ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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天皇賞・秋

 そして迎えた、秋。

 

 高く澄み渡る青空の下。決戦の舞台となる東京のターフは、刺すような緊張感と地鳴りのような大歓声に包まれていた。

 

 天皇賞(秋)。2000メートルの極限のスピードと瞬発力が問われる、秋の盾を巡る戦い。

 

 地下通路からパドックにかけての空気は、まさに夢の頂へと向かう静かな戦場そのものだった。

 

 

 集いし顔ぶれは、いずれ劣らぬ歴戦の猛者ばかりだ。

 

 昨年のグランプリを制し、堂々たる貫禄と見事な仕上がりを見せているシルクジャスティス。

 

 春の淀でボクと死闘を演じ、夏を越えてさらなる末脚の鋭さを手に入れたメジロブライト。

 

 そして、ボクの斜め後ろで静かに目を閉じ、極限まで気配を殺して『その時』を待つ、不屈のベテラン、オフサイドトラップ。

 

 だが、そんな数多の強豪たちですら、今の彼女が放つ圧倒的なオーラの前では、霞んで見えてしまうほどだった。

 

 サイレンススズカ。

 

 純白と緑の勝負服に身を包んだ彼女は、ただそこに立っているだけで、周囲の空間から『音』を奪い去ってしまうような、凄絶なまでの静謐さと速さを纏っていた。夏の合宿を経て、彼女の才能は誰にも手の届かない絶対的な領域へと昇華されている。透き通るような瞳は、ただひたすらに自分の思い描く『最速の景色』だけを見つめていた。

 

 出走の時間が刻一刻と迫る中。ふと、彼女がゆっくりと視線を動かし、ボクの姿を真っ直ぐに捉えた。

 

 言葉は要らなかった。

 

 視線が交錯したほんの一瞬。彼女の瞳の奥で揺らめく透明な炎と、ボクのシリンダーで燃え盛る泥臭い執念の火花が、激しくぶつかり合う。

 

 ボクたちの間にだけ、ビリビリと肌を刺すような極限のプレッシャーが伝播する。

 

(……ああ)

 

 その時、ボクと彼女は、全く別の立ち位置にいながら、全く同じ感情を抱いていた。

 

 サイレンススズカは、ボクの全身から立ち上る、夏を越えて精密かつ凶暴にチューニングされた『エンジン』の底知れない出力を感じ取りながら、静かに息を呑んだ。

 

(誰もいない先頭の景色を守り抜くのは……とても、骨が折れそう)

 

 そしてボクは、彼女の纏う、次元の違う圧倒的なスピードの気配を肌で感じ取り、ゾクゾクと粟立つ肌を抑えきれずに、ニヤリと深く口角を吊り上げた。

 

(この異次元の逃亡者を差し切るのは……とても、骨が折れそうだ)

 

 互いの実力を誰よりも認め合い、だからこそ、そのすべてを真っ向から粉砕して自分が勝つという絶対的なエゴイズム。

 

 最高だ。これだから、この泥臭い旅路はやめられない。

 

 ボクはおじさんの魂を歓喜に震わせながら、秋のターフという名の絶望にして最高の舞台へ、ゆっくりと足を踏み出していった。

 

 

 カシャンッ!

 

 静寂を引き裂くゲートの音と共に、決戦の幕は切って落とされた。

 

 1枠1番。絶好の最内枠から誰よりも早く飛び出した白緑の勝負服は、一切の躊躇なく、最初からトップギアでターフを駆け抜けていく。サイレンススズカ。彼女が作り出す『逃げ』は、もはや戦術という枠を完全に超えていた。

 

 誰もついてこられない。誰も影を踏むことすら許されない。

 

 後続のウマ娘たちの集団が彼女の作り出す絶対的なペースに完全に呑まれ、息を潜めるしかない中、電光掲示板に表示された前半1000メートルの通過タイムに、東京レース場のすべてが息を呑んだ。

 

『57秒4』

 

 2000メートルのレースにおいて、それは完全に狂気の沙汰だった。

 

 自らの肉体というシャーシを壊しかねないほどの、致死量のオーバースピード。しかし、先頭をひた走るスズカの走りに、一切のブレや淀みはない。彼女の透き通るような瞳は、目前に迫る『大ケヤキ』――運命の第3コーナーだけを見据えていた。

 

(誰もいない……音もない……。これが、私の景色――)

 

 彼女が自らの内なる静寂の世界へ、その危うくも美しい才能の臨界点へと足を踏み入れようとした、まさにその矢先だった。

 

 

『おい、待てよ。一人で行くな。サイレンススズカ』

 

 彼女の絶対的な孤独を力技で叩き割るように。泥臭くて、熱く煮え滾るエンジンの咆哮が、彼女のすぐ背後にまで迫っていた。

 

 向正面(むこうじょうめん)の中盤。レースのセオリーからすれば、常識では考えられないあまりにも早すぎるタイミング。

 

