ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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ワルガキ共の作戦会議

 天皇賞・春の激闘からしばらく。

 

 季節が夏に向けてじわじわと熱を帯び始める中、あの時ボクが感じていた冷たい「予感」は、誰の目にも明らかな「現実」としてターフを席巻し始めていた。

 

 サイレンススズカ。

 

 彼女の内に潜んでいた純粋すぎる才能が、ついに完全に開花したのだ。

 

 スタートから誰にも影を踏ませず、ただひたすらに加速し続ける、異次元の逃げ。

 

 その圧倒的な走りは、怪我から復帰を果たしたマチカネフクキタルすらも参戦した『金鯱賞』において、後続を絶望的なまでに引き離すレコード勝ちという形で証明された。

 

 

「……こりゃあ、えらいことになってきたね」

 

 ある日の午後。トレーナー室のモニターで、その金鯱賞のレース映像を繰り返し再生しながら、ボクは思わずため息をつき、マグカップの紅茶を呷った。

 画面の中の彼女は、必死に追いすがる他のウマ娘たちとは完全に別の次元……まるで音の無い世界を、ただ一人で駆け抜けているように見えた。

 

「……うん。サスペンションの可動域も、心肺機能の使い方(エンジン)も、完全にリミッターが外れてる。あの速度域を維持したまま走り切るなんて、物理法則を無視してるとしか思えないよ」

 

 隣でモニターを食い入るように見つめるトレーナーも、腕を組みながら額にじわりと汗を滲ませている。

 ある意味で規格外のメカニックである彼女の目から見ても、今のスズカの走りは「あまりにも美しく、そして危うい」のだろう。圧倒的な出力に対して、肉体という名のシャーシがいつまで耐えられるのか。あの秋の気配が、モニター越しにも色濃く漂ってくるようだった。

 

「秋の盾で彼女の前に立ち塞がるためには、私たちも根本的にチューニングを見直さないと……」

 

 トレーナーがそう呟き、二人の間に重い沈黙が落ちた、その時だった。

 

 コンコン、と。開け放たれたトレーナー室のドアから、控えめなノックの音が響いた。

 

「おや?」

 

 振り返ると、そこには見覚えのあるウマ娘が立っていた。脚に巻かれた白い包帯。度重なる怪我を乗り越えてターフに立ち続ける、不屈のベテラン。

 

「……少し、話いいかい?」

 

 オフサイドトラップだ。春のラウンジでボクが残した、あの『呪いのような予言』。それを聞いて激昂したはずの彼女が、特有の少しハスキーな声で、ひどく静かにそう告げてきたのだ。

 

 ボクとトレーナーは顔を見合わせる。

 

「ああ、もちろん。歓迎するよ」

 

 ボクがゆっくりと頷き、パイプ椅子を勧めると、彼女は静かに部屋へ足を踏み入れた。

 

 彼女が自らここへ足を運んできたということは。つまり、サイレンススズカのあの圧倒的な逃げを目の当たりにして、ボクの言葉の『真意』に直面したということだ。

 

 秋のターフへ向けた歯車が、また一つ、大きく音を立てて噛み合おうとしていた。

 

 

 パイプ椅子に腰を下ろしたオフサイドトラップに、ボクは新しく淹れた紅茶を差し出した。

 彼女はそれを受け取ると、一口だけ啜り、鋭い視線をボクとトレーナーに向けた。

 

「……金鯱賞、見たよ」

 

 彼女はカップを両手で包み込みながら、絞り出すように言った。

 

「あんたの言った通りだ。今のサイレンススズカは、完全に別の次元にいる。……あんなもの、誰がどうやって捕まえるっていうんだ」

 

「まともに追いかけても、絶対に届かない。……だからこそ、特別なチューニングが必要になるんだよ」

 

 ボクがそう告げると、隣に立っていたトレーナーが真剣な表情で頷き、モニターの前に立った。

 

「オフサイドトラップ。私たちと一緒に、『2人で協力する勝ち方』をしない?」

「……協力?」

 

 突拍子もない提案に、オフサイドトラップは訝しげに眉をひそめた。ウマ娘のレースにおいて、誰かと結託して勝敗をコントロールするなど前代未聞だ。

 

「ええ」

 

 トレーナーはモニターに、ウマ娘ではなく、ロードバイクが縦に一列に並んで走る映像を映し出した。

 

「風除けと、スプリンターの関係。私のいた自転車競技……競輪なんかじゃごく普通にある戦術なんだ。同じ地域の出身選手同士で『ライン』を組んで、前を走る人間が風の壁を切り裂き、後ろの選手が体力を温存する」

 

「……!」

 

 オフサイドトラップが息を呑む。ボクは彼女の目の前に身を乗り出し、ニヤリと口角を上げた。

 

「レースのルール的に言えば、まぁアウトかもしれない。でも、今回のこれは審議にかけられるようなことじゃないさ。だって、ボクはただ『勝つために』早仕かけの超ロングスパートを仕掛けるだけだからね」

 

 ボクは自分の胸をトントンと叩いた。

 

「ボクがスズカを捕まえるために、限界の速度でスパートをかけて早仕かけ。で、あんたはそれをチャンスと見て、『たまたま』ボクの真後ろ、スリップストリームにピタリと張り付いて前を狙う」

 

 静まり返るトレーナー室。ボクの提案の意図を完全に理解したオフサイドトラップの瞳に、静かな、しかし強烈な闘志の火が灯り始めるのがわかった。

 

「……なるほどな。お前が壁になって、私を引っ張り上げるというわけか」

 

「そういうこと。あんたがボクの背中について来れて、最後の最後で脚が残っていたら……。あんたがボクを追い抜いて、前に出られる『かも』しれない」

 

