うだるような夏の陽射しが、鮮やかな緑のターフを焼き付ける季節。
ボクとトレーナー、そしてオフサイドトラップとそのトレーナーの四人は、避暑地にあるメジロ家の広大なプライベートトレーニング施設へと足を踏み入れていた。
「ようこそいらっしゃいましたわ、ステイゴールドさん、オフサイドトラップさん」
瀟洒なクラブハウスのエントランスで出迎えてくれたのは、涼やかなサマードレスに身を包んだメジロマックイーンだった。
その背後には、春の淀で極限の死闘を演じたメジロブライトが穏やかな笑みを浮かべて立っており、さらに奥の豪奢なソファには、ただそこに座っているだけで周囲の空気を支配するような絶対的な威圧感――メジロの至宝たるメジロラモーヌが、静かにティーカップを傾けていた。
「それにしても、とんでもない設備だな。ターフの芝の長さまでミリ単位で管理されてるとは恐れ入るよ」
ボクが周囲の充実しすぎた施設を見渡して感嘆の息を漏らすと、隣のオフサイドトラップも、
「……ああ。貧乏性の私には、どうにも落ち着かないくらいにな」
と、少しばかり居心地の悪そうな顔で首の後ろを掻いた。
「ふふっ。メジロの総力を挙げて、貴女たちの『悲願』をサポートするとお約束しましたからね。……ですが、今回の合宿には、もう一人、特別なゲストをお招きしておりますのよ」
マックイーンが扇子を広げて優雅に微笑むと、クラブハウスの奥から、軽快で弾むような足音が近づいてきた。
「やっほー! ボクを呼んだかなっ!」
現れたのは、見間違えようもないほどの快活な笑顔と、しなやかな身のこなし。数々の伝説を打ち立てた『帝王』、トウカイテイオーだった。
「……トウカイテイオー?」
予想外の人物の登場に、ボクとオフサイドトラップは思わず顔を見合わせた。
長距離(ステイヤー)の名門であるメジロ家の合宿に、なぜ彼女が呼ばれているのか。疑問を顔に浮かべたボクたちに対し、マックイーンは極めて理にかなった解説を口にした。
「秋の盾は、2000メートル……すなわち中距離のレースですわ。我々メジロのウマ娘は長距離のスタミナとペース配分には長けておりますが、2000メートルという極限のスピードと瞬発力が問われる領域においては、彼女のような『中距離のスペシャリスト』の助言が不可欠だと判断いたしましたの」
「なるほどね。あの異次元の逃亡者を捕まえるための、最高の仮想敵(ペースメーカー)ってわけか」
ボクが納得して頷くと、テイオーは、
「仮想敵だなんて人聞きが悪いなー!」
と笑いながら歩み寄り、ボクに向かってスッと右手を差し出してきた。
「よろしくね、ステイゴールド! キミの春のレース、すっごく面白かったよ だからマックイーンから話を聞いた時、ボクも手伝いたいって思ったんだ!」
「ああ、こちらこそよろしく頼むよ。帝王直々の指導なんて、贅沢極まりないチューニングになりそうだ」
ボクがその手をしっかりと握り返した、次の瞬間だった。
「じゃ、挨拶も済んだことだし……早速、一本走ってみようか!」
テイオーの瞳の奥に、無邪気でありながらも、一瞬にして相手の首元に刃を突きつけるような『勝負師』の鋭い光が宿った。
「準備運動がてら、そこのターフで追い比べ(スプリント)と行こうよ。キミたちがどれくらい走れるのか、ボクの脚で直接確かめさせてもらうからさ!」
■
――数十分後。
夏の陽射しが照りつけるターフの上で、ボクとオフサイドトラップは荒い息を吐きながら、信じられないものを見るような目で前方の背中を睨みつけていた。
「はぁっ……! はぁっ……!」
「くそっ……! なんだ、この異常な加速は……っ!」
オフサイドトラップがギリッと奥歯を噛み鳴らす。
ボクも全開のスロットルでターフを蹴り上げているというのに、前を走る小柄な背中との距離が、あと数メートルというところで全く縮まらないのだ。
