ステイゴールドになったけど   作:灯火011

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まだ見ぬ景色へ

『メジロブライトも追いすがる! だが、抜け出した! 抜け出した! 抜け出したのはオフサイドトラップだ!!』

 

 実況の絶叫が、東京レース場を揺るがす大歓声のど真ん中を貫いていく。

 

『秋の盾を手にしたのは、不撓不屈のウマ娘! 優勝は、オフサイド! オフサイドトラップだァァーーッ!!』

 

 ゴールの瞬間。

 

 極限の叩き合いを制したオフサイドトラップは、荒い息を吐きながら、天に向かって泥だらけの右手を力強く突き上げた。

 

『三度の屈腱炎! ウマ娘にとって不治の病とさえ呼ばれる絶望の淵を、己の執念で幾度も、幾度も這い上がってきた! 泥に塗れ、痛みに耐え、歩み続けた長く苦しい旅路の先! ついに、ついに栄光の頂が彼女に微笑んだ!!』

 

 そのまま流すようにターフを駆けながら、視線をスタンドの最前列へと向ける。

 

『ターフの神は、このベテランを決して見放してはいなかったーーーっ!!』

 

 そこには、拳を握りしめて涙を流す、熱血漢の担当トレーナーの姿があった。オフサイドトラップは彼に向けて、これまでの苦労をすべて吹き飛ばすような、最高に晴れやかな笑みを浮かべた。

 

「―――しゃああっ!!」

 

 彼女が魂の底から勝ち鬨を上げると、観客席からは、絶望を乗り越えた不屈の覇者を讃える、割れんばかりの拍手と大歓声が降り注いだ。

 

 

 電光掲示板に、最終的な順位が赤々と灯る。

 

1着、オフサイドトラップ。

2着、メジロブライト。

3着、サイレンススズカ。

そして……4着、ステイゴールド。

 

 ボクは荒い呼吸を整えながら、ウイニングランから戻ってきたオフサイドトラップの元へ歩み寄った。

 

「……見事な老獪さだったよ。あんたの意地に、完全に食われちまった」

 

「へっ。言っただろ、お前たちが絶望するほどの完璧な差し切りを見せてやるってな」

 

 ボクたちは互いの健闘を称え合い、軽く拳を突き合わせた。勝者への挨拶もそこそこに、ボクは重い脚を引きずりながら、地下通路へと続く引き揚げ口へ向かった。

 

 薄暗い通路の入り口には、タオルとドリンクボトルを手にした専属メカニック――ボクのトレーナーが、壁に寄りかかって待っていた。

 

「……」

 

 ボクは彼女の顔を見た瞬間、全身の力がスッと抜けるのを感じた。限界まで回し続けたエンジンはとうに焼き切れ、立っているのもやっとの状態だった。

 

「……ダメだった」

 

 ボクはトレーナーからタオルを受け取ると、首元に押し当て、少しだけ自嘲気味に笑って肩を落とした。

 

「あの異次元の逃亡者を止める壁にはなれたけど……最後の最後で、あんたが組み上げてくれたこのエンジンを、一番でゴール板に届けてやることができなかった。……勝てなかったよ」

 

 担当ウマ娘の、悔しさに塗れた敗戦の弁。しかし、それを聞いたボクのトレーナーは、慰めるでもなく、悔しがるでもなく――腹の底から、底抜けに明るい声で笑い飛ばしたのだ。

 

「あははっ! らしくないね! ステゴ!」

 

 彼女はポン、とボクの肩を力強く叩き、最高に誇らしげな、あの太陽のような笑みを浮かべた。

 

「まったく、何言ってんのよ! 私たちは、勝ったんだよ!」

 

 ボクの専属メカニックは、タオルでボクの汗を乱暴に拭いながら、最高に晴れやかな、太陽のような笑顔で告げた。

 

「運命のレールを走る彼女。それを私たちは、力技で完全に脱線させたんだよ。……スズカは脚を壊すことなく、無事に大ケヤキを越えた。そしてこれからも、自分の意志でターフを走り続けることができる。これ以上の『勝利』が、一体どこにあるっていうのさ」

 

 その言葉に、ボクはハッとして顔を上げた。

 

 そうだ。ボクが背負い込んだ、あの途方もなく重い十字架。あの異次元の逃亡者が、誰もいない先頭の景色の中で、自らの才能の代償として脚を粉砕してしまうという『悲劇の記憶』。