 無音の世界に、黄金の風が最大風速で吹き荒れた。

 

「――っ!?」

 

 スズカが驚愕に目を見開き、微かに視線を動かした先。そこには、夏の地獄のような特訓を経て、瞬発力とスタミナという相反する出力を完璧に融合させた――ステイゴールドが、最後方から文字通り集団を『撫で斬り』にしながら、猛烈な勢いで迫り来る姿があった。

 

「はぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 幾重にも重なった魂が、限界を超えてシリンダーを焼き尽くす。

 

 彼女が孤高の逃亡者として、運命の第3コーナーで自らの脚に致命的な負荷(悲劇)をかけてしまうその前に。

 

 彼女の走る孤独な軌道を、リズムを、そして『運命』そのものを物理的なプレッシャーで叩き壊すための、渾身の超ロングスパート。

 

 ラモーヌに叩き込まれた一切の無駄がない『瞬発力』で一気にトップギアへぶち込み、テイオーに教わった『ステップ』でターフの抵抗を殺し、マックイーンのメニューで作り上げた『無尽蔵のスタミナ』でその速度を維持する。

 

 そして、ステイゴールドが自らを完全な「風除けの壁」として切り裂いていくその後方、真空状態となったスリップストリームには。

 

「……へっ、最高の特等席だぜ。ステイゴールド!」

 

 極限まで己の気配と脚を殺し、不敵な牙を剥き出しにした不屈のベテラン、オフサイドトラップがピタリと張り付いていた。

 

 圧倒的なトップスピードで孤独に逃げ続ける天才。

 

 その運命の歯車を狂わせるため、最速の弾丸となってターフを爆走する黄金の旋風と、その後ろで静かに致命の刃を研ぐ歴戦の猛獣。

 

 秋の東京、向正面。

 

 悲劇の歴史を塗り替え、絶対的な才能を真っ向からねじ伏せるための、常識外れのデッドヒートが今ここに火蓋を切った。

 

 

「嘘……っ」

 

 無音だったはずの彼女の世界に、あり得ないはずの『ノイズ』が叩きつけられた。圧倒的なトップスピードで孤独な逃亡を続けていたサイレンススズカの瞳に、一瞬の驚愕が走る。

 

 誰も追いつけないはずの先頭の景色。完成されていたはずの彼女の完璧なリズム。それが、真横から強引にねじ込まれたボクの泥臭いエンジンの咆哮によって、ほんのわずかに狂わされた。

 

 その『ノイズ』による動揺は、彼女の走りに微細な変化をもたらした。

 

 運命の第3コーナーへの入り口。スズカは無意識のうちにほんの僅かに減速し、遠心力に引っ張られるようにして、コースの外側へとフワリと膨らんだのだ。

 

(――もらったッ!)

 

 スズカが外へ膨らんだことでポッカリと空いた最内(イン)の最短ルートへ、限界まで車体を倒し込むようにして一気に滑り込む。

 

「並んだぞ、サイレンススズカ!」

「……っ、ステイゴールド……ッ!」

 

 絶対的な逃亡者と、それを強引に捕まえた追跡者。コーナーの途中で、白緑と黄金の勝負服が完全に横並びになる。

 

 背後には、ボクのスリップストリームで極限まで力を溜め続けているオフサイドトラップ。これで三つ巴のデッドヒートか――そう思った矢先だった。

 

「――っ!? まだだ、もう一人いるッ!」

 

 背後に張り付くオフサイドトラップが、驚愕の声を上げた。視界の端、外側(アウトコース)から、凄まじい地鳴りのような足音が迫ってくる。

 

「退きませんわ……! 秋の盾も、メジロの誇りにかけて!」

 

 優雅な微笑みを捨て去り、鬼気迫る表情で外から猛然と並び掛けてきたのは、メジロブライトだった。

 

 あの夏の合宿。ただ見ているだけではなく、自らも追い比べ(スプリント)に参加し、長距離のスタミナと中距離のスピードを完璧に融合させてみせた名門の意地。彼女もまた、この常識外れの超ロングスパート合戦に、一歩も引かずに真正面からついてきたのだ。

 

 そして、運命の分岐点――『大ケヤキ』の向こう側。

 

 かつての記憶の中で、悲劇のサイレンが鳴り響いたその場所を……ボクたちは、最速の集団としてそのままの勢いで一気に駆け抜けた。

 

 スズカの足の軌道を強引に狂わせ、ペースを乱したことで、彼女の脚にかかるはずだった『致命的な負荷(ダメージ)』は完全に霧散していた。 

 

 

 呪いは、破られたのだ。

 

 

 大ケヤキを過ぎた時点で、隊列は完全に新しい形へと変貌していた。

 

 最内を突いてハナを奪い、先頭に立ったボク。

 

 そのすぐ真横に張り付き、再びトップスピードへとギアを上げ直すサイレンススズカ。

 

 ボクの真後ろの特等席で、牙を剥き出しにするオフサイドトラップ。

 