度重なる怪我を乗り越えてきたトウカイテイオーは、肉体的なピークそのものはすでに越えているはずだった。絶対的なトップスピードや最高出力だけで言えば、現役の最前線で極限までエンジンを磨き上げているボクたちの方が上回っている部分もあるだろう。
だが、そんな物理的な理屈など、彼女の『天性のリズム』と『空間支配力』の前では何の意味も持たなかった。
「ほらほら、どうしたの! そんな大振りなストライドじゃ、ボクの背中には一生届かないよ!」
テイオーは後ろを振り返る余裕すら見せながら、しなやかなバネのような足取りで、淀みなくターフを滑っていく。
彼女の走りは、無駄という概念が完全に削ぎ落とされていた。重心の移動、ターフを捉える足首の角度、そして何より、相手がスパートをかけようとした瞬間に、コンマ一秒の遅れもなく自らもギアを跳ね上げて距離を保つという、恐るべき反応速度(レスポンス)。
彼女はただ速いのではない。「相手を絶対に前に出させない走り方」を、細胞レベルで熟知しているのだ。
「いっけえええっ!!」
ボクとオフサイドトラップが最後の直線を並んで猛追し、意地のロングスパートを仕掛ける。しかし、テイオーはふわりと軽やかにステップを踏むと、一瞬の爆発的な加速を見せ、ボクたちの鼻先をあっさりと抑え込んだまま、涼しい顔でゴールラインを駆け抜けた。
「……あーあ。ストップ、ストップ!」
ゴールラインの先で軽やかに立ち止まったテイオーは、膝に手をついて肩で息をするボクたちを振り返り、困ったように眉を下げた。
「キミたち、スタミナと根性だけは一丁前だけど……スピードの立ち上がりが遅すぎるよ」
彼女は容赦のない、けれど一切の悪意がない、純粋なトップアスリートとしての残酷な評価を口にした。
「あれだけ長い距離を助走に使わないとトップギアに入らないんじゃ、2000メートルの短い直線じゃ勝負にならない。……はっきり言うけど、これじゃあスズカには絶対に勝てないねー」
「……っ」
「言われなくても……わかってるさ……っ」
ボクとオフサイドトラップが滝のような汗を拭いながら顔を上げると、コース脇で見守っていたマックイーンが静かに頷き、歩み寄ってきた。
「テイオーの言う通りですわ。ステイゴールドさんの『3コーナーからの超ロングスパート』と、オフサイドトラップさんの『極限の温存からの差し切り』。どちらの戦術も、相手がサイレンススズカでなければ十分に通用するでしょう」
マックイーンは手元のバインダーに視線を落とし、言葉を継ぐ。
「しかし、彼女の作り出す絶対的な逃げのペースは、後続の脚の立ち上がりを完全に麻痺させます。つまり、貴女たちに必要なのは……」
「――『瞬発力』よ。それも、致死量に至るほどのね」
不意に、背筋が凍るような冷たく美しい声がターフに響いた。いつの間にかパラソルを持ったメジロラモーヌが、コースの柵の傍らに立ち、切れ長の冷徹な瞳でボクたちを見据えていた。
「絶対的な速度で逃げ続ける者を捕らえるには、相手の想定を上回る『一瞬の爆発力』で距離を消し飛ばすしかない。……重いギアをゆっくりと回している暇なんてなくてよ。トップギアに一瞬で叩き込み、かつ、その爆発的な出力を維持したまま走り切るだけの異常な『スタミナ』。それが今のあなたたちに欠けている致命的なピース」
ラモーヌの容赦のない指摘に、ボクの中のシリンダーがヒリヒリと焼け焦げるような痛みと、そして強烈な歓喜の火花を散らした。
中距離における瞬発力と、それを支える長距離のスタミナ。相反する二つの要素を完璧に融合させろという、文字通り血を吐くような要求だ。
「……なるほど。見事なまでに絶望的なカリキュラムだ」
