板に表示された信じられない数字を見上げて、思わず目を丸くした。

 

 タイムは3分15秒3。上がり3ハロン、33秒6。

 

「……ははっ、冗談だろう?」

 

 3200メートルという過酷な長距離の果てに叩き出されたとは到底思えない、中距離のような異常なタイム。それは、ボクたちが互いに限界を高め合い、長距離ランナーとしての『スピードの限界』という壁を完全に越えた何よりの証明だった。

 

 そして、写真判定の末に掲示板の最上段に赤々と灯った名前は。

 

『1着 メジロブライト』

 

 ほんのわずかな、首の上げ下げの差。勝利の女神は、名門の誇りを懸けて殻を破った彼女の豪快な末脚に、最後の微笑みを与えたのだ。

 

「……ふぅっ」

 

 ボクは大きく息を吐き出し、首の汗を拭った。悔しさがないと言えば嘘になる。だが、それ以上に、一つの壁を共に壊し、すべてを出し切ったという清々しい充足感が胸を満たしていた。

 

「ステイゴールドさん……っ」

 

 振り返ると、まだ肩で大きく息をしながらも、優雅な微笑みを浮かべたメジロブライトがこちらへ歩み寄ってくるところだった。彼女の瞳には、全力をぶつけ合った相手への深い敬意と、死闘を乗り越えた者特有の静かな熱が宿っていた。

 

「ははっ、完敗だよ」

 

 ボクは歩み寄り、迷うことなく彼女へ向けて右手を差し出した。

 

「お互い、途方もない壁を越えちまったみたいだけど……最後の最後は、あんたの執念が上回った。やっぱり強いな、メジロブライト」

 

「……ステイゴールドさんが、私の限界を引き出してくださったんですわ。貴女がいなければ、私はきっと、あの最後の速度には辿り着けませんでした」

 

 メジロブライトはボクの右手を両手でしっかりと握り返し、誇り高く、そして心からの感謝を込めて微笑んだ。

 

 ウマ娘の柔らかな手から伝わってくる、確かな熱量。この素晴らしいライバルたちと共に走る泥臭い旅路は、やっぱり最高に面白い。

 

「また、何度でもやろう。ボクたちの旅は、まだ始まったばかりだからね」

 

 ボクは彼女と固い握手を交わした後、爽やかな春の風が吹き抜ける淀のターフを、胸を張って静かに引き上げていった。

 

 

 ターフから引き揚げ、控室へと続く通路に戻ると、そこにはボクの帰りを待っていた賑やかな顔ぶれが揃っていた。

 

「……ははっ、見事に負けちゃったよ。フクキタル、あんたの留守は守りきれなかった」

 

 ボクが頭を掻きながら笑うと、マチカネフクキタルは首を横に大きく振り、少しだけ潤んだ目で、けれど満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。

 

「いいえ! 負けてはしまいましたが……でも、本当に、本当に素晴らしいレースでした! お二人が限界を超えていくあの瞬間、シラオキ様もきっとスタンディングオベーションをしていましたよ!」

 

「おうステゴ! 負けは負けだけどよ、あの3コーナーからの超ロングスパート、マジで痺れたぜ! アタシらとの特訓の成果が出まくりじゃねーか!」

 

 フクキタルの言葉にゴルシがバンバンとボクの背中を叩いて続き、その後ろからジャーニーとオルフェーヴルもゆっくりと歩み寄ってきた。

 

「ええ。あの極限の速度域……アネゴの底力、しかと見せていただきました。良い指標になります」

 

「ふん。敗北を喫したとはいえ、あのメジロブライトを限界の先まで引きずり出した事実は評価してやろう。王たる余の、良い退屈凌ぎにはなったぞ」

 

 素直じゃない暴君なりの最大の賛辞と、可愛い後輩たちの労いの言葉。ヒリヒリと焼き焦げた肺の痛みが、彼女たちの言葉で少しずつ心地よい熱へと変わっていくのを感じていた、その時だった。

 

「……ステイゴールドさん」

 

 ふと、集団の後ろから、静かな、けれど透き通るような声が掛かった。

 

 サイレンススズカだ。

 

 彼女はいつも通り、どこか遠くの景色を見つめるような静謐な瞳をしていたが、今のその瞳の奥には、レースの余熱にあてられたような確かな熱が揺らめいていた。

 

「スズカ。あんたも見ててくれたのかい」

 

「……はい。あの淀の直線の空気、ここまで伝わってきました」

 

 スズカは一歩前へ出ると、自身の胸にそっと手を当てた。

 

「誰にも追いつけない景色を目指す私にとって……今日の貴女とメジロブライトさんの、お互いを高め合うような走りは、とても眩しかったです。だから」

 

 彼女は真っ直ぐにボクを見つめ、静かに、けれど強い意志を持って言った。

 

「いずれ、私も貴女と一緒に走りたい。……そう、思いました」

 

 純粋な、ただ速さを求める無垢な逃亡者からの挑戦状。彼女はまだ知らないのだ。その純粋すぎる渇望が、やがて自らの脚を臨界点へと追い込んでしまうという、あまりにも残酷な未来を。

 

 ボクは少しだけ目を伏せ、胸の奥で息を吸い込んだ。おじさんの魂が、そしてウマ娘としての闘争心が、静かに決意の炎を燃やす。

 

「……ま、秋にでもな」

 

 ボクは顔を上げ、不敵な笑みを浮かべてそう言い放った。

 

「秋、ですか」

 

「ああ。淀の長旅で鍛え上げたこのエンジンなら、秋の盾を巡る戦いでも、必ずあんたの前に立ち塞がってみせる。……宣戦布告だよ、サイレンススズカ」

 

