ターフに夜の帳が下りた頃。
メジロ家の豪奢なクラブハウスの一室は、昼間の熱気をそのまま持ち込んだかのような、濃密で張り詰めた空気に包まれていた。
大きなモニターとホワイトボードが設置されたミーティングルーム。
そこに集まっていたのは、元自転車プロのトレーナーと、オフサイドトラップの担当である熱血漢のトレーナー。そして、メジロマックイーン、メジロラモーヌ、トウカイテイオーという、ウマ娘の歴史に燦然と輝く伝説たちだった。
「――ここだ。今日のデータを見る限り、ステイゴールドがトップギアに入れる瞬間、わずかに重心が浮き上がっている。これだと推進力の数パーセントが上空へ逃げちゃうんだ」
ステゴのトレーナーが、モニターに映し出された走行データの一部を指差して、真剣な眼差しで切り出した。
「3コーナーの手前、下り坂を利用した超ロングスパート。この戦術(ライン)の要は、彼女が先頭でどれだけ完璧な『風の壁』になれるかだ。明日からは、さらに前傾姿勢を深めるための体幹トレーニングと、サスペンション……もとい、膝のクッション性を高めるメニューを追加したい」
「それなら、うちのオフサイドのメニューも調整が必要だな」
腕を組んでモニターを睨みつけていたオフサイドのトレーナーが、力強く頷いた。
「ステゴの背後にピタリと張り付いて脚を温存できたとしても、最後の直線でスリップストリームから抜け出した瞬間、ものすごい風圧が壁となって襲いかかってくる。そこで姿勢がブレれば、一気に失速する。……何より、あいつの古傷だ」
彼は手元の資料に視線を落とし、ギリッと奥歯を噛んだ。
「極限のトップスピードで急激な負荷をかければ、また屈腱炎が再発するリスクがある。腱の熱感と疲労度は、俺がミリ単位で管理する。だから、ギリギリまで脚を追い込む『究極の負荷』のメニューを組んでくれ」
二人のメカニックの熱を帯びた要望に、データ統括のマックイーンが静かに頷き、手元のバインダーから新たなスケジュール表を取り出した。
「承知いたしましたわ。では、スタミナの底上げと体幹の強化には、メジロ家秘伝の『長距離走破用・重馬場シミュレーション』を組み込みましょう。ブライトをペースメーカーに据えて、心肺機能の限界値をさらに引き上げます」
「いいね、それ!」
テーブルに身を乗り出したトウカイテイオーが、目を輝かせて指を鳴らす。
「オフサイドの『怪我への恐怖心』は、ボクが並走して完全に引っこ抜いてあげる! スリップストリームから抜け出す瞬間のステップと、トップスピードへのギアチェンジ。その恐怖を忘れさせるくらい、ボクがギリギリのラインでプレッシャーをかけ続けるからさ!」
経験者だからこそできる、心と身体の両面からのアプローチ。テイオーの提案に、オフサイドのトレーナーが、
「……頼む。帝王直々の指導なら、あいつも絶対に折れない」
と深く頭を下げた。
「……甘くてよ」
その時。部屋の奥のソファで、静かに紅茶を飲んでいたメジロラモーヌが、氷のように冷たく、美しい声で室内の空気を一変させた。
「風除けだの、スリップストリームだの、それはあくまで『届く位置』にいてこその戦術。あのサイレンススズカが作り出す孤独な空間は、そんな小賢しい計算すら許さないわ。……ステイゴールドには、明日から私が直接『瞬発力』の型を叩き込む」
彼女はカップをソーサーに置き、絶対的な威厳を持って告げた。
「ゼロからトップスピードまで、一切の淀みなく出力を跳ね上げる完璧なフォーム。それを身体が血を吐くまで反復させることね。鈍らな刃では、あの『つむじ風』を切り裂くことなどできはしないわ」
ラモーヌの容赦のない、しかし最も核心を突いた要求。ボクのトレーナーは一瞬だけ息を呑んだが、すぐに最高に不敵な、狂気すら孕んだ勝負師の笑みを浮かべた。
「……ええ。望むところです。私の組んだ最高のエンジンが、その程度の負荷で焼き切れるとは思っていませんから。限界の、さらにその先のメニューを組み上げましょう」