 

 ボクの泥臭いエンジンと、オフサイドトラップの老獪な牙、そしてメジロブライトの意地。そのすべてが束になってあの逃亡者にプレッシャーをかけ、走りのリズムを狂わせたことで、彼女の脚にかかるはずだった致死量の負荷は完全に霧散していたのだ。

 

 

 サイレンススズカは、生き残った。

 

 

 無事に、これからも走り続けることができる。

 

 

「……ああ。そうか」

 

 ボクは大きく息を吐き出し、張り詰めていた胸の奥のシリンダーが、心地よい熱と共にゆっくりと冷めていくのを感じた。

 

「そうだ。……そうだな」

 

 ボクが深く頷き、心からの安堵の笑みをこぼした、その時だった。

 

「……ステイゴールド」

 

 ふと、背後から透き通るような声が掛かった。振り返ると、そこには息を整え終えたサイレンススズカが立っていた。彼女の瞳には、かつてのどこか危うい、独りよがりなまでの孤独感はもうない。

 

 強敵と全力で削り合い、死闘を駆け抜けた者だけが持つ、確かな熱と充足感が宿っていた。

 

「まさか、追いつかれるなんて思わなかった」

 

 彼女は真っ直ぐにボクを見つめ、静かに、けれどはっきりとした言葉でそう告げた。

 

 絶対的な逃亡者として誰の影も踏ませなかった彼女にとって、向正面でボクが真横に並び掛けてきたあの瞬間は、とてつもない衝撃だったはずだ。

 

「ははっ。仕方ないだろう?」

 

 ボクは肩をすくめ、不敵な笑みを返した。

 

「一人で行かせるには……、少しばかり、もったいない旅路だったもんでね」

 

 ボクのその言葉に、スズカは一瞬だけ目を丸くし、やがてふっと、心からの柔らかな微笑みを浮かべた。そして、彼女はスッと右手を差し出し、瞳に純粋な闘志の炎を燃え上がらせた。

 

「必ず、また走りましょう。……次は、絶対に抜かせません。先頭の景色は、もう二度と譲らない」

 

 異次元の逃亡者からの、新たなる宣戦布告。ボクは迷うことなくその手をしっかりと握り返し、最高に悪びれた笑みで応じた。

 

「もちろんさ。次こそはきっちり差し切ってやるよ。スズカ」

 

 互いの熱を確かめ合うように強く手を握り合った後、スズカは一礼し、静かに自分の控室の方へと歩き出していった。

 

 その背中――もう決して砕けることのない、誇り高きウマ娘――が遠ざかっていくのを見送りながら。ボクは隣に立つ相棒へと、ポツリと呟いた。

 

「……次の相手は、『黄金世代』だ」

 

「黄金世代? あー、今年のクラシック、すごいもんねー」

 

 トレーナーが頷いた。

 

「ああ。とんでもない奴らさ。それぞれが主役を張れるくらい、規格外で、バカみたいに強くて熱い連中が、これからの私が走るターフにこぞって雪崩れ込んでくる」

 

 運命のレールは外れた。未来の知識というアドバンテージは、もう何の役にも立たない。

 

「そこに、悲劇を乗り越えて完全に覚醒したあのスズカまで加わるんだ。……正直言って、ここから先の未来はどうなるか、もうボクにもわかんないよ」

 

 おじさんの魂が、そしてウマ娘としての本能が、これから訪れるであろう未知の激闘を予感してゾクゾクと震え上がる。不安なんて欠片もない。ただ、たまらなく楽しみで仕方がなかった。

 

 ボクのその言葉を聞いた専属メカニックは、一瞬だけ目を瞬かせた後――。

 

 最高に楽しげな、勝負師の笑みをパッと咲かせた。

 

「それは素敵だね」

 

「……だな。あんたならそう言うと思った」

 

「わくわくするね、ステイゴールド!」

 

「ああ、全くだ」

 

 ボクたちは顔を見合わせ、薄暗い地下通路に響き渡るような声で、底抜けに明るく笑い合った。

 

 悲劇は、もうどこにもない。

 

 誰も知らない、誰も見たことのない熱狂の旅路が、ボクたちの目の前に果てしなく広がっていた。

 

 

 ターフの熱狂から解放され、トレセン学園の寮の自室に戻った途端。

 