 ボクはそこで一度言葉を切り、最高に悪びれた笑みを浮かべた。

 

「でも、もしボクの脚が最後まで残っていたら……あんたが勝てる見込みはない。そのままボクが一番にゴール板を駆け抜ける。ただそれだけの話さ」

 

 馴れ合いじゃない。互いのエゴと勝利への執念を極限まで利用し合う、泥臭くて最高に悪辣な共犯関係。あの圧倒的な逃亡者を止めるためには、これくらいの劇薬が必要なのだ。

 

「どうだい」

 

 ボクはパイプ椅子に深く背中を預け、目の前の不屈のベテランを見据えた。

 

「この話。……乗るかい? オフサイドトラップ」

 

 

 オフサイドトラップは、カップの残りを一気に飲み干すと、ソーサーにことりと音を立てて置いた。

 

「……じゃなきゃ。ここに来てねぇよ」

 

 その瞳には、怪我に泣き続けたベテランの諦観など微塵もない。勝利に飢え、牙を研ぎ澄ませた肉食獣の鋭い光だけが宿っていた。

 

「わかった。私はただ、自分の勝機を限界まで引き上げるために、お前のスリップストリームに入るだけだ。そしてお前は……勝つために、あの天皇賞・春のように3コーナー前から超ロングスパートを仕掛ける。そういうことだな?」

 

「御明察」

 

 ボクは満足げに頷き、指を鳴らした。互いのエゴと勝利への執念だけを担保にした、最も純粋で、最も危険な同盟の成立だ。

 

「で、だ。オフサイド」

 

 ボクは少し身を乗り出し、声を潜めるようにして提案を切り出した。

 

「どうだろう。次の夏合宿、一緒にやらないか? ……とある『名門』の指導の元でさ」

 

「名門?」

 

 怪訝な顔をするオフサイドトラップに、ボクは肩をすくめてみせた。春の夜、メジロマックイーンから突きつけられたあの「貸し」だ。由緒正しきメジロ家の環境とノウハウを利用できるなら、秋に向けたスタミナ強化とチューニングにおいて、これ以上ない最高のアドバンテージになる。

 

 だが、オフサイドトラップは頷く前に、

 

「でも」

 

 と一度言葉を区切り、その鋭い視線をボクの隣に立つ相棒へと向けた。

 

「なぁ、ステゴのトレーナー」

 

 彼女は探るような、試すような眼差しでトレーナーを真っ直ぐに見据えた。

 

「これは、競輪の『ライン』のようなものだと言ったな。つまり、前を走る風除けの人間は、後ろの人間より先に脚が尽きるリスクを背負うってことだ。……お前は、お前のウマ娘が負けるかもしれねぇっていうそんな賭けに、なんで乗ってんだ?」

 

 当然の疑問だ。担当ウマ娘の勝利を最優先に考えるべきトレーナーが、わざわざライバルに塩を送り、自らを不利な状況に置くような作戦を嬉々として提案しているのだから。

 

 しかし。

 

「『ライン』について勘違いしているようだね。いいかい? ラインはあくまで戦術。競輪でももちろん、全員が一着を狙って走ってる。だからね?」

 

 その問いに対し、ボクの専属メカニックは一切の迷いを見せることなく、太陽のように不敵な笑みを浮かべて言い放った。

 

「ステゴが負けるとは思ってないよ。オフサイドトラップ」

 

 トレーナーの瞳の奥で、勝負師としての強烈なエゴが爛々と燃え上がっていた。

 

「君が極限まで脚を溜めようが関係ない。その君の末脚すらも完全に置いてきぼりにして……あのスズカを真正面から差し切り、最後にステイゴールドが一番でゴールするって、心底信じてるからね」

 

「――――」

 

 その場に、一瞬の静寂が落ちた。相手を利用し、助けるふりをしながら、最終的にはお前の全力を真正面からねじ伏せてみせるという、清々しいほどの傲慢な宣言。

 

「ま、それに。競輪で私もやったしね。引っ張って、突き放すこと。実例はここにあり、だ」

 

 オフサイドトラップはぽかんと口を開けたままトレーナーを見つめ……やがて。

 

「あっはははははっ!!」

 

 堪えきれないといった様子で腹を抱え、トレーナー室に響き渡るような大声で笑い出した。幾度もの絶望を乗り越えてきた不屈のベテランに、そこまで腹の底から笑わせるなんて、大したメカニックだ。

 

「あー……っ、ははっ! 最高だな。お前たち、本当にいい趣味してる!」

 

 目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、オフサイドトラップは悪戯っぽい笑みを浮かべてボクとトレーナーを交互に見た。

 

「いいね。その傲慢な宣戦布告、きっちり買ってやるよ。お前たちが絶望するほどの完璧な差し切りを、秋のターフで見せつけてやる」

 

 彼女は立ち上がり、挑戦的な笑みで言い放った。

 

「じゃあ、合宿の件だが……こっちのトレーナーも参加していいな?」

「ああ、もちろんだ。熱血漢のいいトレーナーだって聞いてるからね。うちのメカニックとも気が合うんじゃないか?」

 

 ボクが答えると、オフサイドトラップは「違いない」と笑って背を向けた。

 

「楽しみにしてるぜ。限界を超えた、その先のチューニングってやつをな」

 

 ひらりと手を振り、彼女はトレーナー室を出て行った。残されたボクたちは顔を見合わせ、同時におかしくてたまらないといった風に笑い声を上げた。

 

 サイレンススズカという、誰も触れられない高みに到達した無垢な逃亡者。

 

 彼女の背中を捕らえ、その悲劇の運命を強引に引き剥がすための、泥臭くも最高に熱い「不撓不屈の共謀者」が手に入った。

 

 本格的な夏が、すぐそこまで迫っていた。

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