「俺も同意見だ。あの絶望的な逃亡者を止めるためには、常識の範疇でやってちゃ絶対に届かない」
二人のトレーナーの目には、迷いなど一切なかった。自分たちの担当ウマ娘の命を削るような過酷なメニュー。しかし、それを乗り越えられると絶対的に信じているからこその、狂気と信頼の計画(プランニング)。
「ふふっ。本当に、恐ろしいメカニックたちですわね」
マックイーンが扇子で口元を隠しながら、心地よさそうに目を細めた。
「では、明日からの特別メニューの最終調整に入りますわよ。……今も進化を続けているスズカさん……。彼女を捉えるために、完璧で残酷な剣を鍛え上げましょう」
夜が更けるまで、クラブハウスの窓からは明かりが漏れ続けていた。異次元の逃亡者を捕らえるため。ウマ娘たちの執念と、彼女たちを支えるトレーナーたちの知略が、夏の夜の静寂の中で鋭く、熱く研ぎ澄まされていった。
■
過酷な初日のトレーニングを終え、シャワーで泥と汗を洗い流した後のことだ。
ボクとオフサイドトラップ、そしてトウカイテイオーの三人は、メジロ家の広大なダイニングルームで夕食の席についていた。
「いやはや、さすがはメジロ家だね。……合宿の飯ってレベルじゃないよ、こりゃ」
ボクが思わず感嘆の息を漏らすのも無理はない。
目の前の長テーブルに並んでいるのは、メジロ家お抱えの専属シェフが腕を振るった、豪華絢爛にして栄養満点の料理の数々だ。疲労しきった筋肉を修復するための極上の赤身肉や、彩り豊かな温野菜のポタージュなどが、芸術品のように盛り付けられている。
「全くだ。寮の飯も美味いが、これほどのモンが毎日出てくるなら、いくらでも走れそうな気がしてくるぜ」
オフサイドトラップも目を輝かせ、ボクたちの過酷な消費カロリーを補うように、モリモリと肉料理を平らげている。
そんな和やかな食事の最中。
給仕のメイドが、トウカイテイオーの前にひと際鮮やかな緑色をした山盛りの一皿を恭しく置いた。
「ん? ……ピーマンのサラダ?」
ボクが目を丸くして尋ねると、テイオーは待ってましたと言わんばかりにフォークを握りしめた。
「ピーマン? テイオー、好きなのかい?」
「うんっ。一番ね!」
テイオーは満面の笑みでパァッと顔を輝かせた。
無邪気で子供っぽいところがある彼女が、よりによって子供が苦手な野菜の代表格であるピーマンを『一番好き』だと即答したギャップが、なんだか少しだけおかしくて微笑ましい。
「ほらほら、二人にもおすそ分けしてあげるっ! すっごく美味しいんだから!」
テイオーはご機嫌な様子で立ち上がると、ボクとオフサイドトラップの皿にも、気前よくピーマンのサラダを取り分けてくれた。
ボクたちは顔を見合わせ、軽く肩をすくめてから、その瑞々しい緑色の千切りをフォークで掬い、口に運んだ。
――シャキッ。
小気味良い歯ごたえと共に、ピーマン特有のツンとした青臭さが口いっぱいに広がる。
だが、嫌な苦味やエグみは一切ない。新鮮な細胞が弾けるような香りの後から、噛めば噛むほどに驚くほどフルーティーで爽やかな『甘み』がじんわりと染み出してきた。特製のドレッシングの酸味と絡み合い、火照った身体にスッと馴染んでいく。
「……へえ。こりゃあ、確かに美味いな」
オフサイドトラップも感心したように目を細め、二口、三口とフォークを進めている。
ボクも頷きながら、あっという間に添えられた分を平らげてしまった。
「でしょでしょ! これ食べると、すっごく調子が良いんだよねー!」
ボクたちの反応を見て、テイオーは自分の皿のピーマンを幸せそうに頬張りながら、得意げに胸を張った。
幾度もの骨折という絶望を味わいながら、その度に奇跡の復活を遂げてきた不屈の帝王。彼女のあのしなやかなバネと、絶対に折れない心の秘訣の一端が、この青臭くて甘い野菜に詰まっているのだと思うと、なんだか少しだけ納得がいくような気がした。
「なるほどね。帝王の無敵のステップは、このピーマンから出来てるってわけだ」