 明確なターゲットの指定。運命が収束する『天皇賞(秋)』という舞台での激突を予告したボクに、スズカは一瞬だけ目を瞬かせた後、ふっと静かに微笑んだ。

 

「……わかりました。楽しみにしています」

 

 彼女がスッと右手を差し出す。ボクもその手をしっかりと握り返した。ひんやりとした、けれど不思議な力強さを秘めた手だった。

 

(……絶対に。この脚を、壊させはしない)

 

 ボクが心の中で密かに誓いを立てながら握手を交わしている、そのすぐ傍らで。

 

「……」

 

 専属メカニックであるトレーナーは、壁に背中を預けたまま、無言でその光景を見つめていた。彼女の表情は、いつもの底抜けに明るい笑みではなかった。

 

 秋のターフでスズカに待ち受ける『悲劇』。そして、それを実力でねじ伏せて運命を塗り替えるという、ボクが背負い込んだ途方もない十字架の重さ。それを誰よりも理解している彼女だけが、少しだけ複雑そうに、祈るように唇を噛み締めている。

 

 しかし、ボクと視線が合うと、彼女はすぐにいつもの爛々とした勝負師の瞳を取り戻し、力強くコクリと頷いてみせた。

 

「さぁて、前祝いの海も行ったし、春の長旅も終わった! ちょっと休んだら、次は秋へ向けての極限チューニングだ! 覚悟しておいてね。スズカの背中に追いつくためのとびっきりのメニューを用意するからね!」

 

 トレーナーの明るい声が、少しだけ重くなりかけた空気を一気に吹き飛ばす。

 

「お手柔らかに頼むよ。ボクのサスペンションが悲鳴を上げない程度にね」

 

 ボクたちは笑い合い、秋のターフという次なる目的地へ向けて、新たな旅の第一歩を踏み出したのだった。

 

 

 その晩のことだ。

 

 自室で疲れたサスペンション(脚)を休ませていると、思いがけない人物からスマートデバイスにメッセージが入った。

 

 メジロマックイーン。名門メジロ家を代表する、あの誇り高き生粋のステイヤーだ。

 

「なんだろうか?」

 

 首を傾げながらも、ボクはジャージを羽織り、指定された学園の談話室へと向かった。

消灯時間が近づく夜の談話室は静まり返っており、窓際に立つ彼女の洗練されたシルエットだけが、月明かりの中に浮かび上がっていた。

 

「夜分遅くに申し訳ありません、ステイゴールドさん」

 

 ボクが足音を立てて近づくと、マックイーンは静かに振り返り、そして――ボクに向かって深々と、とても美しい所作で頭を下げた。

 

「お礼を申し上げたくて、お呼び立ていたしました」

「……お礼?」

「ええ。ブライトのことですわ」

 

 マックイーンはゆっくりと顔を上げ、静かな、けれど熱を帯びた瞳で語り始めた。

 

「ブライトは……ずっと密かに悩んでおりましたの。自身の『スピード』の限界に。長距離を走り抜く無尽蔵のスタミナはあっても、最後の一瞬、トップスピードの勝負になれば致命的な遅れをとってしまうのではないかと」

 

 そこまで言って、彼女はふっと誇らしげに微笑んだ。

 

「ですが、今日の貴女との死闘が……あの極限のプレッシャーが、ブライトに殻を破らせ、壁を突破させてくれた。メジロの悲願を共に背負う者として、貴女の存在に心から感謝いたしますわ」

 

 なるほど、そういうことか。ボクは小さく息を吐き、頭をガシガシと掻いた。

 

「……礼を言われるようなことは、何もしていないさ。筋違いだよ」

 

 ボクは窓の外の夜空に視線を向け、淡々と告げた。

 

「ボクはただ、自分の勝利のために限界までアクセルを踏み込んだだけだ。誰かの壁を壊してやろうなんてお節介なチューニングはしていない。ブライトが壁を越えたんだとしたら、それはボクのおかげじゃない。彼女自身の意地と、メジロの誇りってやつが勝手に引っ張り上げたものだろう?」

 

 ただ純粋に競い合い、互いの限界を削り合った結果だ。そこに貸し借りなんて野暮なものは存在しない。ボクがそう言うと、マックイーンは一瞬だけ目を丸くし……やがて、優雅に、そして名門特有の少しばかり頑固な笑みを浮かべた。

 

「ふふっ。貴女らしい、真っ直ぐで潔いお言葉ですわね。……ですが」

 

 彼女はスッと背筋を伸ばし、毅然とした態度で告げた。

 

「貴女がどう思おうと、このまま引き下がるのは、わたくしとしては気が済みませんの。ですから……ええ、そうですね」

 

 マックイーンは一歩だけボクに歩み寄り、真っ直ぐに目を見つめてきた。

 

「いつか、貴女が何か困難に直面した時……何かあれば言ってくださいまし。メジロの名にかけて、必ず力になるとお約束いたしますわ」

 

「メジロ家への『貸し』ってことかい? こりゃあ、ずいぶんと高くついたな」

 

 ボクが肩をすくめて苦笑すると、マックイーンは満足そうに微笑み、

 

「それでは、おやすみなさいませ」

 

 と優雅に一礼して、談話室を後にしていった。

 

 静まり返った部屋に一人残される。ボクは窓から春の夜空を見上げながら、ポツリと呟いた。

 

「……何かあれば、か」

 

 秋のターフで待ち受ける、サイレンススズカの過酷な運命。そして、それに抗うための孤独で途方もない逆走の旅路。

 

(名門のステイヤーが味方についてくれるなら、これほど心強いことはないかもしれないな)

 

 おじさんの魂が、静かに、けれど楽しげに笑う。

 

 思わぬ手土産を手に入れたボクは、秋への決意を新たにしながら、ゆっくりと自室へと足を進めたのだった。

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