激闘の秋から少しの時間が過ぎ、トレセン学園の空気は次なる大舞台――年末の総決算である『有馬記念』へと向けて、静かな、しかし確かな熱を帯び始めていた。
ある日の午後。学園の豪奢なラウンジでは、いつかのメンバーが再び顔を合わせていた。ボクと、サイレンススズカ、マチカネフクキタル、メジロブライト、そしてオフサイドトラップだ。
「さあさあ皆様! 有マ記念に向けて、シラオキ様特製の開運茶をどうぞ! これを飲めば年末のグランプリも大吉間違いなしです!」
フクキタルが怪しげなツボからお茶を注ごうとするのを、ボクは、
「気持ちだけ受け取っておくよ」
と丁重に辞退し、
「フンギャロ!? そんなぁステゴさああん!?」
とショックを受けるフクキタルを横目に、自分で淹れた香り高いダージリンのカップを傾けた。
「……ブライト、こんなところにいたのね。探したわよ」
そこへ、凛とした声が響いた。振り返ると、ボクたちと同期であり、ティアラ路線で凄まじい活躍を見せているクールなウマ娘、メジロドーベルが立っていた。
「あら、ドーベル。ごきげんよう」
「もう、次のトレーニングの時間が迫ってるわよ。……まったく、有マ記念が控えてるっていうのに呑気なんだから」
ドーベルが呆れたようにため息をついた、その時だった。
ラウンジの入り口に現れたのは、普段は見慣れない、しかし、よく見慣れた下級生たちのグループ。
アメリカ帰りの底知れないオーラを放つグラスワンダー。飄々とした態度でマイペースに歩くセイウンスカイ。
そして、その中心でふんぞり返るようにして堂々と胸を張る、気高き一流のウマ娘――。
「……ッ!!」
その姿を見た瞬間。
ボクの胸の奥で眠っていた『おじさんの魂』が、シリンダーを焼き尽くすほどの爆発的な回転数で跳ね上がった。
(キ、キキ、キングヘイローだァァァーーッ!!)
『黄金世代』
これからのターフを牽引していく恐るべき才能たち。その中でも、ボク……いや、おじさんがどうしようもなく惹かれ、その不屈の歩みに幾度も胸を打たれた、愛してやまない最高のウマ娘が、今、目の前に生身で立っている。
ダービーでの悔しい敗戦を経て、それでも決して首を下げず、一流の誇りを胸にターフに立ち続ける彼女の姿。
気がつけば、ボクの身体は勝手に動いていた。
「あ、ちょっと待っててくれ」
ボクは飲みかけのティーカップをテーブルに置き、ラウンジの備品置き場から真っ白な色紙と太いサインペンを引ったくると、猛烈なダッシュで下級生たちのグループに突っ込んでいった。
「な、なに!?」
突然目の前に現れた先輩ウマ娘の姿に、キングヘイローが一瞬ビクッと肩を揺らす。
グラスワンダーとセイウンスカイも、何事かと目を丸くしている。
「キングヘイローだな!? ボクはステイゴールド! 秋の盾を走った先輩だ!」
「そ、存じております! 先日のあの恐ろしい超ロングスパート……」
ボクは息を荒くしながら、キングヘイローの目の前に色紙とペンをヌッ、と突き出した。
「頼む! サインをくれ! ついでに握手もしてくれ!!」
「って、ええっ!? ……は、はいぃぃ!?」
一流のウマ娘の口から、およそ一流らしからぬ素頓狂な声が漏れた。
「ちょ、ちょっと待ってください! なんでシニア級の、それも最前線で走っているステイゴールド先輩が、下級生の私にサインを求めてくるんですか!?」
「いいから! ボクはあんたのファンなんだ! どんなに苦しい展開になっても絶対に諦めない、その不屈の精神と気高さに、ボクの魂はいつも震えっぱなしなんだよ!」
おじさんの熱すぎるパッションが、嘘偽りのない言葉となって口から堰を切ったように溢れ出す。
「さあ、ここに! サインをバシッと頼む!」
「わ、わかりました! わかりましたから、そんなに顔を近づけないでちょうだい!」
顔を真っ赤にしてパニックになりながらも、キングヘイローはペンを受け取り、震える手で色紙にサインを書き入れてくれた。
「やったァ! 家宝にするぜ!」
ボクがホクホク顔で色紙を抱きしめ、さらに彼女の両手をガシッと握ってブンブンと上下に振ると、後ろで見ていたセイウンスカイが呆れたように笑った。
「あはは、キングったら先輩にも大人気じゃなーい。さすが一流~」
「茶化さないでちょうだい、スカイさん! ……も、もうっ、ステイゴールド先輩はなんて破天荒な……!」
キングヘイローは握手された手を胸に当て、照れ隠しのようにツンとそっぽを向いたが、その耳は嬉しそうにピコピコと動いていた。
「いやぁ、良いものをもらった。これで有マ記念の極限のトレーニングも乗り切れそうだ」