「ああ、違いない。こりゃあ私たちも、負けずにたくさん食べて、秋の盾をぶち抜くスタミナを作らねぇとな」
ボクが笑いながら言うと、オフサイドトラップも獰猛に笑って自らのグラスを掲げた。
「そうそう! いーっぱい食べて、いーっぱい走って、秋には絶対あのスズカに勝とうね!」
テイオーも無邪気に笑い声を上げる。
メジロ家の豪華な食卓を囲みながら、美味い飯を食い、笑い合う。
容赦のない地獄の特訓が続く合宿の中で、その夕食の時間は、ボクたちにとって束の間の、けれど何にも代えがたいほど温かくて、頼もしい時間だった。
■
一方、その頃。
ボクたちがメジロ家の合宿所で泥まみれになりながら己の限界と向き合っていた時。
潮騒が響く夏の海沿いのコースで、サイレンススズカはただ一人、誰の影も踏ませない『風』と化していた。
「……ふぅっ、ふぅっ……」
リズミカルで、一切のブレがない完璧な足音。彼女の参加している合宿においても、その走りはもはや他の追随を許さない次元に達していた。併せ馬の相手すら置き去りにし、ただひたすらに先頭を駆け抜ける孤独な逃亡者。
「素晴らしいぞ、スズカ! そのままのリズムだ!」
コース脇からタイムを計測している担当トレーナーの声には、彼女の才能に対する絶対的な信頼と賛辞が満ち溢れていた。スズカの『ただ前へ、誰よりも速く走りたい』という純粋すぎる本能。それを一切否定せず、完全に肯定し、自由に走らせてくれる新しいトレーナーとの出会い。その完璧な噛み合わせが、彼女の内に眠っていた異次元の才能を、恐ろしいほどのペースで開花させていた。
やがて予定されていたメニューを終え、波打ち際で静かにクールダウンのウォーキングをしていた時のことだ。
「スズカさーん!」
後ろからパタパタと砂浜を駆ける足音がして、マチカネフクキタルが息を弾ませながら追いついてきた。
「お疲れ様です! いやあ……すごいですね、スズカさん。金鯱賞の時もすごかったですけど、合宿に入ってから、さらにどんどん速くなっていて……! ものすごい大開運の走りですよ!」
興奮気味に捲し立てるフクキタルに、スズカは静かに振り返り、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう、フクキタルさん」
彼女は海風に美しい栗毛を揺らしながら、視線を遠い水平線の彼方――空と海が溶け合う、果てのない青の境界線へと向けた。
「でも、私……もっと、もっと景色を見たいの」
「景色……ですか?」
「ええ。誰もいない、誰の足音も聞こえない……私だけがたどり着ける、その先の景色」
純粋で、ひたむきで、それゆえにどこか危うさを孕んだ静かな渇望。果てのない速度を求める彼女の脳裏に、ふと、あるウマ娘の姿が過ぎった。
春の淀のターフ。限界を超えた死闘の果てに、自分に向けて真っ直ぐに指を突きつけ、不敵な笑みと共に放たれた言葉。
『秋の盾を巡る戦いでも、必ずあんたの前に立ち塞がってみせる』
泥臭く、不格好で、けれど誰よりも熱くターフを駆け抜ける、ステイゴールドというウマ娘。
あの宣戦布告を受けた時、スズカの胸の奥には確かに、今までに感じたことのないような不思議な熱が灯っていた。彼女が本当に自分に追いついてくるかもしれないという予感が、走る喜びをさらに加速させてくれた。
(ステイゴールドさん……)
スズカは自身の胸にそっと手を当て、波の音に耳を澄ませた。強敵が自分を追いかけてきてくれるのは嬉しい。共に高みを目指せるライバルの存在は、胸を熱くする。
(……でも)
彼女の瞳の奥で、静かで透明な炎が燃え上がった。
(私は、先頭の景色を……誰にも譲らない)
例えそれが、自らの肉体を限界の彼方へと追い詰める孤独な逃亡劇だったとしても。
彼女は自分の本能が求めるままに、ただひたすらに最速の景色だけを追い求めていた。
―――秋のターフ。
運命が交錯する『天皇賞(秋)』という大舞台へ向けて逃亡者もまた、誰にも止められないほどの凄まじいスピードで加速し続けていた。