 アドレナリンが完全に切れ、ボクの身体と精神はかつてないほどの激しい疲労感に襲われていた。

 

 肉体的な疲労もさることながら、精神的なすり減り方が尋常じゃない。

 

 スズカの絶対に譲らない逃げ。ブライトの誇り。オフサイドの老獪なかけひき。『運命を変える』という途方もないプレッシャーの中で、極限のトップスピードを維持し続けるのがどれほど神経をすり減らすことか。

 

「……ほら、約束の品だ。これで少し、愚痴に付き合ってくれよ」

 

 ボクは自室のベッドにドサリと倒れ込みながら、同室のゴルシに向けて紙袋を放り投げた。中身は、以前約束していた極上の差し入れ――この辺りで採れた、大粒で甘い地元産イチゴをこれでもかと使った特製のフルーツ大福だ。

 

「おっ! マジで買ってきやがったな! さーっすがステゴ、話がわかるぜ!」

 

 ゴルシは目を輝かせて袋を開け、早速大福を一つ口に放り込んだ。ボクはその豪快な咀嚼音を聞きながら、見慣れた天井を仰ぎ見て、重いため息をついた。

 

「それにしても……どいつもこいつも、本当にワガママだよ」

 

 別の世界から持ち込んだ未来の話は、相棒以外は誰にも打ち明けるつもりはない。それでも、今日ターフでぶつかり合った連中への文句くらいは吐き出したかった。

 

「聞いてくれるかい、ゴルシ」

 

「おー、約束だからな。どーんと胸を貸してやるぜ?」

 

「じゃあ遠慮なく……。スズカのあのペースも、ブライトの意地も……おまけにオフサイドのあの土壇場での進路の塞ぎ方。トレーナーのブレーキを知らない特訓メニューだってそうだ。みんな自分のエゴばっかりでさ。それに付き合わされるこっちの身にもなってほしいよ、全く……」

 

 ぶつぶつと文句を並べるボクの横で。ゴルシは二つ目の大福を平らげ、指についた粉をペロリと舐めてから、ケラケラと笑い声を上げた。

 

「なに言ってんだ。オメーが一番ワガママだろうが」

 

「……は?」

 

 思いがけないカウンターに、ボクは思わず首だけ動かしてゴルシを見た。破天荒な芦毛の後輩は、ベッドの縁に腰掛けながら、ひどく真っ直ぐで、すべてを見透かしているような瞳でボクを見下ろしていた。

 

「あのスズカの背中に並びかけたのも。オフサイドトラップと競い合ったのも。トレーナーに付き合ったのも、ぜーんぶ。オメーの意志だろ?」

 

 ゴルシはニヤリと笑う。

 

「色々御託を並べて愚痴ってっけどよ。そのワガママな連中のド真ん中に突っ込んでって、全部巻き込んで、その熱苦しい『旅』を楽しみたいって思ってるのは……他でもない、ステゴ。オメー自身だろ?」

 

「――――」

 

 その言葉に、ボクはパチリと目を瞬かせた。

 

 ……図星もいいところだ。

 

 誰に頼まれたわけでもない。ボクが勝手に十字架を背負い、勝手にお節介を焼き、勝手に自分を限界まで追い込んでいるだけだ。そして何より、おじさんの魂はこの泥臭い旅路を、痛いほどヒリヒリするこのターフでの削り合いを、心の底から楽しんでしまっているのだ。

 

「……ははっ」

 

 ボクは天井を見上げたまま、力なく、けれど心からの笑いをこぼした。

 

「違いない」

 

 自嘲気味に呟いたその言葉は、不思議なほどスッと胸の奥に落ちていった。

 

「だろ? じゃ、今日の愚痴聞きタイムはここまで。そのうちまた愚痴聞いてやっから差し入れ考えとけよー?」

 

 ゴルシがガハハと笑いながら、その身をベッドに落とした。ボクは、

 

「ああ、わかったよ。次はもっと美味いヤツを買ってきてやる」

 

 と返し、ベッドに横になると、ゆっくりと目を閉じた。

 

 明日からはまた、次のワガママな奴ら――底知れない『黄金世代』たちとの戦いに向けた、地獄のチューニングが始まる。

 

 精神的な疲労は確かにエグいが、不思議と心地よい眠気が、ボクの意識を優しく包み込んでいった。

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