ボクが顔を上げてニヤリと笑うと、隣のオフサイドトラップも、泥だらけの頬を歪めて獰猛な笑みを浮かべた。
「上等だ。最初から、生半可な特訓でぶち抜ける相手だなんて思っちゃいねぇよ」
「ふふっ、良い目ですわ」
マックイーンは満足げに微笑み、ボクたちの専属メカニックたる二人のトレーナーへと視線を向けた。
「では、今日から地獄の夏合宿を始めますわよ。瞬発力とスタミナを極限まで鍛え上げる、メジロ家特製の特別メニュー……覚悟して挑んでくださいまし!」
■
そうして、メジロ家という最高峰の環境を利用した、地獄の夏合宿が幕を開けた。
陣形(フォーメーション)はすぐに決まった。
ボクの担当には、メジロの至宝たるメジロラモーヌ。オフサイドトラップには、同じく度重なる怪我と地獄からの復活を経験しているトウカイテイオー。そして全体のメニュー統括とデータ管理をメジロマックイーンが担い、ボクたちのトレーナー陣がメカニックとしてその数値を肉体に落とし込んでいく、という完璧な布陣だ。
「遅い。遅くてよ、ステイゴールド」
容赦のない、凍てつくようなラモーヌの声がターフに響き渡る。彼女はパラソルの下から一歩も動かず、ただ視線だけでボクの走りのブレを正確に射抜いてきた。
「トップギアに入るまでのタイムラグがコンマ数秒生じているわ。全身のバネを極限まで圧縮し、一瞬で解放しなさい。泥臭く足掻くのは構わないけれど、力を伝えるベクトルに一片の無駄も許さないことね」
「……っ、了解だ……!」
息を大きく吐き出し、ターフを強く蹴り上げる。
彼女の要求は極めてシンプルで、ゆえに悪魔的に難しい。巡航速度から一瞬でトップスピードに達する『瞬発力』。それを生み出すための、コンマ一秒、ミリ単位の重心移動を身体の奥底まで叩き込まれる。おじさんの魂が悲鳴を上げそうになるが、同時にシリンダーが歓喜に震えていた。この極限のチューニングをモノにできれば、間違いなくあの異次元の逃亡者の背中に届く。
一方、コースの反対側では。
「ほらほらオフサイド! 脚を庇う気持ちは痛いほどわかるけど、それじゃあ爆発力は生まれないよ!」
「くそっ……! 言うのは簡単だがな……っ!」
トウカイテイオーが、併走しながらオフサイドトラップに容赦のない檄を飛ばしていた。
何度も脚の腱が断裂する絶望を味わい、本能レベルで脚を庇う癖がついてしまっているベテラン。その恐怖を取り除き、怪我をしないための完璧なフォームと、天才的なスピードの乗せ方を、テイオーは自身の経験から直接叩き込んでいく。
『怪我からの復活』という同じ地獄を見たテイオーだからこそできる、心と身体の両面からのアプローチだった。
そして、この熱気に当てられて黙っていられないウマ娘がもう一人。
「はぁぁぁぁぁっ!!」
「……おっと!」
猛烈なスピードでボクの横に並び掛けてきたのは、春の淀で死闘を演じたメジロブライトだった。彼女もまた、この合宿で追い比べ(スプリント)の輪に加わり、来るべき秋の盾へ向けて自身の『速度』にさらなる磨きをかけているのだ。
「ステイゴールドさま! 秋のターフでスズカさんを捕まえるのは、貴女だけではありませんわ!」
「言うねえっ! 春はお前の末脚にしてやられたが、今度はそうはいかないよ!」
互いに火花を散らしながら、一直線にターフを駆け抜ける。その様子をコース脇で見ていたマックイーンが、ストップウォッチを片手に、二人のトレーナーたちと深く頷き合っていた。
「素晴らしいペースですわね。このまま限界まで負荷をかけ、お互いのリミッターを外してもらいましょう」
誰もが、秋の淀んだ空気を切り裂くために、自分の持てるすべてのエゴと執念を燃やしている。
真夏の太陽よりも熱く、そしてどこまでもストイックな特訓の日々が、泥臭くも確実に、ボクたちのエンジンを未知の領域へと進化させていった。