ボクが満足げに自分の席へ戻ると、スズカやドーベルたちが、まるで信じられないモノを見るような目でボクを凝視していた。
「……ステイゴールドさん。あなたって人は、本当に……」
「アタシ、同期にこんな変な奴がいるって思いたくないんだけど……」
スズカの呆れ声とドーベルの冷たい視線が突き刺さるが、おじさんの魂を満たしたボクにとって、そんなものは痛くも痒くもない。
「はっはっは。なんとでも言え。これもボクの『旅路』に必要な栄養素ってやつさ」
有馬記念。
あの黄金世代の化け物たちも参戦してくる、年末の大一番。
最高のサインを入れたボクのエンジンは、すでに絶好調のアイドリング音を響かせていた。
■
翌日の放課後。
トレーナー室の壁の一番目立つ場所に、昨日もらったばかりのキングヘイローのサイン色紙が、ピカピカの額縁に入れられて飾られていた。
「……えーっと。これはつまり、例の『記憶』関連の推し活ってことでいいの?」
散乱する自転車パーツを片付けながら、トレーナーが額縁を指差して呆れたように尋ねた。
「そうなんだよ! いやぁ、生の一流サインはやっぱり輝きが違うなー!」
ボクはソファの上で脚を組み、上機嫌で尻尾を揺らしながら熱弁を振るい始めた。
「いいか、トレーナー。彼女はただの血統書付きのワガママお嬢様じゃない。あの気高さの裏には、誰よりも泥臭く足掻く才能があるんだ。……ダービーの絶望的な敗北から、何度跳ね返されても、絶対に首を下げない。あの『不屈の魂』こそが、キングヘイローというウマ娘の本当の素晴らしさなのさ!」
おじさんのパッション全開で語るボクに、トレーナーは「はいはい、わかったわかった」とやれやれといった具合で相槌を打ちながら、ボクの分のプロテインをシェイカーでシャカシャカと振り始めた。
「まあ、ステゴのエンジンがそれで回るなら、サインでも何でも飾っておけばいいけど。推しからエネルギーをもらうのも、立派なコンディショニングだからね」
そう言って笑う彼女の横顔を、ボクは満足げに眺めていた。
■
――だが、その時。
トレーナーは笑顔の裏側、胸の奥底で、全く別のことを考えていた。
(不屈のウマ娘……か)
キングヘイローの素晴らしさは、ステゴの熱弁を聞かなくても、データを見ればある程度はわかる。確かに、彼女のメンタリティは強靭だ。
(でもさ。本当の『不屈』っていうのは……)
トレーナーはシェイカーを振りながら、チラリとソファで上機嫌に笑うウマ娘へ視線を送った。
かつて、競輪の最前線という極限の勝負の世界で生きていた彼女だからこそ、痛いほどよくわかっていることがある。
『勝てなくても、走り続けること』
才能の限界に直面し、何度も泥を舐め、誰からも「もう終わった」と思われながらも、それでも歯を食いしばってペダルを――いや、脚を回し続けることが、どれほど難しく、精神をすり減らす残酷な作業なのかを。
(君だって、同じじゃないか)
ステイゴールド。
記憶の中の『彼』がどうだったかは知らないが、今、目の前にいるこのウマ娘は、圧倒的な才能の壁に何度もぶち当たりながら、それでもなお、誰よりも熱くターフを駆け抜けようとしている。
スズカの悲劇を止めるために、自らの肉体を壊しかねないほどのロングスパートを仕掛けた、あの秋の狂気。そして、これから有マ記念で待ち受けるであろう『黄金世代』という化け物たちに向かっても、怯むどころかワクワクと目を輝かせている、その異常なまでの勝負への渇望。
そしてステゴ自ら語った、六年は勝利が無いかもしれない、という記憶。
(勝てなくても、泥に塗れても、絶対に前を向くのをやめない。……私から言わせれば、誰よりも泥臭くて、最高に『不屈』なウマ娘は……ステイゴールド。君なんだよ)
――もし言葉にすれば、この偏屈で照れ屋なおじさんの魂を持つウマ娘は、絶対に「そんなんじゃない」と素直に受け取らないだろう。
「ほい、特製プロテイン。ちゃんと飲んで、年末のグランプリに向けてしっかり筋肉を修復しなさいよ」
「おう、サンキュー」
ステゴがシェイカーを受け取って一気に飲み干すのを見て、トレーナーはふっと、優しくて頼もしい、いつもの勝負師の笑みを浮かべた。
「さてと。推しからパワーももらったことだろうし、有マ記念のチューニングの話を詰めようか。グラスワンダーやセイウンスカイ……あの化け物世代を含めたウマ娘達をまとめてぶっ飛ばすために、最強のメニューを組んであるからね」
「望むところだトレーナー」
壁に飾られたキングヘイローのサインに見守られながら。
不屈のウマ娘と、規格外のメカニックは、次なる激闘へ向けて、静かに、けれど確実にエンジンの出力を上げていった。