 そして、大外から圧倒的な質量で迫り来るメジロブライト。

 

 後方からはシルクジャスティスをはじめとする集団も必死に追い上げてくる気配がするが、もはや届く距離ではない。

 

「はぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

 東京レース場、最終の第4コーナーを抜け、いよいよ最後の直線。ここからは、誰が一番速いのかという、最も純粋で残酷な力比べだ。

 

 先頭の景色を奪い返すために、再びその異次元の才能を爆発させるサイレンススズカ。

 

 内側で意地と執念のエンジンを限界まで回し続けるボク。

 

 満を持してスリップストリームから飛び出し、不屈の末脚を解き放つオフサイドトラップ。

 

 そして大外から、メジロの魂を燃やしてすべてを飲み込もうとするメジロブライト。

 

 秋の陽光が降り注ぐ東京の長い長い直線で。

 

 四つの極限の意地が激突する、伝説と呼ぶにふさわしい、死力尽くしの叩き合いが始まった。

 

 

『さあ最後の直線! 残り400! 誰が行くのか、誰が秋の盾を制するのかァーッ!!』

 

 実況の絶叫が、地鳴りのような大歓声をさらに熱く煽り立てる。

 

 荒れたインコースを避け、ターフの比較的状態が良い外寄りへと進路を持ち出したオフサイドトラップとメジロブライト。

 

 対するボクは最内を死守し、サイレンススズカはその中間のコース取りで最終決戦へと突入した。

 

 残り400メートル。

 

 ボクのシリンダーはとうに限界を超え、全身の筋肉が断裂しそうなほどの悲鳴を上げている。だが、心は異様なほど澄み切っていた。

 

(……譲る気はないッ!)

 

 ラモーヌに叩き込まれたフォームを崩さず、マックイーンから得たスタミナの底を叩き割り、泥臭く粘り込む。

 

 だが、残り200メートル。

 

「……っ!」

 

 白緑の勝負服が、ついにボクの真横に並び掛けた。サイレンススズカだ。大ケヤキでの不利によってリズムを崩されたはずなのに、彼女の絶対的なスピードは再び火を噴き、無音のプレッシャーとなってボクを飲み込もうとしてくる。

 

(やっぱり、本物の化け物だ……!)

 

 ボクとスズカが並び、再び加速しようとした、まさにその瞬間だった。

 

 ここで、ターフの酸いも甘いも噛み分けてきた『不屈のベテラン』の真骨頂が、最高のタイミングでその鋭い牙を剥いたのだ。

 

 ボクのスリップストリームから抜け出し、外側へ持ち出していたオフサイドトラップ。

 

 彼女は、スズカがトップギアに入れようとしたその刹那、ほんの僅かに、数センチの精度で内側へと進路をずらした。

 

 それは決して進路妨害を取られるような、荒っぽい斜行ではなく。ルールという境界線のギリギリを突く、歴戦のキャリアだけが生み出せる完璧な『空間の支配』だった。

 

 先頭を走ることに慣れ、競い合いの経験が浅いスズカの目の前に、ふわりと目に見えない壁を作り、彼女の加速のベクトルを物理的、そして心理的に完全に塞いでみせたのだ。

 

「――なっ!?」

 

 スズカの透き通るような瞳に、初めて明らかな焦燥が走る。前に出られない。完璧に蓋(フタ)をされたスズカが行き場を失い、その余波を受けてインコースにいたボクの推進力までもが、強引に削がれていく。

 

(……やられたッ! この野郎、この土壇場でなんて老獪な真似を……!)

 

 ボクとスズカの速度が、致命的に鈍る。

 

 そして、その完璧な駆け引きによって完全に先頭へと抜け出したオフサイドトラップの真横に、もう一つの巨大な執念が猛然と襲いかかった。大外から、夏の特訓で磨き上げた圧倒的な末脚を爆発させる、メジロブライトだ。

 

 オフサイドトラップの魂の咆哮が、東京のターフに轟く。

 

「ここまで来てえぇええ! 負けてたまるかよォォォォッ!!」

 

 幾度もの絶望を乗り越え、脚の痛みに耐え、ついに己の手で掴みかけた秋の頂。

 

「負けるわけには……いきませんわッ!!」

 

 メジロの誇りと、名門の悲願をその背に負うメジロブライト。彼女もまた、限界を超えたストライドで不屈のベテランに喰らいつく。

 

 残り50メートル。

 

 互いの意地とプライドが激突し、バチバチと火花を散らす。

 

 怪我を乗り越えた執念と、名門の誇りを懸けた末脚の削り合い。

 

 そして、ゴール板を切り裂くように――。

 

「――ッ!!」

 

 すべてを置き去りにし、歓声の渦の中心で真っ先に天へと泥だらけの拳を突き上げ、抜け出したのは。

 

 絶望の淵から蘇った不屈のベテラン、オフサイドトラップだった。

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